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轟、と獅子の咆哮が夜空を震わす。同時、目映いオレンジの雷撃が、閃光弾じみた膨大な光量を放つ。
それは雷撃である。供給された魔力を魔法杖の術式水晶内で電気質に変換し、光速で獲物の喉笛へ迫り、食い千切る、獅子の顎である。
美咲は広範囲に結界を展開し、知久の攻撃を察知する。その上で小さな魔力球を手のひらで形成し、雷撃に先行して前方に弾幕を張る。
知久の攻撃が電撃であるならば、わざわざ大規模な障壁を魔力で編む必要はない。電位差を空気中に作る事で、電子は方々に拡散する。
獅子の顎は空気中に散らばった全てを喰い尽くそうと、その形状を散り散りに、魔力球に悉く食らいつく。目の前で橙と紫の相まった大規模な爆発が巻き起こるものの、美咲は無傷でその内部をかいくぐり、知久へ接敵する。
驚愕に眼を剥く知久へ艶やかな手を伸ばし、額を優しく触れ、ズルリと障壁を削り取り、喰らい、すれ違う様に離脱する。
(行動のムラが激しいから、そうやって付け込まれるんですよ。どれだけ膨大な力があっても、当たらなければゼロと変わりません)
思念を送りながら、障壁を削り取った左手を舐める。それに応じる様に、クリムが甲高い奇声じみた狂笑をあげる。
「くそッうぜェェェエエエ!! アンバー、詳細!」
『しょうへきほごりつ7パーセントていかッ、のこり49パーセントしかないよ! シルク、ここはいちどひくか、こうふくしたほうがいい! かのじょはまほうしょうじょとしてのけいけんちがちがう!』
「ッ……な・め・たッ事ぉ、抜かしてんじゃねぇ!」
すれ違った美咲を追う様に反転し、背中に翼を生やすかの如き魔力の放出を生み、一気に加速する。障壁に護られているとは言え、物理的な無謀が祟り、本体が受ける筈の負荷を肩代わりした障壁がボロボロと剥がれていく。
狂気だった。知久の双眸は、狂気に満ち満ちていた。
彼女とて、昨日今日、魔法少女になった訳ではない。アクマを相手に、数多の戦闘経験を積んできたつもりである。
だが、目の前の魔法少女──奈木美咲は、悉く、須く、一切合切を凌駕していく。
まるで、これまで培った日下部知久の戦闘経験を無駄だったと、一蹴する様に。
何より、正体不明の攻撃。徐々に障壁を削り取られていくこの恐怖。それは筆舌に尽くしがたい。そもそも言葉にならない。
何だこれは。
何だこれは。
何だこれは──!!
こんな特異な攻撃を、知久は知らない。彼女の使い魔である、額に宝石を埋め込まれた橙毛の猫・アンバーのデータベースにも存在しない。
魔法少女として認められた者だけが持つ、固有スキル。『自身の妄想や妄執を歪んだ形で発動できる』、基礎上限の最大値が変わらない魔法少女らにとって、唯一とも言える『個体差』を実現する機能をそう呼ぶ。
それは他者には理解されず、また他者のそれを理解する事は出来ない。当然だろう。『絶対に実現不可能な未来を重度に妄想する偏執狂』を理解し得る者は存在しない。
固有スキルは、魔法少女にとっての切り札だ。性能に違いこそあれ、上限が変わらぬ魔法少女同士の戦闘では決着がつかない。戦闘経験、天稟の才、不意打ち騙し討ち。そう言った多少の誤差は、均衡を保つが故にすぐに均されて仕舞う。
そこで勝敗を分かてる唯一の手段──固有スキルが存在する。各個人の魔法少女にのみ託された、唯一無二、偏執狂の夢想を叶えてくれる魔法だ。
つまり、固有スキルが破られると言う事は、魔法少女としての生き様や信念など諸々含め、存在そのものを破棄される事と考えて何ら遜色ない。
「ぐっ、が、らああああああああああああああああああ!!」
野生の獣じみた慟哭と共に一閃。けたたましい爆音と共に、単純な術式を経由した魔力放出が橙光の渦として迸る。
発生した煌めき輝く竜巻は、正確に美咲を捉えた。光の奔流に巻き込まれ、飲み込まれ、芥子粒となって大気中に蒸発する。
それが魔力を編まれた囮だと気付いたのは、『背後から』背中に優しく触れられた次の瞬間の事となる。
「ぎっ!?」
(周囲の確認も取らず、視界も定まらぬ内に無闇な大技を連発する。まずは敵影の捕捉と、自身の状態を客観的に鑑み、そして──術式起動は狙いを絞り込む様に放たなくては、当たる物も当たらない)
相変わらず何のダメージもない癖に、障壁だけを喰らい尽くす毒蛇の牙が触れる。全身に虫酸が走る不快感は、なるほど、実に有効な精神攻撃と評価出来よう。
優しく染み入る毒素。冷たく貪る暴食の魔手。
だが、
知久とて、何も考えずに特攻している訳ではないのだ。
「かかったな」
(な、
言葉、もとい思念を返す暇もなかった。知久の障壁に優しく触れた左手が、異常を察知する。
臨界魔力凝縮。
分かっていた筈だ。彼女を守る魔法障壁は、ただ守るだけの機能しか有さない訳ではないと。膨大な魔力放出を以て、時に敵を追い詰める切り札たりえる物だと。
美咲の視界がオレンジに染まる。眼球越しに脳を灼かれる様な強い光が埋め尽くす。自ら接近したとは言え、余りにも近すぎる。回避も防御も不可能だ。
知久の固有スキルは、極近距離でしか効果を発揮出来ない。その用途は単純な爆発だが、単純が故に絶大な推進力で超加速を生み、膨大な魔力放出を可能とする。
そしてもう一つ。高度で複雑な魔法を使用するに当たって、簡易魔法術式が搭載された魔法杖を経由する事で瞬時に発動する事が可能だが、魔法の行使自体は杖を必要とせず、思考を反映する。この場合、魔法が複雑であればある程、演算処理が追い付かずに即応性を損ない兼ねない訳だ──が、
知久の固有スキルは単純な術式が故に、『思考を反映させる事でも』十全な効果を発揮する。
魔力が炸裂する。知久が常に放出していた、オレンジ色の巨大な翼の様なジェット噴射が美咲を襲う。
回避は不可能。間に合わない。
防御は不可能。間に合わない。
それらを行うだけの速度と時間が圧倒的に足りていない。
だが。
回避も防御も間に合わないとした所で、対処が出来ない訳ではない。
自身の絶対防御を過信した魔法少女は、死角をさらけ出したままだ。
(言った筈ですよ。種の明けた手品師など、無様な物だと)
暴力の塊の様な爆発は、確かに行われた。一分の隙なく全身に張り巡らされた魔法障壁を起爆させた。
否、訂正しよう。『魔法障壁が残された全ての部位』が起爆した。
ひたり、と。爆発によって高熱が生じた筈の背後に、冷たい感触を覚えたのは、一通りの魔力炸裂を終えた後だった。進行をやめ、滞空したままポツリと呟く。
「……どうやって?」
(質問の意図が分かりかねます。明確に目的を示して頂けませんか?)
「……どうやって、アンタは、私の攻撃を、凌いだの?」
(別に、特に、何も。私が何かをしたんじゃなく、貴女が手心でも加えたんじゃありませんか?)
殺した筈の少女。
死んだ筈の少女。
崩した筈の少女。
爆ぜた筈の少女。
美咲は、残された全身を知久の背中に密着させる形で、優しく優しく、おぞましく抱き締めていた。
全身を大蛇に這われるかの如き想像を絶する不快感に、思わず杖を握る手に力がこもるが、美咲は静かにそれを制止する。
(動くな。余計な動きを見せたら殺す)
迫力のある強い思念に、知久は硬直した。蛇に睨まれた蛙などという問題ではない。今まさに喰われかけている蛙が、何かを為そうなど烏滸がましい。
(初めまして、ええと……アンバーさん?)
