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「奈木美咲です。宜しくお願いします」

 丁寧な物腰で深くお辞儀をする美咲。大和撫子を具現化させた様な風貌に目を奪われているのは軒並み男子のみならず、同性の女子ですら羨望の眼差しを向けていた。

 どんな人間であれ、美咲の美貌を前にしては嫉妬する事すら烏滸がましい。あれは、老若男女問わず、万人が認める女性像の理想形だった。

 要もその一人である。完成された『美』を前に、ポカンと口を開けたまま惚けるしかない。

「……くっそー。何食ってたらこんなんに育つんだよ。同じ生活したら私もこんなんになれねぇかなぁ」

 しかし、誰もが美咲の容姿に見とれる中、常に自分の道を全力疾走し続ける染井だけが、心中の不満を吐露していた。

「染井先生」

「あぁ、悪い、本能で喋ってた。お前の席はあそこだ。後ろのドアの近く」

 常に本能剥き出しの様な性格の染井は、悪びれた様子など微塵も感じさせない傲岸不遜な態度のまま、顎で空いた席を指す。

 予め用意されていた席。風通しの良いドア側は、冬場は寒いからという理由で空席だったのだ。

(……あっ。でも、あそこの席って、)

 と、要は不安げな表情をする。教室の丁度中央に位置する要から離れたその席は、不二春音の隣席であった。

 座席を確認した美咲は、無表情を崩さぬままに、歩き出す。

 カツ、カツと。騒がしくなく、静かすぎる事もない、しかし凛とした気品のある靴音を立てて、美咲は歩む。

 一挙手一投足の全てにおいて高次元――いや、別次元の美しさを惜し気なく醸し出しながら、要の隣を通り過ぎる。その行く先は、不二の隣だ。

「や。俺、不二春音。しばらく隣だから、よろしくな」

「……こちらこそ」

 唯一の隣席である不二が軽く挨拶するも、件の美咲は冷たい双眸で一瞥し、すぐに逸らしながら着席する。

 ちらりと要が教室を見渡すと、誰もが美咲を注目していた。名は体を表す典型の様な美少女の登場に、目を離せる者など存在しなかった。

 ただ一人、要を除いて。

(……不二くん、ちかっぱ嬉しそう)

 無愛想で冷たい印象ではあるが、この世の者とは思えない程に完成された美少女が、隣にやって来たのだ。不二は勿論、男女共に予期せぬ幸運に胸をときめかせるものだろう。

(しゃーないよね。奈木さん、むっちゃ美人やもん)

 皆の注目を知ってか知らずか、美咲は淡々と教材を机に仕舞っている。いや、本当に関心がないのだろう。気後れを隠している訳でもなく、実に自然に、真に流暢な指遣いである。

「ふむ……一限目は数学(わたし)か。とりあえずHR終わらせて休み時間、んで一限目は自習にしてやろう。奈木への質問はその時に勝手にやれ。私はそれを口実にサボるから」

 コイツ、何で教師をやってるんだろう……。クラスメイト全員の声が幻聴(きこ)えた気がした。

「あ、先に言っとくけど、無駄に騒ぐんじゃねぇぞ。後で怒られんの私なんだから。騒いだらクラス全員で連帯責任、ミレニアム問題を一個解くまで毎日居残りさせてやる」

 懸賞金は私が貰うがな、と捨て台詞を吐きながら、染井は気怠そうに教室を出て行った。普通の教師ならば冗談で済みそうな無理難題だが、染井なら本気でやりかねない……というか本気でやらせるつもりだろう事を、二年九組の生徒は知っている。

 斯くして、恐ろしく厳かな質問タイムに突入した。担任の強制監禁就労命令というプレッシャーを前に、クラスメイトらは内緒話でもする様なテンションで話しだす。

 負の方向に一致団結したクラスメイトは、誰一人として騒ぐ事なく、一限目の数学(自習)を乗り切る事となった。



 三限及び四限目は、一〇組との合同体育だった。と言っても、そろそろ師走に入ろうかと言うこの時期の体育など、消化項目でしかない。

 男子はソフトボール、女子はテニスという無難な科目だ。一部の遊びたい盛りの生徒が楽しくスポーツに興じているものの、大半の生徒は携帯電話か携帯ゲームを弄ったり、校庭の隅で談笑している。また、教師はそれを黙認している。

 知久は、何故か男子に混じってソフトボールをやっていた。ピッチャーマウンドに立つ彼女は、現役野球部員もいる一〇組チームを相手に、完封試合(ノーヒットノーラン)を達成しようとしている。もう許してあげないと、野球部の井坂くんが泣きそうだ。

