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「佳乃ちゃん帰ってんのかよ」
「時間が時間やしね」
気付けば、時刻は一八時四〇分。一部の部活動を除き、一般生徒の最終下校時間はとうに過ぎている。
教職とて公務員だ。定時で帰る事もあるだろう。請け負っている部活がなければ、わざわざ居残る理由がない。
「理由がない……のは分かるが、机の上に漫画や雑誌を放置した状態で帰るってどういう神経をしてるんだ、あの教師」
「染井先生、ちかっぱ自由すぎっちゃろ……」
あれで何故、教職を続けられるのか。実はその疑問、既に学校の七不思議に認定されていたりする。
何はともあれ、日直の業務は全て果たした。二人は晴れて日直という月一の義務から解放された事になる。
「うっわ、もうこんな時間か。腹も減る訳だわ」
「そうね。私、貧血でお昼食べれとらんけん、ちかっぱ腹減っとうっちゃけど」
「あ、そうか。雛鳥はいつも学食組だっけ?」
「うん。料理苦手とよ、私」
こんな体だから、とは言わなかった。
「不二くんはいつもお弁当よね? お母さんが朝に作ってくれようと?」
「あ~……あれは一応自作。晩飯の残り詰め込んでるだけだけど」
「自作!?」
不二の言葉に衝撃を受けた要は、下駄箱から取り出した靴を取り落としながら驚愕の声を上げた。静寂に沈んだ夜の校舎に、要の声が木霊する。
普段は物静かな要が大声を出した事に驚いたのか、不二はポカンと口を開けて惚けている。その視線は要に向けられているが、何事かを考えている訳ではない。思考停止しているだけだ。
自分の豹変に改めて気付いた要は、恥ずかしげに顔を火照らせながら、落とした靴に視線を預ける。
「ご、ごめん、変な声出して」
「えっ!? い、いや、気にする事ねぇって! びっくりするよな、普通! うん、それ普通普通!」
「や、やっぱり、びっくりしたっちゃね……」
「まぁ、多少は驚いたけど……ってそうじゃない! びっくりは俺じゃなくて雛鳥! 驚くよな、俺みたいなのが自炊なんて!」
穴がなければ自発的に掘って埋まりかねない程に縮こまる要に対し、不二は両手で意味不明なジェスチャーをしながらてんやわんやフォローに入る。それを気を悪くさせたと解釈し、ますます縮こまる要。
ひたすらに不毛で先の見えない悪循環が続くが、埒が明かないと判断した不二が、ため息と共に流れを断ち切り、話題を戻した。
「俺の親、共働きなんだよ。朝から晩まで店やってて、休みもほぼないから、弟妹達の晩飯を作れるのが俺しかいなくてさ」
ポツリポツリと、赤らんだ頬を手で隠しながら、不二は語る。
それは、要にとって初めて聞く話であり、非常に興味深かった。
気恥ずかしさからか要を直視出来ず、そっぽを向きながら靴を履く。要も慌ててそれに追い付く。
「不二くんの兄弟って何人なん?」
「俺含めて三人」
「じゃあ、毎日三人分のお弁当作りよっと?」
「いや、下二人は給食だから、普段は俺一人分。課外授業で弁当持参の時はまとめて作るけど、夕飯の残り詰めたら後ですごい文句言われる」
かんらからからと軽快に笑いながら、不二は歩く。要も急いでそれに続こうとして、ふと気付く。
不二の歩幅は、普通の人よりずっと緩やかだ。ゆっくり、静かに、自然と要の隣に立つ様に歩いている。
やはり駄目だ、直視出来ない。要は不二から視線を逸らし、曖昧な相槌を打つ。
「お、弟くん達羨ましかぁ。毎日不二くんの手料理食べれよっちゃね」
「……まぁ、そんないい物じゃないけどな。基本的に雑な物しか作れないし」
唇を尖らせて悪態吐く。普段とは違う、今まで全く知らなかった不二の子供っぽい一面を目の当たりにして、要は少しだけ頬を緩めた。
