第1話 風呂からの直送便
「お前の名前は?」
「……椎堂日瑛人」
「歳は?」
「十六」
「職業は?」
「学生」
「どこから来たんだ?」
「日本の東京都北区!」
微妙な沈黙。
「……その珍妙な名前の国は、どの方角にあるんだ?」
「あえて言うなら、上だ!
というか俺がいた世界は、確実にこの世界じゃねーんだよ、さっきも言ったように!」
彼は床に手をついて正座したまま、目の前の少年にくってかかった。
そのまま立ち上がろうと頑張るが、なぜか手と膝が接着剤で固めたかのように床にくっつき、ぴくりとも動けない。
「それで、どうやってこの家の防御結界をすり抜けて侵入した?」
「侵入なんてしてねーよ!
俺ん家の風呂場から落っこちたら、着地したのがこの部屋だったんだ!
俺にも何がなんだかわかんねーんだよ!」
「そうか、では聞こう。お前の名前は?」
「ああああっ!? またループか! もしかしてお前はNPCか!」
今現在、瑛人は粗末な板張りの床に、腰タオル一枚で土下座寸前という格好をしていた。
瑛人の前には、無表情な黒髪の少年が立ち、黄金の杖を瑛人に突きつけている。
そして、その後ろに隠れるようにして、真っ赤な髪の女の子がこちらを不安そうに見下ろしていた。
浮気がバレて修羅場になっている光景によく似てるな、と瑛人の頭に残っている僅かに冷静な部分がそう思う。
だがむろんそんなことはない。むしろ悲しいかな彼女などいたことがない。
瑛人はただの一般的な十六歳の高校生だ。
一体何を間違ったら、こんなことになってしまったのだろう。
思えば、今日は厄日だった。
高校から帰る途中、傘も持っていないのにゲリラ豪雨にあったのが悪運の始まりだった。
本当ならここで可愛い女の子の一人でも相合い傘を申し出てくれたらと妄想したが、あいにくそんな人材は見つからず、家に帰る頃にはすっかり濡れ鼠になってしまっていた。
仕方なく、瑛人は風呂場へ向かった。
服を脱いで、タオルを腰に巻き、さあ入ろうと思って風呂の扉を開けたところまではよくも悪くも日常だったと思う。
そこから、非日常が始まる。
踏み出した足下には、床がなかった。
ぐよぐよと形を変えて、生き物のように蠢く黒い水面。
それが、風呂場の床一面に広がっていたのだ。
ぎゃっと声を上げたが遅かった。
一旦バランスを崩した体制は戻らず、足先がその黒い塊に触れた。
と、足先がずぼっと塊の中に落ちた。
その途端、ざわっと黒い水が動いたと思うと、瑛人目がけて一気に押し寄せてきた。
得体の知れない虫を素足で踏みつぶしたときのような恐怖で、悲鳴をあげることすらできなかった。
黒い水は無限に増え、すぐに彼は頭まで黒い水にすっぽり飲み込まれてしまった。
必死でもがいて水面を目指したが、突然、胃が持ち上がったような感覚に襲われる。
体が下に落ち始めたのだ。しかも、ものすごい勢いで。
瑛人は驚いて息を吸ってしまった。そして、少し安心した。
水の中にいると思ったが、普通に呼吸はできる。
しかし、安心する事態ではないことにすぐに気づいた。
どこへ落ちていっているのかもわからないが、このスピードでは底へ着いた瞬間、人生が強制終了するのは確かだ。
(もう、祈るしかないのか?)
