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 とある雨の日。福岡の山道で、土砂崩れに巻き込まれたバスが崖を転落する事故が起きたのが、今から一年半ほど前。

 高さ二〇メートルから落下したバスの乗客乗務員合わせて二三名の内、生き残りは殆どいない大惨事。通報の遅れと土砂崩れの影響で、救出作業に入ったのは、事故発生から実に二〇時間以上経ってからだった。

 駆けつけた救助隊の話によると、事故発生時点では相当数の生存者がいたものと推測する。ただ、救出作業の遅れが致命的だったという。

 バスの中は死屍累々としており、『どれが誰の物か分からない』有り様だった。

 救出作業による生存者は四名。一人は老人、一人は運転手、そして命からがら子供を庇う母とその子の二名。

 母は、子供―少女―――が優先されて搬送されたのを見送ってから、静かに息を引き取った。老人は搬送中に、運転手は病院の集中治療室にて、臨終となる。

 つまり唯一の生存者である少女は、左半身――特に腕は損傷が著しく、切除するしかなかった――に大きな傷跡を残し、幾つかの後遺症や障害を抱えこそしたものの、治療の甲斐あり一命を取り留めた。事故の規模を考えれば、これは奇跡的と言えよう。

 ただし、それが不幸中の幸いと言えるかどうかは定かではない。

 両親は少女が幼い頃に離婚していて、母方が親権を持ち、実家のある福岡にて母子家庭で育てていた。

 親権の移った母方の祖父母は既に年金で生活していたが、孫の莫大な治療費の為に切り詰めた生活を送る事となる。

 それは、いつしか破綻した。大切な孫娘の為を想い、生活苦など微塵も感じさせない態度で接していたが、生活は遂に限界を迎えた。

 祖父は、自分より返済能力のある実父に親権を移す事に決めた。父はこれを嫌ったが、人としての良心は微かにでも残っていたのか、これを了承する。

 だが、一度は親権を奪われた身だ。条件として、娘が成人するまでを期限とし、それ以降は再び祖父母の元に親権を戻す事。祖父はこれを了承。

 また、それまで娘は自分の手元、即ち関東に置き、成人まで一切関与しない事。生活方針に口出ししない事。祖父はこれを、苦虫でも噛み潰した心境で了承。

 こうして少女は満足な治療と適切なリハビリにより、土砂崩れより一年後に退院、父に引き取られ関東に移住する。

 離婚後に事業に成功していた父は、裕福であった。関東で別なる家庭を築いていた故に、少女の扱いは非道く杜撰でこそあったものの、肉体的な暴行を加える様な人格者ではなかった。

 そもそも、父としては放っておきたい腹積もりだったろう。事情はどうあれとうの昔に忘れた女に、その娘を、よりによって新しい家庭を持った今になって押し付けられたのだ。その憤怒はさもありなん。

 父は、娘にマンションの一室を購入し、毎月の生活費を与え、週に二度のヘルパーを雇った。生活費は生活のみならず、遊び回っても釣りが来る程だ。

 要するに、父は「十分な金を与えて飼い慣らす」事にしたらしい。条件として「自分の生活に一切関与しない」事と提示して。

 少女は、しかし、それを苦とは思わない。父の『気苦労』も理解出来たし、祖父母の想いも理解していたからだ。

 少女は、善良だった。

 ただ、不幸ではなく不運だっただけだ。

 片腕を失っても。

 片足が動かずとも。

 片眼が潰れても。

 誰も恨まず、憎まず、呪わない。

 少女は、善良だった。

 そして、生活が安定した頃、近所の中学校に編入する事となる。少女の受け入れ先は「不幸な事故に見舞われた可哀想な少女を復帰させよう」という下心の明け透けた笑顔で迎えた。

