『秋霖の食卓、金木犀の香るころ』
しとしとと降り続く秋霖が、アスファルトを鈍い鉛色に濡らしていた。
傘をすぼめてスーパーの自動ドアをくぐった志乃は、入り口すぐの野菜売り場でぴたりと足を止める。
「……にひゃくきゅうじゅうえん」
値札を二度見した。ほうれん草の、心なしか細身の一束が290円。隣の小松菜ですら190円の札を掲げて涼しい顔をしている。秋の長雨のせいで青菜が高騰しているニュースは見ていたけれど、いざ手にとろうとすると、伸ばしかけた指先がすっと引っ込んでしまった。
不思議なものだな、と二十三歳の志乃は思う。
肉売り場で少し奮発する時や、魚売り場で家族が好きな大ぶりの赤エビが490円で並んでいるのを見た時は、「たまにはいっか」「喜ぶ顔が見たいし」と迷わずカゴに入れられるのに。どうして青菜の290円には、これほど高いハードルを感じてしまうのだろう。茹でてしまえば片手に収まるほど小さくなってしまう儚さのせいだろうか。
カゴの中には、すでに真っ赤なエビが誇らしげに収まっている。
メインは決まり。問題は彩りだ。揚げ物や炒め物に偏って茶色一色になりがちな食卓に、どうしても緑を添えて綺麗に整えたい。
志乃は売り場をくるりと回り直した。
青菜が予算オーバーなら、別のルートで攻めるまでだ。
濃い緑のピーマンに、鮮やかなオレンジのニンジン、そして手頃な値段のオクラを素早くカゴへ滑り込ませる。デザート用の果物も添えれば、青菜で摂れなかった栄養も彩も、きっと格好がつくはず。
「雨続きで大変ななか、届けてくれてありがとうございます」
カゴに入った野菜たちを見つめ、志乃は心の中でそっと手を合わせた。天候に悩まされながら育ててくれた生産者さん、雨の中を運んでくれた流通の方、きれいに並べてくれた小売りの方。そして高くて買えなかったほうれん草の棚にも、「今日はごめんなさい」と小さく頭を下げた。
買い出し袋を抱えてアパートの階段を上ると、どこからかふわりと甘い匂いが鼻先をくすぐった。
見上げれば、濡れた枝のあちこちに小さな橙色の花がびっしりと咲いている。金木犀の香りが、雨の冷たさを包むように秋の幸せを運んできてくれていた。
帰宅した志乃は、ベランダへ続く窓を少し開けた。
室外機の脇の植木鉢には、種を蒔いた覚えもないのにいつの間にか力強く生えてきた青紫蘇が茂っている。「ごめんね、ちょっと拝借」と、瑞々しい緑の葉をぷつんと数枚ちぎった。
じゅうじゅうと香ばしく焼き上がる赤エビの塩焼き。
ピーマンとニンジンの甘辛いきんぴら。
茹でて輪切りにし、鰹節を散らしたオクラ。
そして、茶色に傾きかけた皿の端に、ちぎりたての青紫蘇をすっと添える。
「わあ、今日エビじゃん! 豪華!」
部屋に戻ってきた家族が、皿を見て嬉しそうに目を輝かせる。
「青菜は高くて買えなかったから、オクラと紫蘇でごまかしたんだけどね」
「全然いいよ、香ばしくてすごくおいしい」
殻をむきながら頬張る笑顔を見て、志乃の胸の奥がじんわりと温かくなった。
高い葉物野菜は買えなかったけれど、知恵と工夫を重ねた我が家の食卓は、今日も旬で満ちている。
『おいしいものをおいしいねと食べられるのは至福の時』
心の中でそう呟きながら、志乃も箸を伸ばした。
網戸越しに吹き込む夜風が、再び金木犀の甘い香りをそっと運んでくる。
秋の長雨の夜、温かな湯気と笑顔に包まれながら、志乃は炊きたてのご飯を幸せそうに口に運んだ。
◇◇◇
明太子283円。数の子わさび漬け321円を買ったのは内緒の話w




