表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アラベスクに問え!  作者: 一瀬詞貴
三、晴れた蒼の章
20/26

それぞれのアラベスク(4)

「新鮮さが命、って訳でもねぇし」

 寮に戻ると間髪入れずにアルバートは作業場に向かった。

 ガラス容器にハッグの壺の中身を注いで、げんなりする。予想はしていたことだが、壺の中身は目の冴えるような〈蒼〉などではなかった。

 緑みのにぶい黄色の液体……所々灰黄緑の粒が浮かぶのが尚更気持ち悪い。

 発する甘ったるい臭気も相俟って、アルバートは頭を抱えた。

 鼻に小切れの布を丸めて突っ込んですら、辛かった。

「どうすりゃ蒼くなるんだ? っつーか、蒼になったとしても、この臭いはいかんとも……」

 明礬(ミョウバン)、茶葉の出しがら、炭、尿素、果実の皮……あらゆる消臭方法に思いを馳せ、アルバートが思惑げに鼻声で一人ごちていれば、

「何ですか? この臭い」

 隣室から戸惑った様子のヒューズが顔を覗かせた。

 声に振り返ったアルバートは、彼の目元が赤く腫れているのに気付いたが、それには触れずに答える。

「ああ、ハッグだ」

「ハッグ? って、これが?」

「そう。これが」

「なんか…………凄い色ですね」

「ああ」

 近づいてきたヒューズはガラス容器の中を覗き込むと訝しげにした。

「蒼く、なるんですか」

「多分」

 二人の視線が物言わず液体の上に落ちる。

 やがて、「うっ」と呻いて沈黙を破ったのはヒューズだった。

 彼は暫く何か考えるようにしていたが、口元に手をやると顔を逸らした。

「すいません、ちょっと外でやって貰えますか?」

「……そーするわ」

 アルバートは素直に頷いた。

 長時間、この臭いと格闘し、そろそろ嗅覚が馴れるはずだと思えば、そんなものは希望でしかなかった。

 アルバートはガラス瓶に蓋をすると、ヒューズと共に窓と言う窓を開けてから庭に出た。

 吹き抜ける清風を全身で感じながら、鼻穴を目一杯膨らませて胸に外気を吸い込む。

「あー……生き返る」

「…………ですね」

 室内の作業場は魅力的ではあったが、昼間の寒さは到着当時よりも随分和らいでいたし、臭いが寝室にこもるよりもずっとましだ。横に並んだヒューズも同じ気持ちに違いない。

 その時、バンッと玄関の扉が乱暴に押し開けられる音がした。続いて仕切りカーテンが勢いよく揺れ、赤髪が飛び込んできた。

「何をやってるンですか、この部屋はぁッ!!」

 そう怒鳴ったのはミシェル・ニールだった。

 髪を無造作に後ろでまとめ、エプロン姿でお玉を持った彼は、相棒のために昼食でも作っていたのだろうか。

 彼は、カーテンを開いた瞬間襲われた臭気に「ひいッ……」と悲鳴を上げると、もの凄い顔をした。

「な、中、ひど……ッ! うっぷ」

「あー、ミシェル……すまん。今後は外でやることにしたから」

 アルバートが片手をひらひらさせると、彼はカッと目を見開き、足を踏みならして吠えた。

「謝って済む問題じゃないんですよッ! 隣にまできてるんです! アラベスクに香りが残ったらどーしてくれるンですかッ!! って言うか、ぼくの機織りがこの臭いのせいでご飯を食べられないんですよッ! ダウンしたらどうしてくれるンですかァッ!!」

