永遠への憧れと信仰
「そこまでですっ!」
肉を裂く音が、少しだけ遠くから届き、高らかな狩人の声が鼓膜を叩いた。
「早乙女……か、何で?」
「貴方が訳の分からないことばかりをするから、話をしてみたくなっただけですっ!」
何故、少し怒られているのだろう……?
「化け物転校生──……不干渉を決め込んだ言葉を聞いたように思いますが?」
「盗み聞きとは、趣味の悪い後輩ですね」
「あなたにだけは、言われたくないですね──あなたにとってこの男は、この状況を作る程に大切ですかっ?」
「さぁ──この痛みを我慢する程度には、あると信じたいですがね」
「──早乙女、お前……手」
「青鹿さん──私、吸血鬼なんです」
狩人ではなく、吸血鬼──人狼の迫撃を凌げるのもまた人外、ということなのか。
「はっ……──ワーウルフにヴァンパイア、次はフランケンシュタインでも出てくるのか?」
「人狼的にはあり得ないんじゃないでしょうか──ねぇ、犬迫さん?」
吸血鬼を自称した早乙女の掌には、未だ人狼の爪が貫いたままだったが、快活と発する言葉に乱れはない。
「あなた達、二人は……──もうこの場所でっ!」
「いや、ここは引いた方がいいぞ、犬迫。元々変則的だったゲームが、早乙女のせいでさらに無茶苦茶になった──狩人で吸血鬼、お前に勝ち目があるとでも?」
人狼は吸血鬼を噛み殺せない、それが『汝は人狼なりや?』の鉄則のルール──それすら破られるのなら、それはもう人狼ではない。
「……あたしは、諦めませんよ」
引き抜いた爪も、塀を飛び越えるその身体能力も、未だ人狼のままの彼女を見送って──正直腰が抜けた。
「……──ぷはぁー、何とか生きてるなー。おい、その手、大丈夫なのか?」
「ご心配なく──この通りです」
開かれた掌、及び五指ともに大過ない。
「第三勢力にはなりたくない──じゃなかったのか?」
「ふぅ、貴方という人は……」
「悪い──一応確認しとくが、今回の配役的な意味で、そうなった訳じゃないんだよな?」
「ええ、私はもう……長く吸血鬼をやっていますから」
驚きは少ない──あの日、決定的な予感があった。
「流石に色々と説明が欲しいんだが、話してくれるのか?」
「そのつもりで助けましたから、では」
「なーにー、こんな所で逢引ぃ?」
玄関前で、忘れていた存在が声を挙げていた。
「母さん……」
「『母さん……』、じゃないでしょう。そちらのお嬢さんは? もしかして──噂の恋人さんかしらっ」
慌てて立ち上がり身形を正す──……あの鴉はっ、なくなってやがるのか。
「いえ、私は早乙女です」
「あー、いいんだ、早乙女。話は明日学校で、な?」
「ごめんねぇ、この子ったらこういう子で。母親に恋人の顔も、名前すら教えないのよ──それでも出来れば、良くしてあげてね」
こんな理解の及ばない状況が右往左往する中で、今更日常が割り込まれても対応に困る。
「分かった、分かったから──済まん、早乙女、こういう人なんだ。お互いに、時間と心に余裕を持って明日──じゃ、明日な」
「え、あ──はいっ」
一旦考えを整理する時間がいる──夢物語の人外の力と、永遠。
逸る気持ちを抑える、そういう意味では母親に助けられた。呆としていた早乙女にとってもそうだった筈だ。
「まただ、癖になってるな」
彼女は、彼我の距離を殊更に置こうとする。
だが、その理由こそが吸血鬼だった。果たしてどれ程の月日が彼女を蝕んだのか──言葉を連ねて、彼女を慮ったとしても、俺の主義趣向がその一点に収束されてしまうのが救えない。
古今東西の化け物を顧みたとき、吸血鬼という存在は嫌いじゃない──不老不死が、仮初ながらも許された存在。
数ある弱点への対応と、吸血行為を維持管理出来るなら、
「少なくとも、人類よりは永遠に近い」
それでも、吸血鬼か……。
弱点はまだしも、吸血行為──これが難題だ。倫理的な問題は一旦保留するとして、この吸血行為こそ吸血鬼の最大の弱点だと俺は考える。
吸血行為とは食事であり、日常的に、又は定期的に摂取するべきものだ。それが豚肉で済むのであれば、問題はない──だが多くは、人の領域を脱し、人の共同体を侵害する。個体としてどれ程優秀であっても、群体を断続的であれ、攻撃し続ければいずれ排除されるのが道理だ。
まして人類は、その積み重ねを以て、種の頂点に君臨している存在だ──相手が悪い。
「その辺、早乙女はどうやって付き合ってるんだか、っと」
吸血鬼という存在を産む弱さがあっても、それに屈しない精神を持つのが人類なのだ。