『やあ、なぎみさき。シルクのつかいまのトゥインクル・アンバーだよ。きみのせんかはしょうさんにあたいする。ボクにてがあれば、おしみないはくしゅをおくるところだったんだけどね』
(そのお心だけで十分です。お気遣いなく)
ドレスの隙間から飛び出し、知久の頭にちょこんと居座る橙毛の猫は、人懐っこい調子で語り掛ける。獲物を見つけた捕食者が歓声をあげた。
「アンバー、何を悠長に話してやがんだ、テメェ!?」
『あわてないでシルク。いまのところ、かのじょにさついはないよ。もしもかのじょがほんきなら、ボクらはとっくのむかしにしんでいる。こうしておもいとどまっているのは、まだこうしょうのよちがあるということだよね?』
(……)
アンバーの言い聞かせる様な語り口は、最後の方は美咲への質問に変わっていた。感情的で好戦的な知久と違い、冷静で判断力に長けた使い魔である事が窺える。
だからこそ、と言い換える事も出来るが、詮索する必要もない。
『シルク。さきにいっておくけど、きみのしょうへきほごりつはすでに1%だ。しょうはいはけっした。きみがこのじょうきょうをだっするよりはやく、かのじょはきみのしょうへきをはかいすることができる』
「う、嘘、でしょ? だって、さっきまで……」
『じじつさ。しょうへきは1%でものこっていればはかいされたとはいえないけど、かのじょのさじかげんひとつでボクらはしょうへきのほごなく、こうど10000メートルになげだされることになる。それがどういういみか、かんがえるまでもないよね?』
冷静な、冷酷なまでもあるアンバーの観測を受けて、見る間に顔面蒼白する知久。先程の脅しが事実である事を証明し、改めて美咲に向き直る。
『しかしきみのしゅわんは、ほんとうにみごととしかいえないね。ほかにことばがみつからないよ。……ききたいんだけど、どうやってシルクをこうりゃくするいとぐちをみつけたんだい?』
(アンバーさん。褒められて悪い気はしませんが、時間稼ぎなら……)
『なにがどうころぼうときみのかちはかわらないんだ。すこしくらいはおはなししてくれてもいいんじゃないかな? でなければ「ボクらがいきてるいみがない」』
(……クリム。魔法杖の構成に使用している魔力を、少しだけ呼吸器系の回復に回しなさい)
『ぎゃはっ。日和ってんなーア、マスター。んな調子じゃいつか寝首かかれるぜーエ?』
ゲラゲラと嗤いながら、クリムは指示通りに美咲の喉や内臓器官の回復をする。多少だが声が戻った事を確認し、再びアンバーを見やる。
「それで、何が聞きたいと?」
『どうやってシルクをこうりゃくしたのかな? こういってはなんだけど、シルクはまほうせんにおいてはむるいのつよさをほこる。そこにじゃくてんはなかったはずだから、「こうがくのために」きいておきたい』
「……簡単な事ですよ。彼女は完全に実戦経験が足りていない。『経験が足りない』と『応用が利かない』は同義だ。日下部さんは今まで、常に特攻だけで対処してきたのはありませんか?」
『はんぶんせいかい。それに、それはボクがききたいこたえではない。なぜだい?』
チッ、と舌打ちする。明らかに、彼女は口舌戦を用途に構造されている。直情思考の気が強い知久を諫め、交渉術で丸め込み、協力者や敵対者を相手に知久が有利になる流れを作る。
あからさまな時間稼ぎだ。にも拘わらず、美咲には流れを止める術がない。
事実、命を握っているのは美咲である筈なのに、ペースを掴んでいるのはアンバーだ。いつでも殺せる筈なのに、『知久との』交渉に持ち込みたいのに、会話の流れを奪うきっかけが見つからない。
たった数回のやり取りで、一気に優劣を逆転された。その事実が、美咲には何より恐ろしい。
仮に、知久が彼女の判断力を信頼していた場合、この難攻不落の強敵を攻略できただろうか。それを考えただけでゾッとする。
『……テメェ。あんまりナメた態度取ってんじゃねぇよーオ。喰い殺すぞーオ?』
『しょうはいはけっした、といったはずだよ。ボクらをいかすもころすもむなさきさんすんってやつさ。そのけっていけんはきみたちにあるはずだけど?』
流れを強引に引き戻そうと凄んでみせたクリムだが、アンバーは飄々とした態度でかわす。交渉の余地なしと分かれば、下手すれば自爆も辞さないという態度だ。この流れは本格的にまずい。
「分かりました。少しだけ、長話に付き合ってあげます」
『ほんとうかい? たすかるよ』
「……『助かる』かどうかは、貴女達次第だ。下手な真似をすれば殺す」
『そこはだいじょうぶさ。いちじてきに、シルクのまほうかいろ(サーキット)はしゃだんしてある。いまのシルクにひこうまほういがいはつかえない』
「結構です。では、話を続けましょう」
まずは、あくまでも会話の決定権は自分にあると誇示する様に、美咲は敢えて高圧的な態度で続行した。勿論、いつでも知久の首をへし折れる様、左手は絡ませたままだ。
「まず、戦闘を開始した瞬間から、疑念はあった」
『どんな?』
「『何故、日下部知久はプロテクトを使わないのか』。魔法少女としては当然でしょう。自分のステータス情報を公開するなど、致命的にも程がある」
魔法少女の基礎性能上限は変わらない。が、美咲と知久の様に、両者の性能に差が出る理由は何故か。
それこそが、美咲が戦闘開始当初に行った敵影詳細だ。魔法少女には、個人の理想に応じたステータスが割り振られる。それは美咲の様に速力を重視したり、知久の様に火力を重視したり、実に様々で十人十色だ。
が、ステータスの上限は変わらない。何らかの性能に特化する代償として、魔法少女は相対する性能を劣化する必要性に迫られる。
例えば、出力と射程。瞬間的な出力を追求すれば、慢性的な射程不足に陥る事になる。反面、魔法の有効射程を伸ばせば伸ばす程、瞬間的な出力が低下する。
例えば、障壁と速度。障壁をより強固に強力にすると、最大速度の限界値がより低い位置で決定されて仕舞う。
例えば、障壁破壊力と障壁回復力。出力とはまた別に『如何に効率よく障壁に干渉できるか』というステータスは、他者の障壁を破壊する火力を重視するか、自身の障壁を再生する速度を重視するかに分けられる。
これらの性能は常に鏡合わせだ。一点の性能を伸ばせば、一点の性能の弱体化は避けられない。
魔法少女にとっては永遠の命題とも言える。どの性能が優れているかなど一概には言えない。強いて言うなら、『どの性能も優れている』。
今回の戦いは、障害物もなく見晴らしの良い成層圏だった。故に、速力と射程に長けた美咲に分があったというだけで、視野が狭く遮蔽物の多い市街戦など、戦闘の条件次第では知久に有利に働く事もあっただろう。
自転車と自動車による直線速度など、論じる前から話にならない。が、これが入り組んだ市街地でチェックポイントを巡るレースであれば、自転車に分が出るだろう。
「ステータスさえ割れれば、対策は簡単です。その予防策として、魔法少女は独自開発した方式のプロテクトを常に行っている。……だと言うのに、貴女はそれがなかった」
『……』
美咲の解説をアンバーは黙って聞いていた。一方で、その事を『全く知らなかった』知久は驚愕に目を剥いている。
「また、彼女が私を追って空の戦場を選んだり、常に拡散回線で会話をし続けたのも不可解だった。最初は何らかの工作を行っているのではないかと気を揉みましたが、私はある仮説を立てた」
『かせつ?』
「ええ。何より証明となったのは、彼女の持つ特殊すぎる固有スキルを解析してからですが、結果的には正しかった様だ」
ひとしきり喋ってから一旦呼吸を置き、再び口を開いて、知久という少女の在り方の核心を貫く。
