第9話 地下菜園の消失
瑛人は緑の粉まみれになった両手を天に掲げて叫んだ。
「杖は持ってないけど気合いで出でよ、ミキサァァァァー!!」
「何がどうした」
セトが冷静に受け流し、座っている瑛人の横に一山の乾燥した薬草を投げ下ろした。
瑛人は台所の隅で大きく広げた布の上にあぐらをかいて、朝からずっと石臼を回し続けていた。
この作業は粉が飛び散るので店頭ではできない。
セトに替わってもらうにしても、文字が読めない瑛人には一人で店番も難しい。
午前中ロゼとロッドは薬の配達でいないし、そもそもインコに石臼は回せない。
というわけで、誰にも交替してもらえなかったのだ。
敷いた布の上には既に緑の粉が大量に溜まっている。
やっと薬草の山がなくなったのに、追加を持ってこられてつい我を失ってしまった。
「腕が疲れてもうだめだぁ。なあ、魔法でミキサー召喚しようよ、さくっと」
「ミキサーが何かは知らないが、石臼を回すぐらいで禁術に頼るな」
とりつくしまもなく断られ、瑛人はため息をついて粉を舞い上がらせた。
「あー、早く杖持ちになって冒険とかしてみたい」
「杖持ちになるなら、まず襟くらいきちんと上まで閉めたらどうだ」
言われて瑛人は自分の首元を見た。
確かに、服には高い詰め襟がついているが、まだ暑いので第三ボタンまで外して着ている。
だが、セトを見ると、彼の黒い上着は同じような詰め襟になっていて、首の上までぎっちり留められていた。
「襟に何か意味があるのか?」
「杖持ちは呪文を唱えられなくなれば終わりだ。喉を守るのは当たり前だろ」
瑛人は逡巡してみた。
いや、考える前から答えは決まっている。
やめておこう。絶対暑いし息苦しい。
「うーん……ま、今はいいじゃん。
俺、山野だし、まだ暑いしさ。
冬になってからにするよ」
そう言うと、哀れむような視線を向けられた。
「情けない。戦時中は皆、襟に鉄板を入れて戦っていたというのに」
と、その言葉を打ち消すように、木琴の音色のような不思議なメロディーが聞こえてきた。
瑛人は内心躍り上がった。
台所の置き時計が昼を知らせる音だ。
珍妙な針や天体の文字盤がいくつもついていて、何時なのか皆目分からない時計だが、唯一分かることがある。
この音が鳴ると、一旦店を閉めて、セトが台所で昼飯を作り始める。
「ああ、もう昼か。ロゼも配達から帰ってくるな」
セトも置き時計を眺めてそう言った。
「そう言えば、ロゼはいつもどこまで配達に行ってるんだ?
こんな小さな村なら、すぐ回れるだろ?」
「いや、村の中だけだが、やたら時間がかかる。
あの子の言う『配達』は、病人の食事の世話から頼まれごとや洗濯まで含むからな。
薬だけ渡して帰るのは良心が痛むらしい」
さらっと言われたが、瑛人は納得した。
ロゼには、人の感情が見える。
病人の要望が見えてしまったら、世話をせずにはいられないのだろう。
「まあ、ロゼも好きでやっていることだし、村のじいさんばあさんには大好評だ。
だが、問題もある」
と、セトが突然つかつかと窓の方に歩み寄った。
口の中で何か呟いて、同時に片耳のピアスを外す。
あれは魔石だったのか、と瑛人が気づいたときには、セトは既に開けた窓に流れるような動作でそれを放り投げていた。
窓を閉めた途端、轟音が窓枠をびりびりと鳴らした。
窓の外は煙で真っ白になっている。
ついで長い悲鳴。
丘を全速力で駆け下りていくように、悲鳴は遠ざかっていった。
「厄介なことに、それを勘違いしてしまう者もいる。
今のはジョージ・ミルトン。
あいつもその口だ。
隙あれば窓辺に花束を置こうとしてくるから困ってる」
平然と話を続けながら台所から店の方へ戻っていくセトを、瑛人は固まって見送った。
昨日、ロゼに帰りの馬車の中で頼まれたことがぐるぐる頭の中を駆け巡っている。
——カツアゲにあったことや、私が雷石銃を撃ったことは、セトとロッドには絶対に秘密よ。私が街で危ない目に遭ったって分かったら、街に行かせてもらえなくなっちゃうわ。
ロゼが銃を使う羽目になったのは、瑛人を助けるためだ。
その場で何度も頷いたが、改めて恐ろしくなった。
ロゼには街に行けなくなる程度の問題だが、こっちにとっては死活問題だ。
……一歩間違えれば、今のミルトンとかいう男と同じ目に合いかねない。