不満そうな表情こそ醸しているが、何と言うか、不二は楽しそうだ。そんな不二を見ているだけで、要の心も弾んでいく。
――そもそも、大前提の一端には、まるで気付かないまま。
「何なら、雛鳥の弁当も作って来ようか?」
「え?」
「……あっ?」
話の流れで口走った為か、完全に無意識だったのだろう。唖然とした要の表情を見て、ようやく自分の発言に気付いた不二は、視線を泳がせながらパクパクと口を開閉していた。
前につんのめり、一歩引いて、やはり口を開くも言葉は出ず――心を据え、意を決した様に、話を続ける。
「……ひ、雛鳥さえ良ければ、だけど」
要の瞳を直視しながら、不二は不器用に、ぶっきらぼうにそう告げる。顔はトマトやイチゴを彷彿とさせるくらい真っ赤で、今にも顔を逸らしかねない程に緊張を露わにしている。
それでも。
不二は『それ』を懸命に堪え、真っ直ぐに、要を見つめていた。
不二は時々、こうして真摯な気持ちをぶつけてくる。その度、要はいつも同じ事を考えながら、目を逸らし、口黙るのだ。
(……私じゃ、いけんとよ)
不二の迷惑になる。
自傷の様な強迫観念。要は、不二の視線に耐えきれず、目を逸らす。
俯く。眩し過ぎて、直視出来ない現実から、目を逸らす。
「雛鳥」
「……」
「もうとっくに気付いてるだろうけど、俺は雛鳥に聞いて欲しい事がある」
目を伏せる。顔を伏せる。意識を伏せる。
「返事はいらない。何もいらない。強制も強要も、雛鳥にはしたくない」
その言葉を吐き出すのに、どれだけの勇気を要したか。一方で、その言葉から耳を塞ぐのに、どれだけの勇気を要したか。
「ただ、目を逸らさないで欲しい。少しだけでいいから、俺を見て、決めてくれ」
不二は見つめ、要は俯く。
そこに、意志の疎通はない。
「なぁ、雛鳥。俺は、」
「……不二くん」
意を決して心中を告げようとした矢先、真正面からうなじが見えるほど鋭角に俯く要が、いつもより僅かに強く言を発し、遮った。
明確な拒絶だった。
「もう、遅いけん。……早よ、帰ろ?」
続く声を失った不二は、自分を見ずに俯く要を見つめ、悲しそうに顔を歪めて首肯する。
やがて、どちらが先ともなく、二人は歩き出す。他に人の影も気配もない、二人きりの校庭を、静かに歩く。
先程までの様に、和気藹々とした会話はない。
それに、意志の疎通はない。
校庭を抜け、並木道を通り、ようやく校門に差し掛かる。要の歩幅を鑑みても、たかだか数分弱の短い岐路。
にも拘わらず、通い慣れた道だと言うのに、二人はたかだか数分が、何時間にも感じられた。
「……保健室での事。あれ、本気だから」
「……」
「また明日な、雛鳥」
消沈を無理やり歪んだ笑顔に変え、不二は要と正反対の方角に歩き出し、帰路を辿る。
要は、そんな不二の背中を見つめ、
「……また、明日」
小さく小さく呟いて、目を伏せた。
ところで、雛鳥要は隻腕である。かつての事故にて損壊著しい左腕は、肩より先を切除している。
左腕だけではない。要の左半身は、何らかの手違いで削岩機に巻き込まれたのかと見紛わんばかりに破損していて、表面的な痕こそ残れど完治しているが、中身は碌々機能していない。
左足は表面から側面にかけて広範囲に爛れ、腰から首まで複数の手術痕と擦過痕が残り、髪の毛で覆い隠した左半面は『削れている』。
それは、見るだに凄惨で悲惨で無惨な有り様で、他者のみならず要本人でさえあまりの惨たらしさに目を細め、背けて仕舞う程だ。
誰もが『そう』思って仕舞うという事は、誰もが雛鳥要に好意を抱く事はないと言う結論に繋がる。
意思や評価より、同情と嫌悪が先行して仕舞う。なれば、如何に要に対して親身であっても、それは『好意』には成り得ない。
世界はそうで在るべきだと憂い、世界はそうでなければならないと嘆く。
さて、果たして。
そんな少女は善良なのだろうか?
