第31話 水の記憶、時の彼方へ
小田原が落ち、
北条の旗が静かに降ろされてから数日。
等々力の村には、
ようやく本当の静けさが戻っていた。
人々は橘神宮に集まり、
神に感謝の祈りを捧げた。
「御使い様……
本当に……ありがとうございました」
「橘神宮があったから、
この村は生き延びました」
その声は、
どこか涙を含んでいた。
早苗は微笑み、
ただ静かに頷いた。
(よかった……
本当に……よかった)
胸の奥に広がる安堵は、
言葉にできないほど深かった。
その夜。
早苗は拝殿の奥で、
ひとり静かに座していた。
灯火が揺れ、
榊の影が壁に映る。
(終わった……
守れた……
みんな……生きている)
その瞬間、
ふっと視界が揺れた。
(……あれ……?)
胸の奥が急に重くなり、
体が前へ倒れ込む。
「御使い……さま……?」
誰かの声が遠くで聞こえた。
だが、
その声はすぐに闇に溶けた。
***
――揺れる。
――光が差す。
――電車の走行音。
早苗はゆっくりと目を開けた。
目の前には、
見慣れた通学電車の窓。
制服の袖。
膝の上のカバン。
(……え……?)
車内アナウンスが流れる。
「次は、等々力――等々力です」
早苗は息を呑んだ。
(戻ってきた……
本当に……?)
夢のような、
けれどあまりにも鮮明な記憶が胸を満たしていた。
火の匂い。
水面の光。
竹筒の音。
村人たちの笑顔。
雅信の声。
清正の背中。
そして――
橘神宮。
数日後。
早苗はひとり、
等々力渓谷を訪れた。
現代の渓谷は、
静かで、
どこか優しい。
木々の緑は深く、
水の流れは澄んでいる。
だが――
そこに橘神宮の社殿はない。
拝殿も、
石段も、
竹筒の音もない。
(……そうだよね。
あれは……
全部……)
夢だったのかもしれない。
妄想だったのかもしれない。
でも――
早苗はそっと水面を覗き込んだ。
渓谷の水は、
あの日と同じように美しく揺れていた。
光が反射し、
金色の模様が水底に踊る。
風が吹き、
木々がざわめく。
その音は、
どこか懐かしく、
どこか誇らしかった。
(……ありがとう)
早苗は小さく呟いた。
(私は……
あの時代で……
確かに生きた)
水面が揺れ、
光がきらめいた。
まるで、
あの渓谷が
“おかえり”
と言ってくれているようだった。
等々力の巫女、橘早苗。
その物語は、
静かな水の記憶となって、
彼女の胸に永遠に残り続けた。




