第29話 裏切りの風、赤き甲冑の影
初夏の空は澄んでいたが、
その下を吹き抜ける風はどこか冷たかった。
その風が、
吉良家の城下から届いた一通の文を揺らしていた。
清正が震える声で読み上げる。
「……吉良家、北条家を離反。
小田原籠城より離脱し、
豊臣方へ降る」
広間に沈黙が落ちた。
雅信が呟く。
「……裏切り……」
早苗は静かに目を閉じた。
(分かっていた。
北条は滅びる。
吉良家は生き残るために、
豊臣へ走るしかなかった)
だが――
その選択は、
等々力に新たな影を落とすことになる。
その日の午後。
等々力の山道に、
赤い甲冑が現れた。
「……徳川家康公の軍勢……!」
清正が息を呑む。
赤備えの甲冑が陽光を反射し、
山道を静かに進んでくる。
その中心に、
井伊直政の姿があった。
家康軍は、
吉良家の屋敷を接収し、
宿舎として整え始めた。
兵たちの動きは無駄がなく、
まるで長くこの地を知っていたかのようだった。
(……これが、徳川の力)
早苗は胸の奥に冷たいものを感じた。
夕刻。
早苗は拝殿の前で、
徳川家康へ供出する武器と食糧を整えていた。
槍、弓、矢束。
米俵、干し魚、味噌、塩。
すべて、
村人たちが静かに運び出したものだ。
「御使い様……
これほどの量を……」
「必要なことよ。
秀吉公の下命でもあるし、
家康公の軍がこの地を通る以上、
協力を示さなければならない」
雅信は深く頷いた。
(神の地を守るための協力……
御使い様の言葉は、
嘘ではない)
そのとき――
吉良家の使者が怒りに満ちた顔で駆け込んできた。
「橘神宮!
何をしている!
武器と食糧を豊臣方に差し出すとは……
裏切りではないか!」
広場の空気が凍りついた。
だが、
その背後から重い足音が響いた。
赤備えの甲冑。
井伊直政が姿を現した。
「……裏切り、だと?」
吉良家の使者は青ざめた。
直政は一歩前に出て、
鋭い声で言い放った。
「橘神宮は、
秀吉公の下命に従い、
正しく協力しているだけだ。
それを非難するとは……
吉良家は豊臣の軍令を理解しておらぬのか」
使者は言葉を失った。
直政はさらに続けた。
「そもそも裏切りとは、
北条を捨てて豊臣に走った者のことを言う。
違うか?」
その言葉は、
雷のように響いた。
吉良家の使者は顔を真っ赤にし、
何も言えずに退いた。
早苗は静かに頭を下げた。
「井伊様……
ご助力、感謝いたします」
直政はわずかに頷いた。
「神の地を守る者を、
我らは尊ぶ。
恐れることはない」
その声は、
赤備えの甲冑とは対照的に、
どこか温かかった。
夜。
早苗は拝殿でひとり、
灯火の揺れを見つめていた。
(吉良家は裏切り、
北条は滅び、
徳川がこの地を支配する)
歴史の大河は、
もう誰にも止められない。
だが――
その中で、
等々力の地だけは守らなければならない。
風が吹き、
竹筒が鳴った。
「コト……コトン……」
その音は、
まるで“次へ進め”と告げるように響いた。
等々力の巫女、橘早苗。
その知恵は、裏切りと滅びの狭間で、
静かに、しかし確かな道を歩み始めていた。




