二、宝刀 その1
――翌朝。
日の出とともに馬車に鞭を入れた。バフィンは口に出さなかったが、尋常ではない様子の男が倒れていた場所から、一刻も早く立ち去りたかったのだ。数々の危険に首を突っ込んできたからこその判断で、大抵追われ人の場合が多い。アリサに言わせれば、あまり自慢できる経験ではないということだが。
「記憶喪失。記憶喪失ねぇ……」
「記憶、戻らないんでしょうか」
父娘は御者台にそれぞれ乗り、昨日の事について話し合っていた。今まで数々のワケあり人を助けて来たが、記憶喪失というのは初めてだった。どうにも対処に困る。アリサはチラリと荷台に取り付けたカーテンの切れ間へ目を向ける。熱と痛みのためか、うなされている男が見えた。
「一体どんな目にあったんだろうなぁ。せめて名前だけでもわかりゃぁな……。そうだ」
と、突然何かを思いついたのか、自分のももをパチンと叩いた。
「どうかしましたか?」
「名前。記憶が戻るまでの名前をつけよう。次の街までだいぶある。その間、あんた、だけじゃ呼びにくいだろう?」
「それは、そうですけど……。でも、いいんでしょうか」
「大丈夫だろう。ま、起きてから決めるつもりだ。もしかしたらこれがきっかけになって、名前くらいは思い出すかもしれんしな」
楽天的に笑う父を脇目に、アリサは一つ小さくため息をついた。人の命と人生がかかっているのに呑気なんだから。そう心の中で思う。
背後から聞こえる唸り声は、まだ止まない。
◆◆◇◇◆◆
それから二日後の夜。
意識が戻った男の包帯の取替のため、バフィンが傷を見ていた。馬車の中で作業を行うため、アリサが松明を持って中を照らしている。炎が揺れる度に、彼らの影もゆらゆらと踊る。
「あんたの身体どうなってんだい?」
もじゃもじゃの髭と髪の間ににある目を見開きながら、驚きの声を上げた。
包帯の下から覗く傷が既にふさがりつつある。バフィン顎に手を当てては訝しんだ。
「昔からこんなもんです。……昔、から……? うぅ……」
何かを思い出しかけたのか、頭の中に映像が浮かぶ。それは一瞬のことだったが、クマに襲われていた映像だった。ざっくりと胸は裂け、肩にガップリと喰いつかれている。覚えのない光景に頭が痛んだ。同時にあまりにも鮮明な映像のため、胸と肩にありもしない痛みが走る。
「……まあ、記憶のほうはゆっくり思い出しゃいい。んー、大きい傷も治り出してるが、やっぱちゃんとした治療が必要だな」
頑丈なタチなのだろうが、激しい失血をしているため、早急に治療士の手にかかる必要があった。
指を折り曲げ、残りの日数を数える。
「……おい、後どのぐらいだ?」
「……ん、あと二、三日だと思います」
聞かれたアリサは手元の地図を広げて答えた。もしかしたらもう少し早くつくかもしれないと、アリサは付け加えた。
「そうか。もうしばらくの辛抱だ。我慢してくれよ」
「我慢だなんてとんでもない……。ここまでしていただいて、本当に感謝しています……」
「はっはっは! よせいやい!」
ところで、とバフィンは切り出した。
「お前さん、やっぱりまだ記憶は戻らないのか?」
「ええ……。思い出そうとすると頭が痛むんです」
「考えたんだけどよ、このまま『名無し』のままってのもあれじゃねえか? そんで提案なんだが、俺達で仮の名前を付けようと思うんだが……どうだ?」
「……構いません。当分、思い出せそうにないので……」
「良かった! 実はもう考えてあるんだ。包帯に巻かれたミイラ男のようだから『ミラー』。どうだ?」
「父上……」
いい名だろう! と言わんばかりの笑顔を見せる父とは反対に、娘の反応は冷ややかだった。アリサの視線がバフィンの背に突き刺さる。本人は意に介してないようだが。
その様子に、男――ミラー――は微笑ましさを感じるも、得体のしれない不安感に襲われた。それは焦燥にも似ていて、二人の様子を見ていると心がざわめき締め付けられる。だが、彼はそれをおくびにも出さずに感謝を伝えた。
「ありがとう。気に入りました」
そう言って笑った。
(ミラー……。それが今の俺の名……)