何も起きない、という幸福
朝は、普通に来た。
鳥が鳴き、
水路の水が流れ、
誰かが火を起こす匂いがする。
誠は小屋の前に腰を下ろし、湯を沸かしながら空を見上げていた。
雲は高く、風は穏やかだ。
暑さはあるが、嫌な暑さじゃない。
「……何もないな」
独り言のように呟く。
『はい』
アイは、いつも通りの声で答えた。
『本日は特筆すべき異常、問題、緊急案件は確認されていません』
「だよな」
誠は、少し笑った。
かつては、
水が足りない。
食料が足りない。
道具が壊れた。
寒さが来る。
間に合わない。
“何もない”日なんて、なかった。
今は――。
畑では、村人が黙々と作業をしている。
誰かに急かされるわけでもなく、
誰かに怒鳴られるわけでもなく。
苗の様子を見て、草を抜き、
必要なら水路を少し調整する。
「誠、今日は水、少なめでいいな」
「ああ、朝露が残ってる」
それだけの会話。
だが、それで十分だった。
水車は回り、
ろくろは使われ、
干し物は風に揺れている。
すべてが、回っている。
『誠様』
「ん?」
『この村は、現在“安定期”に入っています』
「安定期か……」
『はい。急激な成長も、急激な危機もありません』
誠は、目を細めた。
それは、物語としては地味だ。
だが、生きるという点では――最高だ。
昼。
子どもたちは器に冷やした水を注ぎ、
味噌を溶いた汁をすすっている。
「これ、当たり前みたいになったな」
「前は塩だけだったのにな」
笑い声が、静かに広がる。
誠は、その光景を遠くから眺めていた。
(“当たり前”になったか……)
それは、誇らしくもあり、少し寂しくもあった。
だが――それでいい。
技術が“奇跡”であり続ける村は、長くは保たない。
“生活”になって、初めて意味を持つ。
『誠様』
「分かってる」
アイが何を言おうとしているか、もう分かる。
「俺がいなくても、回る村になったってことだろ?」
『……はい』
一拍の沈黙。
『それは、成功です』
誠は、深く息を吐いた。
「一年……か」
ここに来てから、季節が一巡した。
春に動き、
夏に育て、
秋に備え、
冬を越えた。
そして、また夏だ。
夕方。
西日が村を染める。
水田は黄金色になる前の、深い緑。
畑は整い、
貯蔵庫には余裕がある。
ミィナが隣に座った。
「……静かだね」
「うん」
「でもさ、悪くない」
誠は、頷いた。
「むしろ、最高だ」
何も起きない。
誰も困っていない。
誰も焦っていない。
それは――
一年間、積み重ねた結果だ。
夜。
星が、普通に瞬く。
誠は寝転び、空を見上げた。
『誠様』
「なんだ?」
『本年度の生存・安定・発展目標は、すべて達成されています』
「……そうか」
『お疲れさまでした』
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「ありがとう、アイ」
『こちらこそ』
風が、静かに吹く。
何も起きない夜。
それは、
この村にとって――
最大の成果だった。




