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『私ににキスできますか?』

『愛故に君を想う』

作者: りあと
掲載日:2026/08/11

あの子と出会ったのは7年前――。

鏡越しに映る瞳を見た瞬間、胸の奥で小さな鐘が鳴るような感覚があったのを、今でも鮮明に覚えている。

当時、俺は二十四歳。札幌の中心部にある、昼夜を問わず客の絶えない大型サロンで、ようやくスタイリストとしてデビューを果たしたばかりの駆け出しだった。自分の技術にまだかすかな不安を抱えつつも、一丁前の美容師としてハサミを握る高揚感の中にいた。そんなある日、フリーの客として指名が入ったのが、当時高校二年生、十七歳になったばかりの陽葵ひまりだった。

セット椅子に腰掛けた彼女は、どこかピンと背筋が伸びていて、同年代の少女たちとは纏う空気の凛々しさが違っていた。制服の襟元からのぞく首筋は白く、すっと細い。

「今日はどうされますか?」

俺が緊張を隠しながら声をかけると、彼女は鏡を通じてまっすぐに俺を見つめ、「毛先を揃えて、全体を扱いやすくしてください」と、よく通る声で答えた。

黒髪のミディアムヘアにハサミを入れながら会話を交わすと、彼女は照れくさそうに、四歳の頃からクラシックバレエを続けているのだと教えてくれた。

「舞台の上では、首のラインや髪のまとめ方一つで、全身のシルエットが変わるんです」

そう語る彼女の瞳には、まっすぐな情熱が宿っていた。髪の一本一本にまで神経を研ぎ澄ませているかのようなその姿勢に、俺の手元にも自然と熱が入る。ハサミを通す指先から伝わってくる髪のなめらかさ、そして自分の夢をまっすぐに語る横顔に、俺はスタイリストとしての責任感以上に、人としての強い惹かれ付きを感じていた。

施術が終わり、お会計の時に彼女が「あの、次からも凪さんにお願いしてもいいですか?」とはにかんだ。その時に初めて書いてくれた住所と名前のカルテが、俺にとっての宝物になったのは、それからすぐのことだった。

それからの1年間、陽葵は二ヶ月に一度、約束通り俺を指名してサロンに足を運んでくれた。

学校のこと、発表会のこと、毎日の過酷なレッスンのこと。彼女が語る言葉はどれも新鮮で、カット中の短い時間は、慌ただしい大型サロンの喧騒の中で、俺にとっても特別な癒やしのひとときになっていった。

季節が巡り、秋が深まった頃。彼女はいつもより少し疲れた表情でやってきた。

「最近、コンクールに向けた練習がきつくて……。上手く踊れなくて、先生にも怒られてばかりなんです」

鏡の中の彼女は、今にも折れてしまいそうなほど小さく見えた。十七歳の少女が背負うには、その夢はあまりに重く、ストイックなものに思えた。

俺にできるのは、彼女の髪を美しく整えることだけだ。

「陽葵ちゃんの髪は、すごく綺麗で芯がある。丁寧に手入れされているのが伝わってくるよ。それって、毎日自分とちゃんと向き合って努力している証拠だと思う」

シャンプー台で温かいお湯を流しながら、俺はそっと言葉を紡いだ。

「だから、大丈夫。自分の体を信じて、明日のレッスンも頑張って」

バックシャンプーの椅子から起き上がった彼女の目は、少し潤んでいた。けれど、仕上げのブローが終わる頃には、出会ったあの日と同じ、凛とした眩しい笑顔を取り戻してくれていた。

「ありがとうございます、凪さん。私、もっと強くなります」

そう言ってサロンを後にする彼女の背中を、俺はガラス越しに見送った。夕暮れの札幌の街へと歩き出す彼女は、やはりどこか特別で、胸の奥がチクリと痛むのを覚えた。

まだ十七歳と、二十四歳。

一人のスタイリストと、大切なお客様。

引き合わされたばかりの二人の距離は、まだ鏡の表と裏のように、触れられそうで触れられない、もどかしい純粋さに満ちていた。

出会いから二年目。陽葵は俺の指名客として定期的にサロンに通ってくれるようになっていた。髪を整える短い時間が、慌ただしい日常の中で俺にとっても心地よい救いになっていた。