ここ最近の奇妙な関係が始まったのがここから──その憤激を追っていたことに違いなく、思いもしない後押しと想像すらしていなかった世界があって、またここにいる。
「よう、邪魔するぞ」
「ええ、お待ちしていました」
空に一番近い場所で遠く感じた彼女が、今は手の届く存在に感じてしまうのは気の迷いか──
「午前の授業全部すっぽかすとは思ってなかった──……出て行くつもりか?」
「一つの選択肢ではあります──貴方は、心の整理が済んだようですね」
「まぁな」
「私は、まだ迷っていますよ──貴方を助けたこと、今日これからのこと、この先……永遠と続くこと」
永遠という言葉に惹かれたのは何時からかと問われれば、振り返るのが難しい程としか答えられない。
「永遠、か……どこからどこまでを聞いていたか知らないが、いつか聞いていたよな『俺の心を支えるモノが何か?』と」
「ええ」
遠かったから──命あるモノが、止まらない。形あるモノが、崩れない。象らないモノが、変わらない。
「それが『永遠』への憧れだとしたら、軽蔑するか?」
「理解出来かねます。目的と言いますか──現実的な、目標と言えるものが見えてこない」
そう在れればと、願ったのはソレへの憧憬でしかないことに気付いたのは……もう思いだせる筈もない、遠いことの様にさえ思える。
「──月並みに言えば不老不死」
「不老不死……? そんなものに憧れると?」
憧れとは感情であり、感情である以上の意味はないのだから即物的なナニかに置き換える必要がある。それがソレであっただけ──月並みだが、それ以上のものを俺は知らなかったから。
「まぁ悪くない」
「貴方は……──文学作品然り、神話然り、時の権力者達然り、その結末が華やかしいものであったとでもっ!」
あとは心が変わらなければいいと、何て素晴らしいモノだと歓喜した筈だ。
「否定はしない──だが、そこにいたのは俺じゃない」
「そんなもの誰であれ一緒だっ! 近しい人が先に逝き、自分だけが取り残される……自分だけが世界から取り残されたようで、死にたくなる。分かち合う感情など、どこを探しても見つからない──そんなモノが永遠に続く、地獄以外の何ものでもないでしょうっ!」
故に彼女の忠告は至極真っ当というだけで、俺の心に響かない。
「俺が欲しいのは正しくソレだ──人外れた、君が体験してきたかのように語ったソレが欲しい」
「馬鹿ですかっ、今の話を聞いて何故っ! 普通、一度為ったなら、後戻りは出来ませんよ……」
こんな状況でもなければ耳に痛い話でしかないが──彼女はその体現者だ。
「愚問だ──どうも俺は、酷く俗物的な人間らしい」
「どんな人物であれ、長い時間の中でいずれ絶対に後悔します」
心内を明かすのにこれ程相応しい人物はいない。
「それはまたその時に、だろ?」
「それは、どういう──」
「永遠の中でしか感じ得ない感情も体験も、全て放棄するのか? 楽しめないのか? それは勿体ないだろ──飽いたのなら探せばいい。悔いるなら、また同じく探せばいい。時間は選択肢と共に、永遠にあるのだから」
「そんなモノッ、もう人じゃないっ!」
そんな視点を持ち得たらいいと、いつからか思うようになった。
「そうだ、不老不死の化け物だ」
「貴方は……、そんなっ──まるで、神様のような視点を持ってまで何がしたいんですかっ!?」
おっ──神様のような視点と来たか、存外に近い感性を持っているらしい。
「そこそこに平穏で暮らせるのなら、特別なことは何も──狗子仏性、知ってるか?」
「くし、ぶっしょう……?」
「禅だ。一時だけだが惹かれてな──狗に仏法修行の果てがあるか? と、まぁ無い訳だが。その『無』とやらと真実向き合えば、その果てが得られるから頑張れや、という有り難い説法だ」
「それが、どういう……」
永遠への想い──この齟齬さえ乗り越えられたら、俺達は上手くいく気がするのだ。
「いや、神の視点がどうのと言うから思い出した──その禅の歌に『犬も仏も、これこの通り。有無をいうたら、滅びるいのち』とあってな。あぁ、神ってのはそんなモノだよなと。なら『無』とは何ぞや、と考えた時に永遠という言葉が嵌った」
「だから、何が言いたいんです」
「もし、仮初でもいい、不老不死と呼べる化け物に遇えたなら俺は──ソイツを神様の如く信仰するのかもしれない」
「貴方は……」
理解の外であると──また一歩、物理的にも精神的にも距離が開く。
「えらく嫌われた……かな、──この際だ、決定的なことを聞いてみていいか?」
「何を──」
手が届きそうだと、そう感じているのは俺だけ──彼女からしてみれば、近づきかけていた距離が急に遠のいたとそう感じているのかもしれない。