全く躊躇のない迎撃を見れば、あの鍋で煮込むという発言もいよいよ本気に思えてくる。
深く考えるのはよそう。
そして今あった出来事を一刻も早く忘れよう。
そう思い、瑛人は一心不乱に石臼を回し続けた。
おかげでロゼがインコを肩に乗せて意気揚々と帰ってきた頃には、薬草の山は半分にまで減っていた。
ロゼは、左手に光の魔石を入れたランプを持ち、白いネグリジェ姿のまま、足音を殺して部屋から外に出た。
月明かりが照らす廊下を通り過ぎる。
二階のもう一つの扉の前で、少し立ち止まってみる。
扉の隙間から明かりは見えない。
エイトとロッドは、もう眠っているようだ。
今日は一日石臼を回していたので、疲れているのだろう。
腕が痛いというので、加工が済んだばかりのレニー草の湿布薬を貼ってあげたことを思い出し、ロゼはくすりと笑った。
この薬を作るせいで腕が痛くなったのに筋肉痛を治す薬だったなんて、まるでマッチポンプじゃないか、と叫んでいた。
マッチポンプの意味は分からないが、エイトが話すと、なんだかわくわくする面白いことのように聞こえるのだ。
しかし、ロゼはすぐ真顔に戻り、静かに階段を降りた。
廊下の端の扉から、明かりが漏れている。
ロゼは一度深く深呼吸をしてから、ドアを小さく叩いた。
「ねえセト、起きてる?」
どうぞ、という声が聞こえ、ドアノブがカチャリと音を立てる。
魔術でかけた鍵が外れる音だ。ロゼはドアを開け、居間に入った。
居間、という言葉が適切でないほど、本が床からいくつも塔のように積み上げられた、雑然とした部屋だ。
部屋の中央にテーブルとソファが置いてあることで、辛うじて元居間だったことが分かる。
セトは普段着のまま書類を片手にソファに寝転がっていたが、身を起こし、怪訝そうに見上げた。
「どうした、ロゼ。眠れないのか?」
どう切り出したものか迷った挙げ句、ロゼはぽつりと言った。
「……どうして教えてくれなかったの?
召喚魔法が、あんなひどい魔法だったなんて」
「ひどいって?」
怪訝な顔のままセトが答えた。
けれど、ロゼには動揺している心が見えている。
「贄のことよ。
召喚魔法を確実に成功させるためには、百人の贄を捧げなければならないって」
「……ロッドの馬鹿が漏らしたのか?」
最初に口止めしたはずなんだが、とセトは不満そうに呟いた。
ここでごまかしても無駄なことは分かっているので、開き直ることにしたようだ。
ロゼは低いテーブルにランプを置きながら言った。
「ううん、私、召喚魔法の文献を読んだの」
一瞬、セトの呼吸が止まった。
「いつから神聖ヴィエタ語が読めるようになった?」
「最近。辞書を見ながら少しずつ覚えたの」
深いため息をついた後、彼は静かに言った。
「そうか。ますます隠し事が出来なくなったというわけだな」
ロゼは誇らしいような、申し訳ないような複雑な気分になった。
「私、召喚主は絶対エイトを迎えに来ると思っていたわ。
それでなくても、この近くにいるのなら魔道具を買いに来ると思ってた。
でも、こんな罪を犯した人が大手を振って平気で魔術店に来られるわけがないわ。
根本的に考え直さなくちゃ。
どうして、こんな大事なことを黙っていたの?」
セトはばつが悪そうに天井に視線を逸らした。
「エイトは平和で進歩的な世界の人間だ。
あいつの世界に魔術は存在しない。
魔術は、杖を振り回して何でも願いを叶えられるおとぎ話だと思っているようだ。
自分が召喚されたことで、誰かが犠牲になったという事実など、なるべくなら知らない方がいい」
「それはそうだけど……」
確かに、このことを知らせたくはない。
だが、このままでは召喚主に会えずに、自分の世界に帰れないかもしれない。
故郷に帰れない悲しさは、彼女も身にしみて知っている。
「心配するな。召喚主のことはラインツにも探ってもらっている」
セトは手に持った書類を振った。
ロゼは本の間をすり抜けてソファの隣に立ち、その紙をのぞき込む。
書類には、びっしりと名前が書き込まれていた。
カオスター夫妻 二名。
パッジョサーカス 十名。
ヴェローナ炭鉱組合 三名……
「……何なの、これ?」
「ここ二、三ヶ月間分のサレナタリア領内の行方不明者リストだ。
ラインツが今日調査報告を送ってきた。