「もしかしたら、日下部さんは……自分以外の魔法少女を見るのは初めてだったのではないでしょうか?」
雲より遙か高く。月明かりを遮る物のない空で、紫と橙のドレスの裾がはためく。
「日下部さんは今まで、単独者としてアクマと戦ってきた。あの、野犬程の知性も持ち合わせない、貪欲で貪喰の狂ったケダモノとの戦闘経験しかないのだとしたら……知性を以て戦術と戦略の較べ合いとなる対魔法少女戦の心得がないのも納得がいくし、伏兵の心配も杞憂となる」
『するどいね、だいせいかいだ。たったすうかいのこうぼうで、そこまでつかんでいたのかい? まったく、どんなあたまのこうぞうをしているんだい、きみは?』
絶賛するアンバーだが、すぐに言葉を改める。
『いや、ちがうか。きみはあたまがいいだけじゃなくて、けいけんちがけたはずれにほうふなのか。ねぇ、なぎみさき。きみはいままでに、どれだけの──』
「──その続きを聞きたいのなら、死体に語って差し上げますが、如何しますか?」
『ざんねん。じゅんすいにきょうみがあっただけなんだけど、いいたくないのならしょうがないね』
「好奇心は猫を殺す、とよく言います」
『……いや、ごめん、ほんとごめん。ちょっとそれはわらえないや』
閑話休題。美咲は咳払いを済ませ、続きを語る。
「尤も、仮説が成り立った時点で半身を吹き飛ばされた訳ですが、その直後の検証により、彼女の固有スキルの謎も解けた」
『……まって。あのときのきみは、2かいしかこうげきしなかったはずだ。そのあとのぶつりこうげきをふくめても3かい。たったそれだけで、シルクのぜったいぼうぎょのしょうたいをみやぶったというのかい?』
「三度もあれば十分でしょう。いや、先の二度だけであれば気付けなかったかも知れませんが、あの奇襲を捌けなかったのは頂けない」
『……、……』
アンバーは文字通り目を丸くしながら、しかし二の句を継げないでいた。彼女が交渉力に長けているというなら、美咲は観察力に長けている。特に数値の算出速度にかけては誰にも負けない、絶対の自信がある。
「順を追って説明しましょう。日下部さんはまず、一度目の牽制を魔力放出で弾き返していた。二度目の波状攻撃も同様です。……が、何故かその中に、避けきれない魔法弾があった」
『はじょうこうげきにタイミングをくずされて、ついひだんしてしまった……じゃ、たりないのかい?』
「足りませんね。何より足りなかったのは配慮だ。避けれないよう攻撃したのは私ですが、日下部さん、貴女はあの時『避ける素振り』すらしなかった」
『……あ~。なるほど~。そこにめをつけるのかぁ』
「一挙手一投足、私の眼を誤魔化せる物ではないと理解なさい」
避けきれないにせよ、危険が迫れば反射的に回避行動を取ろうとするのが人間だ。その必要がないとはつまり、攻撃群が危険ではないと認識した状態にある。
その思考パターンに陥る条件は二つ。自己の絶対性の過大評価と、他者の矮小性の過小評価。そのどちらか片方だけでは成立しない。
「いや、本当に、貴女達の絶対防御が『攻撃全てに反応する』物でなくて助かった。魔力だけに反応して弾き返すタイプなら、物理で攻撃すればいい」
『いや、そのりくつはおかしい。だいいち、きみのこうげきをよけなかったのはじじつだけど、まほうじたいはぼうぎょしたじゃないか』
「してましたね」
『あれをどうかいしゃくしたら、そのほうこうですいそくできるといえるんだい?』
「ですから、警戒したんでしょう。物理攻撃を」
『……?』
「魔力『を』固めて魔法弾を放つより、魔力『で』固めて魔法弾を放つ方が効率的で合理的です。空気中の水分だったり、塵芥だったり、そういう物を利用する魔法少女も少なくはない。いずれにせよ、この段階では本当に推測の域を出ません。だから試しに、物理的な接触で検証したんですよ。あわよくば頸骨を折るつもりではありましたが」
『……あきれた。かてないわけだ。ほんとうにきみとシルクじゃ、かくがちがいすぎる』
「物理的な性質のない攻撃だと確認したからこそ、危険性はないと突撃してきたのでしょう?」
『ははっ』
高度一〇〇〇〇メートル。大きく映る半月を見上げながら、アンバーは愉しげに語る。
人間の可能性とは、斯くある物か。それを噛み締めるかの如く、心底から愉悦の感情を吐き出している。
「以上の推測から導き出される結論は、日下部知久の固有スキルは、魔力放出にのみ効果を発揮する爆発反応装甲の性質に近い」
『おみごと。もっとも、いまさらきみがなにをいいだしてもおどろかないけどね』
爆発反応装甲とは、現代の戦車に施されている対砲弾処理の方式の一種である。『着弾した際、能動的に防弾機能を発揮する』物を総じて反応装甲と言う。
前時代に使われていた戦車砲は、装甲の厚みや素材をより強固な物に替える事で対処していたが、APDS弾やHEAT弾など、貫通力と破壊力の高い対戦車用戦車砲が開発されて以来、従来の堅くて厚い装甲だけでは対処できなくなった。
そこで、貫通力を無効化する複合装甲や、貫通力を無力化する反応装甲という方式を軍事採用し、対処する事になる。
新時代に導入された戦車装甲、その一つである爆発反応装甲は特にHEAT弾に効果を発揮する。戦車装甲の表面に板状炸裂薬BOXを接着し、着弾衝撃を受けた瞬間に『外部に向かって』強力に爆発、砲弾威力を弾き返す様に減衰あるいは無力化する防弾機能を発揮した。
尤も、爆発反応装甲にはいくつか問題が生じている。入射角三〇度未満の砲弾には十分な効果を発揮するが、それ以上の入射角から着弾した場合、無力化できる確率がぐっと低くなる。特に入射角九〇度で着弾した場合、無力化は完全に不可能となる。
とは言え、九〇度で着弾するという事は敵兵に完全に捕捉されている事になり、有効無効を問う前に事実上の敗北である訳だが。
また『哨戒中の戦車連隊歩兵を爆発に巻き込んで仕舞う』事もある等、様々な問題点を抱えているが、装甲下に多数の装甲板を使用するが故に整備が必要な複合装甲と違い、装甲表面のBOXを取り替えるだけで再使用が可能など、メリットが汎用的である。
「貴女の固有スキルは、魔法障壁の表面で自分の魔力以外の物を関知した瞬間、外部に起爆して無力化する。実に単純で、何よりも合理的なスキルだ。特に『魔力の塊であるアクマ』には有効だ」
『だねぇ。シルクは、たいアクマせんにとっかしたはんめん、たいまほうしょうじょせんはそうていさせなかった。やれやれ、まさかそれがうらめにでるひがくるとはね』
「あらゆる状況に対抗しきる万能など、存在しない。となれば、勝敗を分かつのは相性と経験の差のみです」
『ほかのまほうしょうじょなら、まだたいしょはできたかもしれない。……はじめてのあいてがきみだったのが、なによりのはいいんだったんだね』
「……そうですね。私は敵の障壁が頑丈であればあるだけ、大好物です」
やはり気付かれていたか、と美咲は思う。知久に背後から張り付いている現在の状況を含め、あれだけ執拗に固有スキル攻撃を見せていれば、彼女なら当然であろうが。
『けつろんからいおう。きみのこゆうスキルは、まほうしょうへきにたいするドレインのうりょくだ』
アンバーはじっと美咲を見つめながら続ける。
『ぶつりてきせっしょくをおこない、「ふれたひょうめんせき」ぶんのしょうへきをりゃくだつする。しょうへきのかたさなんて、きみにとってはいみがないというわけだ』
「ご明察、とでも賞賛しましょうか?」
『やめておくれよ。ごくわずかなじょうほうだけでけつろんをみちびきだしたきみにくらべれば、ボクのたつせがない』