「その力──どんな方法で、どんな経緯をもって、どんな枷があり、その不変性は如何に? と」
「貴方はっ!!」
俺は最初から知っていたから隠した──彼女は永遠を嫌悪していて、俺はそれに憧れていることを。
「がはっ──ぁあ、ならっ、どうして救ったっ!」
「貴方がっ、貴方なら受け止めてくれると思ったから……──酷く、自己愛と打算に塗れた思考の結果……です」
胸倉を掴まれたと、痛みと共に知覚した事実はやはり現実のもので、ここはまだ──あの世界の続きだと確信出来た。
「俺は嘘偽り、隠し事なく話したつもりだ──出来れば聞かせて欲しい、君の母親の話を」
「──その聞き方は、狡くないですか」
襟首を掴んでいた手が緩むのが分かる。
「ふん──話しやすい環境を作ったと、言って欲しい」
「すいません、少し熱くなりました──……そうですね。では、私も環境を整えましょうか──青鹿さんは今回の一件をどう捉えましたか?」
装いを正した二人の距離は、今までと変わらないものだった。
それでいい、対話に歩み寄りも過剰な敵対心も必要ない。だが、それにしても、吸血鬼と青空の下で対話か……──神秘との遭遇は意図と想像を無視して混在するらしい。
「こんな世界もあるのか、と」
「ワーウルフ……『あたしの世界』と、彼女はあの人狼のゲームを称していましたね。正式な呼び名があるとは思えませんが、その言葉は至極的を射ている──こう考えて下さい。人狼というゲームと同じ舞台の世界が、我々の過ごす世界を覆っていると」
紙やスクリーンの上であれば、類似するモノを見付けられるのかもしれない。
「その世界の中で吊られれば、覆いが取れた世界であっても吊られていると、そういうことでいいのか?」
「いえ、そう単純なものではない筈です──貴方は今日これまで、人狼が実在するなどと本気で考えたことがありますか?」
それでも、それは紙やスクリーン上の物語だ。
「いや、ないな」
「そうです──文明開化とともに構築された知識の共有は、ソレ等を廃れた書物の中でしか見られない、幻想であり神秘としました。ただ、今言ったように書物や伝承、娯楽の一部として現代まで伝わっている。それもまた人類の積み重ねた知識であり、彼女や私のような化け物を許容する因果なのでしょう」
「『でしょう』ってことは……」
「ええ、私も詳しくは分からない──しかし、私はこの体になって二度程、見たことがあります。結果だけをお伝えすれば両者ともに願いを果たし、一方は束縛されない自由を、一方は充足の中で死を得ました。では、その過程で関わった者達がどうなったか分かりますか?」
「今の話だけじゃ、何とも……まぁ、化け物を許容する因果が人にあるなら、その責任も人が取るんだろうな」
「違いありません──その二度の傾向を見るに、犬迫さんが言った彼女の死と貴方の死の結末に嘘偽りはないでしょう」
「死ぬのではなく、存在が消える……だったな」
「人々の記憶から消える──二度の内の一つに、そうした事例があったことは間違いないです。そして、もう一つ確かだと言えるのが、彼女は初めてではないと言うことです」
彼女の伝えたいことは既に体感で理解している。
「『あたしの世界を取り戻す』──か、」
「どういった形で至ったのか、それはもう本人以外知る由もないことでしょうが──彼女の力の性質上、確実に言えることがある」
少なくとも一度は──一人、二人、それ以上の場合もあるのか?
「ああ、そうだろうな」
犬迫は既に一度、命の遣り取りをしている。
「私が何を言いたいかと言うと、彼女にはそれだけの覚悟があるということ──佐藤さんと貴方に向ける感情がそれ程強いということです。世界と、人類の知識の集積に、牙を剥けるということはソレ等から外れるということ。貴方も、そして私も、その覚悟の底を正しく測ることなど出来はしない」
「あ? お前もか?」
「私のこれは借り物ですから……、現状把握はこのくらいでいいでしょうか?」
「ああ、充分だ」
「では……、少し昔話をしましょうか──ああ、その前に一つだけ。吸血鬼という存在への知識はありますか?」
「人並み以上程度には」
「……嘘を吐いたつもりはないんですが、私は史上に見られた吸血鬼達とは少し違っている筈です。吸血鬼と呼ぶに相応しい力を持っている何かと、その程度の認識でいて下さい」
「ああ、問題ない」
「人に話すは初めてですから、拙い部分には目を瞑っていて下さいね」
訥々と語ることが出来たのは、忘れていたからでも、悲嘆に暮れていたからでもなく──彼女が過去を、慈しみ愛していたから。