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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ある男の回想記

作者: 吉田 逍児

     1,はじめに

 先日は、安倍首相が利用するホテル『九段グフランドパレス』の『千代田』にて喜寿の祝いをしていただき、心より感謝、御礼申し上げます。しかしながら出席者の中に、私がどんな人生を送って来た人物なのか知らない人が多かったようですので、私としては、驚きでした。確かに私は一般の人と異なり、五里霧中の生き方をして来ました。身内の者からも変わり者と呼ばれているのは分かっています。そこで、この際、自分がどんな生き方をして来たのかを、回想しながら、その一部を綴ります。


     2,生い立ち

 私が生まれたのは、満州事変が起きた昭和6年(1931年)、出生地は、栃木市泉町。家は米穀卸問屋をしていた。この頃の日本は大日本帝国と称し、国内の景気を立て直そうと日露戦争で得た権益を確保する為、満州に進出し頑張っていた。ところが満州を守るという理由で、更に万里の長城を越えて、中国との戦争を始めてしまった。昭和12年(1937年)、盧溝橋事件が起こり、父、隆七が陸軍に召集された。私が小学校に入った時、父は日本の宇都宮陸軍59連隊から中国の万里の長城以南の非武装地帯に支那駐屯軍増強の為に派遣された。父が出征した後の小林家の家族は、祖父母と母と私たち四兄弟と妹二人の9人だったから、寂しさを感じることは無かった。ところが何故か、その二年後、父は豊台の駐屯部隊を除隊して、日中合弁の日華興業の勤務となった。日華興業は日本綿花株式会社の中国工場で、軍服などの製造をしていて、日中戦争が始まった為、軍人用品の製造が多忙になり、父は、そちらに回されたのだ。父は200人以上の従業員をかかえる工場の幹部になり、多忙を極めた為、母を中国に呼び寄せた。その為、母は昭和13年(1938年)12月、三歳の妹、昭子を連れて中国に渡った。隆七さんと結婚出来なければ、巴波川に跳び込んで死ぬと言った程、父に惚れ込んでいた母であるから、中国で内戦が始まっていることなど気にせず、神戸港から船に乗って出発した。当時の華北は『塘古停戦協定』により、平穏だったのだ。両親が中国に移住してからの栃木の家は祖父母が5人の子供たちの面倒を見た。後に残された私たち兄弟は、家事の手伝いをせねばならず、大変だった。子供だった私は大日本帝国の勝利の報に喜んでいたが、現実は違った。妹、和子が中国の小学校に入学する為、中国に行った昭和15年(1940年)九月、大日本帝国は日、独、伊の三国同盟を締結し、東条英機首相の考えに押され、東南アジアまで進出して戦うことを決定した。その為、アメリカに中国からの撤兵を要求され、昭和16年(1941年)12月8日、大日本帝国はアメリカとイギリスに宣戦布告、真珠湾攻撃を決行した。それからが大変、日中戦争や東南アジア侵略の解決が見えないまま大戦争を始めてしまったが為に全国民に困窮が待っていた。当時、小学生の私には戦争というものがどんなにか悲惨なものであるかが分っていなかった。兄、博が霞ヶ浦の予科練に入隊したのを恰好良いと仲間に自慢して喜んだ。ところが、戦時下の厳しい生活が始まり、昭和19年(1944年)には2番目の兄、基が南伊豆の第51震洋特別攻撃隊に入隊した。水上特攻艇に乗り、敵の軍艦に突っ込むのだという。死を覚悟した入隊だと知って恐ろしくなった。また栃木も空襲に見舞われるようになった。そんな恐怖を抱く中、昭和20年(1945年)8月初め広島と長崎に原爆を投下され、8月15日、敗戦を迎えた。結果、中国の石門(現在の石家荘)で暮らしていた私の両親と妹たちは日本に引揚げることになった。私たち日本で暮らす家族は、両親や妹が帰国出来るのか心配した。その心配が高じて翌年1月8日、祖父、柳太郎が亡くなった。そうとは知らず、両親は中国の混乱の中にいた。今まで平穏だった華北の環境は急変した。隣に住んでいたドイツ人医師の家族は即日、石門の街から消えた。ところが父たちは途中から中国に渡った妹、和子と初めに連れて行った昭子と現地で生まれた久子と啓子4人を連れて帰らなければならず、帰国に苦労した。安全の為に知り合いの中国人に依頼し、もといた豊台の部隊と連絡を取り合い、工場の従業員、張士明、馬豊年に護衛を依頼し、まずは石門から豊台に移動して、駐屯軍の連中と4月5日に集結した。そして4月17日、天津に近い塘古の港で、日本軍の戦車揚陸艦に乗り込み、煙台、仁川、釜山などを経て、4月27日、山口県仙崎港に上陸した。仙崎で一泊して下関に移動し、そこから神戸に行き、東海道線の汽車に乗り、東京に到着。上野駅で荷物の一部を盗まれたりしたが、大過なく、4月30日に帰宅した。実父、柳太郎の死去している事を知り、両親は大泣きした。戻った実家は米穀卸問屋を廃業し、タバコ販売と中国からの送金で生活していたが、これからの生活が大変なことは語るまでも無かった。そこで父は中国で工場長をしていた日華興業の親会社、日本綿花株式会社の東京事務所に行き、雇用をお願いした。しかし、敗戦後の混乱の中、どの企業も困窮しており、再雇用などしてくれなかった。苦慮した父は軍隊から帰還した息子たちを集め、履物卸商を開始した。履物といっても下駄造りだ。初めのうちは良かったが、衰退する業種だった。下駄より靴が売れるようになる時代だった。そんな時に、母、フミが病気になった。幼い子供たちを連れて、中国から引揚げて来た疲労と乳がんの為、家事も出来ず寝ている母を、父は『東京大学』医学部付属病院に入院させた。ところが母は、幼い子供がいるからと病院から逃げ出して来た。そんな母に2歳の妹,啓子の面倒を見ることなど、不可能だった。その啓子の面倒を私がすることになった。私は啓子を背負って中学校に通った。啓子が鳴くと、先生から叱られた。

「小林。泣き止むまで教室の外で立ってろ」

 私は、廊下の窓から黒板を覗きながら熱心に勉強した。その甲斐あって私は昭和22年(1947年)県立栃木高校の入学試験に合格した。その4月10日、私の母は私の高校生姿を見届けて、頑張ってねと言って、この世を去った。私が高校に進学したことで、我が家の家計は更に苦しくなった。中国で蓄財した資金も日毎に目減りし、対策を考えなければならなかった。タバコ専売権を売却したが、追い付かなかった。こうなったら母が生まれた青柳家に泣きつくしか仕方なかった。資産家の青柳家は栃木だけでなく、東京にも事業を展開し成功していた。結果、長男の博兄は非鉄金属を扱う、浅草の菊池商事で、次男の基兄は世田谷代田の青柳功三叔父の経営する米販売店で、三男の勇兄は浅草の靴屋の奉公人として働くことになった。お陰で、私は高校生活を自由奔放に楽しむことが出来た。以上が、私の20歳前の栃木での記憶と履歴だ。


     3,大学生になって

 昭和24年(1949年)私は早稲田大学文学部に入学した。教師になるつもりだった。父はこれから高校へと進学する妹たちがいるので、私を就職させる計画でいた。だが栃木高校の担任教師の高橋先生が、家にまでやって来て、是非、淳君を大学に進学させてやって下さいと説得したものであるから、父は私の大学進学を許可してくれた。『早稲田大学』に入学した私は、世田谷の梅が丘にある基兄の暮らすアパートから大学に通った。クラスの仲間と、将来、博士か大臣になりたいなどと夢を描いて勉学に励んだ。大都会、東京で暮らす仕合せに未来への希望を膨らませた。ところが翌年6月25日、突然、朝鮮戦争が勃発した。日本が太平洋戦争で敗戦国となった後、朝鮮半島の平和維持の為、北緯38度線を境にして、北にソ連軍が、南にアメリカ軍が駐留していたのだ。それが5年後の南北統一をめぐる政権争いで南北の意見が合致せず、南北での武力衝突が発生し、朝鮮戦争に変化してしまった。クラスの仲間の中には、再び学徒出陣のような悲劇が起こるのではないかと心配する者もいたが、私たちは憲法で戦争放棄を決めたのだからと、他人事で、余り心配しなかった。私は親しくなった学友、今井克己、小沢幹夫、西村光男、野村二朗たちと勉学に励んだ。また一方で日本映画『青い山脈』や『野良犬』などの他、外国映画『哀愁』や『嵐が丘』などを観て楽しんだ。また湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞したこともあり、全世界にも目を向けるようになった。私は梅が丘のアパートから、小田急線の電車に乗り、新宿まで行き、山手線に乗り換え、高田馬場の大学まで通うのが楽しくて仕方なかった。だが心配事もあった。或る日、浅草に勤める博兄がアパートにやって来て、父が再婚したと語った。末の妹が小学校に入学するのを前に、女手が必要だということで、近所の岩崎の小母さんが親戚の亀田家の未亡人を紹介したのだという。美人だという。その後妻になった女性が妹、昭子と同じ年齢の女の子を連れて来たので、博兄は家を出なければならず、電話局に勤める彼女の家で暮らすつもりだと語った。人生、男と女、いろいろだ。そんな私にも中村綾子というガールフレンドがいた。彼女は私と同じ、梅が丘に住んでいる『日本女子大学』の学生で、通学時に電車の中で時々、出会ううちに、彼女から声を掛けられ親しくなった。私は、そんな彼女と、時々、デートした。渋谷に映画を観に行く約束をした日曜日のことだった。私が小田急線の梅が丘駅前の渋谷行きバス停留所で彼女が現れるのを待っていたのであるが、彼女は中々、現れない。着替えに手間取っているに相違なかった。男性は女性の時間のルーズさに閉口させられる。

「何、やってんだ。バスが来てしまうよ」

 と呟いた瞬間、私は誰かに殴られたような、ガーンという強烈な衝撃を受けた。身体が仰け反り、尻餅をついた。自分では何事が起ったのか分からなかった。激痛で見体中が痺れた。口内に生暖かい吹き出すものを感じたので、顔をしかめ、掌で抑えた。血がべっとり。何が何だか分からず腰が抜けたのか、立ち上がることも出来なかった。多くの人が見ている前で床に手をつき、いざりながら、狼狽していると、バスから車掌と運転手が飛び降りて来て、私を介抱してくれた。私は、そこで気を失った。その後、どうやって病院に連れて行ってもらったのか、途中の痛みがどうだったのか、記憶にない。気づいたら病院のベットに寝かされていた。はっきり憶えているのは飛来した石が、もう少し上だったら、顔面がぐちゃぐちゃになり、大変なことになっていたかもしれないということだった。私が目を覚ますと、中村綾子と白衣の医者が見下ろしていた。綾子が心配そうに言った。

「ああ、良かった。気づいたのね。大丈夫?」

「大丈夫なんてないよ。岡田茉莉子と山村聡の『舞姫』を見損なっちゃったじゃあないか。君が来るのが遅かったから、こんなことに」

「ごめんなさい」

 綾子が目にいっぱい涙を貯めているのを見て、医師が私を叱った。

「悪いのは、彼女ではない。バスの運転手だ。前歯、6本、欠損しているので、二、三日、入院して様子を見ないと」

 入院と聞いて、私はびっくりした。入院する金など無いので、入院を断った。

「大丈夫です。痛みも、それ程、ありませんから。明日、また来ます」

 私は、そう言って、病院から痛み止めと化膿止めの薬をいただき、経堂駅からほど遠からぬ病院から逃げるようにして綾子と帰った。その後、中村綾子との付き合いは消えて無くなった。事故の後始末だけは今でも良く覚えている。事故の起きた原因は、路上に転がっていた直径12ミリ程度の石が、走って来たバスの車に跳ねられ、私の前歯に飛来したことによるものだ。舗装されたバス停前の車道に、どうして、そんな石が転がっていたかというと、道路の側溝の工事の為、掘り返した土や石が、道路上に投げ出されていたのだ。そこへバスが来て、石を刎ねたという物理現象による事故である。従って、現場検証した警察官が、バス停で待っていた人や綾子から事故の状況を聞いて、私が提出する被害届をまとめてくれた。警察官は工事現場の管理不行き届きとバスの運転士の前方確認の不注意を指摘し、私の医療費等の負担を

バス会社『小田急電鉄』と区の道路改装を請負っていた『佐藤工業』の双方に負担するよう口添えしてくれた。当時の私は大学に通うものの、大学の授業の半分以上、欠席して、生活費を稼ぐ為のアルバイトをしていた。我が家の場合は、中国からの引揚者である上に、子供の多い家庭であったから、親許からの仕送りは無きに等しかった。はっきり記憶しているのは、父が受験料と半期の授業料を払ってくれただけだということだ。

「後はお前の才覚で賄え」

 言われなくても分かっての大学進学だった。私のアルバイトは週4日のペンキ塗りの仕事だった。そのアルバイトで得た収入で生活費も学費も賄った。今思えば極端な貧乏暮らしだった。若かった所為か、自分が特に不幸な人間だとは思わなかった。日本が戦争に負けてから、たった6年後である。世間には闇成金もいたが、大方は食うや食わずの最低水準の生活の中で這いずり回って生活している時代だった。自分が特に惨めだとは考えもしなかった。事故から半年くらい経ったある日、事故の後、何度か警察でお会いした係の警察官に路上で声を掛けられた。

「どう。もうすっかり良くなったかね?」

「はい。お陰様で、良くなりました」

「そりゃあ、良かった。あの時は心配したよ。ブアーツと口が膨れ上がって、高熱を出して。1週間も寝込んじゃったんだから。アルバイトも出来ず、どうやって生活して行くのか、心配しちゃったよ。でも小田急も道路工事会社も、君が将来を嘱望される苦学生だと知って、配慮してくれたから良かったよ。本当に良かったよ。これからの日本の為、頑張ってくれ給え」

「有難う御座います。感謝しております」

「勉強、頑張れよ」

 警察官は明るく笑って去って行った。

 災い転じて福となるいう言葉があるが、世の中、何が起こるか分からない。すっかり前歯の負傷と身体の痛みが回復した或る日、小田急電鉄の保線課の課長から声がかかった。会社のバスで怪我をさせた大学生が、街のペンキ屋でペンキ塗装のアルバイトをしていることを知っての声掛けだった。新宿の事務所に訪問すると、課長が笑顔で、私に言った。

「梅が丘のバス営業所の者が君に迷惑をかけたそうだね。申し訳ない。その為、君は塗装のアルバイトが出来ず、大変だったらしいね」

「はい。でも今は身体も回復して大丈夫です」

「そうですか。それは良かった。ところで、そのペンキ塗りの技術を生かして、線路沿いの送電用鉄塔の塗装のアルバイトをしてみないかね?」

「ええっ、鉄塔のですか?」

「うん。そうだ」

「アルバイト代は如何ほどになりますか?」

「日当、百八十円だ」

 私は、そのアルバイト代を聞いて思案した。現在、街のペンキ屋でいただいている日当は百五十円。三十円の違いは晩飯代に匹敵する金額である。銭湯代が十三円の時代である。で、直ぐに、その場で承諾した。仕事の区域は私の居住地のことを配慮してくれて、経堂駅から成城学園駅までの区間だった。やってみると、若者には簡単な塗装の仕事だった。鉄塔の上り下りに苦労するが、作業内容は建築塗装より単純だった。1週間したら、すっかり覚えてしまった。ところが、数ケ月が経った頃、25キロのペンキ缶を鉄塔の根元に移動させる仕事を命じられるようになった。職人さんたちは鉄塔に登って塗装をすることは厭わないが、25キロのペンキ缶を、これから塗装する鉄塔の根本へ次々と運んで行く仕事をしたがらない。高さ8メートル位の鉄塔にしがみついて塗装した後に、思いペンキ缶を次の鉄塔の下に運ぶ作業は、腰に響くからだ。従って、その仕事の御鉢が一番若い私に回って来るのだ。

「おーい。セイガク、ネタが無いぞ。早く持ってこ来い」

「はい。今、持って行きます」

 そんな作業も慣れてしまえば呑気なものだ。どの職人さんが、何時頃、塗り終えてて、次の鉄塔に移るのか、大体、判断出来るようになった。燭人さんが鉄塔に登る前に、その鉄塔の根本に、25キロのペンキ缶を運んでおけば良い事だ。そんなことから、私は鉄塔へ登らず、地面から高さ2メートルばかりの鉄塔の部分を塗りながら、職人さんたちの仕事に支障が無いよう立ち回れば良かった。私はペンキ缶を担いで線路の中央を歩きながら,口ずさんだ。その歌は私の替え歌。当時、流行していたエディツト・ピアフのシャンソン『ラビアンローズ』をもじった『バラ色の人生』の唄。

 心 悩ます僕の  貧しい生活

 微笑んでいるが  いつも腹ペコ

 早稲田の森で   僕は学ぶ

 大事な時間

 食わねばならぬ  この世界は

 僕に厳しい

 教科書を買う   その金も無く

 悩む心

 金の為のバイト  バイトの為の労働

 汗水たらし    思いペンキ缶

 運ぶの

 シャンソンの替え歌を唄いながらの作業は楽しかった。と、その歌を唄っている時、頭上から叫び声がした。一旦、ペンキ缶を置き、鉄塔の上を見上げると、職人さんたちが、私に向かって何か叫んでいる。だが、何を叫んでいるのか良く分からなかった。