彼女が高校三年生になり、進路の選択を控えた頃から、その表情には以前よりもどこか大人びた憂いが混ざるようになっていた。

「凪さん、私、本当にこのままでいいのかなって、たまに不安になるんです」

ある初夏の午後、カットクロスに包まれた陽葵が、鏡の中でぽつりと言った。

「周りの友達はみんな大学受験の準備を始めていて……。私だけ、見えない未来に向かってずっと踊り続けているような気がして」

いつも凛としていた彼女が見せた初めての弱音に、俺の手がわずかに止まる。

「不安にならない人間なんていないよ」

俺はハサミを置き、彼女の目線に合わせて少し腰を落とした。

「俺だって、毎日自分の技術に怯えてる。でもね、陽葵ちゃんが髪の一本にまで命を懸けてバレエに向き合っている姿を見て、俺はいつも力をもらってるんだ。陽葵ちゃんの選んだ道は、絶対に間違ってないよ」

鏡越しの視線が交差する。彼女の瞳が小さく揺れ、すぐに吸い込まれそうなほど強い光を取り戻した。

「……凪さんにそう言ってもらえると、不思議と全部大丈夫な気がしてきます」

はにかむように笑った彼女の頬が、ほんのりと赤みを帯びていた。その瞬間、俺の胸の奥で、あの出会った日の小さな鐘が、今度はもっと激しく音を立てた。

彼女をひとりの女性として意識し始めている自分に、俺は気づかない振りをすることしかできなかった。彼女はまだ、十八歳にも満たない高校生なのだ。

そんな折、俺は業界誌主催のヘアスタイルコンテストに挑むことになり、思い切って陽葵にモデルを依頼した。

「私でいいんですか? 凪さんの大切なコンテストなのに」

驚く彼女に、俺は「陽葵ちゃんの持つ、あの芯のある美しさを表現したいんだ」と熱を込めて伝えた。ただの技術の証明ではなく、俺の目に見えている「彼女だけの輝き」を世界に示したい――それは、美容師としての野心以上に、男としてのエゴに近かったのかもしれない。

彼女は少し頬を赤らめ、嬉しそうに頷いてくれた。

休日を返上して行った仕込みや撮影の時間、コンテストに向けた夜のサロンは、二人だけの特別な空間だった。

髪型をどう見せるか、どんな角度が彼女の首筋を一番美しく引き立てるか。何度も髪に触れ、視線を交わすたび、言葉にできない熱量が二人の間に積み重なっていく。

コンテストは見事に入選。二人で手を取り合って飛び上がらんばかりに喜んだ。その眩しい笑顔を見た時、胸の奥で熱いものが跳ねた。

だが、喜びの余韻が冷めやらぬ中で、彼女は少し寂しげな、けれど決意に満ちた目を向けて言った。

「凪さん、私、高校を卒業したらヨーロッパにバレエ留学することになりました」

世界を目指して羽ばたこうとしている彼女の背中を、俺が引き止める理由なんてどこにもなかった。心から「おめでとう」と声を張り上げながらも、遠くへ行ってしまう寂しさが胸の奥に冷たい影を落とした。

三年目。陽葵は約束通り、海を越えてヨーロッパへと旅立っていった。

出発の数日前、彼女は日本での「見納め」として、俺のサロンに髪を整えにやってきた。

「向こうに行ったら、しばらく凪さんに髪を切ってもらえなくなっちゃいますね」

鏡に映る彼女は、髪をバッサリと切るわけでもないのに、どこか名残惜しそうに自分の毛先を見つめていた。

俺はいつしか、彼女をひとりの女性として強く意識するようになっていた。けれど、当時の彼女はまだ十七歳から十八歳になろうかという未成年。そして何より、命を懸けてバレエに打ち込む大切な存在だ。世界へ羽ばたこうとする彼女の邪魔だけは絶対にしたくなかった。六歳年上の大人として、一人のスタイリストとして、俺は己の感情に固く鍵をかけ、兄のように、見守る者に徹しようと心に決めていた。

