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人々の喧噪が止まない。
救急車のサイレンが止まない。
繁華街の大路地に広がる血溜まりを避ける様に、円形に広がる野次馬は、その中心をただ愕然と眺めていただけだった。
誰もが近付こうとはしない。血溜まりの中心に寝そべり、時々痙攣する以外に能動的な生命活動を行えない少女には、誰も近付けない。
「……『非道い』」
その光景を、野次馬より一歩進んだ場所で眺めている黒髪の少女――奈木美咲は、誰にも聞こえないくらい小さな声で、ポツリと呟く。
非道い有り様だった。
横断歩道には濃密なブレーキ跡こそ刻み込まれているものの、それを付けた車の姿は見当たらない。いわゆる轢き逃げというものだ。
救急車のサイレンは止まない。しかし、帰宅時間の渋滞にでも巻き込まれているのか、未だ遠い。
「……救急車が来るまで、もう少しかかりそうですね」
美咲は野次馬から離れ、横断歩道に横たわる少女に近付く。壮絶な事故現場を目撃した義務感ある野次馬が制止しようと手を伸ばしたが、美咲の制服を見て被害者と同じ学校である事を確認し、手を引っ込めた。
知り合いとでも思われたのか。それを詮索する気は欠片もない。むしろ、今はその方がありがたい。
真っ赤な大輪に向かって歩く。横たわる少女から少し離れたところで、被害者の物と思しき名前を叫んでいる二人組を後目に、少しずつ踏み込む。
二人組は被害者の取り巻きだろうか。何故、もっと近くに寄らないのだろうか。美咲はそんな益体ない事を考えながら被害者に近付き、
貌を失った、血だらけの『のっぺらぼう』の全容を見た。
「ぐっ……!?」
思わず目を背け、口元に手を添える。一斉に血の気が引くのを自覚する。喉元まで込み上げた内容物をどうにかこうにか嚥下し、無理くり心を落ち着け、改めて被害者に視線を戻す。
『剥ぎ取られた』顔は極力視界に映さない様に留意しながら、少女の周辺を見渡す。事故によりファスナーの壊れた鞄から飛び出した荷物に目を向けると、その中に生徒手帳を見つけた。
美咲はそれを拾う。無惨にも破れた生徒手帳だったが、奇跡的に被害者の顔写真は無事だった。
「……綺麗な方ですね」
そこいらの生半なアイドルにも負けないくらい、造形の整った顔立ち。間違いなく美女に分類されるレベルだろう。
ただし、今はもうない。彼女の『希望』は、どんな凄腕の整形手術を施そうと、修繕不可能な程に奪われている。
改めて被害者の周辺を見ると、頭部付近にも車のブレーキ跡が見て取れた。ブレーキ跡は少女の頭部に向かって伸びていて、そこから先が途絶えている。
つまり、
(……一度衝突した後、タイヤが乗り上げ、頭を巻き込んだ?)
想像するだにおぞましい推測に、美咲は全身が総毛立つのを感じた。
とてもじゃないが、真っ当な人間ではこの精神的苦痛は耐えられない。美咲とて『慣れていなければ』、恐怖に泣き喚きながら腰を抜かし、地に伏して大量の吐瀉物を撒き散らすと共にだらしなく失禁しただろう自信がある。
「……ッ!」
限界だ。彼女を直視し過ぎた。精神的に非道く磨耗した美咲は、震える足腰を叩いて叱咤し、有りっ丈の力を込めて歩き出す。とてもじゃないが、走る気がしない。
(……クリム。やはり、アレは、)
心中で呟く美咲だが、返答はない。そもそも誰も聞く事のない心の声に返答を求める事自体が不可思議ではあるが。
野次馬の間を潜り抜け、外に出る。脳裏に焼き付いた光景を振り切りながら――恐らく一生忘れる事はないだろうが――胸ポケットに仕舞ってある眼鏡を取り出す。
飾り気のない紫色の縁の眼鏡。レンズは薄く平べったい事から、それが伊達である事は容易に想像がつく。
(こんな簡単な事も忘れるなんて、どうかしてましたね)
震える手で眼鏡をかけながら、皮肉げな笑みを浮かべて自嘲する。
『ヒィーヤハアハ! ようやく眼鏡かけやがったな!? おッ話しようよーオ、美ッ咲ちゃあああん?』
眼鏡をかけた瞬間、美咲の脳裏に不気味で不愉快極まりない狂笑が木霊した。頭蓋骨の内側で鐘を鳴らす様な甲高い声を聞いて、我知らず表情を歪める。
いつ聞いても不快感しか与えない品性下劣な声である。だが、その不愉快が故に、先程の衝撃的な光景に気を病んでる暇がなくなったのは事実だ。
……尤も、それを由と認められる筈もなかろうが。
クリムと呼ぶ声を無視して周辺を見渡す。繁華街の夜光に目が眩ませながら探ってみると、驚く程すぐに目的の物は見つかった。
黒。それは、真に黒であった。
目測して、全長は二メートルと半。造形こそ霊長類のそれに近いが、爬虫類を思わせる外装で身を纏ったそれは、背中から蝙蝠に似た翼を生やしている。
道路脇の華奢な信号機に逆様にぶら下がり、鮫の様に大きな口を広げて唾液を垂れ流している。あからさまに異質で異常な異形は、しかし、野次馬の誰にも騒がれる事はない。
視えていない。美咲を除き、その場の誰にも知覚出来ない存在。
黒い異形を、美咲の様に『認識出来る者』は、こう呼ぶ。