「何ですか?何か必要ですか?」

 すると、一番近くの鉄塔に登っていた職人さんが大声で怒鳴り、私の背後の方向を指さした。私はてっきり背後の鉄塔の職人の親方が歌を唄っている私を叱っているのだと思った。怒鳴られる程、大したことでは無かろうと、唄うのを止め、ペンキ缶を再び肩に持ち上げ運び始めた。次の瞬間、ガーンという激しい衝撃を受けた。また石が飛来したのか?自分の身体が跳ね飛ばされて宙に浮いたのは分かったが、その後、何が何だか分からない。気が付いたら、私は四人の職人さんたちに、田植えをしたばかりの田んぼの泥濘の中から助け出されているところだった。後で聞いた話だが、線路で作業していた私は、後方から迫って来る下り電車に気づかなかったのだ。それに気づいた職人さんたちが大声で知らせたが、私が気づかないので、最後はもう声も出せず、目をつぶったという。結果、25キロのペンキ缶を肩に担いで、線路内を歩いていた私は、ペンキ缶と電車に突き飛ばされて、田んぼの中に頭から真っ逆さまに突っ込んだのだ。肩に担いでいたペンキ缶は、縦横24センチ角、長さ35センチ程の大きさで、それを横にして肩に載せていた。その缶を絶対、落としてはいけないと、しっかり押さえて運んでいたのが幸いしたのであろう。ペンキ缶は、私の身体から、数センチ後方に出っ張っていたに違いない。後方から、急ブレーキをかけて来た電車はペンキ缶に当たり、私の身体にぶつからず、ペンキ缶に直接、ぶつかったのだ。そして、その衝撃で、私の身体が宙に舞ったのだと思う。後で分かったことであるが、私は衝突地点から左前方に12メートル程、飛ばされ、前日に田植えをしたばかりの稲田に落下して、直ぐに職人さんたちに稲田の中から引き抜かれ、助け出されたのだ。気が付いて振り返り、停止している電車を見ると、先頭車両の先端から3メートルから4メートルくらい迄が、まるで血飛沫を浴びたように錆止めペンキで茶褐色に染まっていた。電車の運転士と車掌が電車から飛び降り、顔面を引きつらせて走って来たのを、今でも鮮明に覚えている。乗客たちが何事かと車窓から首を突き出して、泥まみれの私を見ているのが恥ずかしくて、再び泥の中に頭を突っ込みたかった。だが、それも出来ず、茫然として早稲田の中に突っ立っている私は、まさに早稲田の大学生だった。言うまでもない。線路の傍に立つ送電用鉄塔の塗装は非常に危険な作業である。上り下りの電車が、ひっきりなしにやって来る。ペンキ塗りの職人さんたちは高い所での自分の作業に夢中になっているから、電車の走行まで注意が及ばない。その為、小田急電鉄は保線区から監視員を上下線に1人ずつ派遣していた。その監視員たちは、電車が来る間隔を知っていたから、電車が来る前に、私たち作業員に呼び子で電車が来ることを知らせてくれる。ところが、あの日は特別だった。12時5分前、その監視員たちが、現場から離れた。

「おーい。ペンキ屋さん。12時5分前だ。何時ものように12時になったら昼飯にするんだろう。電車はあと7分後まで来ないから、俺たち、先に昼飯に行くよ。良いよな?」

「オッケー。了解」

 作業の総てが何時も通りだったが、あの日に限って、臨時列車が編成されていたのだ。そのことは現場の監視員に知らされていなければならない事だった。だとすると、規定時刻以外に電車が通過するという本部からの指示の不徹底か監視員の勘違いなのか?兎に角、私は電車に轢かれそうになった。だが田んぼの脇の水路で泥を綺麗に洗い落としてみると、擦り傷ひとつ無かった。なのに救急車で経堂駅前の病院に運ばれた。道路の石が飛来し歯の怪我をした時、お世話になった時の病院で、同じ医師の診察を受けた。その医師は大袈裟だった。

「ともかく電車にぶつかったのだから、一週間程、入院して容態を見ないといけないよ」

 だが私は、医師の意見を訊かず、アパートに帰って休んだ。すると夕方になって、ペンキ職人の2人が私の様態を確認に来た。2人は私がピンピンしているので喜んだ。そして夕方から命拾いの飲み会になった。職人さんたちは勿論、保線課の2人の監視員も出席してくれて、明け方まで下北沢駅近くの『どぶろく酒場』で飲み明かした。


     4,イスラムとの出会い

 苦学生を二度も負傷させてしまった事で、小田急電鉄も大変、申し訳ない事をしてしまったと思ったのであろう、数日後、小田急線全線の1年間の無料パスを私に贈呈してくれた。良く見ると一般の普通パスと違っていた。国鉄も無料のパスだった。久しぶりに大学に行って、親友、今井克己に、その無料パスを見せて自慢すると、今井が私を冷やかした。

「国鉄無料パスは国会議員が使っている乗車パスだ。お前、何時、代議士になったんだ」

 この無料パスをいただいたことは実に有難い事だった。電車賃がかからなくなったので、大学に行く回数も増やすことが出来た。金の悩みが減少した私はルンルン気分になっていた。そんな或る日、大学に向かう為、小田急線で新宿に向かっている途中、東北沢を出て間もなく、進行方向の左側の車窓から、奇妙に美しい建物があるのが目に入った。今まで、そこに、変わった建物があることは気づいていたが、それ以上の興味は湧かなかった。ところが無料パスを手にしている私は途中下車など気にしないようになっていて、建物の不思議な力に牽引された。美しい丸天井の高楼が私に語り掛けていた。

「若者よ来たれ。然して尋ねよ!」

 その日の私は、大学の授業に出るより、不思議な建物を訪ねることの方が重要だと感じた。私は乗った電車が代々木上原駅で停車すると、電車から降りて、代々木上原駅から程遠からぬ奇妙な尖塔と円形屋根を目指して、坂道を登って行った。何と、これが私とイスラムとの出会いとなった。現在、代々木上原に建っているイスラム寺院『東京ジャーミイ』は平成12年(2000年)に建て替えられたものであるが、私が大学生時代に訪れた建物は、昭和13年(1938年)に建てられたもので、形は中東のイスラム寺院を模しているが、木造モルタル造りの魅惑的建造物だった。私は、その建物に辿り着くと、彫刻の施された見上げるように大きな木製の入口のドアをノックしたというより、拳でかなり激しく叩いた。すると50歳くらいの少し痩せた褐色の肌をした中背の外国人が現れた。その青い目をした外国人は余り上手とは言えない日本語を話した。私は、その外国人と会話出来るのが楽しくて仕方なかった。薄緑色した円形屋根のモスクとシャープペンシルのように天空に向かって伸びるミナレットの優雅な姿は異国情緒を存分に醸し出していて、ここにいると、まるで外国にいる気分だった。この外国人との会話がきっかけで、以来、私は暇さえあれば代々木上原のイスラム寺院に通うようになった。当時の日本ではイスラムという言葉は一般的に知られておらず、漢語表記で『回教』と称するのが一般的だった。最初に会った外国人がイスラームだと言ったので、私もイスラムという言葉を使用するようになった。彼の名はケナン・ギュレル。ケナンはトルコ人で、ソヴィエト連邦時代、ウラル山脈の西側のバシキール共和国から、革命時代に、両親に連れられて、シベリア経由で日本に逃げて来たという。そして戦前、戦中、戦後と苦労し、数年前、やっと同じ民族であったことから、トルコ国籍を取得出来たのだと話してくれた。ケナンと親しくなった私は、彼の紹介で、東京にいる中東イスラム圏の大使館関係者や日本居住者たちと付き合いが出来るようになった。喋る言葉は日本語と英語まじりとなり、知らず知らずのうちに英会話に馴染むことが出来た。大学の英語の授業で学ぶより英語をマスターするには有効だった。そんな或る日、代々木のイスラム寺院にやって来たアラブ大使館の参事官に声を掛けられた。

「ミスター・小林。貴方、『アズハル大学』に留学してみませんか?」

「アズハル大学ですか?」

 唐突に『アズハル大学』と言われても、そんな大学が何処にあるのか、何か有名な学部でもあるのか、私の残薄な知識では皆目、分からなかった。私は直ぐに『早稲田大学』の図書館に行き、百科事典で、『アズハル大学」なるものを調べた。そして、その大学がエジプトのカイロにあり、創立は千年以上前の970年で、世界最古の大学であると知った。現在はイスラム教スンニ派の最高学府だという。パリの『ソルボンヌ大学』よりも、イギリスの『オックスフォード大学』や『ケンブリッジ大学』の800年よりも古い大学だ。凄い。世界の事を知らない若輩者の私は、すっかり『アズハル大学』に魅せられてしまった。というのも前年、『ソルボンヌ大学』の留学生試験があって、学費、滞在費、渡航費一切をフランス政府が負担してくれる、つまりオール・ギャランティアという制度があった。『早稲田大学』の学費もやっと工面している貧乏人の私には、またとないチャンスと思い、応募したのであるが、フランス語が出来ず、見事、落とされてしまった。『アズハル大学』の入学試験は英語だという。英語なら何とかなるだろうと思った。それにアラブ連合国の文化参事官、ザブダリー氏の推薦である。当時、エジプトとシリアが連合してアラブ連合国と称していたのだ。私は有頂天になった。ところが、私がエジプトの大学に留学しようとしていることを、ケナン・ギュレルが『日本イスラム協会』の今泉義雄会長に話してしまったのだ。『日本イスラム協会』というのは当時の日本人回教徒の集まりで、メンバーは50人足らずの小集団であったが、戦前に大陸や東南アジア諸国にいて、イスラム教に触れたことのある人たちの団体だった。その協会を、60歳半ばの今泉会長がまとめていて、或る日、その今泉会長の自宅に呼びつけられた。今泉会長の家は代々、板橋の庄屋をしていた家柄で、家では郵便局もやっていた。ケナンから今泉会長の家は大きな屋敷だと聞いていたが、確かに100メートル四方もある白壁囲いの広大な庄屋の屋敷だった。戦時中の今泉会長は軍属として南方派遣の民生局副部長を務めていたという。因みに、その上司の局長が美智子皇后陛下の聖心女学院時代の恩師、内藤智秀教授だから驚きだ。私はケナンから普通の日本の家庭と違う奥様がいるからと聞いていたので、御菓子ではなく、花屋でバラの花束を買って持って行った。それが図星だったようだ。屋敷内に入り、玄関で声を掛けると、目の前に現れたのはハッとたじろぐ程の50歳前後の着物姿の麗人だった。背は高からず、低からず、その声たるや、鈴を転がすばかりの美しさ。私は暫し茫然。ぽあーんとなった状態のまま今泉会長のいる応接間に案内された。彼女が応接間のドアを開けると、今泉会長がソファに座って待っていた。

「おお、来てくれたか」

「はい。これ、持って来ました。何処かに飾って下さい」

「花を持って行けとケナンに言われたのか」

「はい」

 そう答えると、会長の奥様が私の抱いている花束に手を差し伸べた。

「まあっ、綺麗なバラだこと。私、バラが大好きなのよ。嬉しいわ」

 そして、奥様は唄い出した。

 心惑わす瞳    溢れる仕合せ

 微笑み浮かべた  優しい面影

 貴方の胸で    私は聞く 甘い言葉

 悩みは消えて   この世界は

 すべてバラ色

 その歌は、私がペンキ缶を担いでいて小田急線の電車に撥ねられた時、替え歌にしていたシャンソンだった。そして、その奥様が口ずさむ美しい歌声に、私は身体がしびれそうになった。しかも甘いパルファムの香りが漂う。後で知ったことであるが、その奥様は、あの女優、佐久間良子の伯母様に当たる人で、練馬の良家から嫁いで来たという。むべなるかな。その人を妻にする今泉会長は、紅茶を一口飲むと、私に言った。

「アラブ大使館の紹介で、カイロの『アズハル大学』の留学試験を受ける考えでいると聞いたが、それは本当かね?」

「はい。家が貧しいので、アルバイトをして学費を稼がなければならず、出来れば、学費を免除していただける『アズハル大学』で学びたいです」

「成程。君は『アズハル大学』を希望しているが、ムスリム協会としては、今、布教に訪れているパキスタンのイスラム教布教団体『タブリーグ・ジャマート』のライヴィンドの神学校に入ってもらいたいんだ。そこで四年間、しっかり勉強して、日本のイスラム発展の為に礎になって、もらいたいのだ。学費、生活費等の総て、ムスリム協会で面倒をみる。行ってくれないか」

「パキスタンへですか?」

「そうだ。『アズハル大学』に入学するには、今の『早稲田大学』での成績も左右する。授業をさぼって、アルバイトや教会に出入りしている君には無理だと思うよ。日本のイスラム発展の為の礎になる方が君には似合っている。ファンデーションになるのだ」

 私は考えた。礎。ファンデーションか。何事を成すにも礎が一番大切だ。この俺が、その礎になる候補に選ばれたのだ。私は、今泉会長の言葉にもしびれた。ようし、やってやろうじゃないか。この時、私は21歳。この若輩者にムスリム協会の会長が、如何なる思惑があって、パキスタンの神学校に留学させる白羽の矢を立てたのかなんて推測することなど出来ない。今、高齢になって思えば、今泉会長は『早稲田大学』や栃木役場に問合せし、教会のケナンからも情報を集めたに違いない。私が八人兄妹の四男坊で、親や兄妹から何の期待にも当てにもされていないと知り、ムスリム協会の為に、捨て駒として使ってみる気になったのであろう。国際情勢ガイドもパソコンも無かった時代である。明日は明日の風が吹く。天任せ、運任せである。その日、私は即答せず、アパートに帰ってから、基兄に相談した。基兄は留学など止めとけと言った。大学に行って今井克己、西村光男、小沢幹夫らに話すと、それは棚から牡丹餅、チャレンジしてみたらと言われた。そして三日後、私は今泉会長に留学させて下さいとお願いした。


     5,パキスタンのライヴィンドへ

 それから三ケ月後、昭和28年(1953年)1月、私は今泉会長に呼ばれ、代々木上原のイスラム寺院で、『タブリーグ・ジャマート』のメンバーと会った。一行は全部で四人。ハザル・カリーム団長は60歳半ば過ぎのムルタン出身の大地主で、パキスタンがイギリスの植民地から独立し、パキスタンを建国した時の初代の農林省の局長だった。その他、カラチの貿易商とレストラン経営者、パキスタンの大蔵省の課長の3人。その時の打合せでにより、私は彼らが帰国する時、一緒にパキスタンに行く事になった。当時はパキスタンに行くのに、飛行機という渡航の手段が無かった。外国に行くには、総て船だった。1月の末、私は、学友、今井克己たちに見送られ、フランスの貨物船『メッセンジャー・マリティーン』に乗って、横浜を出発した。横浜を出て、東シナ海を通り、台湾海峡を通過し、4日目に香港に着き、そこで2泊、停泊した。そこから2日かかけて南シナ海を航行し、サイゴンに到着し、そこで3泊した。次がシンガポール。その次がマラッカ海峡を通り、ペナン。その後、ペナンからベンガル湾を横切り、コロンボ、ボンベイと2泊筒泊まりながら、たしか2週間以上かかってパキスタンのカラチ港に到着した。カラチはアラビア海に面したパクスタン最大の港町で、パキスタンの商業と金融の中心地であり、驚くほど、賑やかだった。2月初めの日本は一番寒い季節だが、カラチの気候は暑からず、寒からず、快適だった。そのカラチで2週間ほど滞在し、ハザル・カリーム団長から農林省のアブドラ・サダム課長を紹介された。そして3月初め、アブドラ・サダム課長に連れられ、カラチから千キロ近く離れたライヴィンドに列車に乗って連れて行かれた。そこはインドとパキスタンにまたがる全くの農村地帯で、インダス川の上流の五本の川を意味するパンジャーブの名を冠する地方の村だった。シク教徒が大多数を占める地に、イスラム教を広めようとする政府の考えで、外国人の私が採用されたのだ。アブドラ・サダム課長は、私をライヴィンドの神学校の校長に手渡すと、直ぐに帰って行った。私は日本語と英語以外の言葉が話せず、心細かったが、校長と担当教師のカーン先生に従うしか方法が無かった。翌日、朝3時半に起こされ、ファジュルの礼拝から1日がスタートした。礼拝の後は朝食時間の8時まで,、茣蓙を敷いただけの土間に直に座って、聖典クルアーンを読まされた。留学したばかりであるから、アラビア語が解かろう筈もない。全くチンプンカンプン。だが、初めなので解る解らないないのは、どうでも良いらしい。ただカーン先生の後について大声で同じ音声を繰り返し、詠誦すれば良いとされた。それが終わると2時間程度、農作業を行い、1時間の休憩時間が与えられた。しかし正午からズフルの礼拝が始まって、その後またクルアーンの詠誦の繰り返し。そして4時頃になり、アサルという礼拝。それが終わると、やっとお茶が出て、やれやれと一休み。そして約1時間後、夕暮れが近づき、頭、顔、手、脚を洗ってマグリブという日没の礼拝の準備をして礼拝。礼拝後に夕食となり、その後は、再び意味の分からないクルアーンの詠誦。先生の発音通り繰り返させられる。もし発音で間違えると、直ぐにカーン先生の鞭が飛んで来る。この拷問にも近い苦痛を約3時間させられた後、1日のの最後の礼拝、イジャがあり、それが終わって、やっと就寝の時間となる。後は寝るだけ。精神的にも肉体的にもクタクタになった。そんな生活が約3ケ月続いた。午前と午後に休み時間があるので、私は時々、宿舎の外に出て散策した。散策は自由だった。しかし村民のほとんどが英語を解さないから、村のバザーに行っても意思疎通が難しかった。会話が出来ないから面白くも何ともない。絶海の孤島に投げ出されてしまったような絶望感を覚えた。外国に出かけて世間がまだ知らぬ知識をしこたま仕入れて帰国すれば、それを特権に日本社会で名を馳せられると目論んでやって来たが、全くの的外れ。農作業と5回の祈りの過酷な毎日。カイロの『アズハル大学』に留学すべきだった。己の先見の無さに自分ながら愕然とした。私は焦った。自分が望んだ留学はこんなものではない。何とかしなくては。この神学校を逃げ出すのは難しくなさそうだが、パンジャップ語が喋れないから、逃げ出しても、その後。どうする。飢えて死ぬかも・・。それを考えると、直ぐに逃げ出す勇気が湧かなかった。しばし待て。私は思案した。上手く喋れないまでも、最低、パンジャップ語が聞き分け出来るまで、脱走を思い留まるしかない。そこで更に数ケ月、辛抱してみることにした。その辛抱の甲斐あって、2か月後、簡単な日常会話なら、相手が何を言っているのか、どうにか解るようになった。そした或る日、ついに逃亡のチャンスが訪れた。それはカーン先生に連れられ私たち神学生がライヴィンドの北、電車で約1時間半くらいの所にある古都、ラホールへ見学に行くことになった。当時のラホールは人口200万余の大都会だった。英国支配時代以前にムガール帝国の首都だったこともある。西欧風の並木通りの市街地もあり、住民の概が英語を解したので、私としては、ここで脱走する事に、不安も違和感も感じなかった。で、逃げるのなら今がチャンスと思い、直ちに実行に移した。私は並木道で休息の時、引率のカーン先生に言った。