「向こうでも、ちゃんと髪のケアするんだよ。水が変わると傷みやすくなるから」

「はい。凪さんに教えてもらった通りにやります」

旅立つ彼女の背中を、俺は笑顔で押し出すことしかできなかった。空港へ見送りに行く勇気すら、当時の俺にはなかった。もし行ってしまえば、抑え込んでいる感情がすべて溢れ出して、彼女を引き止めてしまいそうだったからだ。

彼女が日本を離れてからの半年間、札幌の街は驚くほど静かに感じられた。

時折届く、異国の景色や慣れない生活を綴った短いメッセージだけが、俺と彼女を繋ぐ唯一の糸だった。時差のせいで、俺が眠りにつく頃に彼女が目覚め、俺がハサミを握っている時間に彼女はレッスンに励んでいる。物理的な距離が、そのまま心の距離になっていくような焦燥感が、常に胸の奥におりのように溜まっていた。

そんな中、留学から半年後、一時帰国した陽葵は、真っ先に俺のサロンへ足を運んでくれた。

「凪さん!」

サロンのドアが開いた瞬間、そこに立っていた彼女は、出発前よりも少し痩せて、けれど見違えるほど凛々しいオーラを纏っていた。

ヨーロッパの石畳の街並み、厳格なレッスン、言葉の壁にぶつかった失敗談――彼女はセット椅子に腰掛けると、鏡越しに、留まることなく面白おかしく語り続けてくれた。

「ルームメイトと自炊したんですけど、お米が上手く炊けなくて!」

くるくると変わる表情、弾むような声。遠い世界へ行ってしまっても、俺の前で見せる素朴な笑顔はあの日のままで、俺はただ愛おしく彼女の言葉に耳を傾けていた。

ハサミを持つ指先から伝わってくる彼女の髪は、約束通り丁寧に手入れされていた。その確かな手触りに、遠く離れていても彼女の中に自分の存在が少しだけ残っていたのだと、身勝手な救いを感じていた。

だが、そんな幸福な時間も束の間、彼女の視線はすでに、さらに高い場所へと向けられていることを、俺は薄々気づき始めていた。

四年目。ヨーロッパでの課程を終えた陽葵が本格的に帰国した。久しぶりの再会に胸を躍らせたのも束の間、彼女の口から飛び出したのは更なる挑戦だった。

「私、次はニューヨークに行きます。ブロードウェイの舞台に挑戦したいの」

サロンのセット椅子に座る彼女の瞳は、出会った頃よりもずっと強く、ギラギラとした野生的な輝きすら放っていた。バレエという伝統の枠を飛び越え、世界の頂点のエンターテインメントに挑もうとする彼女の姿は、あまりにも眩しかった。彼女の成長のスピードは、俺の想像を遥かに超えていた。

その頃、二十七歳になった俺もまた、美容師として相応のキャリアと自信を深めていた。大型サロンでも指名売上トップを争うようになり、技術的にも成熟してきた自負があった。

「実は俺も、自分の店を持つ準備を進めてるんだ。自分の城を構えて、トップを目指す」

俺がそう明かすと、陽葵は自分のことのように目を輝かせて祝福してくれた。

「すごい、凪さん! 私もニューヨークで頑張るから、凪さんも札幌で一番のお店を作ってね!」

お互いに夢を追いかける同志として、鏡越しに固いエールを送り合った。彼女の言葉は純粋な応援だった。けれど、その眩しすぎる笑顔が、俺の胸の奥にある暗い感情をチクリと刺した。

彼女はもう、俺の手の届かない世界へ行ってしまうのではないか。

ニューヨークという街で、もっと洗練された大人たちに囲まれ、俺のことなど簡単に忘れてしまうのではないか。

渡米してしまう彼女への耐えがたい焦燥感と、「世界に挑む彼女に見合う男でありたい」という肥大化した功名心が、俺の足を少しずつ狂わせていたのかもしれない。

「今の俺の貯蓄じゃ、普通の物件しか借りられない。でも、陽葵に恥じないような、札幌の中心部で誰もが憧れるような高級サロンを作らなきゃいけないんだ」

夜、誰もいなくなったサロンで一人、資金計画書を睨みつけながら、俺は冷たい汗を流していた。身の丈に合わない過大な融資、高額な内装費、立地への異常なこだわり。冷静な経営判断など、当時の俺にはできていなかった。ただ、彼女と対等でいるための「形」が欲しかったのだ。

