田植え前夜、苗と人の準備
発芽が確認されてから、村の空気は明らかに変わった。
苗床の周囲には、自然と人が集まらなくなった。
――いや、正確には「集まるが、入らない」。
誰もが一定の距離を保ち、遠巻きに見守っている。
「……踏んだら終わりだからな」
「誠殿が言ってたしな」
小声で交わされるその会話に、誠は少しだけ安堵した。
『現状、管理意識は良好です』
「放っといても守ってくれるなら助かるな」
『ただし、これからが本番です』
アイの声は淡々としているが、内容は重い。
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数日後。
苗床は一目で分かるほど変化していた。
細い針のようだった芽は、二枚目の葉を出し、色も濃くなっている。
「……増えすぎてないか?」
誠はしゃがみ込み、苗床を覗き込んだ。
『はい。密集しています』
「やっぱりか」
『このままでは養分と光を奪い合い、弱い苗が増えます』
「間引き、だな」
『はい』
誠は村人を集め、簡単に説明した。
「全部を育てるわけじゃない。強い苗を残す」
「もったいなくねぇか……?」
「気持ちは分かるけどな」
誠は、苗を一本指で示した。
「これとこれ。葉が太くて、まっすぐ伸びてるだろ?」
「……ほんとだ」
『初期段階での選別は、最終的な収量に大きく影響します』
「だそうだ」
納得した村人たちは、慎重に作業を始めた。
引き抜くのではなく、根元から切る。
「……これ、緊張するな」
「子どもより気を遣うぞ」
笑い声は出るが、手は真剣だ。
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間引きが終わった翌日。
苗は、明らかに“楽そう”に見えた。
隙間ができ、風が通り、葉が伸びる。
「……生き物だな、本当に」
『植物ですので』
「分かってるよ」
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次に行ったのは、“慣らし”だった。
『田植え前に、環境変化への耐性を付ける必要があります』
「どうするんだ?」
『水位を徐々に下げ、直射日光に当てる時間を増やします』
「いきなり田んぼに放り込まない、と」
『はい』
村人たちは、その説明を真剣に聞いていた。
「じゃあ、水やりは減らすのか?」
「昼は覆いを外す?」
「夜は?」
誠は一つずつ答える。
「段階的だ。急に変えるな」
『急激な環境変化は苗を弱らせます』
「だそうだ」
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同時に、田植えの準備も進んでいた。
田下駄、苗箱、植え付け用の道具。
冬の間に作ったものを引っ張り出し、確認する。
「これ、使えるか?」
「歪んでねぇな」
「縄は足りるか?」
誠は全体を見渡し、気づいた。
「……役割、決めといた方がいいな」
『推奨します』
村長と相談し、作業を分けた。
苗担当
水管理担当
田植え担当
道具整備担当
「全員が全部やると混乱する」
「任せた方が早ぇな」
自然と納得が広がっていく。
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夕方。
誠は苗床の前に立っていた。
風に揺れる若い苗。
もう“弱々しい芽”ではない。
『田植え適期まで、あと七日』
「いよいよだな」
『はい』
誠は深く息を吸った。
「……失敗したら、全部台無しだな」
『成功確率は高いです』
「それでも、怖いもんは怖い」
アイは、少し間を置いてから言った。
『誠様。恐怖を感じられるのは、ここまで本気で関わってきた証拠です』
「……そういう言い方、ずるいな」
『事実です』
空が赤く染まり、苗の影が長く伸びる。
田植えは、もうすぐそこだった。




