第9話 家臣団の影
吉良家の城館を辞したあと、
早苗は深く息を吐いた。
義安は穏やかで、誠実な人物に見えた。
だが――
その背後にある“家臣団”の存在が、
胸の奥に重くのしかかっていた。
(当主が良くても、家臣がどう思うかは別……
戦国時代って、そういうものだよね……)
橘神宮へ戻ると、
雅信が静かに言った。
「御使い様……
明日、吉良家の家臣団が、
御使い様にお目通りを願いたいとのこと……」
早苗は息を呑んだ。
「家臣団……」
「はい。
武断派、文治派、双方の重臣が参るとのこと……
どうか……お気をつけくださいませ」
雅信の声には、
長い乱世を生きてきた者の警戒が滲んでいた。
翌日。
橘神宮の拝殿に、
吉良家の家臣団が姿を現した。
武断派の武士たちは、
鋭い眼光で早苗を値踏みするように見つめている。
その衣は質素だが、
戦場の匂いを纏っていた。
文治派の者たちは、
穏やかな表情を装いながらも、
その目は計算と探求に満ちていた。
(……これが、戦国の“政治”……)
早苗は胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、表情には出さない。
巫女装束の袖を整え、
静かに一歩前へ進んだ。
その姿は、
神域の光を纏ったように静謐で、
家臣団の視線が一瞬揺れた。
最初に口を開いたのは、
武断派の重臣・山名兵部だった。
「御使い様とやら……
社領が急に豊かになったと聞く。
その“知恵”とやら、
どこから湧いたものか……
確かめさせていただきたい」
その声は、
礼を装いながらも、
明らかな警戒と疑念を含んでいた。
(……やっぱり、警戒されてる)
早苗は静かに答えた。
「私は……
ただ、知っていることをお話ししただけです。
神の力ではありません」
兵部は鼻で笑った。
「知っているだけで、
田畑が豊かになり、
商家が賑わい、
民が笑う……
そんなことがあるものか」
その言葉に、
文治派の重臣・小野寺左京が口を挟んだ。
「兵部殿。
御使い様の知恵は、
我らの知らぬ理に基づいているのかもしれませぬ。
まずはお話を伺うべきかと」
兵部は不満げに黙った。
(……派閥争い……
ここにもあるんだ)
早苗は胸の奥で小さく息を吸った。
左京が静かに尋ねた。
「御使い様。
社領の田畑に“生垣”を作ると聞きましたが……
あれは、何のためでございましょう?」
早苗は一瞬だけ迷った。
生垣は“隠された守り”だ。
本当の目的を悟られてはいけない。
(……大丈夫。
カモフラージュの理由は考えてある)
早苗は静かに答えた。
「渓谷の風は強いです。
生垣は、風よけになります。
稲が倒れにくくなり、
実りが増えます」
左京は目を細めた。
「なるほど……
風よけ……
確かに理に適っております」
兵部が口を挟んだ。
「だが、あれは妙に密で、
まるで壁のようではないか」
早苗は微笑んだ。
「密に植えたほうが、
風をよく防げますから」
その微笑みは、
神域の光を帯びたように柔らかく、
兵部は一瞬言葉を失った。
(……危なかった)
左京が続けた。
「では、作物の乾燥棚は……?」
「保存のためです。
冬を越すために、
干し野菜や干し魚は欠かせません」
左京は深く頷いた。
「御使い様の知恵は……
まるで未来を見通しておられるかのよう……」
兵部はなおも疑いの目を向けていたが、
その視線は次第に揺らぎ始めていた。
そして――
家臣団の視線が、
一斉に早苗へ向けられた。
「御使い様。
吉良家は弱き家中にございます。
どうか……
お力をお貸しくだされ」
その声は、
畏敬と、期待と、
そしてわずかな恐れが混ざっていた。
早苗は胸に手を当てた。
怖い。
不安だ。
でも――
守りたい。
その思いが、
静かに、しかし確かに形を成した。
「……私にできることなら、
お力になります」
その瞬間、
拝殿の外から風が吹き、
木々がざわめき、
光が揺れた。
まるで、
早苗の決意を祝福するように。
等々力の巫女、橘早苗。
その知恵は、ついに吉良家家臣団の心を揺らし始めた。
だが同時に――
彼女は誰にも悟られぬ“守り”を胸に秘めていた。