彼女の出発が近づくにつれ、俺の焦りは極限に達していた。髪を整えに来る彼女の前では、どこまでも「余裕のある頼れる大人」を演じ続けながら、裏では膨らみ続ける借金の数字に押し潰されそうになっていた。

「凪さん、行ってきます。私の髪、ずっと凪さんに切ってもらったままだから、向こうでも絶対に負けない」

渡米の直前、そう言って愛おしそうに髪に触れた陽葵を、俺は力強く抱きしめることさえできなかった。

心のどこかで、自分の嘘と見栄がバレてしまうのを恐れていたのだ。歪んだプライドを抱えたまま、俺は彼女をニューヨークへと見送り、そして引き返せない破滅への一歩を踏み出してしまった。

五年目。陽葵が半年ぶりに一時帰国した。その時にはすでに、俺は札幌の中心部から少し離れた場所に、念願だった自分のサロンをオープンさせていた。

資金繰りの都合で当初の計画を変更せざるを得ず、人通りの少ない路地裏に構えた小さな店。それが俺の「城」の現実だった。

オープン初日の昼下がり、陽葵は両手に溢れんばかりの大きな花束を抱えて、息を切らせて店に駆けつけてくれた。

「凪さん、開店おめでとう! すごく素敵なお店!」

ガラスの扉を勢いよく開け、飛び切りの笑顔を咲かせてくれた彼女の姿に、一瞬だけ胸の痛みが消える気がした。

けれど、俺が浮かべた笑顔の裏には、重い嘘と焦燥が張り付いていた。

現実の経営は厳しかった。「腕さえ確かなら、どんな場所でも客はついてくる」という甘い過信から、俺は無理な出店のために、引き返せないほどの額の借金を背負ってしまっていたのだ。オープンして間もないというのに、路地裏の店に新規の客はなかなか根付かず、数字は毎日伸び悩んだ。夜、シャッターを閉めた後の静まり返った店内で、電卓の無機質な音だけが響く。通帳の残高が減っていく恐怖に、夜も眠れないほどの資金繰りの圧迫感に苛まれていた。

だが、アメリカで孤独に夢を追い続ける彼女の前で、無様な男ではいたくなかった。自分の失敗や経済的な苦境を悟られまいと、俺は「順調だよ」と平然を装い続けた。

そしてこの時、彼女は二十歳になり、大人としての気品を纏っていた。少女から女性へと移り変わる瞬間の、息をのむような艶やかさ。ずっと心の奥底に封印してきた想いが、その姿を目にした瞬間、もう抑えきれないほどに溢れ出していた。

「陽葵ちゃん。もしよかったら……次の休み、小樽までドライブに行かないか?」

俺の思い切った誘いに、彼女は少し驚いたような顔をした後、花がほころぶように微笑んで「喜んで」と応えてくれた。

小樽でのデートは、厳しい現実をすべて忘れさせてくれる、夢のように穏やかで甘やかな時間だった。

歴史を感じさせる古い運河沿いを、冷たい潮風に吹かれながら並んで歩いた。夕暮れ時、ガス灯が灯り始めた街並みの中で、ガラス細工のショップを覗く。オレンジ色の柔らかな光に照らされた、成人した彼女の横顔はどこか艶やかで、これまで見てきたどの舞台の彼女よりも美しかった。

「綺麗……」

ガラスの風鈴を見つめる彼女の肩が、寒さで小さく震える。俺は自然と体を寄せ、冷たい海風から彼女を遮るように肩を寄せ合った。

繋ぎたい。その細い手を今すぐ握りしめて、俺のものだと叫びたい。そんな衝動が泥泥と湧き上がるのを、俺は必死で抑え込んでいた。今の俺は、借金に追われる先の見えない男だ。彼女の輝かしい未来に、俺の泥を塗るわけにはいかない。

