続・月光譚 ―横たわる三日月―
深夜、一人と一匹が廊下を進む。
一人はここ王都を守る治安部隊、通称「黒狼」の隊長を務めるアーベル。その隣で寄り添うように進んでいるのはアーベルが「ラギィ」と呼ぶ、艶やかな黒い毛並みをした一匹の狼である。
いつもであればこの狼は音も無く歩を進めるのだが、今日はいつもと違って、狼が歩く度に廊下と何か硬い物が擦れた様な小な音を立てる。注意深く狼を見れば、左の後ろ足を少し上げて歩いている。
アーベルは指先でそっと黒い背中に触れながら口を開いた。
「部屋に戻ったら手当てするぞ。」
(大丈夫だよ。刺さった石も取れてるから)
「小さな傷だからといって甘く見るな。」
(えぇー。軍の人ってしょっちゅうこんな傷作ってるし)
「お前は軍人じゃないだろ。」
(それ以前にもう人じゃないけどね)
その言葉を聞いたアーベルの前を見ている瞳の半分を瞼が覆い、二つと四つの足は止まる事無く廊下を進む。
ほんの僅かだけ張り詰めた空気に気付いたラギィであったが、大して気にた風でもなく更に言葉を続けた。
(舐めとけば治るよ)
とても狼らしい、そして女性のものとは思えない発言にアーベルの眉間に皺が刻まれた。
アーベルとラギィが歩く廊下の窓から見えるのは、木が小さな風に揺れてさわさわと音を立てながら揺れる様子と、今宵の満月を薄い雲が覆い隠してしまった故に中途半端な闇に染まった地面。対照的に夜空は雲の切れ間から洩れた月光がほんのりと夜空と星を囲んでいた。
アーベルは執務室の隣の応接室にラギィと一緒に入った。応接室に入るやいなや、怪我をした左の後ろ足を浮かつつもラギィはさっさと寝室の前に行き、扉を開けて欲しいと言った。
傷の手当てをするつもりだったアーベルを取り囲む空気が一瞬にして氷点下となる。空気を読んだラギィはまずいかなと思ったが自分の後ろ足は人間の時で言えばちょっとした切り傷程度と考えていたので、
(大袈裟だよ、アーベル)
と寝室の扉の前で小さく口を開けながら言った。
アーベルは絶対零度な半眼でもって自分の事を「大袈裟」とのたまったラギィを見つめていた。
ラギィの黒い瞳は、鋭い表情で自分を見下ろす相手をじぃっと見上げて視線を外さないでいる。
見詰め合うこと暫し、アーベルが不機嫌全開で寝室へと向かいながら言った。
「消毒は絶対だ、いいな。」
これはアーベルにしてみれば滅多にない譲歩である。逆らった過去を思い出したラギィの答えは一つしかなかった。
そうしてラギィは寝室に入ったはいいが、寝台には上がらずにずきずきと痛む足を冷やす様に床にのせて蹲っていた。
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つい先ほどまで鍛錬場を隅から隅まで走り回っていたラギィ。その時に尖った石が後ろ足の指の間に刺さってしまったのだ。
週に何度か夜の鍛錬場にアーベルはラギィを連れて行き、その鍛錬場でラギィを自由にさせていた。要するに運動させていたのである。
人間であれば日ごろの鬱憤を様々な方法で解消する事が出来るが、狼がそれを、特にこの場所でするとなると大問題であった。叫べば遠吠えとなり軍用犬や軍馬などが怯え、物に八つ当たれば頑丈な物以外は壊してしまう。それが周りの迷惑になると理解できるラギィは、今居る場所ではないとある場所でその事に気付き一時期に食事が出来なくなってしまった過去を持つ。
詳しい経緯は教えてもらっていない。が、おそらく過去を知るアーベルが上層部と交渉して夜の鍛錬場を解放してもらったのではないかとラギィは思っている。
何はともあれ体を思いっきり動かせるのは気持ちがいいし、何より誰にも気兼ねしなくてもいいという事実が大きい。夜の鍛錬場に居るのは見回りの兵士以外はラギィとアーベルの二人だけだからだ。