 と、そんな事を考えながら、要は右翼側(ライトスタンド)で知久の勇姿を眺めている。見学組の要だが、他の生徒とは事情が違う。体操服には着替えず、セーラー服のままだ。

「こんにちは。えっと……雛鳥さん?」

 独りきりだった要を見かねたのか、単に話し相手を探していたのか、はたまた別の事情があったのか。同じくセーラー服のままの美咲が、声をかけてきた。

「あ、な、奈木さん。こんにちは……」

「隣いいですか?」

「はは、はい! どぅ、どうぞどうぞ!」

 突然の来訪者に慌てながら、そそくさと美咲に隣を譲る。他に誰かがいる訳ではないので、その行動に全く意味がないという事実に気付かない。

「な、奈木さんは、テニスに参加せんと?」

「まだ、制服も体操服も持ってないんですよ。これはレンタルなんです」

「あ、そういうのもあるっちゃねぇ。知らんかった」

「急な転校でしたからね。染井先生に聞いた話では、貴女も急な転校だったとの事ですが」

「う、うん……」

 美咲の言葉に対し、要の口を濁す。無性に居たたまれなくなり、美咲から目を逸らしてソフトボールの観戦を再開する。

 丁度、攻守を交代するところだった。今度は九組の攻撃である。先頭バッターは三番打者である知久だ。

「あ、次、知久やん。知久ー! 頑張ってー!」

「ハッハッハ! 任せろ!」

 要の声援に応える様に、金属バットでレフトスタンドを指す。ホームラン宣言である。先程から女子に完封されておいて、今更プライドも何もないだろうが、これには一〇組の生徒もカチンと来たらしい。急激に湧き上がった闘志がありありと見て取れる。

「彼女は?」

「あ、あの娘は日下部知久。私の友達とよ」

「元気な方ですね。ソフトボールの事はよく分かりませんが、活き活きしてて楽しそうです」

「う、うん! そう! そうっちゃん! 知久はむっちゃ優しいし、いっつも楽しそうとよ! まあ、時々……っちゅーかしょっちゅう私に意地悪もするけど、でも、私の大切な友達っちゃんね」

 知久の話題になるや否や、急に美咲の方に振り返り、饒舌に語り出す要。その豹変ぶりに驚いたのか、今まで無表情だった美咲は、キョトンと目を丸くしていた。

 キィン、という甲高い金属音。外角(アウトコース)低めを狙い放たれた速球(ストレート)を、知久が引っ張ってレフトまでかっ飛ばした音である。硬球の様に小さく重い球とは違い、大きく軽いソフトボールではホームランとまではいかず、外野手の頭上を抜けただけに留まった様だ。

 レフトがボールに追い付き、ショートに中継した時、知久は既に三塁(サード)に到着していた。恐るべき俊足である。

「要ー! 見てたー!?」

「見とったよー! やっぱ知久つやかぁ!」

 三塁上でピョンピョンと飛び跳ねる知久に、右手を大きく振りながら応える要。美咲と話している時とはまるで態度が違う。

 美咲に対し、人見知りをしているだろう事を考慮しても、彼女が知久に信頼を置いている事がよく分かる。

「……うっ」

 無表情に冷静な目で観察していた美咲だが、不意に要が呻き声を上げた事に気付く。右手で口元を抑え、今にも嘔吐しそうな程に青ざめている。

「雛鳥さん、大丈夫ですか? 顔色が悪い様ですが……」

「ん、……へ、平気と。いつもの事やけん」

 慢性的な貧血持ちである、と要は語る。華奢な体は今にも頽れそうで、呼吸が荒い。

 要の急な体調不良を前に、流石に美咲も無表情ではいられず、狼狽した。そんな気配を真っ先に察したのか、二人の生徒が駆け寄ってきた。

「要!」

「雛鳥!」

 ソフトボールを中断し、血相を変えて駆け寄ってきたのは、知久と不二だった。二人は要の背中をさすったり、額に手を当てて体温を確認したり、手慣れた調子で要を介抱している。