手をつなぎたい衝動を必死で抑えながら、俺はただ、隣にいる彼女の存在を全身で噛み締めていた。衣服越しに伝わる微かな体温、風に舞う彼女の髪の香り。

「私、凪さんといる時が一番安心します」

彼女がそっと呟いた言葉が、冷え切った俺の心に深く染み渡っていく。

(この幸せを守るためなら、どんな苦労でも耐えられる。どんな泥水だってすすってやる)

彼女の横顔を見つめながら、俺は心の中で静かに、けれど狂おしいほどの決意を固めていた。この時、二人の距離は確かに交わっていた。しかし、俺が抱えた「経営難」という現実の闇が、すぐそこまで足音を立てて迫っていることに、陽葵はまだ気づいていなかった。

六年目。彼女はアメリカ、俺は日本。太平洋を挟んだ遠距離でありながら、俺たちの連絡は頻繁になっていた。

時差を気にしながら交わすメッセージや電話。受話器の向こうから聞こえる彼女の声は、時折ひどく掠れていて、ニューヨークの厳しさを物語っていた。時給の低いバイトの話、個性的なルームメイトとのシェアハウス生活、過酷なミュージカルのオーディション、そして足の爪が剥がれるほど猛練習したダンスレッスンの日々のこと。

「今日ね、オーディションの最終審査で落ちちゃった。でも、次は絶対に掴み取るから」

悔しさに声を震わせながらも前を向く、彼女の日常が声を通じて届くたび、遠く離れていても心が繋がっている確かな実感があった。

しかし、俺の現実は日増しに困窮していた。

路地裏の店舗の返済は容赦なく毎月押し寄せ、生活は困窮し、精神的なゆとりすら根こそぎ奪われていく。毎月の返済日を前に、深夜の店内で一人、頭を抱えて冷や汗を流す日々。渡米して彼女を抱きしめに行く旅費などあるはずもなく、彼女が日本に帰国した時に豪勢にもてなすこともできない。

男として、恋する者として、全力で彼女を愛し、応援してあげられない自分の無力さ。彼女のまっすぐな情熱に触れるたび、自分の泥塗れの現実が惨めで、胸をかきむしられるような歯痒さを抱えていた。

そんなある日、半年ぶりに陽葵が帰国し、いつものように俺の店を訪れた。

その日はたまたま他の客の予約が途切れた時間帯で、夕暮れの光が差し込む静まり返った店内には、二人きりの空気が流れていた。

「凪さん、ただいま」

「おかえり、陽葵ちゃん。……少し、痩せたか?」

「そんなことないよ。引き締まったの」

久しぶりに見る彼女の姿は、大人の色香と、世界に挑む戦士のような鋭さを兼ね備えていた。これまで積み重ねてきた年月の重みと、会えなかった時間に募らせたお互いを想う熱量が、狭いサロンの中に、切ないほどのムードを醸し出していた。

ハサミを置き、髪を流すために彼女をシャンプー台へと案内した。

薄暗いシャンプーエリア。バックシャンプーの椅子に身体を預け、仰向けになった彼女は、ふと悪戯っぽい目をして俺を見上げ、思いがけない言葉を口にした。

「ねえ、凪さん。私の二の腕って、すごく柔らかくてすべすべしてるんだよ。触ると気持ちいいんだから」

あまりに唐突な、そして挑発的な言葉の意味を図りかねて、俺は固まった。世界へ挑む彼女の神聖な身体に、借金まみれの汚れた俺の手で触れていいはずがない。そんな自責の念をあざ笑うかのように、彼女は視線を逸らさず、まっすぐな瞳を向けた。

「ほら、触ってみて」

意を決して、俺はそっと彼女の二の腕に触れた。

息をのむほど吸い付くような肌のなめらかさと、その奥にある、激しいバレエで鍛えられた柔らかな弾力が指先に伝わってくる。陽葵は満足そうに小さく微笑むと、静かに目を閉じ、俺の指先が触れる感触を慈しむように、深く息を吐いた。

