回り始めた日常
朝の空気が、少し重たい。
誠は小屋の前に立ち、深く息を吸った。
湿り気を含んだ風が肌にまとわりつく。冷えはもうない。完全に夏の入口だ。
「……暑くなるな、これ」
そう呟きながら、誠は水田の方を眺めた。
そこでは――
すでに作業が始まっていた。
田植え機が、一定の間隔で進んでいる。
泥を撹拌する道具が水面を揺らし、苗がまっすぐに並んでいく。
誰も指示を出していない。
声を張り上げる者もいない。
「次、こっちなー」
「そっちは水多めでいいぞ」
「了解」
短いやり取りだけで、作業は進む。
誠は、声をかけようとして――やめた。
(……言うこと、ないな)
かつては、道具の使い方を説明し、水の流れを確認し、失敗しないよう目を光らせていた。
だが今は違う。
誠が来る前から、作業は始まっていた。
誠が来ても、誰も振り向かない。
それが、少し不思議で。
そして、どこか安心だった。
『誠様』
アイの声が、静かに響く。
『作業進行率、良好です。
本日は特に介入の必要はありません』
「だよな」
誠はうなずいた。
水路は安定している。
苗の育ちも揃っている。
農具の消耗も、すでに村人たちが把握している。
誠がいなくても、回る。
(……いや、回ってる、か)
それが正しい表現だった。
⸻
昼前。
村の中央では、干し野菜の入れ替えが行われていた。
「これ、去年より減り遅いな」
「水が良かったからな」
「今年は余るかもしれんぞ」
“余る”。
その言葉が、誰の口からも自然に出てくる。
かつては考えられなかった響きだ。
誠はその会話を聞きながら、木陰に腰を下ろした。
「……夏だなぁ」
『はい。
作物・保存食・労働配分、すべてが安定期に入っています』
「安定、ね」
誠は笑った。
大きな成果も、劇的な変化もない。
だが、村は確実に“楽”になっている。
それが、夏なのだと――
誠はようやく理解し始めていた。
夕方、田んぼの水面が赤く染まる。
作業は、自然に終わっていた。
合図も号令もない。
ただ、日が傾いたから。
それだけの理由で。
誠は、静かにその光景を見つめていた。