 知久や不二の邪魔になると判断したのか、美咲は少し離れ、様子を窺う。

「知久、不二くん……平気よ。ソフト、戻っていいけん……」

「それ、本気で言ってんなら、本気で怒るわよ?」

「日下部と同意見だ。いいからじっとして……いやもう面倒だ、保健室に連れてく」

 言うが早いか、不二は要の肩と太ももに手を回し、軽々と持ち上げた。あまりに唐突な事態に、貧血も忘れ、要はキョトンと目を丸くしている。

「えっ、ちょっ!? ふ、ふふ、不二くん!?」

「日下部。先生に報告よろしく。あと、伊東に代打頼むって言っといてくれ」

「一人で大丈夫?」

「心配ねぇよ。雛鳥、超軽ィから」

 ケラケラと軽く笑ってみせながら、不二はゆっくりと歩き出す。

「いや、それもあるっちゃあるけど、そういう事じゃなくて……」

「だから、『心配ねぇ』ってば」

 最初はゆっくり、次第に早足で。それでも抱えた要に負担がかからない様に、上半身は極力揺らさない様に。絶妙な力加減で、不二は保健室へ駆けていった。

 知久は知久で、不二を信頼しているのか、二人が去っていった方角を嘆息混じりに見つめていた。

「……何だったんですか?」

 急に手持ち無沙汰となった美咲は、知久に説明を要求する。

 言い草が気に入らなかったのか、別の要因があるのか。ほんの一瞬だけ敵意を醸し出したものの、美咲に振り返って答える。

「聞いたんでしょ? あの子、慢性的な貧血を抱えてんのよ。はしゃぎすぎたせい……っつーか私のせいか。すっげー自己嫌悪」

「貧血……」

「そ、貧血。『見たまま』よ」

 軽口で不機嫌を誤魔化し、ストレッチをしながら歩き出す。これ以上話す事はないという意思表示だろうか。

 美咲も特に聞き返すつもりはなかった。

「伊東ー! 不二が代打やれってさー!」

 グラウンドの隅で携帯ゲームに興じていた数名のグループに向かって叫ぶ知久。彼女は彼女で、普段通りに過ごすつもりらしい。

 そこに、雛鳥要はいない。



「ふ、不二くん、不二くん! も、もうここでいいってば!」

「保健室まですぐそこだ。それまで我慢しろ」

「は、ハズいとって! この格好ハズいとって!」

「誰も見てねぇよ」

 所謂お姫様抱っこのまま、不二は廊下を走る。周囲に人気はない……と言っても、要の言う「恥ずかしいと思う対象」が不二である以上、抱えられて走っている現状は物凄く恥ずかしい。

 冬の張り詰めた冷たい空気と、反して熱い不二の体。ジャージ越しには分かりづらいが、細身かと思いきや、意外としっかりした体をしている。

 走る度に持ち上がる前髪も、女の子の様に細い首周りも、力強く回した腕も。全てが要の心を惑わせる。

 抱えられているのは、恥ずかしい。情けないくらいに恥ずかしい。

 でも――このままずっと、時間が止まって欲しいとも思う。

 右手を少し伸ばせば、易々と不二の顔に届く。そのまま抱き寄せて仕舞いたい衝動に駆られる。

(――それは、いけん)

 出来るか出来ないかの問題ではない。

 赦されない。

 それは、雛鳥要には、赦されない。

「ほら、着いたぞ」

 心に芽生えた背徳感を抑えているうちに、保健室に到着していた。要をゆっくり静かに降ろし、細い肩を抱いたまま引き戸を開ける。

 保健室には誰もいなかった。

「あれ、留守か。保健医が保健室を空けるってどうなんだよ」

 先に要をベッドに座らせ、机の上にある利用名簿に名前を書く。

 隣のベッドにも誰もいない。他の利用者のない保健室で、要と不二は二人きりだった。

(……あ~。これは何か、ちかっぱやばかね)

 こう、雰囲気(シチュエーション)的に。より細部まで言うなら少女マンガ的に。

 この空気に浸っていると、抑制が利かなくなりそうだ。要はさっさと布団にくるまる事にした。実際、不二の事を差し引いても、先程から頭の中がしっちゃかめっちゃかにかき乱されて気分が悪い。吐き気さえする。

 記帳し終わった不二が要に近付く。頭まで布団を被せていても気配を察知した要は、反対側に寝返る。

「雛鳥。職員室にいるって書き置きがあったから、報告してくる。その後はすぐ授業に戻るから、こっちには寄らないと思う」

「……うん。ごめんね、不二くん。授業の邪魔しちゃって」

「保健委員だからな。雛鳥が気にする事じゃねぇよ」

 気を遣って笑う不二。それは要を安心させようとした言葉だったのだろうが、要の心の奥底に何かが突き刺さった。

 仕事だからしょうがない、と。そう言われた気がした。

 無論、それは要にとって当たり前の話ではある。知久はまだしも、不二が要を気遣う理由など、その程度でしかないのだ。

 分かっている。

 理性(アタマ)では分かっている……のに、

 何故だか、ほとほと見当も付かないが、要の目尻に涙が浮かぶ。

 布団で顔を隠していて良かったと、要は思う。ただでさえ、要は他人に不快感を与えるのだ。こんな情けない顔を見せて仕舞ったら、それこそ――嫌われるかも知れない。

 今以上に。

 だから、顔は見せない。見せられない。

「……ごめん、不二くん。ちょっと疲れとうみたい。……寝るね」

「うん、ゆっくり休め」

 顔は見えないが、声は明るい。ただ、不二の気配が静かに遠ざかる。

「……嘘」

「え?」

 引き戸が開かれる音とほぼ同時に、悪戯好きな子供の様な口調で、不二が呟く。

 いつもの明るく優しい声とは違う。別人なのではないかと思える程、あどけない声音。

「俺、本当は、雛鳥がいたから保健委員に立候補したんだよ」

 不二の言葉は何も難しい事はない。にも拘わらず、理解が追い付かない。要の脳が停止した。

「おやすみ」

 いつも通りの、明るく優しい声を残し、今度こそ不二は保健室を後にする。

 誰もいない、一人きりの保健室で、要は右手を動かす。

(……勘違い、しそうになるけん、そげん事言わんでよ)

 期待してもいいのだと、思って仕舞う。

 要に赦されない事が、赦されるのだと、思って仕舞う。

 それは全部幻なのだと、自分に言い聞かせる。

 言い聞かせながら、右手は左手の裾を掴む。

 歪つな体を、掴む。

(だって、私、こんな体やん……)



 左半身がぽっかりと歪んだ体を抱き締めて。

 誰もいない保健室でただ一人、泣き続けた。

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