「モラナ、お手洗いに行って来ます」

「ぐずぐずしないで、早く戻って来いよ」

 私は、はいと答え、そのままドロン。兎に角、走って走った。今にして思えば、カーン先生には申し訳ないことをしてしまった。カーン先生は私より15歳くらい年上の30代後半。ハンサムで聡明そうな人物だった。想像するに日本から連れて来た神学生に逃げられた彼は、その後、責任を執らされ、前途も何も、お釈迦になってしまったのではなかろうか。振り返れば、気の毒なことをしてしまった。

「インシャルラー。スブハーナーラー。アーミン」

 神が思召すなら仕方ないじゃーないか。受け入れて下さい。私は走って走った。


     6,アフマディア神学校入学

 私はライヴィンドの連中から逃げ出し、ラホールの街を彷徨った。気が付いた時には動物園の前に来ていた。傍に屋台があるのを見つけ、そこの男に縦割りにした細身の大根に塩と胡椒を振りかけてもらって、近くの大きな石に腰かけ、それを噛った。中東の野菜の味は総て絶妙である。日本の野菜なんて較べ物にならない。土壌の違いが味を育てるのであろうか。私が夢中で大根にかじりついていると、それを見て初老の紳士が近づいて来て、声をかけた。

「貴方は中国人ですよね。何時、クンジュラブ峠を越えて来られたのですか?」

 その問いに、私はパンジャップ語で、私は中国人ではない、日本から来ましたと答えた。

「メ、チニ、ナヒン。ジャパン、セ、アヤ」

「おお、ジャパニー・サーブ。アッサムのコピアで武勇を轟かせたという」

 その初老の紳士がいう大戦の是非はともかく、日本人の特性を証明してくれた先輩たちに感謝しなければならない。紳士が最初に口にしたクンジュラプ峠というのは、中国の新疆ウイグル自治区とパキスタンとの国境の海抜5千2百メートルの峠のことである。紳士は戸惑いの顔をしている私の顔を見て更に訊いて来た。

「ここで何をなさっているのですか?」

 そう問われた私は、日本からパキスタンにやって来て遭遇した今までの顛末を手短に説明した。するとアフメド・アリと名乗る紳士は、私にこう言った。

「それは、お気の毒に。もう3年になりますか。私は中国の新疆省からクンジュラップ峠を越えて脱出して来た一行の中の青年を、私が所属している教団が運営している神学校へ紹介してやったことがあります。彼の名前はオスマン・チン。現在、彼はその神学校の寄宿舎で、元気に勉強しています。もし望むなら、貴方をそこへ紹介して上げても良いですよ」

 私は、その言葉にどう答えるべきか、一瞬、考えた。また騙されるのではないか?だがライヴィンドの神学校から脱け出せたは良いが、行く当てが無い。既に今晩からの食べる当てが無いのだから、身を寄せる相手を選んでいられるような状態では無い。人生イチかバチかだ。

「インシャルラー」

 私は、もし神がお望みならと答え、アフメド紳士の助けをいただくことになった。後で分かった事であるが、アフメド・アリ紳士は時の大統領、アユーブ・カーンの首席補佐官の友人だった。アフメド紳士が所属する教団は、イスラム教スンニ派のハナフィースクールの傘下のアフマディア教団だった。この宗派は、イスラム正統派に言わせれば、現代西欧的文明の解釈をイスラムに取り入れている異端の輩ということになっていた。日本からやって来たての私には、その時、そんな事情の教団であるとは、勿論、露ほども分からなかった。私は早速、アフメド紳士に連れられ、アフマディア神学校のあるラヴィアに向かった。アフマディア教団の本部というのは、ラホールから南西へ百40キロ、インダス川の支流、チナーブ川の畔にあった。支流といっても、利根川以上の大河である。水面は岸辺から30メートルも低く流れ、流れに沿った右岸一帯は広大な砂漠になっていた。農業に適さないから、昔から誰も魅力を感じず、うち捨てられた場所だったらしい。ところが第二次世界大戦後、イギリスの植民地であったインド地方は独立して、インド共和国とパキスタンに二分されることになった。つまりヒンズー教徒のインドとイスラム教徒のパキスタンという区分けである。その住み分けにより、民族の大移動が起こった。アフマディア教徒もイスラム教徒であるから、カラコルム山脈の麓の故郷のカシミールに接する立宗宣言の地、カーディアンを捨て、パキスタンの何処かに、新天地を求めなければならなかった。そこで先遣隊の70家族が選ばれて、アムリットサルから国境を越えてラホールに出て、その後、パキスタン各地を隈なく探し回り、辿り着いた所が、誰も見向きもしなかった不毛の地、ラヴアだった。そこに辿り着いた時は自分たちが運ん運んで来た水も涸れ果てる寸前だったという。そこでリーダーのミルザ・マフムード・アハマンドが大地に手をついて祈ったのだ。

「おおアルラーの神よ。我等は貴方様の如何なるご命令にも服します。我が子を犠牲に出せと言うなら、そうもしましょう。ですから、御慈悲をもって渇した我々に最期の水を与え給え」

 すると何とミルザ・マフムード・マハンドの額が地面に触れた個所から水が滲み出し、やがて溢れ、滾々と湧く泉になったという。その昔、アブラハムの妻、サラの後に妻になったハガルは子供たちを連れて荒野をさまよい、喉が渇いた我が子の為に水を求めて走り回った。

「おお、神よ。おお、神よ!」

 すると大地から突然、水が湧きだしたという話は知っている。それが今、メッカにあるザムザムの泉。そんな神話は21世紀の今日、信じられないかもしれないが、それと同様の事が現実に起きたのだそうだ。砂漠といえど傍らに大河があるので、水は地中から得られる。だが塩分が強くて、とても飲めたものではない。ところが不思議な事に、ここの泉の水だけは清流なのである。以来、アフマディア派は、その地をラヴアと称し、教団本部をカシミールのカーディアンから、この地に移転した。モスク並びに神学校は勿論、その他の関連施設、たとえば病院や宿泊場所から幼稚園、小学校、中学校、高校、大学まで完備させたのである。人口は現在、3万弱と公称されている。私はアフメド紳士に連れられ、最初の日本人としてラヴアの地に迎え入れられた。アフメド紳士は教団の指導者たちに私を紹介し、神学校に入学させる許可を取ってくれた。私は何が何だか分からないまま、アフマディア神学校に入学した。この神学校は正式にはジャミア・アフマディアと称し、最年少者は6歳から入学出来る。従って普通の小学校並みだ。ところが、それから18年間、みっちり勉強させられ、落第しなければ24歳で卒業となる。その後は布教師というか宣教師というか、専門のトレーニング期間を経て、国内は勿論、海外に派遣されるという。アフマディアは現在、アメリカ、ヨーロッパは勿論、アフリカ諸国、中東諸国、東南アジア諸国など、世界の48ケ国に宣教支部を持っている。ザ・タイムスによると現在の信徒数は3千万人とのことだ。アフメド・アリ紳士は私の入学手続きを終えると、頑張れよと言って去って行った。私は、その後、イーサ・レーマン先生から衣服の着替えと洗面道具を提供され、神学校の寄宿舎に案内された。その案内された寄宿舎の部屋は二人部屋で、既に浅黒い肌の若者が寄宿していた。レーマン先生はその黒人の若者に日本から来た学生なので、いろいろ教えてやれと言って、事務所へ戻って行った。同部屋の男の名はアブドル・ラフマン。私より三っ年下で、アフリカ西部のギニア湾に面したナイジェリアから来たのだという。幸いラフマンが英語を喋れるので、2人のコミニケーションに支障は無かった。私はラフマンが何故、自分と同じように遠い国から、この神学校で学ぶ事になったのか興味を抱き、事の次第を訊いた。すると彼は身の上話をしてくれた。

「僕はナイジェリアの首都、ラゴスのラゴス駅の駅長の倅で、長男だ。だけど親父は僕の事を嫌っていて、僕を遠い異国の神学校に入学させたんだ。僕がいなくなって、親父はせいせいしているのさ」

「長男なのに、どうして、そんな冷たい処遇を受けるの?」

「親父は僕の母より、第二夫人の方が、お気に入りなんだ。だから、第二夫人との間に出来た次男に、後を継がせようと考えているのさ」

「成程」

 確かにイスラムは妻を4人娶ることをことを許している。男性が少ない社会での女性保護の為に一夫多妻政策を採用しているというのは、それなりに納得出来るが、現実は理想通りにはならない。コーランの規定通り、妻を平等に愛するのは難しい。

「従って、僕がナイジェリアにいない方が良いんだ」

「そんなことは無いよ。ここの神学校を卒業して、導師になって、ナイジェリアに帰ったら、故郷に錦を飾れることになるではないか」

 私は調子の良いことを言って、ラフマンを励ました。だがラフマンの表情は何故かさえなかった。彼は嘆いた。

「ナイジェリアの事だけではなく、僕には、ここでの生活も耐えられない程、辛いんだ。僕は去年の8月にここへ来たのだが、このラヴァという所は、4月から10月半ば迄、半年間、炎熱地獄だ。暑い日は摂氏53度にもなる。幸い、ジャパニ・サーブが来た前の日、雨が降ったから、今は気温が下がっているが、また高くなるんだ」

「ええっ。そんなに高温になるの?」

「でも大丈夫。この涼しさは雨が降った後、1週間は続くから。ここの暑さは我々、アフリカ人にも地獄だ。この地が、長い間、打ち捨てられていた理由が分かるよ」

 確かに、前にいたライヴィンドは緑の平野のど真ん中。田園のそこここに並木があって、強い日差しを避けることが出来た。気温もせいぜい41度か42度。湿度が無いから、部屋の中では東京より凌ぎ易かった。だが、ここラヴァは、そうでは無い。私はラフマンからラヴァが炎熱の地であると聞いて、他人事ではなくなった。一難去って、また一難。ライヴィンドの学校を飛び出したは良いが、生きるのに窮して思案している時に、アフメド紳士と遭遇し、声を掛けられ、偶然、ラヴァに来てしまったのだ。私は今、なぜ、ここにいるのか。ラフマン同様、自分がここに来た今までを、ラフマンに語った。そして私たちは互いの秘密と苦悩を知り合う事となった。然らば、何としても二人で力を合わせ、生きる方策を構築せねばならぬという思いに至った。ラフマンは1年遅れて入学した私と気脈を通わせ、あらゆる事で私に協力してくれた。彼自身が私より年少であり、低学歴であったことが、彼を控え目に自粛させたのであろう。こうして9月にアフマディア神学校に入学した私は、一般学級とは異なる特別コースに入れられた。生徒はたった3人だけ、幸いラフマンが進級して、そのうちの1人となった。もう1人はスイス人でウイリアム・ミラーという私より二つ年上の24歳の青年だった。彼の話によればゲルマン系のスイス人でチューリッヒの大学を卒業してイスラムの勉強の為に、ラフマン同様、1年前からラヴァに来たという。彼はゲルマン合理主義というのが身についていて、何事にもきちんとした男で、私たちにも厳しかった。特別コースでの授業はライヴィンドの神学校のように、朝の3時半に起こされることは無かった。朝5時半に起床し、午前8時から授業が始まった。ウルドゥー語が1時間。クルアーン詠唱が1時間。イスラム法の解説が1時間で、都合、3時間。そしてゆっくりと食事と2時間の休憩。午後からは再びクルアーンの解釈とペルシャ語を1時間。そして3時以降は自由時間となる。1日5回の礼拝は原則として、寄宿舎にあるモスクで行うことが決められていたが、点呼をとるわけでもないし、罰則が設けられていないので、都合に合わせて、適当にやれば良かった。しかも驚いたことに、我々、外国人には1ケ月に36ルピーの奨学金が給付された。当時の1ルピーは日本円で50円丁度だった。その奨学金の中から、食事、その他の寮費として、22ルピーを支払い、その残りが小遣い銭として使用出来た。勿論、学生であるから、ノートや筆記道具などは小遣い銭で賄わなければならなかった。これらの費用は月割りにしたら、せいぜい2ルピー程度。従って毎月、12ルピー程度の金額が純然たる小遣い銭になった。食事は朝、昼、晩、寄宿舎の食堂で腹いっぱい食べられたから、私たちが学校外で必要なその他の経費は、御茶代とタバコくらいだった。ミルクティのような御茶、チャイは1杯、3アナー。16アナーで1ルピーであるから、1ルピーでチャイを5杯程、飲める。そのチャイを飲むのは午後から街に出かけて行って、タバコを吸いながら、精々、2杯。その上、外国人ということで、奢られることも多い。だから茶代は月4ルピー程度。タバコは日本と違って1本でも売ってくれるから、使っても月に3ルピー程度。そんなことから節約すれば、毎月5ルピー程度が残る計算になる。或る日、『パンジャーブ大学』の学長の給料を新聞で読んだことがある。『パンジャーブ大学』といえば、大学の世界ランキングでは日本の『東京大学』より格上の筈。その学長の給料が、何と150ルピーだと書かれていたので驚いた。であるから、私に給付されている奨学金36ルピーは高額といえた。そこで毎月5ルピー貯めて行けば、年に60ルピー溜まる計算になる。加えて、日本では余り知られていないイスラムの新知識を修得出来れば、将来、処世の利益になる筈である。つまり私にとっての知的財産となる。ならば、ここ一番、人生を賭けて、数年、辛抱してみる甲斐ありと判断した。幸い私には戦時下の耐乏生活の経験があり、食料さえ充分だったら、猛暑や病気など大した問題ではないと考えた。私はアフマディア神学校の仲間、ウイリアム・ミラーとアブドル・ラフマンと3人で勉学に励んだ。先輩にはオスマン・チンがいた。ところが入学してから1ケ月過ぎた頃、私はアミーバー赤痢に罹り、医者にもう駄目だと見放された。アフマディア教団は慌ててカラチにある日本大使館に、このことを知らせた。だが私は何クソと意地を見せた。戦争は避けられれば避けた方が賢いが、不撓不屈の精神を培養することも事実だ。その頑張りで、私は1週間で恢復することが出来た。私は頑張った。その病気が快復すると心配させた日本大使館からの呼び出しがあり、私はアフマディア教団の幹部、ハルン・スリマンに連れられ、カラチまで出かけた。当時の日本はパキスタンと正規の外交が成立したばかりであった。8月に昭和天皇がパキスタンの独立記念日に、ムハンマド・アリー・ジンナー総督に祝意を伝え、両国の関係を深める為、日本から大使館設置の為、パキスタン駐節特命全権大使が来ていて、私の事を知ったのだ。私は汽車に乗りながら、カラチでハザル・カリーム団長に出くわすのではないかと心配したが、ハザル氏とは出会わなかった。待っていたのは驚くべきかな、島津久大公爵だった。島津大使は、後に多くの国の大使を務め、初代迎賓館長に就任された方である。島津大使は私を迎えると、大喜びしてくれた。