やんわりと美咲の申し出を断りながら、アンバーはようやく納得した様に、二人の会話に全く口を挟めなかった知久に向き直る。
『そういうことだよ、シルク。さんこうになったかい?』
「……」
知久は何も答えない。これまでの自分を全て否定された事にショックを受け、言葉にならない様子だ。
「……さて、時間稼ぎはもういいでしょう。そろそろこちらの用件を済ませても構いませんか?」
『もちろん。なっとくのいくりゆうだったし、アドバイスまでもらえた。それでいのちまでみのがしてくれるのなら、はかくのじょうけんだよ』
楽しそうに命を貴ぶアンバーは、知久の頭から飛び降り、首にかけていたネックレスをくわえて美咲に掲げて見せた。
『ほしいものはこれだろう? えんりょはいらない、もっていくといいよ』
「あっ、アンバー!? な、なに勝手な事言ってんのよ! それは──!」
『そう。まほうしょうじょにとって、いのちのつぎにたいせつな物さ』
「……希望のシズク」
知久が狼狽し、アンバーがそれを諫め、美咲が厳かに呟く。魔法少女にとっては、ある意味では『自分の存在理由』よりも大切で、重要なアイテムだった。
ネックレスの先には薄い琥珀色のクリスタルがついている。気泡の一つもない美しいクリスタルである筈なのに、中には黒い液体の様な質感の粘液らしき物が入っているという、不思議な物質である。
細い鎖を小さな牙で噛み千切り、知久の細い首を掴んでいる美咲の左手に握らせる。
『シルク。きみのまほうしょうじょとしてのそしつはべっかくだ。いままでにあつめたきぼうのシズクくらい、すぐにとりもどせる』
「だ、だからって、それは……母さんの……!」
『ちがうよ。「これ」はきみのおかあさんじゃない。これは、きみがころしてきたアクマがためこんでいた、ただのちから(きぼう)だ』
「……ッ!?」
『ききわけるんだ、シルク。きみはなぎみさきにまけた。にもかかわらず、かのじょはこれとひきかえにみのがすといっている。──ひきぎわをあやまれば、きみののぞみはえいきゅうにかなわなくなるよ』
お母さん、という単語が何を意味しているのか。美咲には容易に理解が出来た。というより、美咲のみならず、魔法少女が魔法少女になる最初の関門でもあるのが、それだ。
肉親殺し。魔法少女は、まず手始めに身内を殺す。それが魔法少女になる通過儀礼の一つと言っても過言ではない。
知久の過去に何があったのか、どういう経緯で魔法少女になったのかなど、美咲に知り得る事ではないし、知った事ではない。
ただ、彼女がこれまでにアクマと戦ってきた証明である、希望のシズクを封じたクリスタル。魔法少女である美咲にとって、他の魔法少女から奪い取る程のアイテムなのだ。
いや、それは美咲だけに限った話ではない。単独者だろうと構成員だろうと、魔法少女は時に仲間割れや不意打ちを行って強奪する事もある。
魔法少女は人を試す。故に、魔法少女は利己的でなくてはならない。それは果たして、誰の言葉だったろうか。
「それを渡し、もう二度と友情を裏切らないと約束しなさい。そうすれば……私は貴女を見逃しましょう」
そもそもの発端は、知久が『彼女』を利用し、裏切った事にある。友情は何よりも尊い物である、と信じている美咲にとっては、他人事とは思えなかった。
それを大真面目に語る美咲を見て、口を噤んでいたクリムが盛大に噴き出した。
『クハ! ったくよーオ、黙って聞いてりゃグダグダうざってぇ話してんなーア。こんなもん、ザクッと殺したサクッと奪っちまえばいいのによーオ』
「黙りなさい、クリム。誰が発言を許可しましたか?」
『つーか、何、友情? ゲヒャヒャヒャーア馬鹿くせぇ! そりゃテメェに一番縁遠い言葉じゃーアねぇか! 何を真面目にオトモダチごっこしてやがんだっつーのーオ!』
「クリム……!!」
使い魔の嘲笑に反応した美咲の手から、力が抜けた。意識もクリムに向けられていて、知久の事など眼中にない。
その刹那の隙が、彼女の命運を分かつ。
知久の体から急激に増すオレンジの閃光と熱量。ほんの一瞬とは言え、意識を余所に向けていた美咲は反応に遅れ、魔力の塊に弾かれそうになる。
「無駄な、抵抗を……!」
魔力反応装甲と障壁ドレイン能力。如何に知久が障壁を炸裂させて攻撃に転じる事が可能と言っても、美咲は触れた表面積分の障壁を削り、奪う。知久にとっては固有スキルの要たる障壁を触るだけで『触れた分を』無効化するのだから、背後から抱きつかれる様に密着されていては殆ど効果を発揮しない。
まして、彼女の障壁保護率は喰らいに喰らい、一%。小指一本でも触れていれば簡単に削り取れる薄さだ。
「ヤダ! ヤだヤだヤだ!」
『……シルク』
「ちぃ……やむを得ませんね……!」
『ギャハッアヒ! だーからザクッと殺っちまった方が早いっつったろーオが!』
四者による四様の言葉。知久の溜め込んだ魔力が爆発するより早く、美咲は全身で障壁ドレインを試みる。
ドレインと爆発はほぼ同時だった。
小規模な爆発を受け、美咲の体が知久から剥がされて宙に躍り出る。一方で、障壁を『美咲が触れてない境界線』に集めて起爆させた知久は、美咲の手が離れる瞬間に、薄い琥珀色のクリスタルを再び奪還していた。
とは言え、ここは高度一〇〇〇〇メートルの宙域。ほぼ成層圏直下の空間で、人間が活動する事なんて出来やしない。生存不可能な劣悪環境に適応する生物は存在しない。
「 」
呼吸が困難、どころの話ではない。肺の中の空気が全て吐き出され、眼球が体内圧と外気圧の差で飛び出すかと思う程の激痛を感じる。悲鳴をあげた筈なのに、自分の声さえ聞こえない。
だが、それでも。
クリスタルを胸に抱く様にしっかりと握り締めたまま、知久は墜落する様に全速力で離脱した。
「『体が動く限りは生きていて、生きている限りは体は動く』。彼女も、腐っても魔法少女という事ですか……」
『追うかーア?』
「当たり前でしょう。魔法杖の組成は?」
『今し方完了したところだーア』
魔力放出の攻撃を受けたからと言って、障壁を全て破壊された訳ではない。というより、障壁のダメージは殆どない。大部分のダメージは障壁ドレインにより軽減されている。
左手に意識を集中させながら、知久を追う。重力に従って急降下する知久との距離は、既に五〇〇メートル以上の差が開いていた。
果たして、間に合うか。上空での戦闘であれば、魔法障壁がほぼ万全な状態である美咲に分があるが、一気圧下まで逃げられて仕舞えば元の木阿弥になりかねない。
というのも、相手が知久単体であれば御す事は遥かに容易かろう。問題は彼女の使い魔たるアンバーが指揮を執った場合だ。
「……それだけは避けなければなりません。急ぎましょう」
『ギャーハッ! オーケイ、全速力だーア!』
呼吸が出来ない。目が開けない。嘔吐感が拭えない。痛くて苦しくて悲しくておぞましくて死んで仕舞いそうだ。
「 ア バ !」
『おちついて、シルク。ボクらのかいわはこころでかんがえるだけでせいりつするよ』
知久の背中に、殺戮者の不気味で膨大な殺気が突き刺さる。それだけで失禁して仕舞いそうになる。
(アンバー! あ、アイツっ、アイツを何とかしなさいよ!)
『もちろん。それがきみのめいれい(オーダー)であるのなら、つかいまとしてはぜんりょくでたいしょさせてもらうとも』
(わわ、私は何をどうすればいい!?)
『なにもしなくていい。このまますいちょくに、じゅうりょくかそくどをえながらひしょうしつづけるんだ』
呼吸も出来ない、視界も開けない、今にも心臓が止まって仕舞いそうな状態で。アンバーは事も無げに言い放った。
(……こ、この、まま?)