そう思ったとき、不思議な言葉が、頭に直接響いてきた。
男の声とも女ともつかない、電子音に似た、奇妙な合唱だ。
単調で、抑揚もなく、何を言っているのか分からないことに関しては、お経と同じニュアンスを感じる。
暗闇で脳内にお経が響くというホラーな展開だったが、瑛人はちょうど祈ることを考えたばかりだったため、ひきつった顔で笑ってしまった。
お経は延々と続き、さすがに瑛人も馴れ始めた頃、ふいに妙な言葉を残して終わった。
《………アセロラドリンク》
意味不明の呪文の後の唐突な果物飲料の登場に、瑛人は目を丸くした。
その言葉の直後、暗闇だけだった目の前に、光の線でできた白い地図が浮かび上がる。
島々の地図のように見えるが、どの島にも見覚えがなかった。
と、地図は急に拡大し始めた。最初は瑛人の顔ほどの大きさしかなかった地図が、どんどん大きくなっていく。
島から、山脈、山、谷、小さな集落、そして小さな家——
いつしか白い地図が黒い水を飲み込み、瑛人の視界が白一色になっていき、そして、何か柔らかいものの上に、顔から倒れ込んだ。
瑛人は、しばらくうつぶせのまま、何かが起きるのを待っていた。
しかし、何事も起こらないので、仕方なく体を起こした。
無事かどうか、体をぺたぺたと触って確かめてみる。
あのスピードで落ちてきたにもかかわらず、痛む箇所はどこにもない。
「……死んでない」
瑛人は恐る恐る周りを見渡した。
落ちてきた場所は、見覚えもない、窓が一つきりの薄暗い室内だった。
窓の外はすでに暗く、部屋には月光が差し込んでいる。
テーブルに置かれた蝋燭の明かりと合わせて、やっと部屋の様子がわかる程度だ。
彼が座っているのは、木で出来た簡素なベッドだ。
漫画のように屋根に大穴が空いていたりして、と思って天井を見上げたが、板張りの天井には小さな穴すら空いていない。
いったい自分がどこからどういうふうに落ちてきたのか、さっぱり分からなかった。
部屋には、大きな棚がいくつも置かれ、革表紙の本が隙間なく並べられている。
本棚の上の段には、瓶やビーカーなどが所狭しとひしめき、部屋の隅には額縁がついた大きな鏡が置いてあった。
この部屋を一言で言い表すとすれば、理科準備室という言葉がぴったりだ。
ベッドの脇の壁を見ると、そこには古びた大きな地図が留められていた。
瑛人は、地図に這い寄った。
さっき、暗闇の中で見た白い地図に、そっくりなことに気づいたのだ。
何かわかるかと思ったが、本来地名が入るべきである山脈や湖には、意味不明な文字が整然と書かれていて読めなかった。
知っている大陸や日本を必死に探したが、やはり見つからない。
「……どういうことだよ」
瑛人は独り言を言って、それから全く無意識に窓の外を見た。
外を見て、気持ちを落ち着かせようと思ったのかもしれないし、自分がどこにいるかを早く確かめたかったからかもしれない。
とにかく、窓に目を向けた。
そして、それを目にした瞬間、その理由を完全に忘れた。
月が、大きかった。地球から見える月の何倍もの大きさだ。
その巨大な青い月が、黒い木々の向こう側からにょっきりと覗いているさまは、不気味以外のなにものでもなかった。
「ぎゃああああっ!」
不安が最高潮に達し、瑛人は思わず叫んでしまった。
と、ばたばたと走る音が聞こえ、小部屋の扉がバン、と開いた。
部屋に入ってきたのは、瑛人と同じ年頃の少女だった。
白いネグリジェ姿、手には蝋燭、真っ赤な長い髪の毛をなびかせている。
何より目立つのは、赤と青緑の羽根を持つ極彩色の大きな鳥を右肩に乗せているところだ。
彼女は、ぽかんと口を開けて、瑛人の格好をまじまじと見た。
そして、
「キャアアアア! 変態!」
「ギャアアアア!」
彼女が特大の悲鳴を上げると、極彩色の鳥も一緒に悲鳴を上げ、羽ばたいて部屋の外へ飛んでいった。
「いや、待ってくれ! これには理由が……!」
瑛人は弁明しようと立ち上がったが、なにせ腰のタオル以外身につけていないため逆効果だった。
女の子はカンテラを振りかざして後ずさる。
「どうした、ロゼ!」
廊下を走る音がして、開け放たれた扉からもう一人が飛び込んで来た。
瑛人より少し年下、頭一つ分ぐらい背の低い少年だ。
こちらを見るなり、彼は不可思議な言葉を唱えた。
暗闇の中で聞いたお経のようなものによく似ている。
それから起こった出来事に、瑛人は思わず息を飲んだ。
少年の手から光が溢れ、ぐにゃりと空間が歪んだかと思うと、そこには少年の背丈ほどもある大きな杖が出現したのだ。
上部に金色の鳥の飾りがついている、それこそRPGで魔法使いが持っているような、ファンタジーな杖だった。
瑛人は我を忘れてこの魔法としかいいようのない現象をぼうっと見ていたため、それがなんの目的で出されたのかということまで頭が回らなかった。
金色の杖の先が瑛人の顔めがけて、急速に近づいてくる。
瞬間、ゴッという音とともに、目から火花が飛んだ。
ファンタジーな杖でこめかみを殴られたのだ。
衝撃でベッドから転げ落ち痛みでうめいているところを、髪の毛を捕まえられて持ち上げられ、向こうずねを蹴られる。
そして、持ち上げられていた頭が唐突に離され、床に叩き付けられた。
抵抗する間もなく、彼はいわゆる土下座の体制を取らされていた。
少年が短く呪文を唱えると、瑛人の手足はぴくりとも動けなくなった。
何とか立ち上がろうと頭を上げると、鼻先に黄金の杖が突きつけられた。
「それでは、説明をしてもらおうか?