「まあ驚きだ。日本人の青年がイスラムの勉強に来て、病気になっているとの知らせがあり、心配していたところだ。元気になって良かった。良かった」

「心配をお掛けして、誠に申し訳ございません」

「兎に角、元気になって良かった。びっくりしたよ。日本人が留学していたなんて信じられない。一体、どういうことで留学したのかね?」

 私は直ぐに返事が出来なかった。

「どうしたのかね。日本人が本当にいるのかと疑ったよ。だが放っとけなくてね。ここまで来てもらった」

「大使閣下に私のような若輩者に心を留ていただき、光栄です。私は早稲田大学在学中、日本イスラム協会の方から、日本のイスラム発展の為に、パキスタンの神学校に行ってくれと頼まれ、早稲田大学を休学し、この国にやって参りました」

「成程、そうでしたか。頼もしい限りだ。私が知りたいことがあったら、その時、また声をかけるから、よろしく頼むよ」

「お役に立てるかどうか?」

 余りにも恐れ多い事なので、私は正直、目の前の現実を疑った。島津大使閣下は更に仰せられた。

「君は日本の青年の代表として、この国に勉強に来ているのだから、自分であって、自分個人でないことを自覚して下さい。日本青年の代表であるのだから、決して卑怯な振る舞いなどしてはならない。君の一挙手一投足が、日本人だという観点で捉えられるのだからね。そのことを忘れてはならんよ」

 それから島津閣下は誰にも言うなと、私に小遣い銭をくれた。今になって、考えてみると、カラチまで呼び出されて神妙な顔で自分の話に耳を傾ける青年への心遣いというか、千キロを超す内陸、ラヴアから出向いた私に対するねぎらいの駄賃だったような気がする。そんなことも重なり、赤痢に罹って苦しんだけれど、私は当座、パキスタンのラヴアで辛抱するしか選択の道が無いと思った。石にかじりついても頑張らざるを得ない。とは言っても、ラフマンの言っていた通り、ラヴアで一番、応えたのは日中の暑さだった。夜間は好いが、涼しいのは朝方の8時頃まで。その後、気温は一気に鰻上りに上昇する。10時ともなれば、廊下の寒暖計の針は45度を指している。それが正午過ぎになると48,9度となる。これが連日、続くのだからたまらない。午後3時に教室から解放されて、自分の部屋に帰っても、何もする気にはなれない。簡易ベット、チャルパイの上に身を投げ出して、じっと暑さが過ぎて行くのを待つだけである。約1時間後のアサルの礼拝が終わると、少し太陽が傾いて、心なしか、いや実際に温度が下がる。そこで毎日、この時刻を見計らって町のバザールへチャイを飲みに行ったり、用達に出かけたりする。神学校から町まで約3キロ。その間、砂漠である。道なんてものは何も無い。何処を歩こうと構わないが、誰もが歩きやすい道を選択して歩こうとする。それによって各人の未来の道も変わる。


     7,ラフマンの死

 アフマディア神学校から砂漠を通って、町に行くには概ね2通りの道があった。一つは砂漠の中を町に向かって真っ直線の最短距離の道。もう一つは町に向かって、ちょっと右側に迂回する道で、150m位の高さの草木1本も生えていない岩山がある道だ。その岩山は二瘤ラクダの背のように窪んだ所があり、そこが細い道になっていて、そこを通るのはしんどいが、見晴らしが良く、爽快な気分にさせてくれるのだ。この岩山には道路や建築の資材に使用する採石場があり、50度を超す炎天下で、岩石をハンマー等で砕いている人たちがいた。彼らに声を掛けると、彼らは親切で、素焼きの水甕に入った冷たい水を振舞ってくれた。彼らは非常に親切な人たちで、不思議な事に、そこにいる女性も私たち男を警戒しないので、訊いてみると、何とキリスト教徒だという。

「ええっ。本当にクリスチャンですか?」

「はい。そうです」

 訊いた男は誇らしく答えた。中東といえばイスラム天国の筈。予想だにしていなかった事だけに私はびっくりした。パキスタンから北アフリカのモロッコまでは、どの国も圧倒的にイスラム教徒の筈。だからなのか、彼らは異国、日本とナイジェリアから留学して来ている私たちに親しみを感じているようだった。彼らの団結たるや並々では無い。彼らキリスト教徒たちの家は120軒で、この禿焦げた岩山の麓で、抱き合うようにして生活を送っていた。彼らが砕いた石をムスリム業者が買いに来る以外に、一般社会との交流は無いという。

「何時から、ここで暮らしているのですか?」

「1947年、インド・パキスタン分離独立のパーテーションの時、インドから逃げて来て、ここで暮らしています」

 何と気の毒な事か。アフマディア教団と似たり寄ったりの運命ではないか。そんな話をしてから、私は、この岩山の麓の人たちと急速に親しくなった。あの人たちは異教徒だから、近寄っては駄目だと注意されていたが、そう言われれば尚更、憐憫の情を喚起させられた。そんな或る日、私は午後3時過ぎ、ラフマンと連れ立ってバザールに出かけた。何時ものように、夕食の7時までに寄宿舎に戻る筈だったが、バザールの茶店で思いがけぬ人と出会った。その人は、あのラホールの動物園前で出会ったアフメド・アリ紳士だった。茶店で彼にアフマディア神学校の事などを訊かれた後、夕食までご馳走になってしまった。店を出たのは8時近かった。もう夜になっていた。私は、ラフマンに言った。

「岩山の道を通って帰ろうか?」

「どうして?」

「うん。岩山の上から夜空の星を見たいんだ」

「たかが100m程、近くなるだけではないか。僕はやだね。キリスト教の連中とも顔を合わせたくないから、僕は山に登らず、真っ直ぐの道を行って、山の向こう側で待ってる。ハ、ハ、ハ、ハ」

「そうか。では先に行っててくれ。私は岩山にちょっと登って星を見てから直ぐ追いかけるから」

 私はラフマンと別れてから岩山に登り、満天の星々を眺めた。そして夜空の美しさに感動していると、突然、サーッと流れ星が夜空を走った。私は胸騒ぎを覚えた。私は急いで岩山から駆け降り、ラフマンが選んだ砂漠の道を走った。ラフマンの姿を追いかけた。だが彼の姿は月明りなのに見えなかった。呼んでも叫んでも、ラフマンの反応が無かった。満月の夜なので煌々として、かなり遠方まで見通せたが、彼の姿は見えなかった。

「ラフマン。ラフマン!」

 声を張り上げて走り回っていると、近道の途中にある低木の所で、何かにつまずき、私は倒れそうになった。

「おっ、とっとっと」

 そう言って、自分の足元を見ると、ラフマンが仰向けになって倒れていた。

「どうした、ラフマン。大丈夫か?」

 私が抱き起そうとすると、彼が小さな声で答えた。

「蛇に・・・」

 後はうめき声。私は慌てた。ラフマンは毒蛇にやられたに違いない。ラヴアの砂漠にはコブラは少ないが、それよりも体長の短いフライング・スネークという毒蛇がうようよしている。コブラより、数倍もの猛毒を持つという。住民は見つけ次第、殺す決りになっているが、絶滅するにはまだ程遠い。その毒蛇は日中は暑さを嫌って、地中に潜っているが、夜間になって涼しくなると餌を求めて這い出して来るのだ。そして手頃な木に這い登って、通りがかる獲物を狙うのである。パッと跳びかかるからフライング・スネークと呼ばれているのだ。ラフマンは、そいつに噛まれたに違いない。私が慌てていると、そこへ岩山の麓の住人が数人、駆け寄って来た。

「大声で叫んでいたが何かあったのか?」

「友達が蛇に噛まれた」

「そりゃあ、大変だ」

 ラフマンを抱きかかえて途方に暮れている私に、村人の1人が灯りを照らして、ラフマンの身体を転がし、蛇に噛まれた個所を確認した。足でも無い。手でも無い。腕でも、背中でも無い。何と、その個所は首筋ではないか。それでは患部を心臓より低い位置にして紐か何かで縛る訳にもいかない。首から毒を吸い出すことも出来ない。医術の詳しい村人が首を振った。

「蛇の毒が心臓を麻痺させる時間は15分程だ。これから町の医者に診せても、手遅れだ。ハミンド。クックと神学校に知らせに行って、このことを知らせろ」

 年配の村人に言われ、若者が2人、夜道を、神学校へすっ飛んで行った。蛇に噛まれたラフマンは最早、虫の息で、数分すると、私の腕の中で、ガクンとなった。私たち数人がラフマンの死を悼んだまま、しばらく待っていると、アフマディア教団のムハマド・ギュレルとイーサ・レーマン教師が、ラクダに乗って駆け付けて来た。2人は村人に感謝し、遺体を寄宿舎まで運んだ。寄宿舎に戻ってから、夜遅くまで外出していたから、こんな惨事になったのだと私は散々、叱られた。翌日、ラフマンの遺体は清められて、寄宿舎の裏の草地に埋められた。土葬だった。その後、モスクに大勢の人が集まり、ラフマンの葬儀礼拝を行った。私は涙が止まらなかった。たった20年そこそこの生涯。異郷の地での死。彼は何の為に生きて来たのか自分でも解らなかったであろう。私にもラフマンの存在意義が何であったのか、全く解らない。しかし、現に20年生きた事実は、イスラムでいうところの宇宙の真理というか、神の御意思の証しであろう。数ケ月であったが、ラフマンと共に、一つの部屋で暮らしただけに、私の悲しみと落胆の溝は這い上がれぬ程、深かった。私はラフマン不在の部屋で、時折、彼のことを想った。最期に親に看取ってもらえなかった彼の悲しみは月並みのものでなかったであろう。一方でまた、彼の生前の言葉を想い出した。

「親父は若い女が生んだ弟の方が可愛いのさ。従って、僕がナイジェリアにいない方が良いんだ」

 とは言うものの、ラフマンの死を知ったら、彼の両親はどれだけ嘆くであろう。パキスタンに行かせるのではなかったと嘆くであろう。息子の死を悲しまない親なんて、この世にいない筈だ。


     8,ラヴアの日々

 ラフマンが居なくなって、私は部屋を専有出来ることになった。このことはラフマンを失った寂しさもあるが、一方で個人的快適さを享受させてくれる事象でもあった。相棒への配慮も遠慮が無用になるのは当然だが、何より、あの辟易させられたラフマンの体臭から解放されたことが有難かった。ラフマンが居た時は遠慮して窓を開けないように辛抱していて、彼が部屋から出て行くと、直ぐに入口のドアや部屋の窓の全部を開けっ放しにして、空気を入れ替えたものだ。それ程、彼の体臭はきつかった。大抵の事に辛抱出来る私ではあるが、彼の体臭は耐え難かった。黒人が近くに越して来ると白人は家を引っ越すというが、その気持ちが理解出来る。人種偏見云々というが、理屈では無い。生理的に問題なのだ。イスラムでは、人類は神の許、皮膚の色や人種を問わず、皆平等であるべしと教えているが、いざ現実となると非常にそれは難しい。そんな理由で、暑い間は、窓を開けていたが、11月になると急激に朝晩の気温が低下した。砂漠というのは不思議と保温力がない。日中は太陽熱で温度は急上昇するが、太陽が没すると急激に冷却される。その為、部屋の窓を閉めっきりにしなければならなかったが、この頃になると、ラフマンの臭いは部屋から消えていた。私は寄宿舎の快適な一部屋を専有出来ると、勉学に勤しんだ。またカラチの大使館からの呼び出しがあると、長距離を汽車に乗って出かけて行き、現地生活の実情を報告した。辛かったのはラマダンという1ケ月の断食だった。日の出から日没まで、一切の飲食を断たねばならなかったからだ。喫煙も駄目、喧嘩や悪口も駄目。ましてや女性との接触も禁じられていた。兎に角、自身を清める為だという厳しい戒律だ。また奇妙な事だが外国人を求める女もいた。女には警戒しなければならなかった。民族衣装シャワール・カミーズを着ていて、スカーフのようなベールで顔を隠していて、輝く青黒い瞳以外は良く分からない。サリイから出ている腕は浅黒く、胸も尻も膨らんでいて、歩くたびに妖しく動いて、実に魅惑的で性欲を誘うのだ。だが危険だ。パキスタンでは女性は家畜と同じ、財産なのだ。だから、うっかり手出しすると罰金を取られたり、公開処刑になるのだ。そんなことから、私はなるたけ、ウイリアム・ミラーと一緒に日々を送った。その間、朝鮮戦争が休戦となり、アメリカとソ連の対立はあるものの、世界の植民地は独立を果たした。昭和31年(1956年)3月23日には私が留学しているパキスタンが正式に憲法を制定し、パキスタン共和国として宣言し、イスカンダル・ミールザーが初代大統領に就任した。また年末には母国、日本が国連に加盟したという知らせがあった。世界は徐々に変化していた。日本の家族の生活はどうなっているのであろう。自分は、何時になったら日本に帰ることになるのであろうか。いろんな事を異郷で学びながら4年、私は、ずーっと同じ部屋を使用させてもらった。お陰で、4年の簡に合計四百ルピーもの金額を手に入れることが出来た。その奨学金の財源であるが、それはチョウドリー・ザファルーラッハ・ハン卿からの献金だった。ザファルーラッハ卿はアフマディア教団発展の為の外国人受け入れを考え、その奨学金制度の発案と献金をしてくれたのだ。私はラヴアの神学生の様子を見に来たザファルーラッハ卿、御本人に、何度かお会いして、勉学の状況を訊かれたりした。そのザファールラッハ卿が、後に国際司法裁判所長官に就任するなどとは夢にも予想していなかった。兎に角、私はラフマンの命と引き換えのように、学問に終始する幸運に恵まれたのだ。ウイリアム・ミラーとの勉学競争だった。互いに良く学び、議論を交わした。そんなこんなで、4年が過ぎ、私は宣教師になる為の専門コース、つまり、一般の大学でいうところのマスター・コ-スに進学することになった。この時になって、私はアフマディア教団本部から、教団の信徒になることを要求された。その申し出は当然の成り行きと理解したが、私がパキスタンに来た使命は日本イスラム協会の将来の為の勉強に出されたのであって、アフマディア教団の信者になる為では無いと伝えた。また我が小林家は源氏の流れを汲む小林五郎重幸の子孫であり、神道を崇拝している家柄であり、私一存で、簡単に信者になると決める訳には行かないと断った。そして昭和33年(1958年)の年末、私はガンダーラ商会のイリアス・ギュレル理事とカラチの日本大使館の成田勝四郎大使の助けを得て、出光興産の大型タンカー『日章丸』に乗せてもらい、日本に帰国した。


     9,日本に帰国して

 日本に帰国した私は、東京の街を見て、びっくりした。何とフランスのエッフェル塔のような東京タワーが青空に赤く突き出ているではないか。それだけでは無い、進駐軍の姿が消え、東京の若者たちは、笑みを浮かべ、歌を唄いながら闊歩している。着てる物も華やかだ。皆がお帰りなさいと言っている気がする。まるで浦島太郎の気分だ。私は驚きながら、まず以前に暮らしていた世田谷のアパート近くにある青柳功三商店に訪問した。まだ基兄がそこで働いていた。

「おお、淳じゃあないか。何時、帰って来たんだ」

「2日前、徳山に着いて、今日、東京に戻って来た。東京の雰囲気が一変しているので、驚いたよ」

「まあ、功三叔父さんに挨拶して、留学話を聞かせてくれ」

 その後、功三叔父に会い、今までの経緯を簡単に語り、皆から無事の帰りを祝福された。だが私の心は不安でいっぱいだった。パキスタンの神学校で学んで来たのは良いが、無一文の乞食同然だった。神学校で貯めた数万円と、ガンダーラ商会のイリアス・ギュレル理事から頂いた金と『日章丸』での労賃だけでは、アパートを借りる事も出来ない。基兄のアパートに転がり込むしか方法が無かった。ところが基兄は、既に結婚し、現在、高円寺のアパートに住んでいて、私が転がり込む余地はなかった。その為、基兄が以前暮らしていたアパートの大家に掛け合って、私の住居を確保してくれた。そして或る日、父に会いに行って来いと、電車賃と小遣いをくれた。私は栃木に行きたくなかったが、どんな暮らしをしているのか確かめたくて、父に会いに栃木に向かった。浅草から東武電車に乗って向かう景色は栃木に近づくにつれ昔の姿を蘇らせてくれて懐かしかった。栃木駅から商店街を通り、昭和町の実家のガラス戸を開けると、父、隆七が素っ頓狂な顔をした。まるで幽霊に出会ったような驚きようだった。