『このまま、30びょうかん、らっかしつづけるんだ。じゆうかそくどでまいびょう9・8メートルはかそくしていく。なぎみさきもおなじじかんでおなじかそくどをえられるが、「へいこうひこう」でにげるよりかはアドバンテージをなくせるはずだよ』
三〇秒。
言葉にするのは簡単だ。地上で、何の危険性もない日常で聞く分にだって問題はない。
だが、この緊迫した状況での三〇秒とは、知久にとっては永劫に近しく感じてならない。気圧差だけで体内から破裂して仕舞いそうな激痛が全身を苛み、自分より速く迫る追跡者が背後から殺気を浴びせているのだ。
考えただけで、気が狂って死んでしまいそうになる。
『まりょくでさいていげんのさんそをせいせいし、くうきていこうやそのたにたいするしょうへきをエンチャントしよう。これはふつうのまほうよりなんばいもしょうひがかかるけど、そのくらいならボクのけんげんだけでもなんとかなる。なに、ひつようなまりょくはなぎみさきとのじかんかせぎで、あるていどかいふくしている』
(そ、そんな事でどうなるってのよ!?)
『シルク。しこうするだけでもムダなエネルギーをしょうひする。まずはあと27びょうかんかそくしつづけて。だいじょうぶ。このまますいちょくにひしょうしているうちは、なぎみさきもこうげきはできない』
(な、なんで分かるのよ!?)
『──ボクをしんじて、シルク。ボクはきみをしんじてる』
それきり、アンバーからの心話は途絶えた。同時に、呼吸器官を経由せずに直接、体内に酸素が入り込むという不思議で不気味な感覚が背筋を凍らせる。
上空九〇〇〇メートルを切った。既に一キロメートルも垂直に落ちる様に加速し続けているというのに、空に浮かび地表を覆い隠す雲より、二〇〇〇メートル近くも上空なのだ。
まだか。まだ地表は見えないのか。いま何秒経ったのか。あと何秒掛かるのか。酸素は供給されている筈なのに視界が暗転し、意識が明滅を繰り返す。
と、ようやくアンバーの権限で構成された擬似障壁が前面に展開され、視界を閉ざす風圧を防御した。僅かながら、これで目を開く事が出来る。
『きみのまりょくはなぎみさきにほかくされたじてんでざんりょうが0にちかかった。こういうじたいをそうていして、じかんかせぎをしていてせいかいだったよ』
全ての魔法少女の性能は違えど上限は変わらない。ならば必然的に固有スキルが優秀かつ相性の良い者が勝者となる。
が、美咲の見立てでは、知久の魔力回復速度は美咲とほぼ同ランクだと言う。固有スキルの性能にもよるので絶対とは言えないが、基本的に魔力は使った分だけ効果を発揮する。特に知久の固有スキル・魔力装甲は、高性能である反面、消費が激しい。それが誰の意図かは分からないが、性能を鑑みる限り長期戦は想定されていないだろう。また装甲という防御の性質から、短期戦を想定していたとも考えにくい。
繰り返すが、魔法少女は性能こそ違えども上限は変わらない。ならばその戦力は互角で然るべき。何故、美咲と知久の間には優劣が表れたのか。
それは魔力の使用量・使用頻度にある。美咲は自分の能力的限界を知っていたからこそ、使用する魔法を最低限にとどめ、数少ない実践から結果を観察して結論を導き出す。
如何に魔法少女と言えど、熱力学の法則からは逃れられない。成果を出すには見合った消費が必要である。魔法少女という同じエンジンを積んでいても、片方がなりふり構わず全力疾走をしていたのであれば、当然そこに差は生まれる。
事実、知久の魔力は底を尽きかけていた。それを『逃走できる程度』に回復させる思惑の『時間稼ぎ』だった。
『いまはったしょうへきは、まほうしょうじょがつねにまとっているものじゃない。ふうあつだけをしゃだんするかさをめのまえにつくっただけだからぼうぎょりょくはかいむ、せなかはがらあきだ。おまけに、まりょくはたいりょうにしょうひする』
(だったら! はやく障壁を回復させなさいよ!)
『ぜんりょくでやってるとも。ただ、いかにきみのしょうへきかいふくそくどがはやくとも、まほうしょうへきははかいされるとぜんかいふくするまでしようはできない』
酸素や風圧だけでなく、気圧その他にも最低限必要な生命維持の魔法を複合的に使用しているのだろう。高度八五〇〇メートルを切った時点で、若干だがようやく知久に冷静な判断力が戻りつつあった。
ふと気付く。速力と射程に優勢がある筈の美咲が、何故か追撃をして来ない。今の知久はノーガードであり、それは美咲も承知の筈。小さな魔法弾一発で致命傷になるだろうし、そもそも素早い彼女が追い付けない道理はない。
(……アンバー。詳細)
『うふふ。ようやくほんちょうしのようだね、シルク』
軽口を叩きながら、知久が必要とする全ての情報を表示するアンバー。後方モニタ、相対速度、相互距離、地表との距離、敵影の魔力反応など。その全てが表示される。
そこで、奇妙な表示を目撃した。
速力に優勢のある美咲が、一定間隔を保ったまま近付いて来ない。いや、厳密に言えば徐々に迫りつつある訳だが、知久が爆発加速を行っているのならいざ知らず、美咲の加速力と知久の加速力とでは比べるべくもない。数秒とかからず追い付かれ、撃ち抜かれる筈だ。
『まほうしょうじょはばんのうではあるが、ぜんのうではないということだよ、シルク』
落下する物は加速し続ける。これは小学生でも分かる理屈だろう。
地球は球体であり、緯度によって多少の変化はあるものの、基本的に落下物は毎秒九・八メートルという驚異的な速度で加速する。これを落下加速度といい、物量に関係なく万物全てが同じ加速力を得る事が出来る。
単純計算、物体は三七秒間も落下加速を行えば音速に到達する。それが魔法少女の飛翔と合わさればより早く済む。
尤も、それは空気抵抗に負けなければの話だ。物量はともかく、質量が軽ければ空気抵抗の影響により加速度は一定値で止まる。
流れ星は音速を遙かに超える速度で大気圏に突入し、空気抵抗で生じた摩擦熱で燃え尽きる。質量が大きければそれだけ空気抵抗を突破するだけのエネルギーを保有する。これが大気中で燃え尽きず、地表まで到達した物が隕石である。
知久と美咲も例外ではない。人間という質量の低い物体は空気抵抗に押し返されて音速の域まで加速する事はないが、二人は魔法少女である。中途半端に開いた傘の様な急角度の不可視障壁を形成し、発生する熱量を拡散しながら亜音速の域まで加速していた。
『それでもかのじょたちがじょじょにせっきんしているりゆうは、まほうじょうのかんいじゅつしきをりようして、こちらよりこうせいのうなしょうへきをてんかいしているからさ。くうきのみつどさをリアルタイムでえんざんしながら、つねにしょうへきをへんけいさせてさいてきかしている』
(だったらアンタもやりなさいよ!)