わっふわっふと息を弾ませ、所狭しと走り回り飛び跳ねる一人運動会状態のラギィ。もう一方のアーベルは立ったまま腕を組んでその姿を見つめる時もあれば、佩いた剣を抜いて型を取る事もある。
今日は珍しく鞘に納まった剣でラギィ相手に斬りかかる訓練らしき事もさせられた。
過去に何度かそれをやらされているラギィは、この「なんちゃって訓練」(ラギィ談)が体力と気力を非常に消耗する事と嫌と言うほど知っている。
途中でラギィが止めようとすると、絶妙の間合いでもって剣を向けた上に「太った狼は存在自体が悪」だの「獣とは思えない運動神経」だのと小馬鹿にした表情と声音でこれまたいい挑発をしてくれるアーベル。
そんな彼についついムキになって立ち向かい、結局アーベルの気の済むまで付き合わされ、ラギィはへとへとになってしまう。
今回も「お前、太ったな」の台詞と共にふんと鼻先で笑われて、ラギィは相手の術中に思いっきり嵌ってしまった。
一人運動会の後に始まった「なんちゃって訓練」の最中、アーベルの剣を避けて次に飛び掛ろうと地面を足を蹴った次の瞬間、指の間に鋭い痛みが奔る。
「キャン!」
と悲鳴を上げたラギィ。
「どうした?!」
自分の後ろ足に鼻先を向けていたラギィの耳に、顔が見えないアーベルの声が飛び込む。その低い声はいつもと違い小さな焦燥が混じっていた。
今日の出来事を思い出しながらラギィは小さな息を吐く。
(何だかなぁ)
ふと立ち上がり寝台の横にある窓を見る。何かに惹かれる様にとんっと床を蹴って寝台に上がるとカーテンが開けてある窓硝子に鼻先を付けて空を見上げた。
そういえば今日は満月だったけ。雲が月を覆い隠している鍛錬場に向かいながらアーベルがそう言っていたのをラギィは思い出す。
(新月みたい)
黒い雲から洩れる月光は満月の輪郭をほんのりと浮かび上がらせ、それが黒い瞳に映った。
空にあるはずの満月を隠していた雲が静かに動き出し、そして銀とも見紛う淡い金色の満月がゆっくりと顔を出す。と同時にラギィの黒い毛並みに月光が惜しみなく降り注いだ。
次の瞬間、ラギィは元の姿へと戻っていた。
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消毒作用のある薬茶が入った瓶と清潔な布が入った籠、それに洗面器を持ったアーベルが寝室の扉を密かに開く。次の瞬間彼が見たのは、寝台の上に膝で立ち胸の前に持ち上げた両手の手のひらを見ている驚いた横顔と、その頭を覆う艶やかな短い黒髪。尖って黒い毛が覆っていた耳は丸くなっていて、顔の横の頬の少し上で剥き出しになっていた。
正面を窓辺に向けている体。その一糸纏わぬ象牙色の肢体をヴェールの替わりに月光が無言で包み込む。
思わず息を、そして驚きを呑み込むアーベル。咄嗟にとった行動はラギィがアーベルに気付く事を許さなかった。
暫しの驚きの後に一重の目をゆっくりと細め、口の端を目と同じく吊り上げる。それは極悪人そのものの笑みだ。そんな笑顔のまま音を立てずに寝台の脇へと密かに進んで行った。
「消毒するぞ、ラギィ。」
掛けられた声に何も身に着けていない身体がびくりと動き、視線を自分の両手から上げると声がした方向へ顔を向けた。
「・・・・ア・・・・ベ・ル・・・」
ほんのり紅色を刷いた小さな唇が動いてアーベルの名を呼ぶ。
随分と前に聞いたきりのその声は、掠れていたが確かにラギィの声だった。
いつもであれば会話は直接頭に語り掛ける為、聴覚を刺激しない。だが今小さな口から発せられたその声は、空気を振動させながらアーベルの耳朶に心地よく響いた。
久しぶりに目にし、耳にするラギィの姿と声。
横たわる三日月の様なアーベルの口は更に深く弧を描いた。