「あ、あ、淳!」

「ただ今」

「な、何が只今だ。インドでくたばったんじゃあないかと、悪い夢ばかり見させやがって」

「申し訳ありません」

「何処か具合でも悪くなって帰って来たのか?」

「いえ。学業を終えたので・・」

「そうか」

 私は家の中を眺め回してから、父がまだ米穀業者の仲介の仕事を続けているのを確認した。父は寂しそうだった。まだ60歳ちょっと前で、2番目の女房に逃げられ、今は、娘たちと3人暮らしだった。私の長兄が家を出て、合戦場の大きな家に婿入りして、時々、様子見に来てくれているので、安心だと父は言った。そこへ末の妹、啓子が帰って来て、キョトンとした顔をした。この人、誰といった顔だったが漸く兄だと分かったらしい。私が日本を離れる時、まだ小学校の下級生で、父の後妻に可愛がられていて、私とは馴染みが無かった。それが今や中学生だという。その後、高校生になった久子が帰って来た。栃木女子高校の3年生だという。久子は感情的で、私を見るなり跳びついて来た。涙を溢れさせ、私の帰国を喜んだ。高校を卒業したら東京の会社に勤めが決まっているという。私が帰国して東京の繁栄ぶりを見て驚いたように、まさに時代の流れは東京に集中していた。私は博兄や幼馴染みと再会した後、基兄、勇兄、妹、和子、昭子のいる東京に戻った。そして『早稲田大学』に行き、復学を要請したが、長期間行方不明の為、除籍処分されていて、復学の許可を得られなかった。これから、どうすれば良いのか。生きて行くには働くしか方法が無かった。私は自分に適合した就職先を探したが、放浪生活をして来た私を採用してくれる会社は無かった。それを見かねた基兄が勤める世田谷代田の米店の店主、功三叔父が、同じく京王線近くの大原で米店を経営している秀四郎叔父に従業員として採用するよう依頼してくれた。お陰で私は東京での働き口が見つかり、そこで働く事になった。パキスタンの神学校の生活と異なり、米屋の配達の仕事は、なんだかんだと四六時中、走り回る多忙な仕事で、あっという間に、1年が終了した。翌年、昭和34年(1959年)の日本は敗戦から復興し、岩戸景気とかいって正月から活況を呈していた。この頃の日本の大人や子供たちはテレビ番組で、相撲業界から離れてプロレスラーになった力道山を応援し、南極の昭和基地で発見されたタローとジロウの生存力に感動し、元気を取り戻していた。女の子はフラフープ遊びに熱狂し、男の子は鉄腕アトムや赤胴鈴之助に夢中だった。また若者では私より1つ年下の石原信太郎が史上最年少の芥川賞作家として脚光を浴び、弟、裕次郎と活躍していた。私は、そんな世相を見て、もし、パキスタンに行っていなかったらどうだろう。自分の小説も脚光を浴びたのではないかなどと想像した。更に追い打ちをかけたのは2つ年下の皇太子明仁親王と正田美智子嬢の結婚だった。自分と同期の多くの若者が皇太子の結婚を見て結婚に憧れた。だがイスラムの生活をして来た私は、女性とは無縁だった。また『早稲田大学』時代の友人、今井克己は高校教師、西村光男は出版社、小沢幹夫は映画会社、野村二朗は狂言師と、立派な職についていた。無職で、誰からも相手にされない自分は、これからどうすれば良いのか。兎に角、秀四郎叔父の所で精出すしか方法がなかった。そんな或る日、私は代々木上原のモスクがどうなっているのか様子を探りに行った。そして驚いた。トルコ人のケナン・ギュレルが、まだ働いているではないか。彼は私を見つけると走って来た。

「小林さん。小林さんではないですか。今まで何処に行っていたのですか?」

「パキスタンだよ」

「神学校を逃げ出して行方不明のままだと、皆で心配していたのですよ」

「何の便りもせず、心配させて、申し訳なかったです」

 私との連絡が取れなくなって、日本ムスリム協会の今泉義雄会長たちが、困っていることは承知だった。だが、朝3時に起こされ、礼拝を行い、朝食後、クルアーンを読まされ、発音が間違っていると鞭で叩かれ、その後、炎天下での農作業。昼食後、またクルアーンを読まされ、鞭の苦痛。まるで囚人の生活だから逃げ出したのだった。逃げ出さなかったら、多分、私は死んでいただろう。思いがけない再会にケナンは喜ぶと共に残念がった。

「もし、あの時、ザルダリー参事官が奨めたカイロの『アズハル大学』に留学していたら、今頃、大学の講師になれていましたよ」

「そうかも知れませんね」

 ケナンは私の身なりを見て私が風太郎であると見抜いたに違いない。今、何処に住んでいるのかと訊かれたので、以前、住んでいた近くだと答えて、彼と別れた。自分は日本に帰国して良かったのだろうか。人生とは分からない。8月以降、在日朝鮮人が、沢山、北朝鮮に帰還して行くが、果たして彼らの未来も、どうなることやら、想像がつかない。


     10,出会い

 あっという間に1年が過ぎ去り、昭和35年(1960年)になった。私は『青柳米穀店』の従業員として、熱心に働いた。ムスリムとしての1日5回の礼拝(ファジャル、ズフール、アサル、マグリブ、イジャ)を行う暇など無かった。というより、出勤して先ずは『青柳米穀店』の神棚に、一日の安全を祈り、作業に取り掛かった。仕入れた米を精米し、倉庫に保管し、得意先に配達する仕事だが、リヤカーで運んだり、自転車で運んだり、結構、重労働だった。それに配達先の食堂の店主や奥様方と世間話や米の種類や研ぎ方の会話をせねばならず、慣れるまで大変だった。この仕事を、15年以上、世田谷代田の店で続けて来ている基兄のことを想うと立派だと思った。そんな多忙な毎日を繰り返している或る日、一人の老人が『青柳米穀店』にやって来た。その老人が秀四郎叔父に何か伝えると、秀四郎叔父が私に手招きした。何か失敗でもしでかしたのかと恐る恐る近づくと、そこに立っていたのが、かって会ったことのある『日本ムスリム協会』の三田了一理事だった。私は身震いして、挨拶した。

「お久しぶりです」

「おおっ。本当に戻っていたんだね。良かった。良かった」

「どうして、私がここにいると?」

「ずっと探していたんだ。ケナン・ギュレルが君に会ったと言うから・・」

 秀四郎叔父は、自分より年上の老人が、涙顔で私に話しかけるので、驚きっぱなしだった。三田理事は私の手を握り、私にお願いした。

「なあ、小林君。私の願いを聞いて欲しいんだ。再会出来たのは、神の思し召しだ。実は今泉会長が病床で、パキスタンに送った君の事を案じ、心残りだと悩まれている。お願いだ。今泉会長に君の元気な顔を見せてやってもらいたい。今泉会長を心安らかしてて欲しいんだ」

 そう言われて、私は悩んだ。捨て駒にされたんだ。なのに捨て駒にした奴の見舞いに行かなければならないなんて。私は行きたくなかった。

「私は皆さんが推薦した神学校の脱走者、つまり裏切り者です。その私が何で見舞いに行けましょう。行った所で幽霊にでも出くわしたと思われるだけです。申し訳ありませんが、お会い出来ません」

「そこを何とか」

 私はかぶりを振った。

「私はパキスタンに行き、イスラム世界を体験しました。そこで真のイスラムは何かを知りました。そのイスラムは今泉会長や皆さんが考えているイスラムではありません。皆さんのイスラムは幻想であり、何も生み出しません」

「それは、どういう事かね」

「イスラムの真実を伝える為に、友人ラフマンが私の身代わりになり、神に命を捧げ、私が日本に戻って来られたのです。私は今泉会長が送り出した小林淳ではありません」

「君が苦労したことは分かるが、そこを何と我慢してくれ。今泉会長の総てが、もう終わるところなのだ」

「私には出来ません。仕事があります。申し訳ありませんが、お帰り下さい」

 思いがけず、三田了一理事に会い、今泉会長の現況を知ることが出来たが、自分が振り回された青春を想うと、私の心は自分を弄んだ人物を赦すことなど出来なかった。三田了一理事は私の拒否反応が余りにも固いので、悲しい顔をして帰って行った。

「行ってやらなくて良いのかい?」

 秀四郎叔父が心配したが、私は騙されて大学生活を棒に振った経緯を秀四郎叔父に説明した。すると秀四郎叔父は、私に向学心があり、それを阻害してはならないと、学びたい時は遠慮なく申し出るよう言ってくれた。お陰で、私は時々、図書館に行ったりして、好きな勉強をすることが出来た。そして、将来、小説家になりたいと願い、仕事の傍ら短編小説の創作に取り組んだ。間も無くして今泉会長が亡くなられたとケナン・ギュレルから知らされた。可哀想なことをしてしまったと思ったが止むを得ないことだった。そうして月日が経った1年後の或る日、『青柳米穀店』に電話が入り、私に会いたいという人が現れた。相手は前島と名乗り、パキスタンの実情を教えて欲しいと言った。私は答えた。

「私には人に教える程、パキスタンの現状を把握しておりませんので、教えるなんて無理です」

「成田勝四郎先生からの紹介です。成田先生は、パキスタンのことなら小林さんに教えて貰えと申されました」

「えっ。成田先生が、そう申されたのですか。パキスタンにいる時、成田先生には大変、お世話になりました。先生がそう申されたなら・・」

 私はそこで前島という見知らぬ人物の要請に従い、寒くなり始めた11月初め、約束の丸の内にある『パレスホテル』に行った。そのホテルは皇居前広場の片隅にあり、オフィスビルを併設した立派な近代的ホテルだった。夕方5時丁度にロビーに行くと男性3人が立っていて、そのうちの1人が私の所に小走りでやって来た。

「小林様でしょうか?」

「はい、小林です」

「前島先生が、あちらにおられます」

 私は若い男に案内され、背筋を伸ばし、他の2人の老人の所へ進んで行って挨拶した。

「初めまして、小林です」

「おお、良くお出で下されました。私が前島です。こちらは井筒さんです。では食事でもしながら、お話しましょう」

 3人に案内され、私はホテル内の和食処『和田倉』の個室の席に付いた。そこで2人の年配者から名刺を受け取りびっくりした。一人は『慶応大学』の前島信次教授、もう一人は井筒俊彦という言語学者だった。私と同年配の男は『東京大学』の大学院生、加賀谷寛だった。3人は島津広大大使や成田勝四郎外交官から、パキスタンのことを知りたいのなら、小林淳という青年が帰国して、世田谷あたりにいる筈だから、彼に教えて貰えとアドバイスを受けたという。私は、そこで島津大使や成田外交官と知り合いになった経緯を説明した。そして食事をしながら、3人にライヴィンドの神学校を脱出して、アフマディア神学校に移籍してからのことを語った。3人は私の苦労話を目を輝かせて訊いた。その様子を見ていた和服姿の若い仲居には、何故、有名な大学教授たちが、こんな身なりをした貧相な男に教えを乞いているのか分からなかった。


     11,小説家を目指す

 パキスタンから帰国した私には武器という武器が無かった。『早稲田大学』を中退し、外国に行き、これという技術を持っていなかった。あるとすれば学生時代のペンキ塗りの技術とイスラム聖典、クルアーンに関する知識だけだった。でも生きて行かねばならない。そんな自分に出来そうな職業は、ヒットすれば金持ちになれる小説家の仕事のような気がして、その道に進んでみようと思った。時代はテレビと週刊誌の隆盛期で、三島由紀夫、石原慎太郎の活躍をはじめ、梶山季之、和久峻三、笹沢左保、戸川昌子など、自分と同年配の若手作家が誕生していた。私は『青柳米穀店』で働きながら小説家を目指した。そのかたわら、『慶応大学』の前島信次教授や『東京教育大』の関根正雄教授が連れて来る学生たちと、『パレスホテル』で会食しながら、イスラムについて論じ合った。そんな或る日、私は、『前島研究会』が始まる30分程前に『パレスホテル』に行ってしまった。することもなくウロウロしていると、『和田倉』の顔馴染みの仲居が、私に声をかけて来た。

「小林さん。今日はお早いですね」

「ええ、神田の本屋に立ち寄ってから、都電に乗って来たら、意外と早く着いちゃって」

「良かったら、お部屋でお待ちになられたら如何です」

「良いのですか」

「どうぞ。どうぞ」

 それから彼女との個人的な話になった。彼女は新潟の生まれで、『パレスホテル』の女子従業員募集を受けて、料飲部門に配属され、立派な人たちと出会うことが出来、毎日が楽しいと話してくれた。小柄で、和服の似合う明るい女性で名前を貞子といった。私はパキスタンでの放浪生活が役立ち、乞食生活を送っているのに、大学教授たちの情報源として優遇されているのだと話した。すると貞子は笑って言った。

「まるで、ボロの参考書みたいね」

「それは、ひどい言い方だな」

「だって何時も同じ身なりしているのですもの」

「うん。この古い上着が、私の一張羅なんだ。気の毒に思うなら、新品を進呈して欲しいね」

「まあっ!」

「冗談。冗談」

 そんな会話から、何時の間にか、私は彼女に親近感を覚えた。従って、『前島研究会』の日が待ち遠しくて仕方ないようになった。イスラムの世界は、前島教授たちにとって、分からない事だらけのようだった。神への服従は追求すれば追及する程、分からなくなるものだ。そんな勉強会の時だった。井筒先生がデンマークから日本に来ている若者を紹介してくれた。その若者はデンマークの人文研究学者、トビー・ミケルセンだった。彼は、日本で何故、アンデルセンが人気なのか、何故、アラビアンナイトは普及しないのかなど調べているうちに、イスラム教に興味を抱いたのだという。彼は『慶応大学』の聴講生で、レストランのアルバイトをしながら学んでいるのだという。そんな苦学生と私は意気投合し、文学を語り合った。私が小説の創作に夢中になっているのを知ると、彼はやたらと私に接近して来た。結果、トビーはレストランのアルバイトを辞め、私と同じ『青柳米穀店』で働くことになった。秀四郎叔父に、嫁さんになる女でなく、外人男を引っ張って来るなんてと叱られたが、客先が増えている秀四郎叔父には従業員が見つかって大喜びだった。私は米の配達をしながら小説を書き、時々、トビーと『前島研究会』に顔を出し、ケナン・ギュレルに紹介されて、ムスリム学生協会を覗いたりした。そんな日々の中で出来上がった小説原稿を出版社の懸賞募集に応募してみた。だが何の手応えも無かった。何時の間にか年末になり、忙しく働いている時、『青柳米穀店』に電話が入った。受話器を取った秀四郎叔父が、ニヤリと笑い受話器を私に渡した。電話をして来たのは貞子だった。

「もしもし、貞子よ。仕事中、ごめんなさい。大丈夫かしら」

「ああ、良いよ」

「明日の夕方4時に東京駅で会いたいのだけれど。どう?」

「何かあったの?」

「来てくれたら話すわ」

「そうか。分かった。何とかするよ」

「八重洲側の中央改札口よ」

「うん、分かった」

 首を傾げて受話器を置くと、秀四郎叔父が傍らで訊いた。

「何かあったのか?」

 私は、直ぐに答えた。

「大学時代の友人が、上京して来るので、明日の午後、都合出来ないかって」

「そうか。なら明日、午前中から休んで良いよ」

 秀四郎叔父の優しさが嬉しかった。翌日の午後、私は貞子と東京駅で合流した。これから何の話をされるのか不安だった。だが貞子が嬉しそうな顔を見せたのでほっとした。

「お茶でも飲もうか」

「その前に行く所があるの」

「何処へ行くの」

「私の後に付いて来て」

 彼女は、そう言って、私の前を歩き出した。着いたのは『大丸デパート』の紳士服売り場だった。彼女は、あらかじめ私が好みそうな店を探していたらしく、『オンワード』で私の寸法を測ってもらい、背広を註文してくれた。

「以前、新品を進呈して欲しいと言ったでしょ。御誕生日までに間に合うわよ」

「そ、そんな。本当なの」

「本当よ」

 私には信じられぬ事だった。私の誕生日、12月28日は間近だ。本当に甘えて良いのだろうか。でも寸法を測ってしまっているし、断りようが無かった。私は彼女の計らいに感謝し、ペコペコ頭を下げた。彼女は、そんな私の姿を見て、可笑しがった。『大丸デパート』で背広を註文してから、私たちは新宿に行き、『中村屋』で食事をしながら話した。貞子は今まで、私に話していなかった事を話した。

「実を言うと私は新潟のお寺の娘で、お寺に嫁ぐ縁談があったの。でも、お寺に嫁ぐのが嫌で東京に逃げて来たの。田舎にいる時、新聞で『パレスホテル』の従業員大募集の記事を見て、思い立ったが吉日、汽車に乗って、面接試験に遠くから来たのよ」

「顔に似合わず、積極的なんだね」

「東京で素敵な相手を見つけたかったから」

 貞子は頬を紅潮させ、私を見詰めた。私は雪国生まれの彼女が東京にやって来た目的が何であるかを理解した。彼女は続けた。

「小林さんは山羊座、私は5月生まれの双子座なの。この間、占い師に相性を訊いたら、価値観が異なるけど、かえってそれが、相手の良さに目を向けさせて、新しいものを創り上げる原動力になるのですって」

「本当かな。私は彷徨う羊だよ。何処へ行くか分からんよ」

「でも必ず帰って来るから平気なの」

「お嬢さん。当たるも八卦当たらぬも八卦。占い師の言うことなど信じちゃあ駄目だよ」

 私の言葉を聞いて、彼女は声を上げて笑い出した。

「何、言ってるの。貴方だって、預言者の言葉を信じているのでしょう」

 この時、私は貞子のことを賢い女だと思った。『中村屋』での食事が終わってから、私たちは山手線沿いの暗い路地を黙って歩いた。そして旅館に入り、互いの愛を確かめ合った。彼女は私に愛されながら言った。