「お前、お隣さんだったのか」

 作業中はミシェルも静からしい。

 物音一つ立てない隣人が彼だとは思いも寄らず、アルバートは驚いた。

「ああ、話が通じない! このクソ庶民ッ!」

 ミシェルは髪を掻きむしると、貴族とは思えない口汚い言葉を次々口にした。と、そんな彼に、ヒューズが静かに問う。

「アラベスク、って、もう織り始めたんですか」

「ぎゃわ! ヒュ、ヒュヒュヒュヒューズ様!?」

 胸に風穴が空いたような変に裏返った声を出したミシェルは、慌てて髪を整えると、スッと姿勢を正し、切りそろえられた髪をサラリと揺らした。

「もちろんですよ、ヒューズ様。このミシェル・ニール、機織りの足手まといにはなりません!」

 先ほどの取り乱しは無かったことにしたらしい。

 彼の変わり身の速さにアルバートは心底呆れ返ったが、一方で感心した。

「染め士の仕事が遅くなれば遅くなるほど、しわ寄せは機織りにいきますから。ぼくの機織りは、もう一反目の三分の一ほどは終わりましたよ」

「それは……速いですね」

「はうぁッ! ヒューズ様にお褒めのお言葉をいただけるなんてッ!! か、感激ですッ」

「はあ……」

 惚けるヒューズにお構いなく、ミシェルは自身を両腕で抱くと身体をくねくねさせた。

 アルバートは早々たる退出を願った。

 が、小うるさい同志はそんな部屋の主の気持ちなどお構いなく、「あ! そうだ!!」と素っ頓狂な声を上げて手を打ち鳴らすと、目をきらきらさせて部屋を見渡した。

「ついでなので、ヒューズ様の布を見せて頂いても宜しいですか!?」

「へ?」

「機織りの部屋はこちらですかッ」

 彼は返事を待たずにさっさと踵を返した。ヒューズは慌てた。

「ちょ、ちょっと待って……ッ」

「ルイス家のご嫡男ともあろう方が、庶民の糸を織るだなんて前代未聞ですけれど、でもでも、仕方ありません。あのウィリアム様の決めたことに間違いなんてありはしませんし――」