『ボクのけんげんではできないし、たぶんシルクのまほうじょうでもふかのうだ。あれはそくりょくにたけて、かつけいさんりょくにじしんのあるかのじょだからできるスキルさ』
とは言え、魔法少女はリスクなしに音速を超える事は出来ない、と。アンバーは付け加える。
固有スキルではなく特殊スキル。個々の魔法少女に必ず備わっているスキルではなく、個々の魔法少女が自分の力で扱えるスキル。
だからこそ、美咲は攻撃する事が出来ない。ただでさえデリケートな演算による障壁を築きながら、別の魔法を使えば、術式が僅かに乱れる恐れがある。それは亜音速という驚異的な速度で、空気の壁に激突する事と同意だ。
運が良ければ術式を保てるかも知れない。運が悪ければ体が空中分解するかも知れない。
追撃を止めて、速度を落としてから攻撃する選択肢もあるにはあるが、知久の速度は亜音速だ。爆発加速よりなお速い。一秒で三〇〇メートル以上の距離を離されては、仕留めきれない可能性がある。
それは博打だ。計算力と推察力で武装し確実性を追究して敵を撃破する美咲は、一%でも失敗のリスクがある博打は打たないとアンバーは予想し、それは真実、的中していた。
障壁表面を焦がしながら、二人の魔法少女は落下していく。薄く形成された巻雲を突破するのはほぼ一瞬である。遂に二人は高度六〇〇〇メートル地点まで接近していた。
四〇〇〇メートルもの距離を経て、逃走劇から僅か一七秒ほど。アンバーの宣言した三〇秒まで一三秒も残っている。
雲を突き抜け、知久は地表を見て……愕然とした。
そこは海原だった。高層で戦闘を行っていた時は魔法障壁の守護により気付かなかったが、地球は自転しているのだという小学生でも知っている簡単な事を思い出した。
地球の自転速度は時速一七〇〇キロ程度。地球が保持している大気圏内は慣性により同速で進行しているが、成層圏から上は空気がなく、運動が停止している宇宙空間となる。この大気圏と宇宙空間の間には時速一七〇〇キロもの速度差が生じ、それが壁となる為に宇宙飛行における最大の難関が、大気圏の離脱と突入なのだ。
つまり、地上と成層圏では時間の流れが違う。二人は成層圏で『流された』事になる。
そう直感する事は出来ても、実感するには数秒を有す。地球の自転運動から推察するに、ここは恐らく日本海上空だ。
ここがまだ陸地──日本でなくとも、せめて韓国や中国──なら、まだ遮蔽物が豊富だったろう。市街地でも山岳でもどこでもいい。要は身の丈以上の高低差があれば問題ないのだ。いずれにせよ、死角をかいくぐって追跡を振り切る事が出来たかも知れない。
だが、ここは海上だ。周囲に孤島すら存在しない。少なくとも目に見える範囲には。仮に数キロ内に孤島があったところで意味がない。垂直落下した場所になければ意味がないのだ。
一面に広がる夜の海原は、実に見晴らしの良い絶景だ──と、普段なら思えただろうが、残念ながら生死の境を落下し続けている知久にはそんな余裕はない。
先程までの冷静さはどこへやら。緩急つけた事態の連続急転に、知久の心は遂に千切れた。
(どど、どうするのよ! あ、アンタのせいで袋小路じゃない!)
『なにをいってるんだい? ボクはさいしょからうみのうえだってことはしってたし、そのうえで「30びょうかんらっかする」ようにおねがいしたんだよ?』
(……──、 、)
『のこり12びょう、このまますいちょくりらっかして、こうど1700メートルじてんでげんそくしはじめながらこうほうにしょうへきをはる。100メートルのタイミングでぜんめんぼうぎょしょうへきをぜんりょくでてんかいしながら、ちゃくすいしてくれればにげられるさ』
今度こそ本当に、知久の思考が停止した。アンバーが何を言っているのか理解出来ない。
着水して逃げる? それは海の中へ逃げ込めと言っているのか? この速度で海面に衝突すれば、恐らく鋼より堅くなっている海水が知久の華奢な体を砕きかねない。
思考停止しているせいか、上手く言葉が捻り出せない。いつもの高圧的ではっきりとした物言いではない。幼児退行でも起こした様な口調だった。
(そ──そんな事したら、死んじゃう、わよ?)
『しなないよ。なぎみさきほどじゃないけど、ボクもけいさんりょくにはじしんがある。きみのまりょくほうしゅつりょうと、しょうへききょうどがあれば、いっしゅんのしょうとつくらいたえられるさ』
(す、すっごく、痛そうなんだけど?)
『まずげんそくによるGのえいきょうで、たいそしきのほとんどがえしするだろうね。ちゃくすいのさいにはほねのじゅっぽんやにじゅっぽんくらいおれるかもしれない。けどだいじょうぶ、しなないことはけいさんした』
魔法少女は生きてる限り動けるし、動ける限り生き延びる。手足がもげても、内臓が破裂しても、そのうち新しい物が生えてくる。回復力に特化した魔法少女であれば、脳を破壊された直後に再組成する、という化け物じみた前例だってある。
高度五〇〇〇メートル。美咲は未だ後方、攻撃の気配なし。このまま直進すれば、海面に亜音速で衝突する。
アンバーの話によれば、それでも生き延びる事が出来るらしい。海中に一度潜り、背後から迫る追っ手を振り切り、どこかで一度身を隠す。後はゆっくりと治療し、日本に帰還すれば──知久の勝利は確定する。
知久を見失った美咲は帰還せざるを得ない。知久より一足早く日常に帰る事になる。四六時中、知久による奇襲や暗殺に気を配る毎日に精神を磨耗させながら。
だが、美咲とて常に変身している訳ではない。魔法少女とて変身していなければただの非力な女学生であり、ここで知久を見失えば、彼女は決定的に敗北する事になる。
その道筋をアンバーは示してくれた。現に、重力加速度による相対速度差の無効化などという、画期的な戦略を行ったのはアンバーだ。今まで彼女の声に耳を傾けた事は数少なかったが、彼女が有用で有能な存在だと言う事を確認させられた。
その彼女が、不利極まる現状を打破する作戦を教えてくれたのだ。その言葉に偽りはないだろう。少なくとも知久が一人で足掻き、藻掻くよりも信頼に足る打開策ではある。
──その為には、亜音速で海面に飛び込む必要がある。
(──ぎぃ、)
『だいじょうぶ。きみがボクをしんじてくれるなら、ボクはきみをこうかてきにうんようすることが……シルク? どうしたんだい?』
迫る。迫る。迫る。
尋常ではない速度で、深淵の闇に塗り潰された海面が迫る。
迫る。迫る。迫る。
尋常ならざる速度で、地獄の底から這いずり出た死者が迫る。
天上と天下、海面と死者、敵と味方。どの道を選んでも無事ではいられない。死にたくなる程の苦痛と悲痛と激痛に苛まされる事になるに決まっている。
死にたくない。
死んでしまう。
(──カッ、)
『シルク、おちついて! ボクはきみだ! きみのみかただ! きみだけのみかた、トゥインクル・アンバーだ!』
(ああ)
美咲は言った。自分は絶望を希望に反転する者だと、確かに言った。
ならば。
彼女にとっては、希望を絶望に反転する事など、造作もないのではないか。
「ぎぃあ あああア アあああ ──アアアア!!」
喉が張り裂ける程の奇声は、音速の壁に阻まれて、自分の耳ですら捉える事叶わない。
絶叫する。
発狂する。
希望を見た知久は、絶望の淵に追い込まれ……ここにきて『ようやく』精神が瓦解するに至った。
「ッ! クリム!」
『きゃはっ! このまま逃げ切られたらヤベェってーエのに、あのクソアマ、自分からチキンレースを降りやがったーア! とんだチキン野郎だぜーエ!』
「戯れ言を抜かす暇があるなら準備しろ! ここで仕留め損なったら後がない!」
前方を落下する知久が、突如として進路を変えた。あわやこのまま海に逃げ込むつもりかと肝を冷やした美咲だが、彼女の行動は結果的に美咲を有利にした。