「私、来年の5月に30歳になるの。その前に貴方と結婚したい」

 私は、どう答えたら良いのか迷った。貞子は真っ直ぐ私を見詰めている。私はそんな彼女を攻激しながら答えた。

「分かった。じゃあ、来年、早々、結婚しよう」

 私は口から出任せを言った。結果、私は彼女に誘導され、翌年の2月に役所に行き所定の手続きを済ませた。その結果、私は梅ケ丘のアパートの部屋から、トビー・ミケルセンに出て行ってもらい、貞子と新婚生活を始めた。それから、末の妹、啓子が上京し、大手町の会社に勤めたりして、個人的用事が増えて多忙な毎日が続いた。この頃の日本は安保闘争が終わって世界に進出し、経済成長を伸長させ、昭和39年(1964年)東海道新幹線を走らせ、10月10日、東京オリンピック大会を開催する程の繁栄ぶりを世界に示した。私は目まぐるしく変動する時代の中で、夢中になって小説の執筆に取り組んだ。親友、トビーは東京オリンピックが終わると、日本から去り、深い付き合いの人物は高校教師をしている今井克己と出版社勤めの西村光男とイスラム関係の数人だけだった。貧乏暮らしの私は今井と西村から飲み会の話があると断りたかったが、数少ない友人を失いたくなかったから、無理して飲み会に出席した。私が結婚したのを知ると、まだ独身の西村は私の結婚を祝福しながらも、私の生き方を批判した。

「女房を稼ぎに出して、自分は小説を書いて楽しんでいるなんて、それじゃあ、まるでヒモではないか」

「その言い方は、ちょっと酷いよ。俺だって米の配達やペンキ塗りの仕事をしているんだ」

「いずれにせよ。お前は優秀なんだから、何処かの企業の中途採用試験を受けるんだな」

「それより、西村。お前の会社で俺の小説を出版して貰えないかな」

「出版するには金がかかるよ。君はまだ駆け出しだから会社は商業出版などしてくれない。自費出版するには50万円程度、金が必要だ」

「奥さんを質に入れるか?」

 今井も高校教師なのに、酷い事を言う。彼らにからかわれても、親友に会うのは楽しかった。ほろ酔い気分での蹴り道、私は歌を唄った。

 俺はバガボンド  仕合せ男

 何て何とも    粋な暮らしではないか

 俺は仕合せ    何時も明るい妻がいる

 苦しい時     さわやかな愛をくれる


 僕はぶらぶら歩き 詩を書いている

 そして 仕合せの 種をまく

 あのジュルベール・ベコーのシャンソンの替え歌だ。ふと、替え歌を唄っていて、電車に追突された時のことを想い出した。気が付けば、そこに貞子に愛され、呑気に暮らしている自分がいた。あっという間に月日は去り、昭和45年(1970年)になった。正月、末の妹、啓子の結婚が決まった。69歳の父は総ての娘たちが相手を見つけ、ほっとしたに違いない。そう思っている矢先、3月8日、父、隆七は末娘の花嫁姿を見ずに、この世を去った。栃木での葬儀に顔出しした時、博兄が言った。

「親父は、お前だけが心配だと言って亡くなったぞ」

 ショックだった。今に見ていろと、涙を堪えた。そして何度も何度も懸賞小説に応募したが、自分の作品は注目され無かった。期待する貞子を我慢させる日々が続いた。無為な毎日を重ねる自分を情けなく思うようになった。


     12,妻の変化

 昭和47年(1972年)2月末、私の妻、貞子は創立10周年を迎えることを機に、姉妹ホテルとして建設された『グランドパレス』の飲食部門の食堂課に異動となった。40歳を迎える貞子は、係長になっていて、女性従業員の他、配膳会を通じて働きに来ているパートタイム勤務者の面倒を見なければならず、大変だった。部下には若い者から所帯持ちやオールドミスもいた。そのそれぞれが、暮らしの為、小使い稼ぎの為、暇つぶしの為、ラブ・ハントなどを目的に勤務していて、油断出来ない毎日を送ることになった。彼女は大勢の女性たちを部下に持った為、部下の悩みを訊かねばならないからと言って、遅く帰宅することが増えた。彼女は、お寺の娘として育ったからか、頼られれば嫌と言えない性分で、人望があった半面、部下にも厳しかった。その為、逆恨みする女性もいて、或る日、人事部長に呼びつけられ、叱られたと悔しがった。

「君、叱咤激励するばかりが、人の使い方じゃあないよ。僕は信じはしないが、君が人によって依怙贔屓すると訴える奴がいるんだ。人手不足なんだから、皆を上手におだてて働かせてくれなければ困るよ。部下を上手に使うのが係長の役目だよ。私情をは忘れて、円滑に仕事を遂行してくれ給え」

 貞子は反論したかったが我慢したという。こんなことで立腹し、首にされては元も子もない。彼女は昇格を機に、私に相談なしに、目白のマンションの購入を決めていた。通勤時間短縮の為だった。今まで1時間かかっていた通勤時間が、目白から高田馬場を経由して地下鉄東西線で九段下まで30分程で、済むというのだ。そこで私は梅が丘から、目白に引っ越し、秀四郎叔父の店での仕事から手を引いた。何事においても貞子は積極的だった。九段下のホテルに移っても、彼女を慕ってやって来る客もいて、ホテルの経営者からすれば、彼女は日を増すごとに、貴重な存在になって行った。新たな客も増えた。靖国神社に参拝に来た中曾根康弘、安倍晋太郎といった国会議員たち、『専修大学』や『二松学舎」の教授たち、『G学園』の先生たち、出版関係の人たち、芸術家たち、外国人宿泊客などがホテルを利用してくれた。ところが翌年、昭和48年(1973年)8月8日、宿泊していた韓国の政治家、金大中氏が22階の部屋で韓国中央情報部の者に拉致され、姿を消して大騒ぎとなった。韓国に連れて行かれたらしいので、ホテルは直ぐに警察と日本政府に連絡した。日本政府は、この事件をアメリカに連絡。日本から偽装貨物船で韓国に運ばれた金大中氏は、殺害さる寸前だった。だがアメリカ政府の圧力によって、8月13日、解放された。私は妻から、その解決の経緯を聞いて、ホッとした。とはいうものの時代は不況に向かっていた。10月、中東の産油国が原油価格を70%引き上げた為、狂乱物価の時代が始まった。その為、ホテルの利用客が激減した。そんな中で、上智大学の篠田雄次郎教授や飯坂良明教授がホテルを利用し、『国際書道連盟』を設立した。貞子も幼い頃から仏門で書道を習ったので、その会員になった。また近くにある『G学園』の田中茂雄神父はホテルを居所にして、あれこれと情報交換する為、貞子を利用した。田中茂雄神父は国際社会の平和の為の人材育成とカトリック的価値観に基づく人間教育を目指しており、仏門に育った貞子との意見交換を楽しみにしていた。貞子は主人がイスラムにも関与していると説明し、私もホテルに伺ったりした。妻の仕事が多忙になる一方、私は小説家として世に出ようと必死だった。出版社勤めの西村光男に、ミステリーを書けば採用されると言われたが、私には、その才能が無かった。時々、ケナン・ギュレルやアタウル・ラシエド宣教師と会い、気分を紛らせた。ある時、名古屋からやって来たアタウル・ラシエド師が、私に言った。

「小林さん。私は貴方に『聖クルーアン』の日本語翻訳を、お願いしたいと思っています。引き受けていただけませんか?」

「既に何人もの人が翻訳されているのに、何故ですか?」

「イスラムの中で暮らし、アラビア文字を修得している貴方の翻訳の方が日本人に正確に伝わると思っています。英語経由の日本語翻訳は『聖クルーアン』の神髄を日本語に表現出来ておりません。だから、お願いです。翻訳して下さい」

「出来ないことは無いですが、私の暇な時、ボチボチやるので良いのなら」

「それで良いです。お願いします。お願いします」

 私はアタウル・ラシエド師に懇願され、『聖ラクーン』の翻訳を引き受けた。


     13,海外へ再び

 昭和57年(1982年)の或る日、日本アフマディア支部の宣教師、アタウル・ラシエド師から思わぬ電話が入った。その内容を聞いて、私はびっくりした。

「驚かないで下さい。この度、スペインのコルドバにレコンギスタ以来、5百年ぶりに、アフマディア教団がモスクを創設しました。その祝賀会を来たる9月10日に行うそうです」

「ええっ、キリスト教信者の多いスペインにモスクを建てたのですか」

「はい、そうです。そこで小林さんに『日本アフマディア協会』の日本人代表として出席してくれるようにと、大本山から依頼がありました」

「ええっ、嘘でしょう」

「本当です。その祝賀会に私と一緒に出席するよう、お願いします」

 私には信じられない話だった。私は今まで、一度も『アフマディア教団』に入信した事実はない。帰国してから、イスラム研究者とは会っているが、1日5回のサラードもしていない。なのに『アフマディア教団』の方では、私を正式な日本人の信徒会員だと信じているようだ。また私が最初に会員だった『日本ムスリム協会』も、私がライヴィンド神学校から抜け出し、異端のアフマディアの本山、ラヴアで、4年間も勉強して来たことから、正真正銘のアフマディア教徒と思い込んでいた。ラヴアで4年間も只飯を食わせて貰ったのであるから、骨の髄までアフマディア信徒に堕ちてしまったに相違ない。『日本ムスリム協会』の創建の趣旨に、非宗派活動という項目がある。創建当時の理事の先生方は、戦前、戦中、大陸や東南アジアで、スンニー派とシーア派の確執の凄まじさ、愚かさを知り尽くしている。従って、日本では絶対にそのような愚行はしまいと決意して協会を設立し、世界平和を目指した。しかし、それら諸先生方は皆、ご高齢になり、ほとんどが身罷り、私が帰国して直ぐに今泉会長も亡くなった。そんな訳で、三田了一会長の後の理事たちも、私がどんな経緯で帰国したのか理解しておらず、私は心ならずも、『日本ムスリム協会』を破門された者として存在していた。また『アフマディア教団』のラシエド師らの間違いもはなはだしかった。それは『アフマディア教団』が正式に日本に布教活動を計画した時、彼らが日本への宣教師ビザを取得する為、日本大使館に交渉した際、日本大使館から私の名前が出されたからだ。私は、日本政府から『アフマディア教団』について問い合わせがあった時、私はラヴアのアフマディア神学校で学んだ4年間を通して私が知り得た『アフマディア教団』の実体を説明した。『アフマディア教団』は巷間で流布されているような、例えば『イスマイリ暗殺教団』のような害をなす集団では無く、むしろ、その正反対の寛容と世界平和を目指す教団である。1400年前の文化を近代的に解釈する現代ムスリムの知的平和集団だと語ってやった。そして法務省担当者に、今の日本は石油等の必要性から中東との人的交流を積極的に行い、中東との宥和を促進することが国益に適うと思うのでビザ発給は有効であるがと後押ししてやった。その結果、『ラフマディア教団』の宣教師ビザ取得に成功したのだ。以来、『アフマディア教団』は私の誠意を教団への忠誠の証と信じ込んでしまったのだ。それら経緯はともかくとして、私はコルトバのアフマディア・モスク落成式に出席することを引き受け、9月初め、『ラフマディア教団』が手配してくれた航空券を受け取った。そして、更に驚かされた。チケットの行き先がロンドンになっているではないか。何故、マドリードでないのか。そこでラシエド師に確認すると、2年前からパキスタンのラヴァ本山は、パキスタン大統領、ジャワル・ハク政権と対立して、現在、ロンドンのテムズ川南のサウスフィールドに亡命中という説明をしてくれた。そういう訳で私はラシエド師と羽田空港からシンガポール経由でロンドンに行った。初めて目にするロンドンは、映画で見た通りの都市だった。長い飛行で少しくたびれていたが、私とラシエド師は当日、サウフィールドにある『アフマディア教団」の亡命本山に赴いた。そこで図らずも、パキスタンのアフマディア神学校に奨学金の寄付をされていたザファルーラッハ卿と20数年ぶりに再会した。既に90歳を過ぎていたと思う。15年程前、オランダのハーグにある国際司法裁判所長官を退かれ、今はパキスタンに戻らず、ロンドンの自宅で過ごしているという。気が向けば口述筆記の書き物などして、悠々自適の毎日を送っているらしい。親しくしていた日本人、田中耕太郎判事が亡くなられたことを、残念だと話された。そんなこともあって、私とラシエド師は翌日、ザファルーラッハ卿の自宅へ招待された。その時、アブドゥス・サラム博士を紹介された。

「やあ、いらっしゃい。こちらの紳士を紹介しよう。彼がアブドウス・サラム博士だ。1979年アメリカのワインバーグ博士、グラショウ博士と一緒に電弱統一の研究でノーベル物理学賞を共同受賞した人物だ。イスラム教徒での初めての受賞者だ。本人はまだ日本に行ったことが無いので、彼が国際物理学会が日本で開催され、日本に訪問したら、あちこち案内してやって下さい」

「お任せ下さい。美しい日本を案内致しましょう」

「よろしくお願いします」

 私より5歳年上のサラム博士は、そう言って頭を下げられてから、ミラノにある国際連合教育科学文化機関、通称、ユネスコの所長の名刺を私たちに差し出した。私はラシエド師が作ってくれたモハマッド・オウェース・コバヤシの名刺を2人に渡した。それから、ザファルーラッハ卿からの説明があった。

「我々は明後日、ロンドンからマドリードまで飛行機で移動し、後は車をチャーターして、スペインのあちこちを観光したいと考えています。といってもスペインは広いですから、南のアンダルシア地方、グラナダとかセビリアなどを見て回るつもりです。よろしいですね」

「はい」

「帰りは地中海に面したマラガから飛行機で帰ります。1週間を予定しています。この日程で、ご異存は御座いませんね?」

 ザファルーラッハ卿はそう言うと、私の顔を確かめた。私は頷いた。たとえ不都合があったとしても、ご大身が既に企画なされているので、私如き者がどうして異議を唱えられよう。日本から訪問したラシエド師と私は、ザファルーラッハ卿の段取りに従い、2日後、四人でコルトバのアフマディア・モスクの落成式に出席した。キリスト教信者の多いスペインでのモスクは神秘的で素晴らしかった。

「日本にも、同じようなモスクを建設したいです」

 ラシエド師が、そう言うとザファルーラッハ卿が協力するから、頑張るよう後押しした。私たちは現地のイスラム信者たちから大いに歓迎された。その落成祝賀会を終えてから、私たちはチャーターしたワゴン車で、アンダルシアの各地を見物して回った。途中、何処だったか、なだらかな丘が織り成す、見渡す限りのトウモロコシ畑を前にして、路傍の茶店でお茶を飲んだ時、サラム博士が言った。

「今、世界の人口は60億と少々です。目の前の畑を見れば想像出来るように、この地球の穀物の全生産量は、投機家が煽り立てる程、そんなに乏しくはないんです。平等に分かち合えることが出来れば、飢えて死ぬ者はいない筈。ユネスコの計算によれば、世界人口の4,5倍の二百七十億人が、たらふく食べられる生産量なのです。ところが既に餓死者を出している地域や階級が存在しています。どうして、そうなるのか?平等に分かち合えない、分けたがらない者がいる。文明に汚された現代人というものは、恥ずかしい極みだ。そう思いませんか?」

 その言葉を聞いて、私は先の戦争でひもじい思いをした経験と、その戦争原因に思いを馳せた。サラム博士の言う通りだ。人間はまだ懲りず、他人より以上に物を獲得したいという欲望から逃れられられないでいる。私たちは広大な風景を眺めてから、最後にグラナダの『アルハンブラ宮殿』を観て、そこから150キロ足らずのマラガ空港へと向かった。ところが私たちの乗った車は、その途中の山岳地帯で事故の渋滞に巻き込まれてしまった。運転手の隣に座るラシエド師は気が気では無かった。

「これでは飛行機の時間に乗り遅れてしまうよ」

 私はラシエド師の慌てようを見て、ザファルーラッハ卿とサラム博士の表情を窺った。すると2人とも涼しい顔をしていた。ザファルーラッハ卿はラシエド師同様、私が不安でいると感じて言った。

「慌てることは無い。次の便が待っている」

 成程。乗り遅れたとしても、次の便を利用すれば良いのだ。マラガからロンドンへの便は1日に一便では無く、複数回ある。それに現役を退いたとはいえ、世界の法曹界の重鎮とユネスコのミラノ所長で、ノーベル物理学賞の受賞者が乗り遅れたのであるから、次の便に乗ろうとしたら、その搭乗券は無効です。新たにお求め下さいとは言わないだろう。やっと渋滞を抜けて空港が見えて来た時には、離陸時簡に30分以上、遅れていた。残念なりと思わず4人が顔を見合わせた時、運転手が叫んだ。

「見なせい、あれを!」

 運転手の指で示す彼方を見ると、物凄い黒煙と火の手が吹き上がっているのが目に入った。

「何事!」

 訊くまでもなく、飛行機事故によるものであると理解した。旅客ターミナルに着くと、事故の内容が分かった。何と事故機は私たちが乗る筈の飛行機だった。ということは、途中で交通渋滞に阻まれなかったら、私たち4人は間違いなく、その事故機に乗っていて、一巻の終わりだった。4人ともその事実を知って、茫然と互いの顔を見合わせるばかりだった。まさに怪我の功名。私たちは、その事故を他所に、次の便でロンドンに無事戻った。翌日、ロンドンで読んだ新聞によれば、あの飛行機は離陸したものの、高度400メートルで突然、エンジントラブルを起こし空港外の隣接する畑に墜落炎上したという。乗客の273名は気の毒にも助からなかった。本来なら私たちも、あの飛行機に乗っていた筈。それがどうして、その災害記事を読む側の立場になったのか。ザハールラッハ卿たちは神の御加護と申されるかもしれないが、私には、この世の無常と思われた。不可解は人生の常というが、私は無常の素顔を垣間見たような気がした。