 それが売名行為の慈善行為だと理解しても、彼女は怒らなかった。むしろ、どんな理由であれ、自分を受け入れてくれる学校があったのだと、感謝した。

 転校前に何度か視察に足を運んだ際、少女の容姿を見た生徒らは指を差して嘲笑った。生徒らは隠したつもりだったのだろうが、少女には聞こえていた。

 実際、少女を見た教師も、生徒ほど露骨ではないものの似た反応だった。少女を一度見て本心を歪つな笑顔で覆い隠し、二度目には口を揃えて「可哀想だ」と言う。

 が、少女はそれを受け止めた。自分が鏡を見てもそう思って仕舞うのだ。他人なら尚更だと、涙を、右側だけの笑顔で隠した。

 誰も恨まなかった。

 誰も憎まなかった。

 誰も呪わなかった。

 それが当然だと、誰もが感じる事だと思った。世界はそうあるべきだと信じた。

 少女は、善良だった。

 だが、遂に訪れた転校初日。誰もが異質な異物である転校生を前に畏怖し、嫌悪する中で、ただ一人だけが話しかけてきたのだった。

「私、日下部知久。親愛を込めてシルクって呼びなさい。間違ってもトモヒサって呼ぶなよブッ飛ばすぞ」

 ……間違いなく変な奴だと、少女・雛鳥要は思った。


 それが、出逢い――。



 懐かしくもおぞましい夢と共に、目を醒ました。

 臓腑の底から込み上げてくる吐き気は、貧血のせいだけではない。体験し、体感し、体現した忌々しい記憶は拭えない。

 寝起きで朧気な意識の中、右手の腕時計で時刻を確認する。一七時二七分。とっくに授業は終わっている頃合いだ。

「……何しょっとかいな、私」

 その独白は、昼前から夕方まで寝ていた自分を叱責するものではない。

 そんな事よりもっと重要な、大切な事があった筈だ。

「結局、不二くんに迷惑かけとっちゃないやん」

 既に授業が終わっているという事は、日直の仕事も終わっているという事だ。月に一度だけの幸福を、自分の都合であっさり無為にして仕舞ったとなれば、同情の余地もない。

 自業自得とは言え、真っ白な壁に向かって独り言を呟いていると尚更、気が滅入るだけだ。とは言っても、寝返りしたところで真っ白なカーテンが眼前に塞がっている。

 右を向いても左を向いても、壁かカーテンかの違いこそあれ、広がるのは一面の白い景色。不毛だ。ひたすらに不毛だ。

 不毛だが、今の要には不毛こそ愛すべき価値がある。

 白い景色にのみ意識を集中させていれば、頭の中まで真っ白にしてくれる。余計な事を考えなくて済むのなら、それに越した事はない。

(ただの馬鹿やね?)

 生産性皆無なその行動が、何を為すのか。エネルギーの浪費である。ミジンコの方がまだ地球環境の役に立ってるだろう。

 問題の先送りは、送った先で後悔するだけだと言うのに。

「起きよ」

 そして帰ろう、と思う。

 目覚めてから実に三〇分が経過して、ようやく要の意識は覚醒を迎える。冬の日没は早く、外は完全に黄昏時を超え、宵闇時となっている。あと三〇分もすれば最終下校時間だ。

 未だに眩む頭を支えながら、要は身を起こす。ただそれだけの運動量で溜め息が漏れた。

 ベッドに右手を突きながら立ち上がり、白いカーテンを開く。灯り一つついていない保健室というものは、思いの外怖いものだ。

 鞄は教室に置きっぱなしだ。帰る前にそれだけは回収しなくてはならない。要はフラフラとした足取りで歩き出――そうとして、ふと、カーテンの傍に誰かが立っている事に気付く。

「うびゃああ!」

「いえ。そこまで怯えられると、軽く傷付くのですが」

「あっ、ななな、奈木さん!? ご、ごめんとって!」

 宵闇の暗がりに、ボウと浮かぶ白い肌と黒い髪。グラウンドでは未だ運動部が部活をやっているのだろう、差し込む光がかろうじて、奈木美咲の相貌を照らしていた。

 そこに立っていた事を知らなかったとは言え、要の言動は大変失礼な物だったろう。……と一概には言い切れない。美咲の美貌も相俟って、ホラー映画に出てくる、やたら見た目が綺麗な幽霊のソレに見えて仕舞うのも無理からぬ事だ。