亜音速の垂直落下。人間の体が負荷に耐えられない様に、魔法少女の障壁も音速の壁は超えられない。
アンバーの作戦は、実に利に叶っていたのだ。
自身の力のみを使用した速力であれば、美咲の優勢は変わらない。が、個人の速力ではなく地球の重力に依存されて仕舞えば、その上限を克服する事が出来る。
即ち、音速。先の一戦で知久が無理な方向転換を行い、代償として障壁を数%失った事は、魔法少女の魔法障壁は一Gまでしか負荷に耐えきれない証明でもある。
それがアンバーの策。美咲との速度差を埋める為に、無茶を承知で重力加速度に着目した。足りない力を、『信頼に足る力』で補おうとしていたのだ。
(……なるほど。だから、アンバーさんの様な理知的な使い魔を得る事が出来たのですね)
今となっては無意味な話だ。重力に逆らう様な通常の飛翔では速力の差が大きく出る。そして、速力で美咲に敵う道理はない。
終わりが来たのだと告げる様に、美咲は手に持った杖をくるりと半回転させる。クリスタルの装着された杖先端にある取っ手を握り締めた。
それは、刀剣の柄の様に見えた。
『きみのけっかんは、ぎまんにあった』
必死の様相で、決死の形相で、空気を滑る様に飛翔しながら逃げる知久へ、アンバーは優しく微笑みかけた。
『せかいのすべてをしんようしきれないこと。きみのちゅうしんにいつもいる「おかあさん」のきょういくのたまものだね』
その言葉は、知久を貶している訳ではない。むしろ、彼女の信念を深く理解し、賞賛している。
当然だろう。この広い世界において、知久を完全に肯定できる数少ない分身なのだから。
『だから、きみはボクのことばすらしんようしなかった。ボクはきみであるとおしえたはずなのに、それすらきみにはぎまんにきこえていたのだろう?』
──世は欺瞞に満ちている。
魔法少女に与えられる変身能力を起動させる為の鍵文。それは、その魔法少女の人となりを体現させた体言である。
日下部知久は、自分以外の全てを信用出来なかった。
否、訂正しよう。
日下部知久は、最も大切な「お母さん」以上に、信用に足る物を見つけられなかった。
そして。彼女の「お母さん」は、亜音速の中で意識が朦朧としていても、決して手放す事はなかった。
そこにどんな信念と妄念があるのか。それは知久とアンバー以外に知る由はない。
『さあ、そろそろおわかれのじかんみたいだね。しにがみは、すぐそこまで、きているよ』
「ッ、後方モニ……!」
言葉を諸共に断ち切る様に、知久の右腕が、肘の先から切断された。鋭利な刃物が薄布を斬る様に、包丁が豆腐に自重で刃を沈める様に、ゆったりとした優しい斬撃だった。
右手には魔法少女の要たる魔法杖を握っていたが、それは綺麗な放物線を描いて、海面に落下していく。
続いて、何かがのたうち回る様な動きで空中を跳ね回り、知久の左太股から先をすっぱりと断つ。オレンジのドレスの裾が破ける。
『いしゅがえしってワケだ。いいせいかくしてるね、なぎみさき』
「……別に、そういうつもりではないのですが」
ジャララ、という無機質な音が聞こえた気がして、我に返る知久。どのくらい放心していたのだろうか、気が付けば右手と左脚がぽっかりとなくなっていた。
血は出ているが、アンバーが痛覚を遮断したのだろう、痛みはない。ただ空虚なだけだ。
「……杖が」
『はい。シルク』
知久がボソリと呟くと、アンバーが楽しそうに応えた。右手と共に墜ちていく魔法杖が光り輝いて反応し、次の瞬間には知久の左手の内にテレポートしていた。
が、その瞬間に美咲と知久、二人の魔法少女の顔が青褪める。アンバーとクリム、二匹の笑い声が木霊する。
知久の右手は海に沈み、左手は魔法杖を掴んでいる。
思い出して欲しい。その左手には、別の何かを掴んではいなかったか?
例えば、知久が「お母さん」と呼び、美咲が略奪しようとしていた琥珀色のクリスタルを。
高度三〇〇〇メートル。キラリと月明かりを反射しながら墜ちていく、宝石を埋め込んだペンダント。知久の手から零れ落ちたそれは、深い海に還る様に急降下していく。
『きみたちのまけだよ、なぎみさき。ボクらをおえば、きみはもくてきをはたせない。ペンダントをおえば、きみはボクらをみうしなう。どちらにころぶにせよ、きみたちのまけはこのしゅんかんにかくていしたのさ』
最後の最後まで小賢しい真似をしてくれる。何度目だろうか、改めてトゥインクル・アンバーという使い魔の底知れなさを目の当たりに、歯噛みする。
そもそも、先の二撃で致命傷を与えるつもりだったが、それはアンバーに悉く阻止されていた。右手や左脚を攻撃したのは、いたぶるつもりなど欠片もなく、光の屈折率を変えて狙いを逸らされただけなのだ。
奈木美咲には、日下部知久の様な大火力で強烈な面制圧を行う事が出来ない。出力が低くなると、相手を点で捉え、線を引く様に的確な攻撃を行う必要性が生じてくる。その一撃一撃は軽く、今のアンバーの様に時間稼ぎを目的とするだけなら、線攻撃の位置をずらすだけで済む。
こうしている間にもクリスタルは墜ちていく。美咲には時間がない。勝利条件のタイムリミットは数秒先だ。
「トゥインクル・アンバー……!!」
『ボクらをおうのかい? それもいいだろう、のちのきけんせいをかんがみるなら、ただしいはんだんだ。ただし、クリスタルのことはあきらめたほうがいい』
「貴、ッ様ァァァアアアアアアアア!!」
『──めいわくをかけるね、なぎみさき』
アンバーが呟いた瞬間、闇夜を白刃が迸る。大蛇の様にうねり、捻れ、のたうち回る様に知久の周囲を囲み、捕らえる。
それは、剣だった。
ただの長剣ではない。複数の部位に分かれ、各部位を鋼鉄のワイヤーで繋いだ蛇の様な剣だ。
蛇腹剣、多節剣、連鎖剣。美咲の魔法杖は、まさしく大蛇を彷彿とさせる形状へと変貌を遂げていた。
「その薄汚い口を閉じなさい、クリム」
『ヒーッアヒアヒヒハヒャヒャヒャヒャヒャ!! いったーアだっきまーアす!!』
聞くだに虫唾の走るクリムの狂笑と共に、知久の周囲を球状に覆った蛇腹剣のワイヤーが巻き上げられ、急速に拓かれた空間を集束する。
線で攻撃しても避けられるのであれば、面で攻撃すればいい。正解に言えば、螺旋に渦巻いた隙のない線攻撃を一斉に、全方位から捉える攻撃にシフトしたのだ。
知久の四肢を斬り落とした鋭利な刃がアンバー諸共、柔肌を裂き、骨芯まで到達し、切断した。二八の肉片に解体された知久とアンバーは、暗い海に墜ちていく。
紅い鮮血が噴水の様に飛び散り、宙を舞う。
『く、くふふふ。やっぱり、「ボク」のかちみたいだね、なぎみさき』
切断され、首だけになったアンバーは。
嗤いながら、海面に吸い込まれる様に墜ち、やがて見えなくなった。
如何に回復力に優れた魔法少女と言えど、細切れにされては蘇生も出来ないだろう……と思いたい。そもそも知久は回復力こそ高めではあったが、そこに特化している訳ではないのだから、前例には当てはまらないだろう。
尤も、あのアンバーを相手取っている以上、どんな奇策を用いて復活されたとしても驚きはしないが、これだけは言える。
奈木美咲は、日下部知久を殺した。
自らの欲望と希望と願望を、憎悪と嫌悪でカクテルした醜い感情を以てして──人間を殺したのだ。
「……感傷に浸っている場合ではありませんね」
『クリスタル、高度二〇〇〇切ってるぜーエ』
「急ぎましょう。今ならまだ間に合う」
滞空していた美咲は反転、踵を返して海面に向かって降下する。まずは加速度を得て降下速度を底上げしようとしているのだ。
無音で、美咲の思考をトレースする眼鏡に、落下しているクリスタルとの距離が計測された。およそ七〇〇メートル。仮に音速だとしても、二秒はかかる距離間だ。
(……遠いッ!)