    14,カーデイアンの大集会

 私はスペインに行ってから、すっかりアフマディア信徒にされてしまった。アタウル・ラシエド師に依頼された『聖クルーアン』の翻訳も何とか恰好が付く程になって来た。ザハールラッハ卿はロンドンにいて、昭和59年(1984年)に『アフマディア教団』の本部をイギリスに移した。パキスタンで軍事法令第20条が施行され、宗教活動が禁じられたからである。また日本では代々木の『東京回教礼拝堂』が閉鎖され、取り壊されることが決まった。私の『聖クルーアン』の翻訳も、この頃終了し、私は目白に引っ越してから親しくなった画家の上野卓、山本政一、小説家の桑原幹夫、左和伸介、詩人の川崎舎博男らとの交流を深めた。また『アフマディア教団』から、声がかかり、ラヴアの大集会に参加するよう声がかかり、パキスタンの集会に日本人として付き合わされた。私の翻訳した『聖クルーアン』は昭和63年(’1988年)12月に発行された。『日本アフマディア協会』はその翻訳料を私に支払うと伝えて来たが、私はラヴアの恩返しだと言って、それを断った。貞子は、それをぼやいた。

「あんなに時間をかけて苦労したのだから、有難くいただけば良いのに。苦しい生活をしているのに、見栄っ張りな人ね」

 貞子の不満も分かるが、私は4年間、パキスタンの神学校で只飯を食べさせていただいたのだ。その上に総ての費用を負担していただき、スペインにまで旅行させてもらったのだ。だから、それらの恩返しだと、貞子にもラシエド師にも伝えた。するとラシエド師は別の形で返礼したいと言ってくれた。そこで私は世に出ない私の小説の短編集の発刊をお願いした。その短編集は平成2年(1990年)11月に発行された。それから2年後、平成4年(1992年)初春に、また大集会の誘いがあり、私は参加する事にした。ところが開催地はラヴアでなかった。ここで『アフマディア教団』の大集会について語っておこう。この教団は日本が太陽暦を採用した明治5年(1872年)にハザラット・ミルザ・グラーム・アハマドという人が、インドのカーディアンという所で立宗宣言したイスラム教スンニ派傘下の四大学統のひとつ、ハナフィーから出たイスラムの再生組織ルネサンスである。この組織は毎年1回、12月下旬、世界に散らばっている信徒の団結を計ってジャルナと呼ばれる大集会を、発祥の地、カーディアンで行って来た。だが1947年、インドとパキスタンが分離してからは、本部を移転したラヴアの地で開催している。ところが、今年は、インドとパキスタンの緊張緩和、雪解けの証としてパキスタン側からインド側に、一時入国が許されることになったので、大集会は、戦後初めて、立宗の地、カーディアンで開催するというのだ。そういう事で私はパキスタンの首都イスラマバードに行き、そこからインドのスリナガルに入り、カシミール各地の観光をしながら南下して、パンジャーブ州のカーディアンに行く計画を立てた。先に行ってイスラマバードで私を出迎えたパンジャーブ州カーデイアンの大地主、チョウドリー・アハマッド・シャーはインド北部スリナガルの別荘に私を案内してくれた。その別荘のある都市はインダス川の支流のジェルム川の畔にあり、素晴らしい景観だった。ここで1週間、アタウル・ラシエド師たちが来るのを待つのかと思うと心が躍った。私はシャー師に訊いた。

「後から遅れて来る人たちが到着するまで1週間あるので、それまでカシミール観光をしたいのですが、可能ですか」

「そうですね。折角、来たのですからカシミールがどういう所か、知っておくのも良いでしょう。しかし申し訳ありませんが、私はまだ他の人たちの出迎えがあるので同行出来ません。それに、この年ですから・・」」

「観光する所を紹介していただければ、一人で行きます」

「なら、こっちへ来て下さい」

 シャー師は私を別荘の屋上に登らせると、東の白雪を乗せている山を指して言った。

「あの雪を被っている山々、あれがカシミール連峰です。ここからは直線で、30キロメートルかな。スリナガル駅前からカシミール入口、ミルプール行きのバスが出ています。そこまで行ったら、またバスかジープに乗り換えて、まずコトリに行ったら良いでしょう。更にパンチまで足を伸ばしたら、もっと楽しく過ごせると思います」

「パンチですか?」

 パンチという奇妙な言葉に引っかかった。パンチとはパンジャップ語の熱いという形容詞だったからだ。シャー師は笑って、私に言った。

「そう、熱い水ということです。日本でいう温泉です。私のようなリューマチには非常に利くと聞いています。同行したいですが、なんせ歩行が困難ですし」

「大丈夫です。何とか会話も出来ます。一人で行ってみます」

「行く時は、お金だけ持って、パスポートなど貴重品は置いて行って下さい」

「それは、どうしてですか?」

「泥棒の多い所ですから、盗まれでもしたら一大事。それに日本人である証明になるような物は一切、身に付けずに、出かけて下さい」

 確かにシャー師の言う通りかもしれなかった。最近、ドイツ人が誘拐され、法外な身代金を要求された事件が起きているという。というわけで、私はパスポートを持たず、必要なだけの金を持ち、衣服その他、所持する物一切から、外国人と勘繰られそうな物、総てを置いて、現地人になりすまし、スリナガルから出発した。カシミールの入口、ミルプールはインダス川の支流、ジェラム川沿いの大きな町で、石積の家が多く立ち並んでいた。この町自体はパキスタン領であるが、郊外はインド領になっている国境の街で、その先は外国人、一切立入禁止地域だった。キョロキョロしている私を見て、1人のポリスが不審な顔をして近づいて来て訊いた。

「何処へ行くのだ?」

「私は北へ帰るのだ」

 私はウルドゥ語で答えた。するとポリスは私のたどたどしいウルドゥ語と顔形から、カシミール北部ラダクから来たチベット系のインド人と判断したらしい。

「ジャルディー、チャロ。ゴー、アオエイ」

 ポリスは英語とパンジャップ語のちゃんぽんで、早く帰れと命令した。こんな調子での、まずまずの出だしだった。こうしてインド領に入るとシャー師のアドバイスに従い、コトリ行きのバスに乗った。バスに2時間くらい乗って、とある小さな町に着いた時、昼飯時になった。1時間、休憩ということだったので、道路脇にある食堂でお茶を片手に、手でちぎったナンを頬張っていると、この辺りでは珍しい、背広姿のインテリ風の紳士が近づいて来て、英吾で訊ねた。

「失礼ですが、貴方は地元の人ではありませんね。外国の方ではありませんか?」

 私は警戒した。否定したら良いのか、何語で答えたら良いのか、場所が場所だけに迷った。で、黙っていると、彼は微笑んだ。

「ご心配に及びません。私はミルプールの大学の教師で、休暇で、この先の私の村に帰るところです。見たところ、チベッタンでも無さそうだし、チニでも無いし、どちらから・・」

 私は彼が大学の事をカレッジではなく、コレッジと発音したので、正真正銘、イギリスで教育を受けた教師であると信ずることにして、本当の事を言った。

「メ、ジャパン、セ、アヤ。アイム、ジャパニーズ」

「ほう、日本人ですか。お珍しい。でしたら、ご承知と思いますが、ここは大変、危険な所です。用心の上に用心をしないといけませんよ」

「そう注意されて来ました」

「そうでしょうが、貴方様の食べ方は、我々と違います。直ぐに外国人と気づかれます。我々はナンを食べる時、両手に持って千切りません。ナンを皿に載せたまま、片手でナンを皿の上に押さえつけたまま、片手での指先で千切って、口に入れます。貴方様の食べ方は見ていて、どこか可笑しい。身支度が我々と同じでも、外国人ではないかと、勘繰られてしまいます。お気を付け下さい。ボン・ヴワィアジュ」

 彼はインテリらしくフランス語で、そう別れを告げると、迎えの車に乗って、停留所から去って行った。私は食べ方で外国人と気づかれるとは気づかなかった。私は彼の忠告を胸に刻んだ。休憩時間を終えると、バスは再び目的地に向かって走り出した。カシミールという所は、ほとんど山岳地帯だ。深い渓谷の下に川がくねくねと流れ、その両脇に細々とした耕作地があるのが、渓谷沿いの上の道路から良く見えた。この景観は何処へ行っても、余り変わらない。どう考えても富める国とは思えない。その所為かカシミールを出て,、商人として志を立て、成功した者が多いと聞いている。従って、狡すっ辛くもなり、彼らの性癖は中東では誰知らぬ者はいない。そんなことを考えていると、バスはコトリの町に到着した。杏の花咲く全くの田舎町だった。そこで一泊して、次の日、旅館でパンチまでの距離を訊くと、そこはタタパニという所で、30キロ弱という説明だった。ということは山道をバスで行くのだから、1時間くらい、あるいはそれよりちょっとの乗車時間かなと予想した。そして、近くのバス乗り場から目標のタタパニに向かった。バスが走り出してほどなく町外れになると、そこから一遍に急勾配のジグザグ道を登り始めた。そして30分くらい登りつめると、平らな、やや広めな場所に出た。やれやれ。人間なら、ここで一息したいところだ。バスといえども同様、激しい稼働に耐えて登って来たので発熱している。そこで、10分間の小休止となった。その高所からの眺めは絶景で会った。眼下、千二百メートルに、コトリの町を一望のもとに見渡すことが出来た。町を取り囲む周囲の山々は、まだ雪を被っているが、麓のコトリは春3月。杏の薄いピンク色に包まれていた。私は思わず目を瞑った。杏の花の香を求めて、小鼻を膨らませてみた。だが、その香はここまで届いてくれかった。小休止を終えると、再びバスは動き出した。30キロ弱と聞いたから、1時間ちょつとで着くかなと思っていたが、2時間過ぎても目指すタタパニに着かなかった。それもその筈、カシミールの山岳街道というのは、川っ淵の断崖の中腹の岩肌を削って造られたクネクネ道になっている。山を刳り貫いて隧道を通すという方法もあるのに、何故、それをしないのかと隣席の男に訊くと、その技術も金も不足しているからだと男は答えた。これでは致し方ない。たった500m先の対岸に着くのに、クネクネと山の中腹の道を辿らねばならないのだ。そんなであるから、4時間近くかかって、タタパニに着いた。宿はコトリで一泊した旅館から手配してもらっていたから、造作なく分かった。その旅館はタタパニの町外れ、パンチの旅館で、ジェラーム川に架かる長さ300m位の木の吊り橋を渡った向こう側にある国営の温泉旅館だった。他にも隣接して、もう1軒の旅館があった。そこは3階建てで、1階にはロビーがあり、外見からすると、私が泊まる旅館より高級そうに思えた。一方、私の泊まる旅館は平屋で3棟に分かれていた。各部屋それぞれに湯殿が付いて、そこから温泉が湧き出る川原に降りて行けるようになっていた。川の水は冷たいが、その脇の川原の何処を掘っても熱い湯が沸き出すから不思議だ。60度くらいあるだろうか。入浴者は自分で掘った砂の湯穴の中に、川の水を調節して、引き入れなければならない。また、そこでは日本のように素っ裸で入浴する訳にはいかない。海水パンツや水着も駄目。イスラムでは裸を人目に晒すのは堅く禁止されているからだ。普段着のまま入浴しなければならない。そこで私も他の人に倣って、砂地に自分の湯穴を造り、着衣のまま目を閉じて首まで温泉に浸かった。するとそのうち良い気分になった。何時しかデュークエイセスが唄う《いい湯だな』を口ずさんでいた。

「旦那、ご機嫌ですな」

 隣の湯穴に浸かっていた男が声を掛けて来た。

「ああ、良い湯だ」

 私が、そう答えると、男は湯穴から這い出して、砂地に胡坐をかいて私に言った。

「この辺の人じゃあないようだけど、スカルドウーからでも、やって来なすったかね?」

 彼は私の事をカラコルム山脈のK2の麓、スカルドウーのチベット系の民族と勘違いしているようだ。そこで答えてやった。

「ここへ来る時も間違えられましたが、私はパンチの湯の事を聞いて、日本から訪ねて来ました」

「おお、信じられない!」

「日本にも川の流れの畔の温泉があるが、これほどまでに野趣に富む神秘的な温泉はありません。最高です」

「そうですか。そんなに素晴らしいと、お思いですか」

「はい」

 私の意見を聞くと、男は増々、良い気分になったのか、浴衣を搔き寄せると、私の湯穴の傍ににじり寄って来た。そして訊きもしないのに身の上話を始めた。

「私は、この近くに住んでいます。年齢は36歳です。村で小学校の教師をしています。この川の上流2キロ程度、行きますと、川の幅が、この半分、百mくらいになってしまいます。私の家は、その対岸に、4エーカーのリンゴ畑を親代々持っていました。それを先週、インド側に奪われました。当然ですが、奪われまいと死にもの狂いで戦いました。だけど、その時、鎖骨の上に被弾して、この有様です」

 私は、その男の左肩の傷口を目にして、びっくり仰天。肉の吹き飛んだ傷跡が血の塊になって残っている。

「お気の毒な体験をなされましたね。それで湯治にやって来たのですね」

「その通りです。インド人は酷いです。妻は私に言うのです。早く傷を治して、ヒンズー教の豚野郎から、リンゴ畑を取り戻して来いって・・」

 その通りだと思う。私の妻でも同じ情況なら、同じようなことを言うに違いない。女は男は戦うものだと思っているのだ。しかし、戦争で奪われた土地を、女房や子供たちにけしかけられ、扇動されても、簡単に取り戻せるだろうか?彼の女房はイスラムであり、男の勇気を重んじる。旦那の顔を見るたびに青筋立てて、戦えと絶叫しているに違いない。

「だから、あんたは弱腰なのよ。男なら死んでも食らいつくのよ」

 イスラムは勇気を大切にする。闘争を是とする。だが、待てよ。彼は親代々というが、その前は以前、ヒンズー教徒の土地であったのかも知れない。その男の名はナセル・アフマッドと言ったが、彼によれば、横に流れる川を2キロも上流に行けば、1月ごとに国境線が変わるという。

「先月まで、川向う迄がパキスタン領だったが、今月はこちらの岸辺一帯まで、インド領にされてしまったんだ」

 そんな取ったり、取られたりが毎週だという。日本の択捉、国後などとは違う。陸続きの国同士が争うということは、殺し合いが日常茶飯事、起こるのだ。日本は戦争に敗けたとはいえ、周囲を海で囲まれていて、恵まれている。戦争が終結すれば、敵は襲って来ない。だから今の日本人は平和ボケに近い。地元の小学校教師、アフマッドとそんな会話をしてから、川原湯から戻り、旅館のベランダで涼んでいると、3人の警察官が、突然、やって来た。彼らは胡散臭い顔をして私を見ていたが、中の一番、偉そうな小太りの男が、私に近づき訊いた

「ここの宿泊者ですか?」

「はい、そうです。ここが私の宿泊部屋ですが、何か?」

「今日、これから隣の部屋で会議があります」

 私は、それを聞いて直ぐに分かった。警察が警戒に当たる会議なら重要な会議に違いない。で、気を利かして私は言った。

「私は来たばかりで、まだ町を観てませんから、外出します。何だったら、私の部屋を使っても構いませんよ」

「いやいや、気を使っていただかなくとも」

 そして私が外出しようとすると、3人の警察官の様子が急変し、私を取り囲んだ。何事かと、びっくりしていると、思いもよらぬ光景が目の前に起こった。私がいる部屋のベランダの外階段から、淡い橙色のシルク・クミーズを着た長身の男と、背広姿のインテリそうな中年の男がカバンを抱かえて登って来た。シルク・クミーズの男の身の丈は190センチぐらいで、身体は瘦せ形。頭に巻いたターバンたるや黄色と黒のだんだら模様。しかも何と裸足だった。かなり偉い人物らしく、背広を着た男がへりくだった感じで、ヒソヒソと何か説明していた。長身の男は、それに対し、成程、成程と頷いてから、私に近寄って来たので、私はサラームの挨拶をした。彼もそれに応えて握手の手を差し伸べてくれた。が、その手の冷たさ。私の思い過ごしか、病的なものを感じた。私は笑って彼に言った。

「私は、これから、散歩に出かけます」

「そうですか。行ってらっしゃい」

 私は警察官から解放され、町に出た。町の様子はパンジャップ州の平均的風景と余り変わらなかった。一渡り街路を観て回って、露天の店などをひやかして帰ると、2時間以上、経っていた。既に隣室での会議は済んでいたが、例の中年のインテリそうな警察官だけが残っていた。彼は柄にもなく如才ない男で、私に会議で使った食べ残しの菓子を薦めたり、御茶を注いでくれながら質問した。

「何か面白いものでもありましたか?」

「町に活気を感じました」

「何時まで滞在ですか?」

「2,3日のつもりです」

「そうですか。ほどほどにして、お帰りになった方が良いですよ。物騒な所ですから・・」

「ご忠告、ありがとう」

 私が礼を言うと、彼は帰って行った。その翌日、私はパンチの温泉場から町へ通じる吊り橋を渡り切って、その吊り橋の情景が美しかったので、絵になると思い、カメラに収めた。すると後から吊り橋を渡って来た背広姿の男に声を掛けられた。