 走ってその小さな身体を止めようとヒューズが手を伸ばすも、それをするりとかわして、ミシェルは仕切りカーテンを開けた。一歩部屋に踏み込み――――

「え。何これ」

 彼はきょとんとした。ヒューズがその背後で固まる。

「まだ、織り始めてない? ヒューズ様が?」

 部屋に置かれた高機や腰機には糸すら掛っていなかった。

 立ち尽くすヒューズの後ろからそれを覗き込んだアルバートは、頬を指でひっかくと、気まずそうにミシェルを見た。

「あー、あのよ」

「……糸が、まだ、できてないんですね」

 ミシェルは震える声でそう呟くと、ヒューズを振り返り目を潤ませた。

「ああ! おかわいそうなヒューズ様! こんな庶民と組んだせいでッ」

「いえ、そうでは――――」

「もう、それでいい。それでいいから、お前、さっさと出ていけ」

 糾弾してくるミシェルの腕を掴み、アルバートは問答無用で玄関に向かった。

 引きずられながら、空いた方の手で自分の胸を叩くとミシェルが声高に言う。

「ぼくが染めましょうか!? 事情をお兄様にお話すれば、きっと!」

「きっと! じゃねぇよ。そりゃ、不正行為だバカ野郎」

「バカとは何だ、このクソ庶民!」

「クソとは何だ、バカ貴族!」

 腕を振り払い、顔を真っ赤にしてプリプリ怒るミシェルに、アルバートも負けじと言い返す。

 その二人の間に、「違うんです!」と、ヒューズが割って入った。

「違うんですよ、ミシェルさん。糸がないんじゃないんです。――いえ、糸は確かにまだできてないんですけど、でも、そんなことは問題じゃなくて」

 彼は二人を見てから、口ごもった。

 アルバートは黙るように目配せしたが、珍しくミシェルが続きを待ったから、引っ込みがつかなくなったのだろうか。ヒューズは躊躇いの後、ボソボソと続けた。

「僕は、〈精霊の加護〉を織り込めないんです。だから、糸があっても……アラベスクは作れないんです」

 アルバートは額に手をやって嘆息した。ミシェルが目を瞬かせる。

「織れない? ルイス家のヒューズ様が? 誰よりも精霊に愛されるルイス家の……あなたが」

 物言わずに俯くヒューズを、ミシェルは穴があくほど、まじまじと見つめた。

 ……やがて、否の返事がないと知ると、至極当然と言うように口を開いた。

「信じられない! あなた、ルイス家の面汚しじゃないですか!!」

 無邪気な糾弾に、ヒューズの肩が大きく震える。

 ミシェルは一歩前に踏み出すと、身振り手振りを加えて続けた。

「ルイス家と言えば機織りの名門ですよ! 染め士が最も憧れるパートナーだ。それが……うわ、本当に信じられない。汚らわしい!――フモガッ」

「お前、ちょっと黙れ。そして出て行け」

 背後からミシェルの口元を覆ったアルバートは、そのまま暴れる彼を無理矢理玄関まで引きずっていくと、外に放り投げた。後ろ手に扉を閉める。

 ミシェルは長い間、ぎゃんぎゃんアルバートに対する文句を飛ばしていたが、相棒が迎えにきたのだろうか、廊下はやがて静かになった。

「まぁ、あれだ。あンま、気にすんなよ。ああいう、思い込みの激しい奴は無視するに限る」

 ヒューズのもとに戻ったアルバートは、気まずい沈黙を払拭せんといつもの調子で口を開いた。

「彼は間違ってませんよ」

 自嘲の笑いを零して、ヒューズは力なく壁に寄り掛かると言った。

「僕は、ルイス家の家格を落とす人間なんです。生きてることすら、罪なくらいに」

 アルバートは押し黙った。

 それは論が飛躍しすぎだ、と冷静に指摘しても、今のヒューズは聞く耳など持たないだろう。ヒューズはそんな友の沈黙にはた、として、軽く頭を振ると詫びた。

「すいません…………僕、ちょっと頭を冷やしてきますね」

「あ、ああ」

 とりあえず、落ち着く必要があると認識できる程度には冷静らしい。

 ふらふらと部屋を出て行くヒューズを見送って、アルバートは詰めていた息を吐き出した。

 が。

「――――遅い」

 テーブルに用意した夕食を前にして、アルバートは眉根を寄せた。

 壁かけ時計がボーンと鳴って、二十時を告げる。ヒューズがふらりと出かけてから、六時間以上が経過していた。

「ったく。何処で何してンだ、あのバカ」

 アルバートは椅子から立ち上がると、外套を羽織って寮を出た。

 外に出ると、鋭い寒さが頬を突き刺した。アルバートはヒューズを一人で行かせたことを、猛烈に後悔していた。

(バカなことはしねぇとは思うが……)

 短い付合いではあるが、彼が軟弱そうな見た目よりもずっと逞しい――いな、図太いことをアルバートは知っていた。

 しかし、ヒューズのコンプレックスがどれほどのものなのかなど、他人には理解できようはずがない。だから何をしでかすかだって分からない。

「ああ、もう、クソ!」

 自分に対して、盛大な舌打ちをするとアルバートは夜の街を走った。

 道端でうとうとしている酔っ払いを叩き起こしたり、目についた営業中の店に片っ端から駆け込んではヒューズの行方を尋ねた。邪険に扱われてもアルバートは止めなかった。

 方向音痴がたたり、同じ道を何度往復したか知れない。

 夜がとっぷり暮れて、人の往来もほとんどなくなった頃――がむしゃらに探すことに限界を感じ始めた頃、飲み屋が軒を並べる通りで、とある店の扉が開き中から賑やかな声が漏れ出た。と、

「ほら、しっかりしてよ」

 色っぽい女性に、一人の長身の男が肩を支えられて出てきた。

 女性はまんざらでもない様子で、長い緩やかなウェーブをかいた茶髪をかき上げると、男を熱の籠もった目で見つめて唇を寄せた。

 アルバートはその見覚えのある後ろ姿に素っ頓狂な声を上げた。

「ヒューズ!?」

「ふえ?」

 ぼんやりと振り返った男――ヒューズは、アルバートの姿を認めると、ニヘラッと嬉しそうに破顔した。

「あはっ! アールしゃ~ん」

 呂律の回らない声を上げて、彼がブンブンと両腕を振る。

……清々しいまでに酔っ払いだった。

「何してンだ、このバカ! 帰って来ねぇと思えば――――こ、こんな」

 ヒューズに駆け寄ったアルバートは、彼に身体を寄せていた女に目をやると、ゴクリと咽を鳴らして押し黙った。

 大きく開いた胸元からは、こぼれんばかりの谷間が覗き、仄かに漂う雌の香りに、身体の優美な線を強調するドレスは、十七歳のお年頃には少々扇情的過ぎた。

「――行くぞ!!」

 アルバートは、ともすれば向いてしまう目線を、ヒューズと共に女性から引っぺがした。

 次いで、個人的なうらやましけしからん思いを多分に含めてヒューズの片頬を抓り上げ、足早に歩き出す。女性が非難の声を上げたが、無視した。

「あたたっ。いひゃい。いひゃいよ、アルしゃん」

「うるせぇ。人がどんな気持ちで――――うおッ」

 痛みに身を捩ったヒューズが足をもつれさせる。

 アルバートはそれに巻き込まれ、盛大に転倒した。

「……重てぇ」

 踏みつぶされた蛙のような声が漏れる。背中にのしかかる重みに、怒りの気勢も削がれてしまった。

 ……ふと、ヒューズは身を竦めると、口を開いた。

「アルしゃん、にゃんだかしゅごい、全身からハッグのかおりするね……うぉえっぷ」

「マジ!? やばくね、それ!?」

(邪険に扱われた理由はそれだったのか!)

