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等々力の巫女、戦国を征く  作者: 双鶴


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第1話 渓谷の目覚め

放課後の電車は、春の陽気を抱き込んだように温かかった。

窓の外を流れる街並みは夕暮れの光を受けて淡く滲み、

その揺らぎが、橘早苗のまぶたを静かに重くしていく。


制服の襟元に残る微かなチョークの匂い。

鞄の中には、今日のクイズ研究会で使った問題集。

「可愛すぎるクイズクィーン」と呼ばれ、

テレビにも出たことのある彼女だが、

今はただの女子高生として、

電車の揺れに身を預けていた。


車内アナウンスが遠くで揺れ、

その声が水面の向こうへ沈んでいくように聞こえた。


――少しだけ、目を閉じよう。


そう思った瞬間、

早苗の意識はふっと途切れた。




水音が、夢の底から早苗を呼び戻した。


それは、都会のどこにも存在しない、

岩を撫でる水の、千年の囁きだった。


まぶたを開けた瞬間、世界は緑に満ちていた。


頭上には、幾重にも枝を伸ばした木々が空を覆い、

葉の隙間からこぼれる光は、

まるで神が撒いた金砂のように揺れている。

湿り気を帯びた風が頬を撫で、

土と若葉の匂いが胸の奥まで染み込んでいく。


「……え……?」


声が震えた。

ここは等々力渓谷に似ている。

けれど、知っている渓谷とは違う。


空気が澄みすぎている。

静けさが深すぎる。

時間が、ゆっくりすぎる。


胸の奥がざわついた。

電車は?

学校は?

私は……どうしてここに?


身体を起こすと、背中に触れたのは苔むした石。

そのすぐそばに、小さな祠があった。

祠の前には朱塗りの鳥居。

その奥に、檜皮葺の社殿が静かに佇んでいる。


ふと、自分の姿に気づく。

白と朱の巫女装束。

袖は風に揺れ、陽光を受けて淡く輝く。


「……なんで……?」


動揺が胸を締めつけ、

視界がわずかに揺れた。

風が頬を撫でるたび、

その不安が渓谷の奥へ吸い込まれていくようで、

余計に心細さが募った。


胸がきゅっと縮む。

呼吸が浅くなる。

苔むした石の冷たさだけが、

この世界の“現実”を突きつけてくる。


そのとき、祠の前に立つ数人の男たちが、息を呑んだ。


「……伝承の通り……」

「祠に横たわり、光に包まれて現れる……」

「まさしく、橘の神の御使い……!」


宮司らしき老人が震える手で額を地につけた。

その声は、長く祈り続けた者の切実さを帯びていた。


「どうか……どうか我らをお導きくださいませ……

この橘神宮と、ささやかな社領を……

戦乱の世からお守りくださいますよう……」


“戦乱の世”

その言葉が、早苗の心に冷たい刃のように触れた。


戦乱?

そんな言葉、現代では歴史の教科書の中にしか存在しない。


「……あの……ここは……いつ、なんですか……?」


震える声で問うと、老人は驚いたように顔を上げた。


「いつ……と申されますか。

ここは永禄の末、戦の絶えぬ乱世にございます」


永禄。

乱世。

戦の絶えぬ時代。


その三つが結びついた瞬間、

早苗の背筋に冷たいものが走った。


――戦国時代。


息が止まりそうになった。

胸の奥がざわつきから、

やがて大きな波となって押し寄せてくる。


怖い。

帰りたい。

夢なら覚めてほしい。


そんな弱さが胸を満たす。

だが、目の前の宮司たちは――

震える声で、必死に祈りを捧げていた。


「お名を……お聞かせ願えますか、御使い様」


早苗は戸惑いながらも、答えた。


「……橘……早苗です」


その瞬間、宮司たちの表情が一変した。


「橘……!」

「橘神宮に、橘の御名……!」

「やはり……やはり伝承は真であった……!」


老人は涙を浮かべ、震える声で言った。


「橘の名を持つ御使いが、祠に横たわり現れる――

それが、我らが代々語り継いできた神の御告げ……

まさしく、あなた様こそ……

橘の神の御使いにございます……!」


早苗は言葉を失った。

自分の名字が、こんな形で“神性”を帯びるとは思わなかった。


怖さはまだ胸に残っている。

帰りたい気持ちも消えてはいない。

けれど――


宮司たちの震える声。

必死に縋るような眼差し。

この静謐な渓谷の空気。

そして、風に揺れる木々のざわめき。


それらすべてが、

早苗の心の奥に、そっと触れた。


――この人たちは、本気で私を頼っている。


その事実が、胸の奥の恐怖を少しずつ溶かしていく。

代わりに、静かで温かいものが満ちていく。


守りたい。

この人たちを。

この場所を。


その思いが、ゆっくりと形を成していく。


早苗は深く息を吸い、

震える心を押しとどめながら、ゆっくりと立ち上がった。


巫女装束の袖が風に揺れ、

光がその姿を包み込む。


――この人たちを、守らなきゃ。


その決意が胸に灯った瞬間、

渓谷の水音が、優しく響いた。


まるで、その歩みを祝福するように。


等々力の巫女、橘早苗。

その物語が、いま始まった。


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