いったい、どうしてそんな格好でここにいるのかを」
頭の上から、少年の声が聞こえた。
いやに冷たい、落ち着き払った声だ。
「いや、俺も知りてーよ!」
瑛人は痛みで涙目になりながら叫んだ。
ここまでが、尋問に至る顛末である。
そして、相変わらず質問は続けられる。
「いいから答えろ。名前は?」
「もう、やめてあげて、セト!」
赤毛の少女が声を上げて割って入った。
「さっきから延々と同じ質問を五回は繰り返してるのよ?
もう十分じゃない!」
「どうして?
意味不明な町の風呂から、いきなりこの部屋に落ちてくるわけがないだろう。
追っ手か変質者かはわからんが、本当のことを吐くまで続ける。
時間がかかるだろうから、ロゼは部屋に戻って寝ているといい」
こちらを無表情で見下ろしたまま、さらっと恐ろしいことを言う少年に、ロゼと呼ばれた少女は食い下がった。
「この人の言っていることは本当よ。
……そりゃ、最初はびっくりして思わず悲鳴あげちゃったけど」
少年が、少女を振り返った。
「本当……って、こんなデタラメな話が?」
風向きが変わった気配に、瑛人は期待をこめた眼差しで少女を眺める。
少年が完全にこちらを敵とみなしている今、頼れる味方はこの赤毛の少女だけだ。
「ええ、そうよ。仮に、この人が追っ手だとしましょ?
でも、わざわざ丸腰で来る追っ手がいるかしら?」
「……まあ、追っ手だとすれば究極の馬鹿ということになるな」
少年はしぶしぶ頷く。
赤毛の少女はさらに続けた。
「あとは変質者の線ね。そういう格好に見えなくもないけど……
でも、それならこんな妙な話を作る必要は全くないの。
追いはぎとか、暑かったとか、酔っ払っていたとか、他に言い訳はたくさんあるもの。
風呂場から落ちたっていうだけで、目的や手段が全く分からない矛盾だらけの話を素面で正確に五回も言うなんて、なかなか出来ることじゃないわ」
精神に予想以上のダメージを受け、瑛人は土下座姿のまま落ち込んだ。
少女はかばってそう言ってくれているのだろう。
だが、見ず知らずの女の子に変質者に見えなくもないと言われ、そのあげく、真実を矛盾だらけの話と一蹴されてしまったらどう心を保てばいいのだろう。
だが瑛人が落ち込んでいるのに構わず、少女は思い詰めたように囁いた。
「それに……この人には、嘘も悪意も見えないの」
少年は、じろりと瑛人を眺めた。鋭く光る青い瞳に射貫かれて、彼は居心地悪く目線をずらす。
「……悪意なき侵入者か。不気味だな。逆に、何が見える?」
「混乱と、怒り、それに不安よ。
無理もないわ。
この人の話を聞く限り、何の準備もなく別の世界に放り出されて、今いるところさえわからないのよ?
詳しいことを聞くにしたって、もう少し状況を整理する時間が必要だと思うの。
あと、服とかも」
運命と、少女は彼に味方しているようだ。
瑛人は内心喜びでにやけたが、目の前にいる少年の手前、神妙な顔で聞いていた。
少女はともかく、この少年はまずい、と本能が告げている。
信じがたい話だが、呪文一つで動きを封じる能力があるらしい。
それ以前に、たとえ不法侵入者であれ、人を鈍器で殴っておいて表情一つ変えない人間がまともなわけがない。
「おう、お嬢の言ってることは間違ってねーぜ。
俺の意見も聞いてくれよ」
瑛人の頭のごく近くから、今まで聞いたことのないしゃがれ声が聞こえた。
と、先ほどから何をしても固まっていた体が、急に動くようになった。
瑛人は驚いてあたりをきょろきょろと見回す。
「ロッド! お前、何か見てたのか?」
少年がその何者かの声に尋ねた。
「あいよー」
気の抜けた返事とともに、金色の杖がぐにゃっと折れ曲がって形を変えたかと思うと、先ほど赤毛の少女の肩に止まっていた大きな鳥に変化した。
そして、極彩色の翼をバサバサと羽ばたかせてセトの肩に留まると、流暢にしゃべりはじめた。
「いや、見てたってことはねぇな。寝てたっちゃあ寝てたんだけどな」
これには瑛人も声を上げずにはいられなかった。
「オウムが……オウムがしゃべってる!」
「ヘイ、間違えんな裸族の兄ちゃん。俺の体はインコだぜ」
大きな鳥は、片足を指差すようにこちらに向け、間髪入れず突っ込んだ。
こちらも裸族ではないと言いたかったが、今の状況から見て変質者よりもましな呼称のため黙っておく。
「いいから、ロッド。概要だけ頼む」
セトが冷静な声で促した。
「了解。
とにかく、俺は隣のロゼの部屋でうつらうつらしてたんだが、突然部屋に魔気が立ちこめてな」
「魔気ってなんだよ?
