第8話 吉良家当主・義安との謁見
吉良家の城館は、橘神宮から半刻ほどの場所にあった。
谷を抜け、緩やかな丘を越えると、
小さな城館が朝の光を受けて静かに佇んでいる。
大きくはない。
だが、名門の誇りを感じさせる端正な造りだった。
「御使い様……どうかお気をつけて」
雅信の声は、いつになく緊張を帯びていた。
早苗は深く息を吸った。
胸の奥には、昨夜から続く不安がまだ残っている。
――豊かになれば、奪われる。
――守るためには、悟られない守りが必要。
その思いが、静かに胸の奥で燃えていた。
城館の門が開き、
家臣たちが整然と並んで頭を下げた。
「橘神宮の御使い様、お通りくだされ」
その声は丁寧だが、
どこか探るような気配があった。
(……やっぱり、警戒されてる)
早苗は胸の奥で小さく息を呑んだ。
だが、表情には出さない。
巫女装束の袖を整え、静かに歩を進めた。
その姿は、
戦国の城館には不釣り合いなほど静謐で、
まるで光そのものが歩いているようだった。
広間に通されると、
その奥に一人の男が座していた。
吉良家当主・吉良義安。
四十前後、
鋭さよりも静かな知性を感じさせる眼差し。
名門の誇りを背負いながらも、
どこか疲れを帯びた表情。
だが、早苗を見ると、
その目がわずかに揺れた。
「……これが……
橘の神の御使い……」
義安はゆっくりと立ち上がり、
深く頭を下げた。
「遠路、よくぞお越しくだされた。
吉良家当主、吉良義安にございます」
早苗も静かに頭を下げた。
「橘早苗と申します。
どうか、お顔をお上げください」
義安は顔を上げ、
しばし早苗を見つめた。
その眼差しには、
畏敬と、探るような警戒と、
そして――
わずかな希望が混ざっていた。
「……社領に、
奇跡のごとき変化があったと聞き及んでおります」
早苗は胸がざわついた。
(奇跡……
そう思われるのは嬉しいけど……
“奇跡”は、奪われる理由にもなる)
義安は続けた。
「田畑の実りが増し、
商家の賑わいが戻り、
民の顔に笑みが戻ったと……
それはすべて、御使い様の御言葉ゆえと」
早苗は静かに答えた。
「私は……
ただ、知っていることをお話ししただけです。
神の力ではありません」
義安は首を振った。
「知恵は力にございます。
時に、兵よりも強い。
我らのような小家中にとっては、
何よりの宝でございます」
その言葉に、
早苗の胸がひやりとした。
(……やっぱり。
豊かさは、力になる。
そして力は、奪われる理由にもなる)
義安は続けた。
「御使い様。
どうか、吉良家にもお力添えを……」
その瞬間、
広間の空気がわずかに張りつめた。
雅信が息を呑む。
清正は拳を握りしめた。
早苗は静かに義安を見つめた。
「……吉良家をお助けすることは、
この社領を守ることにも繋がりますか?」
義安は驚いたように目を見開いた。
「……御使い様……
その通りにございます。
吉良家が弱れば、
社領もまた危うくなる。
我らは運命を共にしております」
その言葉は、
嘘ではなかった。
だが、
“力を求める者の言葉”でもあった。
早苗は胸に手を当てた。
怖い。
不安だ。
でも――
守りたい。
その思いが、静かに形を成した。
「……分かりました。
私にできることなら、
お力になります」
義安の顔に、
安堵と歓喜が同時に浮かんだ。
「御使い様……!
なんとありがたい……!」
だが――
早苗は心の奥で静かに呟いた。
(でも……
全部は渡さない。
この社領を守るために、
“隠された守り”は絶対に必要)
風が吹いた。
広間の障子がわずかに揺れ、
光が早苗の姿を包んだ。
その姿は、
まるで神話の巫女のように静かで美しかった。
等々力の巫女、橘早苗。
その知恵は、ついに吉良家の中枢へと届いた。
だが同時に――
彼女は誰にも悟られぬ“守り”を胸に秘めていた。




