五、獣―ビースト―
地面に倒れ伏したイドは、意識だけが加速し、全てのことがスローモーションに見えていた。そして、走馬灯。過去の記憶が蘇っていく。
両親の背を追い続けた時。妻をめとり、子を授かった幸せの時。村の仲間たちと祭りではしゃいだ時。村が滅ぼされた時。行商父娘に拾われ、助けられた時。
まるで過去から現在までのことを追体験しているようだった。
(俺は……ここで、終わるのか……。仇討ちも果たせず、恩も返せず、ただ無残に屍を晒すのか……!)
拳を握ろうとするが、震えて上手くいかない。気づくと持っていたはずの宝刀が無い。目の端で、数歩先に転がっている宝刀が見えた。
(宝刀……。宝刀の……伝説……)
宝刀を目に捉えた時、バフィンが言っていた宝刀の伝説が、追想する記憶の中に鮮明に浮かんでいった。
(バフィン……さん……)
イドはすがった。不確かな逸話の伝説を。いや、すがらざるを得なかったのだ。身体は動かず、目前には自分を容易く塵へ返すであろう魔術が形成されていっているのだ。その状況でいったい何ができるのだろうか。
だから奇跡を信じるしか無かった。ただそれだけが、今のイドが出来る唯一の抵抗だった。
――奇跡の始まりは、いったい何処からなのだろう。
イドが村を襲われ、生き残ったとき? 行商父娘に拾われたとき? 宝刀を善意で受けとったとき?
誰にもそれを知ることは出来ない。全てはなるべくして起こるのだ。それはまるで、神が行う遠大な計画のように。誰も逃れることは出来ない。それは『運命』と呼ばれる力だった。人知の及ばざる領域の力。それが今、張り巡らされた爆弾のように発揮される。
振り下ろされた魔術の光がイドに迫る。しかしそれと同時に、魔術を阻むように別の光がイドと魔術の間に割って入っていった。光は光輪の盾となってイドを包み込んだ。その光輪の表面を魔術が滑り、イドの周りだけを残して辺り一帯を焦土へ変えた。
「ば、バカな……!」
打ち返された雷撃の余波が炎を上げる。炎で包まれた中で、イドが立ち上がった。だがその姿は変わっていた。全身を黒い何かで包まれており、スーツのようにまとわり付いている。それはイドがアリサから受け取った黒いマントが変化したものだった。イドを守るようにピッタリと張り付いたマントは、淡く光りながらイドの身体を癒していく。
(身体が、動く……それにあたたかい。痛みが引いていく……)
いつの間にか宝刀が手に握られていた。白く輝き続ける刀身に、なにか文字が浮かび上がってきた。
――スウェン
そう書かれている。イドには読むことの出来ない文字だったが、不思議と意味を理解することが出来た。
「守護宝刀、スウェン。それが銘か……」
歩き出すとマントは元通りに戻っていった。どうやらこれも『魔導物品――マジックアイテム――』だったようで、所有者を癒やし、危機から遠ざける働きをするようだ。
いま二つの贈り物が、いや、全ての事柄が、イドを生かそうと働いていた。それこそが運命であると言わんばかりに。そして運命が後押しした男はついに立ち上がり、新たに牙を研ぎ澄ませ、鎧の男へ歩みを進めている。
鎧の男は恐怖した。おそらく目の前の野獣は何度倒しても己への歩みを止めることはないだろう。それを理解したからだ。恐怖に駆られた鎧の男はもう一度槍から雷を打ち出した。それは槍のように鋭利で一直線にイドへ向かう。イドは無造作に短刀を前へ掲げて雷を防ぐ。男の魔術がイドにとどく事はもうない。迫り来るイドに槍を振るうも、それでも向かってくる足を止めることはできなかった。神域に達したと言われる槍さばきも精彩を欠いている。イドの打ち込みを槍で受けるが、その衝撃で両手の股が裂け、槍を取り落としてしまった。手から血が滴る。
かつて無いことに鎧の男は愕然とした。
「既に、既にだったのか……まさかこれ程とは。因果を、運命を操る……バケモノめッ!!」
