つまらない人生を歩んでいた男はトラックにはねられたのに異世界転生しないで現実世界で再生しました。
「つまらない」が口癖になってから、どれくらい経ったのか、男はもう覚えていなかった。
朝、目が覚める。仕事に行く。帰ってくる。何かを食べる。眠る。
どこにも引っかかりがない。楽しいとも苦しいとも思わない。ただ、なぞるだけのような日々だった。
最新のゲームは買って三日でやめた。どんなスポーツも一週間と続いたことがない。人と話すのは、最初から苦手だった。何を言えばいいのかわからないし、何を言われても返せない。沈黙が長くなると、相手の表情が少しだけ固くなる。その変化だけは、よくわかった。
だから一人でいるほうが楽だった。
楽で、そして、何もなかった。
特に生きる理由は持ち合わせていない。
別に死んでもいい、とは思っていた。
けれど、死にたい、とは思っていなかった。
屋上に立ったことはない。ロープを買ったこともない。
ただ、ふとしたときに思うだけだった。
事故にでも遭えばいいのに、とか。誰かをかばって死ぬとか、そういう、まっとうな理由のつく終わり方があればいいのに、とか。
自分で終わらせるほどの力はない。
でも、終わるなら、それでいい。
大災害とか英雄的死とか。
”死”まで他人任せのくだらない妄想。
そんなとりとめのない考えを、男は自分の中で薄く飼っていた。
*
それは、平日の昼過ぎだった。
横断歩道の手前で信号を待っていた。周りには数人の人がいて、誰もがスマートフォンを見ていたり、どこか別の方角を見ていたりした。
男も、ぼんやりと前を見ていた。
そのとき、右側から小さな影が飛び出した。
子どもだった。まだ低い身長で、ランドセルが背中に揺れている。信号は赤のままだった。
同時に、トラックのエンジン音が近づいてくる。
音が、妙にくっきりしていた。
次の瞬間、男の身体は動いていた。
考えるより先に、足が出た。腕が伸びた。
何かを判断する余地はなかった。
ただ、そこにあるものに向かって、身体が勝手に差し出されていた。
子どもの肩に触れた感触だけが、はっきりと残った。
それから先は、何もなかった。
*
目を開けると、白い天井だった。
どこかで機械が一定のリズムで音を立てている。鼻の奥に、消毒液の匂いがかすかに残っていた。
身体が重かった。というより、どこまでが自分の身体なのか、よくわからなかった。
視線を動かすと、腕にギプスが巻かれているのが見えた。脚も同じようだった。頭には何かがぐるぐると巻かれている感覚があった。
生きている、と、遅れて理解した。
しばらくして、医者が来て、簡単な説明をした。
交通事故。重傷。奇跡的に助かった。しばらく入院が必要。
言葉は理解できたが、実感はなかった。
ああ、そうですか、と男は答えた。
その声が、自分のものなのかどうかも、少しだけ曖昧だった。
*
日がいくつか過ぎた。
時間は、ゆっくり進んだ。
あるいは、止まっているようにも感じられた。
テレビをつけても、内容が頭に入ってこない。
窓の外を見ても、特に何も感じない。
ただ、痛みだけははっきりしていた。
身体のあちこちが、遅れて主張してくる。
それでも、男は思っていた。
死ななかったのか、と。
少しだけ、拍子抜けのような感覚があった。
あのとき、うまくいけば、そのまま終わっていたのかもしれない。
そう考えてみても、特別な感情は湧かなかった。
残念とも、よかったとも、思わない。
ただ、続いてしまった、というだけだった。
*
面会が来たのは、それからさらに数日後だった。
看護師に呼ばれて、男はゆっくりと上体を起こした。
病室に入ってきたのは、見知らぬ男女だった。
二人とも、どこかぎこちなく、しかし丁寧に頭を下げた。
「このたびは……本当に、ありがとうございました」
男は少しだけ首を傾けた。
言葉の意味をつかむのに、わずかな時間がかかった。
「あの、先日の事故で……うちの子を、助けようとしてくださって」
そこで、記憶が少しだけ繋がった。
飛び出した子ども。トラックの音。伸ばした腕。
ああ、と男は小さく声を漏らした。
「……いえ」
それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
母親のほうが、視線を落としたまま続けた。
「でも……あの子は……」
言葉が途中で途切れた。
父親が、その続きを引き取るように言った。
「助かりませんでした」
静かな声だった。
どこかで、何かが少しだけずれた。
男は、ゆっくりと息を吸った。
「……そうですか」
それしか言えなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
部屋の空気が、少し重くなった気がした。
「本当に……ありがとうございました。そして……申し訳ありませんでした」
母親が、深く頭を下げた。
男は慌てて首を振った。
「いえ……気にしないでください」
違う、と心のどこかで思った。
何が違うのかは、うまく言葉にならなかった。
「お子さんを亡くされて……大変でしたね」
それも、どこか他人事のような響きだった。
父親は小さくうなずいた。
「……はい」
それ以上の会話は続かなかった。
二人は、もう一度頭を下げて、病室を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに遠く感じられた。
*
残された静けさの中で、男はしばらく動かなかった。
頭の中で、何かがゆっくりと回っていた。
あのとき、自分は何をしたのか。
助けようとしたのか。
それとも——。
死ねたらいい、と思っていた。
理由のある死に方。
誰かのために、という形。
あの瞬間、身体は勝手に動いた。
そこに、どんな意図があったのか。
考えてみても、はっきりしなかった。
ただ一つだけ確かなのは、考える前に動いていた、ということだった。
もし、それが「死ぬため」だったのなら。
もし、それが「助けるため」だったのなら。
どちらにしても、もう結果は変わらない。
子どもは死んで、自分は生きている。
その事実だけが、静かにそこにあった。
*
夜になった。
病室の灯りが少し落ちて、外の気配が濃くなる。
男は、天井を見上げたまま、目を閉じなかった。
痛みは、相変わらずあった。
けれど、それとは別に、胸の奥に、かすかな違和感があった。
何かが、残っている。
うまく言葉にできない、薄い熱のようなもの。
あの親の顔が浮かんだ。
頭を下げる姿。言葉を選ぶ間。
そして、あの子ども。
顔は思い出せない。ただ、小さな身体と、肩に触れた感触だけが残っている。
助けられなかった。
その事実が、少しだけ、胸に沈んだ。
沈んで、それでも消えなかった。
男は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまらない」とは、言わなかった。
代わりに、何か別の言葉が浮かびかけて、形にならずに消えた。
たぶん、初めてだった。
自分の中に、何かが引っかかっていると感じたのは。
*
翌朝、看護師がカーテンを開けた。
光が、思ったよりも強く差し込んできた。
男は目を細めた。
眩しさの中で、ほんの少しだけ、思った。
もう少し、生きてみるかもしれない。
理由は、はっきりしなかった。
何かをしたいわけでも、誰かに会いたいわけでもない。
ただ、あのとき動いた身体のことを、もう少し考えてみたいと思った。
あれが何だったのか。
どこから来たのか。
それを知らないまま終わるのは、少しだけ、惜しい気がした。
窓の外で、車の音がした。
同じような日常が、そこに流れている。
男は、しばらくそれを聞いていた。
やがて、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、かすかに残った感覚があった。
それは、後悔にも似ていて、少し違っていた。
悲しみにも似ていて、少しだけ温かかった。
消えきらない何かが、確かにそこにあった。