俺そんなもん持ってねーよ!」
聞き慣れない言葉が出てきて、瑛人は混乱した。
「黙って聞けよ、裸族の兄ちゃん。
今からお前の無実を証明してやろうってんだからよ。
魔気ってのは、まあ魔術を使うときに出る気配みたいなもんだ。
で、目を開けて確かめようとしたら、それがいきなり消えちまった。
おかしいな、と思ってな。
廊下に出たらロゼがやってきたんで、何か変わったことがなかったか聞こうと思った途端、セトの寝室から悲鳴が聞こえてきたんだ。
いそいで飛び込んだら、そこの裸族がセトのベッドに乗ってたと、こういうわけだ」
「……確かに妙な話だな。
魔気が出たなら私も気づくはずなんだが。
架空領域の地下菜園にいたから、気づかなかったんだろうか」
「一瞬でぴたっと消えちまったからなあ。
職業柄いろいろな魔気を見てきたが、魔気ってのは残って当然のもんだ。
あの消え方は不自然だったな。後で探られるのを嫌がって掃除したんじゃねえか?
とにかく、こいつが来たとき、何らかの魔力干渉があったのは確かだぜ」
少年は、黙って考え込んでいたが、やがて肯いた。
「……わかった。こいつの話を信じよう」
瑛人は、心底ほっとした。
戸口で見ていた少女も、安心したように笑みを浮かべる。
「二対一だ、仕方ない。
今日はもう遅いから、この部屋で寝ろ。どうするかは明日考えよう」
少年は身を翻すと、本棚から数冊抜き出しながら言った。
瑛人はため息をついて、頭をさすりながら立ち上がった。
「やっとか。全く、頭が痛え……年下のくせに思いっきり殴りやがって」
と、瑛人の正面にいる少女の笑顔が引きつった。
少年が無表情で作業を続けながら、鳥に向かって命令する。
「ロッド。今まで寝てたんなら、徹夜でこいつを見張ってろ。妙な動きをしたら迷わず耳を喰いちぎれ」
「ラジャー」
瑛人は慌てて叫んだ。
「ちょっと待て、ラジャーじゃねーよこのインコ!
おい、俺の話聞いてたのかあんた?
今、不審者だっていう誤解は解けたんじゃないのか?
むしろ俺は被害者なんだぜ?」
「勘違いしないでもらおう」
少年が本棚から振り向きもせずに答えた。
「信じたのは、お前が何らかの魔法で、異世界からここに落下したというところまでだ。
お前の人間性については全く信用していないから、そのつもりで」
だめだこれは。
話し合えばわかり合えるとはよく言うが、この少年はそういう気配がまるでない。
扱いに困って少女の方に視線を向けると、赤毛の少女は肩をすくめて人差し指で唇を押さえ、目配せをした。
今は放っておけということなのだろう。
瑛人も肩をすくめ、そして壁の地図に目を向けた。
そう言えば、自分のことは質問されたが(しかも尋問形式でだ)、この世界のことは何一つ知らないままだ。
寝る前に、これだけは聞いておきたい。
「いったいここはどこなんだ?」
キャッキャとインコが鳴いた。
いや、笑ったと言うべきか。
「お前、本当に何にも知らねぇのな!
頭の方もすっぽんぽんの『装備なし『かあ?」
「そういう言い方はよくないわ、ロッド。
待ってて、今納戸に大きい服がないか調べてくるから」
「そうじゃなくて! いや、服は欲しいけれども!
ここはどこなのか教えてくれないか?」
部屋から出て行きかけた赤毛の少女は、くるっと振り向いて、さも当然のように言った。
「カサン王国、ナタリア地方、カミノ村の魔術店よ?」
全くなじみのない固有名詞の羅列に、瑛人はくらくらとして突っ込むことすら出来なかった。
だからどこなんだ、ここは——と。