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等々力の巫女、戦国を征く  作者: 双鶴


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第3話 渓谷を出て、民のもとへ

朝餉を終えると、橘雅信が静かに頭を下げた。


「御使い様。

よろしければ、本日は社領の様子をご覧いただければと存じます。

民も、御使い様のお姿を一目見られれば、どれほど心強いことか……」


早苗は胸の奥が少しだけざわついた。

まだこの世界に来て間もない。

怖さも、不安も、完全には消えていない。


けれど――

窓の外に広がる渓谷の緑を見ていると、

そのざわつきが、風に溶けていくように感じられた。


「……はい。行ってみたいです」


そう答えると、雅信は深く頷いた。


「では、どうかこちらへ」



橘神宮の境内を抜けると、

渓谷の緑がゆっくりと開けていった。


木々のざわめきが遠ざかり、

代わりに、土の匂いと、陽光の温かさが広がっていく。


「ここが……社領の田畑……」


早苗は思わず息を呑んだ。


谷を抜けた先には、

柔らかな丘陵に沿って広がる田畑があった。

朝の光を受けて、若い稲が風に揺れ、

その一面の緑が、まるで波のようにうねっている。


「美しい……」


思わず漏れた言葉に、雅信は微笑んだ。


「この地は、神々の恵み深き場所にございます。

渓谷の水が豊かで、土も肥えておりますゆえ……

民は皆、この地を誇りに思っております」


その言葉の通り、

田畑では農民たちが穏やかな表情で働いていた。


早苗の姿に気づくと、

彼らは驚いたように手を止め、

次の瞬間、慌てて頭を下げた。


「み、御使い様……!」

「本当に……本当においでくださった……!」


年老いた農夫の目には涙が浮かんでいた。

若い娘は胸に手を当て、震える声で言った。


「御使い様が現れたと聞いて……

これで、この村も……守られるのだと……」


早苗の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


自分は、ただの女子高生だ。

クイズが得意で、少し顔が良いと言われただけの。

戦国の民を救えるような力なんて、何も持っていない。


けれど――

目の前の人々は、

自分を“神の御使い”と信じ、

その存在だけで救われると感じている。


その事実が、胸の奥に静かに沈んでいく。


「……私は……」


言葉が震えた。

けれど、逃げるような声ではなかった。


「私は、橘早苗と申します。

まだ何も分からないことばかりですが……

皆さんの力になれるよう、努めます」


農民たちの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがたき……!」

「御使い様……!」

「どうか、どうかお導きくださいませ……!」


その声は、風に乗って田畑に広がり、

緑の波が揺れた。



田畑を抜けると、

小さな商家の並ぶ通りに出た。


木造の店が軒を連ね、

味噌の香り、干物の匂い、

木工職人の槌の音が混ざり合う。


戦国の世でありながら、

ここには穏やかな生活の息遣いがあった。


「ここが……社領の町……」


「はい。吉良家の庇護のもと、

小さな町ではございますが、

皆、誠実に働いております」


商人たちも早苗を見ると、

驚き、そして深く頭を下げた。


「御使い様……!」

「どうか、この町をお守りくださいませ……!」


そのとき、雅信が静かに言った。


「御使い様。

この社領は、吉良家の配下にございます。

吉良家は名門ではありますが……

今は小さな家中にて、

我らのような寺社領も、決して安泰ではございませぬ」


吉良家――

歴史の授業で聞いたことのある名だ。

だが、こんなにも小さく、

こんなにも脆い立場だったとは知らなかった。


「……私が来たことで、

何か……変えられるのでしょうか」


思わず漏れた呟きに、雅信は静かに首を振った。


「御使い様がここにいてくださるだけで、

民は救われるのでございます。

どうか……どうか、この地をお見捨てなきよう……」


その声は、

長い不安の時代を生きてきた者の、

切実な願いだった。


早苗は胸に手を当てた。


怖い。

不安だ。

でも――


この人たちを、守りたい。


その思いが、

またひとつ、強くなった。


渓谷から吹く風が、

早苗の髪をそっと揺らした。


まるで、

その決意を肯定するように。


等々力の巫女、橘早苗。

その歩みは、静かに社領へと広がり始めていた。


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