「……実はね、凪さん。私、タトゥーを入れたの」

閉じたままの瞳のまま、彼女は静かに、けれど明確な覚悟を孕んだ声で言った。

「オーディションに受かって舞台に出ても、露出の多い衣装で隠れる場所。……見て」

彼女は着ていた服の裾を、躊躇いもなくそっと捲り上げた。

シーツのように白い肌。腰の少し下、繊細な下着のラインのすぐ上に、まだ赤みの残る新しい小さな墨が入っていた。そこに刻まれていたのは――。

『凪』という、一文字の漢字だった。

息をのむ俺に、彼女はゆっくりと目を開け、潤んだ瞳で俺を見つめた。その瞳には、かつて舞台の夢を語った時以上の、狂おしいほどの情熱が宿っていた。

「どこにいても、どんなに離れていても、私は凪さん以外の男性に抱かれない。一生、あなただけのものだって……その覚悟をこの肌に刻んだの」

借金にまみれた自分の惨めさ、店が潰れかけている現実、年齢の壁、美容師と客という境界線――。

その瞬間、俺の中で長年必死に保ち続けていた理性のブレーキが、けたたましい音を立ててすべて吹き飛んだ。

自分がどれほど経済的に惨めかとか、店の借金がどうとか、そんなちっぽけな迷いは一瞬で消え去った。俺はシャンプー台の椅子に横たわる彼女の細い身体を強く、壊れんばかりに抱きしめ、彼女の唇に熱い口づけを重ねた。

陽葵の手が俺の背中に回り、しがみついてくる。吐息が混ざり合い、お互いの鼓動が狂おしいほどに共鳴していた。二人の愛が、確かにひとつになった瞬間だった。

七年目。

ニューヨークに戻った陽葵から、俺の誕生日に小さな、しかしずっしりと重い小包が届いた。

包みを開けると、中には彼女がブロードウェイの喧騒の中で時間をかけて選んでくれたという、上質なレザーのハサミケースが入っていた。同封されていた手紙には、あのシャンプー台の夜の熱を帯びたままの、愛情に満ちた言葉が綴られていた。

『凪さんの手が、このケースからハサミを抜くたびに、私のことを思い出してね』

俺はお返しとして、船便でも日持ちする日本の食べ物や、彼女が「世界で一番落ち着く匂い」とお気に入りだった俺の店のオーガニックシャンプーを段ボールいっぱいに詰め込んでアメリカへ送った。

離れていても、体を通わせた俺たちの絆は絶対に揺るぎないものだと、この時は信じて疑わなかった。

――異変が起きたのは、それから間もなくのことだった。

いつ送っても、どんなに時差があってもすぐに返ってきたメッセージへの返信が、ある日を境にぷつりと途絶えた。

一日、三日、一週間。

「きっと、念願の舞台のオーディションで忙しいのだろう」

最初は自分にそう言い聞かせていた。だが、半月が過ぎ、一ヶ月が過ぎても、画面の既読マークすらつかない。不穏な胸騒ぎのなか電話をかけても、受話器からは「お客様の都合により……」という無機質で冷たいアナウンスが流れるだけだった。

胸を突き刺すような嫌な予感に耐えかねた俺は、顧客カルテの束を狂ったようにあさり、七年前に彼女が初めて書いてくれた実家の住所と電話番号を探し出した。何度も発信ボタンを押したが、呼び出し音は虚しく響くだけで誰も出ない。

居ても立ってもいられなくなった俺は、営業中だった店の鍵を閉め、記憶を頼りに札幌市内の彼女の実家へと車を走らせた。

閑静な住宅街に立つ、古びた一軒家。

震える指でインターホンを押すと、しばらくして重いドアが開き、疲れ果て、白髪の混じった表情の女性が現れた。陽葵のお母さんだった。

「……あの、美容師の、凪と申します。陽葵ちゃんと連絡が取れなくて……」

俺が名前を告げると、お母さんはハッと目を見開き、それから堰を切ったようにぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。

「……凪さん、よく、来てくださったわね。陽葵から、いつも聞いていました」

家の中に通され、奥の和室にある仏壇の前に案内された瞬間、俺は自分の正気を疑った。

暗い部屋の中、線香の煙の向こうに飾られていたのは、あの日小樽の海風の中で見せたような、眩しい、眩しすぎる笑顔の陽葵の遺影だった。

「日本に帰ってくるはずだったんです……。凪さんを、驚かせるんだって言って……」

お母さんは声を詰まらせ、絞り出すような声で真実を語ってくれた。

陽葵は、少しでも日本への帰国費用を安く抑え、その分を俺へのプレゼントや二人のこれからの生活資金に回すため、ニューヨークからロサンゼルスへ一旦飛び、そこから格安の経由便で日本へ向かうルートを選んでいたという。