白光一閃。次の瞬間、鎧の男の口からは断末魔の絶叫がほとばしっていた。左腕を抑えてしきりに喚き、地面をのたうち回っている。鎧の男は身体を守るために咄嗟に左腕で防御した。その為、鉄器を泥のように切り裂く宝刀の切れ味によって左腕が斬り飛ばされてしまったのだ。
悲鳴をあげ左腕を抑えうずくまっている鎧の男を、周囲にいた黒尽くめ達がすかさず抱え起こす。ドラを打ち鳴らして、それを合図に波が退くように黒い一団はあっという間に消えていった。見事な手際の撤退だった。嵐の様に現れ襲い、嵐のように唐突に跡形もなく消え去る。あとに残されたのは、戦火で燃え狂う花の街と、人々の恐怖と悲しみの声だけだった。
イドはしばらくそこに佇んでいた。もはや意識はなかったのだろう。その内静かに崩れ落ちた。
◆◆◇◇◆◆
しばらくしてイドは目を覚ました。目が覚めてから真っ先にしたことは、身体の無事を確認することだった。ペタペタと異常はないか触って確認して、身体は無事だとわかり安堵する。まだ身体が痛んだがゆっくりと立ち上がり、宿の方へ歩き出した。行商父娘の身が心配だった。予想以上の被害に、彼らのところも無事ではないだろうと思ったからだ。
イドが宿に戻る道で、この戦いが壮絶だったと物語っていた。兵士の死体、住民の死体、黒い一団の死体。まだ火がくすぶっている建物、木っ端微塵になった家。泣いている子供、放心している大人。花の街の面影もなく、ただただ悲惨がそこにあった。
身体は痛むが歩みを早めた。彼らは無事だろうか? 被害にあってないだろうか? ちゃんと逃げられただろうか? そういった思いが徐々に強まる。イドは今更後悔していた。怒りと憎しみに身を任せて、この戦いで本当にしなかればならなかったことを見失っていた。
「ついた……」
ここまで戦果は広がっていたのだろう。宿は燃え、半壊していた。周りの建物も壊され、燃えている。
「あの人達は……!?」
慌てて周りを見渡した。だが人の気配はない。あるのはあちこちに突き刺さっている矢と、様々な死体だけだった。イドの脳裏に嫌な予感が走る。イドは点々と転がっている死体の後を追う。戦いの跡は裏道へ続いていた。
裏道へ入ると黒尽くめたちの死体が増えた。その死に様は無残なもので、まるで潰されたかのように飛び散っている。強力な力で叩かれたような死に方だ。道を行けば行くほど死体の間隔は狭まっていく。同時に激闘を物語るように壁や通路に武器の跡が残っている。
イドは焦った。頭のなかに湧いてくる最悪のビジョン。それを振り払うように、身体が痛む事も忘れて駆け出していた。戦いの跡はいよいよ最高潮に達したのだろう。死体の数が尋常ではなかった。戦いの跡は角の先に進んでいる。急ぐ足に任せて、イドは角を勢い良く曲がった。
そこには……
「親父、さん……」
城壁の窪みを背に仁王立ちして死んでいるバフィンの姿がそこにあった。身体のあちこちが激戦の為に欠損している。無数の矢と切り傷を受け、尚倒れず、なお両目を光らせて立っている。傍らには折れた血塗れの鉄鞭が投げ出されていた。
目の前が暗くなった。全身が萎え、立っているのがやっとだ。震える手でバフィンを道へ寝かせて目を閉じさせ、刺さった矢を抜いていく。血が流れ切ったのか、矢を抜いても血が噴き出ることはなかった。
イドは彼が守ったものを見た。バフィンが死を賭してまで守ったものは、
「娘さん……アリサ……! まだ生きてる……!」
青ざめ、呼吸の浅くなったバフィンの娘、アリサがいた。
イドは少女を抱きしめ、哭いた。彼は今更涙を流した。そう、『今更』。今更後悔しても、もう戻っては来ない。返すべき恩も、施すべき愛も。既に失ってしまったのだから。
雨が降る。雨は徐々に強くなって豪雨となり、街についた火を消し、そして今更慟哭する男の返り血を洗い流した。
雨は人々の悲しみをかき消すように、止むことはなかった。
次で終わります