ほとんどが夜逃げか家出で、今のところ召喚と関係があったと考えられるものは見つかっていない。
が、もっと捜索すれば絶対に何か痕跡が見つかるはずだ」
セトは淡々と続ける。
「百人もの人間が消えるには、それなりの過程が必要だ。
それに、ある程度の協力者も。
何よりもまず、召喚魔法を行使するまで、百人を生かしておかねばならなかった。
百人分の食料となれば、誰にも知られずに調達するにも無理がある。
移動方法も限られるし、一人でも逃げられては外に情報が漏れるから監視も必要だ。
召喚直前に生き血を注ぐにしても……」
ロゼは思わず耳を塞いだ。
それに気づいたのか、セトはぴたりと話を止めた。
「……とにかく、すぐに分かるだろう。ロゼは何も心配しなくていい」
「ねえ。エイトはいい人よね? よく手伝ってくれるし」
どうして、彼が召喚されたのか。
それはロゼにも分からなかった。
セトの本を夜な夜なこっそり解読しながら読んでいたが、書かれていたのは強力な魔物や異界の騎士を呼び出そうとして失敗した記録ばかりだ。
だが、彼はそんな人種ではない。
「まあな。おかげで今年は収穫も加工も腐らせる前に終わりそうだ。
特に、収穫は明日のトリデンタータ草だけで終わりだからな。
それは感謝してる」
確かに、とロゼはここ数年のことを思い出す。
地下菜園の土地が余っているからと、苗をよく考えもせずに植えたのが発端だった。
それが恐ろしいほどに育ち、気づいたときには菜園を埋め尽くす薬草たちを前に、豊穣の月の間中、寝る間を惜しんでに作業しなければならなくなっていた。
『森の魔女』もこの時期は交易で手伝いを頼むわけにもいかない。
村人も自分たちの収穫で忙しい。
それに、こんな地下菜園を村人に見られたら、噂になってしまうに違いない。
去年はやむを得ず流れの魔術師を手伝い人に雇ったが、魔が差したのか、衝動的に魔石を持ち逃げしようとして一日もたずにセトに叩き出された。
その噂が噂を呼び、セトは弟子入りに厳しい店長だと村人に思われている。
それに懲りて、今年は誰も雇わず自分たちだけで何とかしようとしていたのだが、思いもかけないところから手伝い人が現れた。
「ただ文句が多い上に飽きっぽいし根性がないがそれはそれとして」
「ふふふ」
ロゼは目を細めて笑った。
「でも、エイトは嘘をつかないわ。いつでも思ったとおりのことを話してくれるもの」
「馬鹿正直というやつだな」
辛辣な言葉より、その奥にある感情を見て、彼女はまたふふ、と笑った。
「そういうの、嫌いじゃないでしょ?」
「……腹黒よりは幾分かましだ」
そう言うと、彼は伸びをしてソファの背に身をもたせかけた。
「さあ、夜も遅い。ロゼももうお休み」
そうだ。明日は早くからトリデンタータ草の収穫が待っている。
エイトの腕の痛みは治っているだろうか。
そんなことを思いながら、ロゼはお休みなさい、と呟いてランプを持ち、居間から廊下へと出た。
明日の予定が大きく変わるとは、少しも考えていなかった。
瑛人は、つんとする薬草の匂いで目が覚めた。
窓からは朝の光が差し込んでいる。
腕を動かして、瑛人は薬草の匂いが自分の腕にまいた包帯からすることに気づいた。
昨日、石臼を回し続けて筋肉痛になったので、ロゼに手当てしてもらったのだ。
……石臼で引いた粉が筋肉痛の薬だったのは皮肉だが。
包帯をとり、緑色の湿布をはがすと、昨日の痛みが嘘のように消えていた。
「やっぱり効くんだなあ」
地球から持ってきた唯一の品であるタオルで腕を拭き、ぐるぐる回して独り言を言ったそのとき、階下からロゼの短い叫び声が聞こえてきた。
止まり木で寝ていたロッドが、寝ぼけた声で「何だあ?」と呟いて、ばたばたと羽根を動かした。
瑛人は、ブーツに足を突っ込み、急いで部屋から出た。
階段の手すりから下をのぞき込むと、階段の脇に、真っ赤な頭が見える。
「どうしたんだ?」
瑛人の声に気づき、ロゼがこちらを見上げて叫んだ。
「どうしよう、菜園がなくなっちゃった!」
「地下菜園が? なくなるってどういうことだ?」
「どういうって、本当に何もなくなってるの……見れば分かるわ!」
瑛人は階段を駆け下り、地下菜園の入り口の前へ立った。
簡素な木の扉の中に昨日まではあった、池のような水面と茂る植物はすっかり消え失せていた。