「やはり現れたか……アクマ」
アクマ。
黒い異形の総称。
『ありゃ産まれたてだなーア』
「……なるほど。道理で小型な訳だ」
『殺るなら今のうちだがーア、もうちったぁ肥らせた方が美味そうだぜーエ? ここにゃ腐る程、獲物がいる訳だしなーア』
「戯れるな。殺すぞ」
謎の声の甘言を、美咲は一刀で両断した。鼻持ちならない醜悪な性格だと知っていながら、それでもこの声には耐えられない。
「アクマは殺す。産まれたてだろうが、成体だろうが関係ない。目に付く全て、皆殺しだ」
『……ふぅん? 「目に付く全て」、ね。それがどういう事か分かってんだよなーア?』
「……黙れ」
ドスを利かせた冷たい言葉でクリムを黙らせ、辺りを見渡す。事故の野次馬が次から次に集まって来て、何処も彼処も人の群で溢れかえっている。顔をしかめながら舌打ちする。
アクマの存在は確認した。後はそれを討伐するだけなのだが、懸念が一つ。
「一度、どこか身を隠せる場所を探さないと――」
「あれは私が育てた獲物だ。アンタが気にする事はないわよ」
――人々の喧噪が止まない。救急車のサイレンが止まない。
にも拘わらず、その声は凜と、しかし非常に煩わしくハッキリと聞こえた。アクマを目の前にして、美咲は声のした方角を睨め付ける。
暗がりの空と、煌めき輝く夜光。群衆で溢れた繁華街で、美咲を見つめる双眸が、爛々と光って見えた。
「……やはり、貴女でしたか」
「予想は出来てたって感じね。そりゃそうか、変身してなくても、私達は同じ『魔法少女』だものね」
闇に浮かぶ双眸は薄く嗤いながら、ふと事故現場を見やる。釣られて美咲も視線を動かすと、ようやく救急車が到着した頃合いだった。事故発生から、遅れて二七分。致命的に遅すぎた。
「さぁて、生きてんのかしらね、『アレ』」
「……」
到着してからは迅速に、被害者の救命に当たる隊員達。もはや血溜まりの少女はピクリとも動いていない。
被害者を救急車に収容し、弾ける様にタイヤを回す。サイレンで道をこじ開けながら緊急病院を目指す救急車を遠く見つめながら、黙祷を捧げる。
アーチにぶら下がっていたアクマは救急車を眺め、見えなくなると興味を飽いた子供の様にそっぽを向き、翼をはためかす。そのまま宙を飛翔し、夜空の向こうへ飛び立った。
「待っ……!」
「追うな。アレの宿主は既に割れてる。第一、今のアンタは、アクマを相手していられる状況じゃないんじゃない?」
アクマの行く末に走って追いかけようとしていた美咲は踏みとどまり、ギチギチと錆びた機械の様な動きで双眸を見つめた。
制止に対して怒った訳ではない。問題は、その次の言葉だ。
「…………、……今……なん、と?」
「聞こえなかった訳じゃないでしょ。その質問に、何か意味はあんの? ねぇ、転校生。無駄だと分かっていながら無駄な言葉を口にするのは無駄だと思わない?」
「……では、『彼女』は、」
「お察しの通り、感染者よ。いや、間違った。今は発症者だったな」
双眸の言葉に、凄惨な事故現場で血の気の引いた脳内に、今度は過剰なまでに血液が供給されるのを感じた。
それは激怒か。否、そんな生易しい感情ではない。そんな生温い感覚ではない。
「……貴女は、彼女の親友だったのではないのですか?」
「私が? アレと? ハッ、気持ちの悪い冗談は止めなさいよ転校生。アレが転校してきた半年間、どれだけ吐き気を我慢してきたと思ってんのよ?」
「……つまり。彼女は、最初から、貴女の獲物だったと?」
「アレは最初に会った時から地獄にいた。希望を知らず、また同じく絶望も知らなかった。なら、まずは『希望を教えてあげなきゃ、絶望を知る事も出来ない』でしょ?」
「ッ日下部知久!!」
夜光に照らされた双眸の主――知久に有りっ丈の憎悪を吐き出し、黒曜石の様な眼を開き、犬歯を剥き出しに歯を食いしばる。
美咲は激昂した。学校では常に能面の様な無表情を貫いてきた彼女は、人間らしい感情を、恥も外聞もなく赤裸々に暴露していた。
人目を気にして隠れる等という瑣末は、最早どうでもいい。今は一刻一分一秒コンマ秒でも早く、この女を殺してやりたい。憎悪より生まれた殺意を余すことなくぶつけて、息の根を止めてやりたい。
「うふっ。いいねいいね。私も最初っから、アンタの事は気に入らなかったんだ。さっきの馬鹿女みたいに、お綺麗なその面、粉々(グチャグチャ)にしてやるよ」
どういう理由か、知久も美咲と同じ様に、スカートのポケットから取り出したオレンジ色の縁の眼鏡をかける。
美咲は胸の前で両手の指を組み、祈る様に目を瞑る。
知久は芝居がかった調子で両手を広げ、天を仰ぐ。
それぞれが独特の姿勢を取ったまま、互いの存在を意識の中心に据え、敵愾心を以て言祝を謳う。
幸福を謳う。
契約を謳う。
心象を謳う。
呪いの様に。
「絶望を希望に。森羅の理は私を軸に反転する」
「世は欺瞞に満ちている」
刹那、二人の体が夜光が霞む程に光り輝く。繁華街を歩いていた通行人らが一瞬だけ目を覆い、驚きと共に光の中心を凝視した時、
――そこには。既に二人の姿はなかった。