歩いていると、足がもつれてつんのめり、要は派手に倒れ込んだ。繰り返しになるが、要に左腕はなく、左足は棒の様で機能していない。受け身どころか、衝撃に耐える事もままならない。
「ぎ、ッア……!」
頭から転んだ事で、奇妙な呻き声が喉から漏れた。思考はブラックアウトし、反して視界は真っ白に染まる。自分が倒れたのだと気付いたのは、右手を突いて上体を起こした時に、額と口から垂れた血が地面を濡らしてからだ。
灼ける様な痛みが思考を寸断する。視界が明滅し、碌に状況を把握させてくれない。
「なに、コイツ。ちょっと押しただけで転んでんだけど」
「マジ気持ち悪ィ」
地面に膝を突いてうずくまっていると、背後から複数の笑い声が聞こえてきた。未だに動けないでいた要だが、首だけを回して、肩越しに背後を覗き見る。
街灯が逆光になっていて分かりづらいが、二人の女生徒が、ケラケラと笑いながら要を見下ろしている。その二人の後ろにいる女生徒は、黙って腕を組んだままだ。
先程の台詞を鑑みるに、どうやらこの三人組が要の背中を強く押して倒したらしい。
「な、何……?」
右手と右足を巧みに動かし、近くにあった街灯にしがみつく様に立ち上がる要。その不恰好さが心の琴線に触れたのか、三人組のうち二人は、要を指差してゲラゲラ笑う。
(……誰よ?)
同じ学校の生徒である事は制服を見れば分かる。三人とも、この寒い時期に気合いの入ったミニスカートで、コートを羽織るどころかセーラー服のタイを緩め、着崩している。
三人組は要の事を知っている体だが、要の記憶にはない。確かに、要は『見ての通り、悪い意味で有名』ではある。むしろ、学校で要の事を知らない生徒などいないのではなかろうか。
尤も、現状において要の認知度を考察したところで益体ない。問題なのは、誰ぞと知らない集団に、勝手に恨まれて一方的にちょっかいをかけられている事だ。
「……な、何か、私に何か用でもあると?」
「あら。用ならあるわよ」
三人組の真ん中に立っていた少女が初めて口を開いた。重く、低く、感情を押し殺していながらも、悪意だけが明け透けに漏れ出した……そんな声で。
――そう。恨まれている。彼女に恨まれているのだと、人の悪意に慣れた要は、それを既に看破していた。
悪意を理解した要は、それを『受け入れた』。自分に対する感情はそれが正解である。誰もがそうあるべきだと、世界はそうあるべきだと、要は歪つな解釈で『受け入れた』。
「アンタさぁ。不二と仲いいんだって?」
ただし。その言葉だけは、どうしても受け入れられなかった。
「しょっちゅう不二と一緒にいるけど、何? 付き合ってんの?」
「ちち、違うよ! 別に付き合っとらんし、そもそも仲もそげん良うないとって!」
要と不二は仲が良いのではない。良い筈がない。ただ、『良くしてもらってる』だけだ。
この二つの言葉は似て聞こえるかも知れないが本質は全く違う。完全な誤解である事を真っ先に主張する要だが、女生徒らの用件を考慮すると、弁解は無意味でしかない。
本人達の実際の関係がどうか、を問題にしているのではない。傍目からそう見えている事が問題なのだ。
「当たり前でしょ。アンタみたいな気色の悪い女、誰が相手するかっての」
組んでいた腕を解し、歩み寄る女生徒。立ち上がる為に街灯にしがみついていた要は思わず後退するが、すぐに建物の壁に追い詰められた。
横合いから逃げようと右足に力を込めた瞬間、女生徒の手が要越しに壁を突き、進路を塞がれる。いや、この場合は退路と言うべきか。
「人が冗談言ってんだから笑えよ。空気読めねぇ奴だなぁ」
動きを塞いだ手とは逆の手で平手を打つ。要の右の頬に衝撃が走り、再び視界が濁る。
向かい合った状態でありながら、わざわざ右手の甲で、要の右頬を殴ったのだ。如何に、どれだけ、彼女が嫌悪しているかが分かる。
「痛ッ……!」
「でもさ、それって何? アンタ的には不二とは付き合ってる訳でも、仲良くしてる訳でもない癖に、不二から一方的に絡んで来てるって事?」
「……えっ、ヤ、違っ、」
「あまつさえお姫様抱っこされたり、こんな時間まで一緒にいたりしてたって事? 何でもないただのクラスメイトが」