たった半畳ほどの空間にはほこりを被った木箱や掃除用具が立て掛けてあり、それこそ納戸そのものだ。
おそらく、これが魔法が解けた真実の状態なのだろう。
「やれやれ。どうなってるんだ」
後ろを振り返ると、いつの間にかセトが頭を押さえて立っていた。
そのまま身を屈めると、納戸の敷居を真剣に眺めだす。
ロゼが不安そうに説明を始めた。
「朝ご飯の卵を取りに行こうと思って、扉を開けたの。
そうしたら、納戸に戻ってたわ。
特に変わったことはしてないつもりだけど……どうしよう……」
セトはしばらく敷居を眺めていたが、やがてぼそっと言った。
「架空領域の接続が切れてる。完全に迷子だ」
「それって、魔法で直らないのか?」
言葉の意味が分からないままに、瑛人は尋ねてみた。
魔法で出来たものなら、魔法で元通りに出来るに違いない。
しかし、彼は首を横に振った。
「座標が特定できないから無理だろう。
うちの鶏とトリデンタータ草は閉じられた亜空間を永遠に彷徨うことになってしまった」
「そんな大げさなことになるんだ……いや、よく分かんないけど」
「鶏に位置発信する魔術でもかけておけばよかった。
魔力は自動供給していたはずだし、原因が分からないのが気色悪いな」
とにかく、ロゼが入っているときに接続が切れなくてよかった、とセトが言い、瑛人は心底ぞっとした。
入ったら最後、出口がなくなって亜空間に閉じ込められるおそれがある地下菜園なんてものに、ほぼ毎日収穫で入っていたのだから。
「ここ七年、消えたことなんてなかったのに……どうしたらいいかしら」
「鶏は農場から買えばいいが、トリデンタータ草は今ないと困るな」
セトが立ち上がって膝の埃をはらった。
ロゼは眉をひそめて少し考えていたが、すぐに笑顔になった。
「そうね。大丈夫、私、今日レニア山に行ってくるわ。
地下菜園がまだなかったときは、山に採りに行っていたじゃない。
場所も覚えてるし、簡単よ。
今はエイトもいるんだもの、日暮れまでには十分終わるわ。ね?」
「え? う、うん」
意味をきちんと理解する前に、ぽんと肩を叩かれ、慌てて頷いた。
いつの間にか瑛人も山に行くことになっている。
セトは黙って二人を眺め、小さな声で言った。
「そうだな……今日は休業にして、私も行くか」
「駄目よ!」
唐突に大きな声でロゼが叫んだので、寝起きの頭が一気に目覚めた。
「お願いだから馬鹿なことはやめて!
私なら大丈夫よ!
もちろん、ロッドも連れて行くわ!」
「レニア山には熊や山犬がいる。
街道と違って見通しが悪いからロッドも偵察に使えないし」
ほとんど必死の懇願に聞こえるその言葉を、セトがこともなげに受け流した。
街に行ったとき、馬車に乗っている間中ロッドが頭上で旋回していたのは、どうやら運動ではなく偵察だったらしいことに、瑛人は今更気づいた。
しかし、ロゼの嫌がり方はおかしくはないだろうか。
いくら一人前扱いしてほしい年頃だといえ、一緒に薬草を採りに行くくらいのことで、蒼白になって叫ぶほどのことはない気がする。
とにかく、このぴりぴりとした空気をなんとかしようと瑛人は二人の間に割って入った。
「まあまあ。ロゼが目くらましの銃を持ってるんだし、熊除け鈴をつけていけば、俺たち二人で十分じゃないか?
俺だって登山の経験ぐらいあるしさ」
小学校の遠足で行った高尾山でも、立派な登山の経験だ。
そういうことにしておく。
ロゼもそれを聞いたからか、少し優しい顔に戻って言った。
「それに、こんなことでラインツさんの努力を潰すつもりなの?
少なくとも今は、大人しく村の中にいてちょうだい」
「……」
セトは黙ったまま肩をすくめた。
と、その頭にばさばさと極彩色の羽根を羽ばたかせたロッドが舞い降りた。
「ごたごたは終わったか? なーに、俺がついてりゃ熊なんぞイチコロよ!
そんなことより飯にしようぜ!」
場の緊張感が一気にほどけた。
「……分かった、好きにしろ。とにかく朝飯だ。卵はないが」
セトは大きくため息をつくと、ロッドの尾羽を引っ張って頭から肩へとずり下ろした。
そして、瑛人へちらりと視線を投げた。
「だが、どうしてロゼが雷石銃を持っていることを知っている?」
瑛人の頭の血がざっとひく音がした。