 アルバートは衝撃に背後を振り返ったが、ぐったりする相棒の異変に気付き、――それの意味することを理解して――飛び上がった。

「っつーか、吐くなよ?! 吐くなよ!? おい、ヒューズ!? マジで聞いてる!?」

「うん。へーきへーき…………うっ」

 巨体の下から這いずり出ようとするも、背中にしがみついたヒューズがそれを許さない。

 必死に手足をじたばたさせ、地を泳げば……ふいに、くすんと鼻を啜る音が耳に届いた。

「…………面倒臭い奴だな」

 アルバートは嘆息する。

「まぁ、俺の方が年上だしな」と独りごちると足に力を入れ、ヒューズを背負って立ち上がる。

 もちろん自分より背の高い彼を負ぶる力などないから、引きずり歩いた。相棒は泣いているのだろうが、別の不安も完全には消去できず、アルバートはできる限りそっと、尚且つ最大限の速度で家路を急いだ。

 ……静かな夜だった。

 下弦の月の照らす道を、二人はふらふらと進んだ。

「ねー、アルしゃーん」

「あー?」

 譫言のようにヒューズが呼ぶ。

「ねー、アルしゃーん……」

「だから、何だよ」

 彼はぎゅっとアルバートの首にしがみついたが、結局何も言わなかった。

 アルバートも敢えて問い質そうとはしなかった。

 それから二人は、言葉なく夜を聞いて歩いた。

 寮の門が見えてきたのは空が白んだ頃だった。帰って来られたのは奇蹟だった。

「あれー? アルしゃん、どこに行くのー」

 寮のロビーの扉を開けて、部屋に向かった時、半眼を開いたヒューズが熱っぽい吐息を漏らして問うた。

「部屋に戻って来たンだよ」

 自室の玄関を開けたアルバートは、見覚えのある部屋に、ほっと安堵の溜息を吐いた。

 台所のテーブル上に放置された夕食を目にすると、ぎゅぅと胃が縮んで、空腹を訴える。

「ったくよぉ。試験最中だって自覚あンのかよ、お前」

 とりあえず、ヒューズをベッドに転がしてからパンを温めよう……そんな風に考えていれば。

「…………やら」

「あ?」

 アルバートは宙ぶらりんになった。背後からヒューズに抱きかかえられたのだ。

「ちょ、こら、下ろせ……ッ」

 クルリと回れ右させられたアルバートは、地に着かない足をバタバタさせて抗議する。

 ヒューズは激しく首を振ると、鼻先をアルバートの後頭部に押しつけた。

「やら。やらやらやら! 僕、おうちに帰るう!!」

「はあ!?」

「出来ないもンは出来ないんでしゅよぉ! どーせまた落ちるンでしゅよ! 僕は、ダメなんでしゅよぉ!!」

「おま……」

 涙声の叫びに、アルバートの内でピーッと音を立てて怒りのバロメーターが上昇した。

 が、彼はグッと拳を作ると、目を閉じて我慢した。

 辛い時は誰だって逃げたくなるものだ。自分だって、そうだったじゃないか。

 こんなことに苛立つなんて大人げない……などと自分に言い聞かせるも、

「おい。ヒューズ」

「やら!! 絶対にやらッ!!」

 ぷーんと、そっぽを向いた相棒を前に、アルバートの中でブチンと音がした。

 ――――アルバートは俯いてから、思い切り顔を上げた。

「ぷぎゃっ!」

 ヒューズはバネが跳ね返るように勢いをつけた相棒の後頭部に、強かに鼻を打って悲鳴を上げた。

 拘束してくる両手が緩んだ隙をつき、するりとそれから抜け出すと、アルバートは地に蹲る相棒を放って台所に真っ直ぐ向かった。やがて桶に水を汲んで戻ってくる。

「アルしゃん……」

 めそめそと顔を覆って座り込んでいたヒューズが顔を上げた。

 アルバートは嘆息と共に、その間抜け面を見下ろすと、

「話し方がキモイ」

 言って、容赦なく水をぶっかけた。

お読みくださり、ありがとうございます。

次回は、3月27日(金曜日)7時予定です。

宜しくお願いしますm(_ _)m

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