だが、そのアメリカ国内を移動するローカル便が、激しい乱気流のなかで機体のトラブルを起こし、山間部に墜落したのだと。

日本の航空会社の事故ではなく、アメリカの地方都市を結ぶ小さなローカル便の悲劇だったため、日本でのニュース報道は大々的なものではなかった。

日々、破綻寸前の店の経営と資金繰りに追われ、テレビを見る余裕すら失っていた俺は、彼女がこの世を去ったことすら知らずに、呑気に、静まり返った店で彼女からの返信を待っていたのだ。

「これ……陽葵の荷物から見つかったんです。凪さんに渡してほしいって、生前、ずっと言っていたみたいで」

お母さんから震える手で手渡されたのは、周囲がわずかに焦げ、血と炎の匂いが染み付いたような、小さなメモ帳だった。

震える手でページをめくる。そこには、事故の直前、激しく揺れる機内で書かれたであろう、乱れた文字が残されていた。

『凪さん、大好き。怖いよ。でも、凪さんのシャンプーの匂いがするから大丈夫。日本に帰ったら、もう離れない。ずっと一緒に暮らそうね。凪さんのハサミで、また私の髪を――』

文字はそこで途切れていた。

頭の中が真っ白になり、世界からすべての色が失われた。

声にならない叫びが喉を突き破り、俺はその場に崩れ落ち、床に頭を打ち付けながら号泣した。

どうして、もっと早く彼女を迎えに行ってやらなかったのか。

どうして、借金やプライドなんてちっぽけなものに囚われて、「愛している」と全霊で抱きしめ続けてやらなかったのか。自分の店が上手くいかないからと、経済的な理由を言い訳にして、彼女を100%全力で愛し、守り抜くことから俺は逃げていたのではないか。

悔やんでも、悔やみきれなかった。血を吐くような後悔が、何年経っても俺の心を苛み続けている。

あの子と出会ってから、七年。

陽葵がいなくなったこの世界で、俺は今もハサミを握り続けている。無理な経営だった路地裏の店は潔く畳み、もう一度ゼロからやり直して、小さな、けれど確かな、技術だけを売るサロンを作り直した。もう見栄を張る必要も、嘘をつく必要もない。

鏡に向かうたび、ハサミを動かすたび、ふとした瞬間にあのシャンプー台の匂いや、彼女の二の腕の柔らかさ、そして彼女の腰に刻まれた、一生消えない『凪』の文字が脳裏をよぎる。

あの子が命を懸けて踊り、命を懸けて私を愛してくれたように、俺もまた、この手で誰かの髪を切り続ける。もう二度と、大切なものから目を背けたりはしない。

どれだけ時が流れようと、この胸の痛みと後悔が消えることはないだろう。

けれど、俺の魂は、あの日、彼女の腰に刻まれた文字とともに、永久に彼女のものだ。

愛、故に君を想う――。

逢いたい。逢いたいよ、陽葵。

俺は今日も、冷たい札幌の風の中で、空を見上げて君の名を呼んでいる。





この作品は『私にキスでできますか?』の作中作品です。

作品中に主人公がラノベから純文学へとチャレンジという。

場面で書いた作品との位置付けになっており、

結果、それを書いている私自身が無理して、背伸びした。

難しいテーマの作品を書いた結果、生まれたものです。

もっと良い作品を書きたい。これが本音です。

読んで不快になった方には申し訳ないです笑

放置しておいて下さい。


ちなみにこれを書いた事になっている

ユン・シウは売れっ子で資産家設定なので、

凪のお金に困る事による弊害とはを考えて書いている。

裏設定です。


お金に困っていたら人を

思いっきり愛せないのではないか?

そして、ずっといろんな事を悔やむのではないか?

これも書いた私自身、想像してみたテーマです。

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