第2話 橘神宮の朝
橘神宮の参道は、朝の光を受けて静かに輝いていた。
木々の葉は露をまとい、風が吹くたびに細かな雫がこぼれ落ちる。
その一粒一粒が、まるで神域の息吹のように淡く光っていた。
「御使い様、どうぞこちらへ……足元にお気をつけくださいませ」
宮司の老人――名を橘雅信という――が、
震えるほど丁寧に早苗を案内した。
早苗はまだ、胸の奥に不安を抱えたままだった。
だが、渓谷の静けさと、神宮の清らかな空気が、
その不安を少しずつ和らげていく。
社殿の前に立つと、檜皮葺の屋根が朝霧を受けて淡く光り、
その姿はまるで古の神話から抜け出したようだった。
「ここが……橘神宮……」
思わず漏れた呟きに、雅信は深く頷いた。
「はい。代々、橘の神を祀り、この渓谷を守ってまいりました。
御使い様が現れた祠も、古くから“神の門”と呼ばれております」
“神の門”
その言葉が、早苗の胸に静かに落ちた。
自分は本当に、神の使いとして扱われているのだ。
戸惑いはまだ消えない。
だが、逃げ出したい気持ちは、少しだけ薄れていた。
社殿の中は、外の光を柔らかく遮り、
薄暗い中にも温かな気配が満ちていた。
香の匂いが静かに漂い、
木の床は磨き込まれて滑らかだった。
「こちらが、御使い様のお部屋にございます」
案内された部屋は、質素だが清潔で、
窓からは渓谷の緑が一望できた。
「……私の、部屋……?」
「はい。御使い様は橘神宮の巫女長としてお迎えいたします。
どうか、我らをお導きくださいませ」
巫女長。
その言葉に、早苗の胸がまたざわついた。
「わ、私……そんな……」
「御使い様は“橘”の御名を持ち、祠に現れられた。
それだけで十分にございます」
雅信の声は震えていた。
それは畏敬だけではなく、
長い不安の時代を生きてきた者の、切実な願いが滲んでいた。
「この社領は小さなものでございます。
吉良家の庇護のもと、細々と暮らしてまいりましたが……
戦乱の世、いつ何が起こるか分かりませぬ。
民は皆、不安を抱えております」
早苗は息を呑んだ。
戦乱。
乱世。
永禄。
歴史の教科書で見た文字が、
今は目の前の現実として迫ってくる。
「……私に、何ができるんだろう……」
思わず漏れた呟きに、雅信は静かに首を振った。
「御使い様がここにいてくださるだけで、
民は救われるのでございます」
その言葉は、重く、温かかった。
早苗は窓の外を見た。
渓谷の緑が風に揺れ、
水音が絶え間なく響いている。
美しい。
怖い。
でも――
この場所を、守りたい。
その思いが、胸の奥で静かに形を成していく。
「御使い様、朝餉の支度が整いました」
若い神官が頭を下げた。
名を橘清正という。
雅信の孫で、まだ十七ほどの少年だ。
彼は早苗を見ると、少しだけ頬を赤らめた。
「……あの……御使い様は……本当に、お美しい……
い、いえっ、失礼いたしました!」
早苗は思わず苦笑した。
現代でも“可愛すぎるクイズクィーン”と呼ばれた容姿。
だが、戦国の人々にとっては、
それが“神性”として映るらしい。
「ありがとう。案内してくれる?」
微笑むと、清正は一瞬固まり、
次の瞬間、胸に手を当てて深く頭を下げた。
「は、はいっ……! 御使い様……!」
その反応に、早苗は少しだけ肩の力が抜けた。
この世界は怖い。
でも、優しさもある。
そして――
自分を必要としてくれる人たちがいる。
渓谷の風が、そっと早苗の髪を揺らした。
まるで、背中を押すように。
等々力の巫女、橘早苗。
その新しい日常が、静かに始まろうとしていた。