また一つ、衝撃が頬を撃つ。今度は予め予測出来たので、歯を食いしばって何とか痛みに耐える事が出来た。
それでも、痛みは痛みだ。耐える事は出来ても、耐えきれる自信は欠片もない。
「知ってると思うケドさぁ、不二を好きな娘って結構いるのよ。同情引いて気に掛けて貰ってる癖に、仲良くないとか言っちゃって……純粋で一途に不二を好きな娘に申し訳ないとか思わないワケ?」
あからさまな嫌悪感を表情に浮かべながら、女生徒は要の心を抉っていく。ざくり、ぶずり。要は彼女の悪意を、絶え間なく受け止め続ける。
雛鳥要という少女は、それしか出来ない。それくらいしか世界に報いる事が出来ないのだから、それ以外の選択肢が存在しないのだ。
女生徒に怯えたまま、黙したまま、服したまま、ただただ淡々と受け止めるのだ。
「さっきからナニ黙ってんだよ。気持ち悪いな」
「ご、ごめんなさい」
「……チッ。マジで気持ち悪ィなコイツ」
血反吐でも吐き出しそうな程に顔を歪めながら、女生徒は要から顔を離す。後ろに控えていた二人組と合流し、最後に短いスカートを翻しながら、要に告げる。
「オイ。金輪際、不二に近付くんじゃねぇぞ。次に不二と話してるとこを見たら――そうだな、全裸にひん剥いてオナプリ撮って学校中にバラ撒いてやっからな」
「ぎゃはは! ナニそれ、見る方が罰ゲームじゃん!」
「よっちーマジ鬼畜系ー!」
ケタケタ、ゲラゲラと嗤う少女達は、勝利を確信した様に堂々とした足取りで要の前を去る。全身が痙攣した様に力が入らず、腰を抜かした様にその場で脱力する要。
他人から悪意を向けられる事は慣れている。それら全ては、要にとって受け止める対象になる。ただ漫然と漠然と受け止め、やり過ごす。
世界はそうであるべきだと望んでいるし、世界はそうでなければならないと願っている。真実だ。要は嘘偽りなく、そう考えている。
集団とは、得てして外部の侵略者に対し、強い敵愾心を生む。それが、本来あるべき形を保っていなければなおのこと。
通常でない存在を、人は許容出来ないのだ。
要はそれらを全て受け止める事で、世界をあるがままに、滞りなく進行しようとしていた。
それでいい。否、そこまではいい。人に悪意を向けられる事には慣れている。
だが、
(……何で?)
俯いたまま、要は心中で静かに呟く。
(……何で、私から奪うと?)
だが、
(……何で、私から奪えると?)
『だが』、
(私は、なんもしとらんやん。私はただ、其処におるだけやん)
悪意を向けられるのは、まあ、いい。まだ理解出来る。
そこに暴力が加わるのも、まあ、いい。仕方がない。
全て、自分に向けられた悪意であるのならば、痛かろうが苦しかろうが辛かろうがおぞましかろうが、我慢出来る。受け止めて、耐える事は出来る。
――ただし。自分が対象であればこそ、だ。
(……奪わんでよ)
要は、不二と恋仲という訳ではない。不二が自分を気に掛けてくれるのは保健委員だからであり、そこに特別な感情など芽生える余地などない。
それを望まないかと言えば嘘になるが、少なくとも現状、要はこの関係性を変えたいとは思わない。むしろ、変わって欲しくないとさえ願っている。
今のままでいい。
今のままがいい。
不二に恋人がいると言うのなら、それはそれでいいのだ。そこに不評不満を抱く権利は要にはない。
(……好いとうとなら、本人にそう言えばいいっちゃんか)
わざわざ回りくどく、「女生徒みんなの意思」であるかの様に、自分の意見を隠して暴行してきた三人組を思い出す。
(私とは違うっちゃから!)
誰も憎まなかった。
誰も恨まなかった。
誰も呪わなかった。
少女は善良『だった』。
三人組は、自分の希望を叶える為に、要に絶望を与えようとした。絶望は実に効果的に、雛鳥要という少女の中枢に抉り込み、考えない様にしていた負の感情を刺激したのだ。
そして、今、初めて。
雛鳥要は、一年半も溜め込んでいた感情を、沸々と煮えたぎらせている。
(奪うな!)
誰かを憎んだ。
誰かを恨んだ。
誰かを呪った。
事故に遭って以来、初めて――要は自らの強い希望を願い、同時に他者の強い絶望を願った。
なれば、そこに。
呪いは成立する。