重力加速度による十分な速力を得たとは言えないが、とにかく時間がない美咲は、垂直落下を止めてクリスタルに向かって飛翔する。どうにかして、クリスタルに追いつかなくてはならない。
間に合うか。
間に合えるか。
(──届け)
左手には蛇腹剣に変形した魔法杖がある。これは生命線であり、速力の要だ。手放す訳にはいかない。
(──届け)
しかし、今の美咲は物を掴む事が出来るのは左手しかない。となれば、仮に追いついたとしても入手する事が出来ない。
(──届け)
真っ先に思いついたのは、魔法でクリスタルに干渉する方法。海面との衝撃で割れる可能性さえ潰せれば、それで目的は果たせる。
(──届け)
が、美咲はこれを却下。そもそも時間が足りないし、成功する保証もない。簡易術式と言えど、魔法杖の水晶に必要量の魔力を供給し、最適化し、放出する事で成立する。
(──届け)
出力より射程を優先している美咲には広範囲・広規模を目的とした魔法は使えない。重力加速度を以て高速で落下するクリスタルを点で捉え、魔法を行使する。
(──届け)
やはりリスクが高すぎる。この状況ではどの手段に措いてもリスクは生じるが、最も成功確率の高い手段を用いるしかない。
(──届け)
クリスタルと海面が、正気の沙汰でない速さで迫る。僅かに美咲の方が速いが、距離を大幅に詰められる程ではない。このままでは、仮にクリスタルを手に入れたところで、海面に体を打ち付ける事になりかねない。
(──届け)
だが、美咲は決して速度を緩めない。そもそも、自分の命を天秤で計算出来ない様な輩は、魔法少女になるべきではないのだ。
(──届、けェェェエエエェェエエ!!)
海面まで数十メートルという緊迫した状況でクリスタルに追いついた美咲は、一瞬の逡巡の末、クリスタルを繋ぐ細い鎖を噛み締めて確保した。同時に魔方陣を操作し、急上昇を試みる。
急激かつ凶悪なGに耐え切れず、ただでさえ薄っぺらい美咲の障壁が、ボロボロと崩れ落ちる。モニタに表示された障壁保護率がぐんぐん減少していく。
ピッチが上がらない。重力の束縛から逃れられない。海面が迫る。
(……っクリム! 有りっ丈の魔力で緊急障壁展開!)
『テメェの魔法出力考えてから物を言えーエ! くそが、完全緩和なんざ出来っかよーオ!』
(出来る出来ないじゃなく、やりなさい!)
『このアバズレ! クソアマ! わかったよ、やりゃあいいんだろーオ!』
美咲の正面に、即席の対物障壁が展開される。飛翔の魔方陣は上昇させたまま、しかし物理法則に抗う事はままならず、着水した。
否。海面に激突した。
まるで水切り石の如く海面を跳ね、位置エネルギー及び運動エネルギーを逸らす美咲だが、その全てを緩和出来る筈もない。残っていた魔法障壁は全て剥がれ、全身の骨の殆どが砕け散り、臓腑がかき乱れる。口から臓物が飛び出し兼ねない衝撃だった。
(ぎゃっ、ぎ、オご……!?)
高速で跳ね上げられ、滑る水面は鑢の様だった。ゴリゴリ、ガリガリと体表面が荒く削られ、こそぎ落ちていく。衝撃に耐えかね、複雑怪奇にへし折れねじ曲がった左手は、いつの間にか蛇腹剣を手放していた。
何度も何度も繰り返しダンプカーに撥ね飛ばされる様な衝撃を受け続け、ようやく勢いが殺がれた事で海中に叩き込まれた。衝突した場所から、実に一〇〇メートル近く水切り石と同じ体験をしたらしい。
生きている事が奇跡の様だった。
(……我ながら、生き意地汚いものですね)
『ぎゃはは。よーオ、くたばり損ないのクソッタレマスターア。元気してるぅーウ?』
(これが元気に見えるなら、眼科か脳外科にかかる事をオススメします)
『どっちにしろ、蛇にゃ関係ねぇ医者だぜーエ?』
水面をゆらゆらと浮かびながら、美咲とクリムは軽口を交わす。そんな些細な行為さえ、死者には叶わない。
日下部知久の命を奪ったのは自分だ。彼女とて、日常に帰れば語り合い、笑い合える友人はいた筈だ。そこには──雛鳥要も含まれる。
それを理不尽にも殺した。彼女の未来を奪い、彼女を失った悲哀を永劫、全ての者に強いたのだ。
鬼畜外道など生ぬるい。存在そのものが赦されざる害悪、まさしく悪魔の所行だった。
(……クリム。ペンダントは無事ですか?)
残された左腕が悉く骨折していて動かないので、クリスタルの安否を確認出来ない。いつも通りの癇に障る甲高い笑い声で、顎骨が折れても決して離さなかったペンダントを受け取り、掲げて見せた。
自分が守り抜いた筈のペンダントを見て安堵の溜め息を吐こうとして、息を呑んだ。見る間に青褪めていく。
してやられた、と顔に書いてある。
『この通り、ペンダントは無事だーア』
(……確かに、無事、ではありますが)
『あーア。やってくれやがったなーア、あの駄猫』
アンバーの最期の言葉を思い出す。──ボクの勝ちだ、と彼女は言っていた。
(……日下部さんがペンダントを手放したあの瞬間、彼女は既にクリスタル内のシズクを結晶化していたのか)
アクマを倒した証明である、希望のシズク。魔法少女がアクマを殺し、同族を襲い、仲間を裏切ってでも手に入れようとしている、まさしく希望そのもの。魔法少女の存在意義そのものと言っても過言ではない。
これは通常、液状化している。クリスタルで受け止め、内部に収容し、保管する。空洞のないクリスタル内部に液体が詰まっている様な、奇妙な質感となる。
そして、アクマが落とす希望のシズクを、クリスタル全てが埋まる程に集まった時、どんな願い事でも叶う『希望のチカラ』へと変貌するらしい。
美咲や知久の様な単独者なら分け前などなく総取得すれば済むが、これが構成員となるとそうはいかない。何がどう云ったトラブルに発展するか、想像は容易かろう。
──魔法少女は人を試す。
(……言い訳など、しようものもない。完敗です、アンバーさん)
『きゃっひはひ。だっせぇなーア。くそだせぇぜマスターア!』
クリスタルに封印された希望のシズクは粘液質な液体状だが、このままではただの魔力の塊でしかない。希望のシズクは、結晶化という現象により、初めて希望のチカラとして作用する。
結晶化した希望は、再び液状化する事は出来ないが、希望のチカラ自体は完全でなくとも使用する事は出来る。
結晶化した知久のクリスタルをぼんやりと眺めながら、美咲は思う。彼女は初めから、こうなる事を予測していたのではなかろうか。今更ながら、そう思えてならない。
『……そりゃあ、流石に、考え過ぎだと思うがなーア』
(……ですね)
珍しくクリムの歯切れ悪い声に苦笑しながら返す。美咲も同じ心境だ。気のせいだと『思いたい』。
例えば、アンバーは美咲の固有スキルが障壁ドレインだと気付いた上で、日下部知久の拘束中も障壁を回復していた。回復した矢先から、美咲に奪われるのを承知の上で。その時の障壁回復がなければ、美咲は海面に衝突した際のダメージに耐えきれなかったかも知れない。
そもそも、アンバーがあの時に稼いだ時間も疑問が残る。なぜ、わざわざ時間稼ぎをした後で、何の抵抗もなく美咲にクリスタルを渡そうとしたのか。『結果的に』知久が逃走を始めたから稼いだ時間分の魔力を使う機会が生まれたが、彼女は何を思って時間稼ぎをしたのか。
もしかしたら、彼女は、最初から──。
それを知る由は、今はもうない。
奈木美咲が殺したのだ。
(……帰りましょう、クリム。私達の日常へ)
『ヒャヒャ、そうだなーア。とっとと帰って「済ませちまう」かーア』
日下部知久は死に、この戦いは終わった。
しかし全ての問題が解決した訳ではない。人一人が死んでも世界は変わらず、いつも通りに回り続ける。
神は天にいまし、世は事もなし。
(……有害を排除する為の殺人は、滞りなく済みました)
物語は終わらない。そもそも始まってすらいない。
(……次は、無害を排斥する為の殺戮を始めましょう)
だから、これもまた、美咲の役目なのだ。
魔法少女としての責務と、自分の願望を満たす為の殺戮を、果たさなければならない。