「ど、どげんしたん、こんな時間に、こんなとこで?」

「……体育で倒れてから、心配だったので、何度か足を運んでいました。この時間まで残っていたのは、先程まで各教科の先生方に、授業の進捗状況を伺っていただけです」

「心、配……?」

 要にしてみれば日常茶飯事だし、不二や知久は要の体調不良にも慣れている。が、今日転校したばかりで初対面の美咲から見れば、要は突然倒れた事になる。

「あっ……ご、ごめんなさい。変に心配させとうて」

「いえ、雛鳥さんが無事なら、それに越した事はありません。こうして元気そうな所が見れて、安心しました」

 厳密に言えば未だに頭蓋骨の内側がシェイクされた状態であり完全に快復した訳ではないのだが、ただでさえ余計な心労をかけて仕舞った様なので、ここはそういう事にしておく。

「うん。もうちかっぱ元気っちゃん。これから教室に鞄取り入って、帰ろうち思っとったっちゃん」

「教室まで……。病み上がりですし、私が取って来ましょうか?」

「大丈夫、そのくらい平気よ。もう遅かけん、奈木さんも帰ったが良かよ」

「分かりました。では、その様に」

 如何にも不承不承と言った美咲の態度だが、本人が(気を遣っている事は明白だが)良いと言っているのならば食い下がれない。これ以上の言及は礼を失する。

 保健室から教室に行くには、昇降口を通る必要がある。そこまでは一緒に歩く事になった。

 と言っても、その距離は十数メートル程しかない。要の歩速は普通の人より遅いが、それでも一分もかからずに到着する。

 正直、何故、美咲がここまで自分を気に掛けているのかは分からない。誰とでも打ち解ける気質なのかも知れないし、美咲の言う様に少し気掛かりだっただけかも知れない。他に思惑があるのかも知れないが、少なくとも要には思い付かない。

「それでは、私はこれで。気を付けて下さいね」

「うん、そっちこそ。心配かけたみたくてごめんね、奈木さん。また明日」

 程なく昇降口に着いた要と美咲は、お互いに申し訳なさそうな表情で手を振った。薄暗い廊下は、二人の音以外は何も聞こえない。

 別れ、薄暗い廊下を一人で歩く。左足はつっかえ棒の様に、右にかかる重心の乱れも意に介さず、その足取りは慣れ親しんだ物だった。傍目には不安定に映るかも知れないが、しっかりとバランスは取れている。

「……」

 そんな要の背中を見つめる美咲は、口の中で何かを呟く。

 誰にも聞こえない様に、そっと、小さく。



「……えっ?」

「よう、雛鳥。もう大丈夫なのか?」

 動かない左足を引きずり、やっとの思いで教室に辿り着いてみれば、蛍光灯が煌々と灯り、不二春音が要を待っていた。

「な、なん、こんな時間まで何しよるとよ不二くん!?」

「いや、授業終わって部活行ってたんだけど、日直の日誌書いてないのを思い出してさ。これ今日中に出さないと明日も日直やらせるからなぁ、佳乃ちゃん」

 全校生徒共通の敬称で悪態を吐きながら、日誌の記帳に悪戦苦闘している。未提出は勿論、杜撰な記載内容でも再提出となる。

 あんな性格と性質でも教師をやっているくらいだ。意外としっかりしている所はあるのかも知れない。

「ご、ごめん。私が倒れんどかったら良かったっちゃけど……」

「気にしない、気にしない。雛鳥は朝の仕事殆どやったんだし、じゃあ残りの仕事は俺がやるべきだろ。もうすぐ全部終わるとこだし」

 日誌の記帳がある程度終わったのか、不二は大きく伸びをして、椅子の背もたれに寄りかかったまま最後の仕上げに取り掛かる。

 カリカリ、と。

 要の目の前で、書き記す。

 日直担当者欄に、

 雛鳥要と。

「――」

「……」

 お互いに声を出す事すらままならない緊張の中、不二は要を見つめたまま、日誌とペンを差し出す。

 担当者欄は埋まっていない。あと一人分の名を書かなければ、不備が残る。

 何も告げず、不二は日誌を、要に向けて机に広げたままだ。特にどうしろと命じた訳ではない。

『俺、本当は、雛鳥がいたから保健委員に立候補したんだよ』

 それは、期待してもいいのだろうか。

 赦されないと思っていた要は、願ってもいいのだろうか。

 差し出されるままに日誌に、不二春音と、愛おしい名前を書いて、要は不二を見つめる。頬を赤らめた笑顔を浮かべた不二を。

 雛鳥要は、赦されてもいいのだと。

 希望を抱いていいのだと、告げる様に。


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