「ここで何をしている」

「素晴らしい景観なので、写真を撮りに」

「私はこういう者だ。ちょっと来てもらいたい」

 男が私に見せたのは、ISI、軍情報部員の身分証明書だった。私は、それを見て驚き、恐る恐る彼の後に付いて行くしか仕方なかった。男に連れて行かれた所は賑やかな町のど真ん中だった。その賑やかな通りの大きな雑貨店の前に着くと、その店の脇にある階段を登れと、男は命じた。なんと2階はパキスタン軍統合情報局の事務所だった。私は拳銃を持った男に取り囲まれ椅子に座らされた。私を捕捉した男は言葉使いを一変させて、強い声で尋問した。

「橋で何をしていた?」

「写真を撮っていました。貴方も御存知の筈」

「橋の写真を撮ることは禁止されている」

 そう言われて、私は息を飲んだ。迂闊だった。この国には禁止事項があり、法律に抵触し、罰せられるのだ。しまったと、黙っていると、男は冷たい声で言った。

「お前はスパイだな。何処から来た?」

 と質問されても、どう答えたら自分に有利になるのか分からない。黙秘するしかなかった。別の男が言った。

「ラダクから来たスパイだな。答えなくても良い。分かっているんだ」

 いかにも遣り手、中堅幹部役人という感じの男の思い込みを覆すのは並大抵ではないと、私は焦った。

「黙秘か?」

「では本当の事を言います。信じてもらえないでしょうが、実は私、日本人です」

「ジャパニーだって。馬鹿馬鹿しい。だったら、どうして、ここにいられるんだ。ここは全ての外国人はオフリミットの地域だ。笑わせるな」

「その通りですが、私は真実、その日本人なんです」

「では、パスポートを見せよ」

「ありません。持っていないんです」

「子供でもあるまいし、そんな言い訳が通用すると思うか」

 彼は、そう怒鳴ると、部下に目で合図した。私は彼の部下に真っ裸にさせられて、衣服や所持品を調べられたが、日本人であると証明する物が何処にも見当たらなかった。日本大使館に問合せて貰えば分かると思ったが、旅券の番号までは諳んじていなかった。日本の自宅番号を言ったが、手間暇がかかると、せせら笑われ、はなっから取り上げられなかった。万事休す。第一に私の人相がチベット人に似ていることが良くなかった。第二に、私の喋るパンジャップ語のたどたどしさが、俄か仕込みと判断された。その上、パスポートはおろか国籍を証明するものが、何も無かった。私はたった半日の取り調べで、インドのチベット系スパイと断定されてしまった。勿論、その断定に不服だが、反論するにも、相手に考慮させる材料となる物が何一つ無かった。万策尽きたかと思うと、意外にもサバサバした気分になった。自分は気が付いた時、この世に誕生し、或る時、突然、死と遭遇する事になるのだ。月並みなら自分の死の瞬間を感じ取れずに逝くのが普通だろうが、私の場合は処刑場に引き出されて、大衆の面前で自分の生命の最期を照明して見せることが出来るのだ。快なる哉だ。私は刑場に連れて行かれることになった。私は刑場に連れて行かれながら、引かれ者の小唄を唄ってみたくなって唄った。

 あばよ あばよ   陽気な友よ

 昔よ 女よ     さようなら

 俺のことなど    忘れろよ

 お先に行って    待ってるぜ

 妻には、さよならを言わなかった。どうせ、そのうち、後からやっt来るだろうから。刑場は事務所の裏手にあった。そこは思ったより狭く、たかだか150平方m位の広さしか無かった。しかも周りは民家に隙間なく囲まれていて、その2階、3階がまるで観覧席のようになっていた。ここらの住民にとって、処刑は格好の娯楽とみえ、周囲の民家の窓から見物人が鈴なり状態になって、顔を覗かせていた。罵声が聞こえた。

「豚野郎っ!」

「地獄に堕ちろ」

 この罵声が多かったが、中には、こんな声も耳に入った。

「頑張れよっ。そのうち俺も行くからな。ハッハッハッハ」

 執行官は、私を最初に取り調べた、あの実直そうな男だった。彼は緊張した面持ちで、というより、嫌々ながら後ろ手にした私を処刑杭に縛り付けた。そして目隠ししようとしたので、言ってやった。

「目隠しの必要は無い。貴官は職務を忠実に遂行するだけなので、私としては何の恨みも無い。睨みつけたりしないから、目隠しなど不要だ。この目で美しいカシミールの自然を瞳に焼き付けて逝きたいから・・」

 すると彼は分かったというように頷いた。そして大きく息をつくと、拳銃の筒先を私のコメカミにに当てた。そこで私は、また言ってやった。

「50センチか、1メートルくらい話して撃った方が良いよ。何故なら私は高血圧だから。血が噴き出して、返り血を浴びるかも知れない。衣服の洗濯は奥さんがするんだろう」

「そうだ」

「だったら、奥さんに、どうして、こんなに血で汚すような事をしたのと、文句を言われるよ」

 彼は私の言葉を聞くと、唖然として、唾を呑み込んで言った。

「ちょっと待て」

 そして傍らの2人の検視官に二言三言、囁いて、建物の中に入って行ってしまった。処刑杭に縛り付けられたまま長い時間が過ぎた。長い時間といっても私が、そう感じただけで、実際は15分か、20分位だったのだろう。見物人がワイワイ騒ぎ立てていると、ここの事務所の責任者と思われる人物が、あの執行官と一緒に私の所へやって来た。執行官の所属するISIの隊長と思しき人物が、杭に繋がれた私の周りを腕を後ろに組んで、ゆっくり歩きながら私に訊いた。

「君は日本人だと言い張っているようだが、それは本当かね?」

「その通り、日本人だが、残念ながら、その証明をする物がありません」

「そうか。ここで今まで何10人ものスパイを処刑して来たが、君のような淡白な者はいなかった。皆、往生際が悪い。ほとんどの者が最期となると、涙を流して命乞いの哀願をする。ところが君は違う。その違う者を処刑するのは後味悪い。君の事を信じてみよう」

 という訳で、観客には悪いが、私の処刑は中止となった。危なかった。二度とこの世に帰れぬ門を私は潜らずに済んだ。釈放されてISIの事務所を出ようとすると、奥の部屋に昨日、旅館で出会ったあの橙色のシルク・クミーズを着た長身の男の裸足が見えた。くわばら、くわばら。私は旅館に戻るや、直ぐにタタパニの町から脱出し、スリナガルに引き返した。スリナガルの別荘ではアタウル・ラシエド師たちが、私の帰りを待っていた。私は仲間に会えて、ホットした。だが、危険な目に遭ったことは喋らなかった。そして予定通り、インドのカーデイアンの大集会に参加して、日本に帰国した。家に帰り、事件に遭遇したことを貞子に話すと貞子は私を厳しく叱った。

「これからは自分の歳を考えて行動して下さい。後に残された私の事もですが、それ以上に、お国や世間様に心配させたり、ご迷惑がかかるような行動は、絶対に謹んで下さい」

 当然である。言われるまでもなく、そうすべきで、これからは絶対に気侭な一人旅はしまいと心に誓った。


     15,妻のパートナーらしく

 平成5年(1993年)4月、『アフマディア教団』は『聖クルーアン』の翻訳代の報酬として、『小林淳短編集』2号を発行してくれた。定年になり、収入の無くなった貞子は短編集を手にして不平を言った。

「こんな本など出版して貰わず、お金にして欲しいと言えば良いのに」

 その言葉に私は立腹した。

「何を言う。私に4年間、只飯を食べさせてくれたお礼だから、金は貰えないと何度も言っているだろう。今更、お金を頂戴なんて言えるものか。それに私の作品を沢山の人に読んでもらえるのだ。有難いと思うのが女房だろう」

「下手な小説など、誰が読むものですか」

「なんだと」

 そんな事があってから、二人の不機嫌な毎日が続いた。それでも仏門育ちの貞子は、別れようとは言わなかった。長年、ホテルの和食部門の責任者をしていた関係から、外国人が来たりすると、数ケ国語を話せるから、臨時の助っ人の依頼があったりして、それが気晴らしになっていた。また『国際書道連盟』の理事になっていたので適当に忙しかった。一方、時間を持て余している私にも時々、『アフマディア教団』から誘いがあった。平成7年(1995年)春、『アフマディア教団』から集会参加の依頼があり、懐かしのラヴアにまた訪問した。私がいない方が貞子も好都合だろうと、長期間滞在した。その間、妻は私の妹たちが終戦前に暮らしていた中国の石家荘に妹たちと訪問した。8月12日から16日の5日間で、万里の長城、紫禁城は勿論のこと、チャゲ・アンド・アスカの利用したことのあるマイクロバスを使用して石家荘まで行き、暮らしていた古い家を観て来たというから驚きだ。そんな貞子に『G学園』の理事長、田中茂雄から執事に来てくれないかと声がかかった。互いの悪口を言い合っているのはストレスがたまるから、互いに冷静になり距離を置くのも良いと思ってのであろう、彼女は乗る気だった。レディ・バトラーともなれば、住み込みになるが、幸い我等夫婦には子供がいない。女房から終始、文句を言われず、女房の顔を見ていないで済む。息抜きがしたい。それに執事という責任を持たせておけば女房のボケ防止にもなり、収入も得られる。月に一度二度、帰宅してくれれば、それで良いので、彼女の再就職に賛成した。すると彼女は、まるで恋人の所へ出かけるように喜んで、千葉の『G学園』に出向いて行った。私は、それから気楽な日々を満喫した。自由を得た私はトルコの宗務庁が中心になって平成12年(2000年)に代々木上原に竣工したモスク『東京ジャーミィ』を観に行ったり、文学仲間と交流しながら、独身生活を楽しんだ。そんな或る日、詩人の長谷川劉生が、こんなことを言った。

「世紀末に何かをやろうと思えば、それは最早、夢ではない」

 彼の言葉を聞いて私は嫌な予感がした。だが、何も起こらなかった。平成13年(2001年)私は毎日、午前中、執筆し、午後、散歩に出かける一人暮らしを楽しんだ。亭主元気で留守が良いの反対、妻が元気で留守が良いの日々だった。ところが或る日、呑気に過ごしていると、貞子が帰宅して、こんなことを言った。

「うちの学校には国際校があるのよ。イギリスにあるの。ロンドンの北90キロのミルトンキーンズという所にあるのよ」

「へーっ。それは凄いな」

「でも大変なの。初めの数年間は良かったけど、ここ3年来、赤字続きなの。それに少子化の時代でしょう。生徒も減っているの」

「ふーん」

「だから大変なの。経営に希望が持てないから、理事長は手放したいと言うの。何処かに買ってもらえると良いのだけれど・・」

「学校をねえ。車や家一軒買うのと違うからなあ」

 私は貞子の言葉を世間話として聞き流していたが、ふと或る考えが浮かんだ。もしかしたら、ロンドンの教団が相談に乗ってくれるかも知れない。

「でも、ロンドンに行ったことのある私には、その伝手が無くも無いが・・」

「ええっ、本当!嘘でしょう」

 夫婦の茶飲み話で始めた話題なのに、私が大口をたたいたものであるから、妻は私を馬鹿にするような目で私を睨みつけた。私は、ちょっと頭に来たので言ってやった。

「お前は私の本当の力を分かっていない。私の外国人との交流は、大学教授以上だ。それを分かってくれる大学教授たちが、教えを請いに私の所にやって来るのだ」

「それが何よ。貴方がパキスタンの神学校の卒業生だからでしょう。その為に、日本に帰国してから就職もせず、良い気になって、フラフラ。そのお陰で、私、ずーつと苦労させられて来ているのよ」

「分かってないな、お前は。まあ良い。これから説明してやるから、ゆっくり聞け」

 私は、そう言って、イスラムの諸宗派と自分がどうゆう存在になったかを、門外漢の貞子にも分かるように説明してやった。

「私が所属しているスンニ派アフマディアという教団は、私が留学中、パキスタンのラヴアにあったが、今は本部、寺でいう本山をロンドンに移しているんだ。テムズ河の南、サウスフィールドだ。何故、そうなったのか理由を説明しても、お前には分からないと思うから省くが、現状、難民集団とまではいかないが、苦労している。教団施設等の対策は満足出来る水準に未だ達していない。だから、その学校の施設を活用すれば、立派な本部を構えることが出来ると思うんだ」

「それは良い考えね」

「だから、その学校の話を協団に持って行けば、案外、話に乗ってくれるかもしれないよ。なんせ宗教団体というのは信者から沢山の献金をいただいている、創価学会しかり、立正佼成会しかり、統一教会しかり、マリア修道会しかり。金だけは山ほどある」

「まあっ、そんなに、お金があるの。なら早速、理事長先生に話してみるわ」

 貞子は喜んだ。そう提案した私は、明くる日には、もう、そんな会話をしたことを忘れていた。ところが貞子から話を聞いた学園側は乗る気になり、是非、交渉を進めてくれと懇請して来た。私は貞子を介して、ホテル『グランドパレス』で『G学園』の田中理事長に会った。田中理事長は先ず、こう言った。

「奥様には何時も、お世話になり、大変、助かっております。今回はロンドン校の処分のことで、ご相談し、アドバイスをいただき有難う御座います。本件について是非とも御支援いただければと思い、相談にあがりました」

「こちらこそ、妻が、お世話になっております。それにしても、困りましたな。私は今までマッチ1本、売ったことの無い、商売に関して、ずぶの素人。売却の手助けをしてくれと言われても、出来るかどうか?」

「事務的なことは、学園で行いますから、心配しなくて大丈夫です」

「そうですか。そうなら安心です。ところで一体、幾らくらいで売りたいのですか?」

「10億円で如何でしょうか?昨年、ある大学が見に来られて、7億5千万円の値をつけました。しかし、今まで既に35億円からの金を注ぎ込んでいるんです。とてもその値段では譲歩出来ませんので断りました。10億円でお願い致します。成功した暁には、それなりの御礼を考えますので・・」

「いや、妻がお世話になっておりますので、そういう気遣いは一切無用にして下さい」

 私は妻のパートーナーらしく、胸を張って礼金など不要と言った。第一、契約が成立するかどうか分からない前に、お礼を云々というのは不見識だと思った。

「兎に角、相手側に、その気があるか、私ががロンドンに行って説明し、確認しましょう」

「本当ですか。そうしていただければ有難いです。せめて飛行機代くらいは、先に払わせて下さい」

 私は、その飛行機代の申し出も、断った。田中理事長との会談が終わり、自宅に帰ると、妻に叱られた。

「貴方は何時も、見栄っ張りなんだから。格好つけて何になるの。貰えるものは貰わないと・・」

 そんな経緯で私は、ロンドンに向かうことになった。


     16,ロンドンにて

 平成13年(2001年)初春、私は懐かしのロンドンに出発した。勝手知ったるサウス・フィールド。地下鉄の駅から歩いて10分の所。『アフマディア教団』本部に着くや、かって日本での宣教師として活躍したアタウル・ラシエド師に面会を申し込んだ。彼はスペインのコルトバのモスク落成式に同行していただいた旧知の導師である。彼は今や、日本からロンドンに移り、英国は勿論、西ヨーロッパ全域のアフマディア導師会の会長にまで登り詰めていた。名実ともに教団の最高指導者の次の位置に就任している。彼は、私の突然の訪問に驚き、直ぐに会ってくれた。彼とは5,6年会っていなかったと思うが、頭に白いものが目立つ年齢になっていた。

「やあ、お久しぶりです。今回は、どんな御用でロンドンに?」

「用事と言われましても、野暮用で、言って良いのか悪いのか」

「私たちは真の仲間です。ご遠慮なさりますな、小林さんらしくも無い」

 そう訊かれながら、私は事務所内を見回した。事務所内は、かって、お世話になったザファルーラッハ卿がいた頃とは打って変わって、調度品も家具も、一目で高価なものと分かる品々ばかりが揃っていた。私は、それらを目にして、昭和59年(1984年)教団がパキスタンのジャウル・ハク大統領と喧嘩して、英国へ亡命した時の財政とは比べ物にならない程、豊かになっていると実感した。

「ならば申し上げましょう。実は日本の学校法人の理事長から、ロンドンにある国際校の経営が思わしくないので、現地の様子を見て来て欲しいと頼まれまして。その国際校はミルトンキーンズにあるんです。ここ3年来、赤字続きでなんです。私の予想では、多分、閉校することになるでしょう」

「そうですか。それは大変ですね」

「そうなんです。そこで、私が視察した結果、継続の価値が無いようだったら、売却先も探して来て欲しいと、理事会から任されて来ました」

 私はセールスをするのが初めてなので、手順を知らないが、それとなく、日本の学校がロンドン校を手放したがっている様子を伝えた。話を聞いたラシエド師は私が訪問した訳を知り、目を丸くした。

「それは責任重大ですね」

「はい」

 私の身体は、初めての売り込みで汗びっしょりだった。貞子に叱られるかも知れないが、教団が買いそうで無かったら、直ぐに帰国する覚悟でいた。するとラシエド師は、真剣な目で私の顔を覗き込んだ。

「その、手放しても良いという話は本当ですか?」

「本当です」

「では我々、教団が買うと言ったら,、売ってくれますか?」

「買いたいと言っても、家の一軒や二軒を買う値段ではありませんよ」

「高額な事は当然、分かっていますよ。いくらですか?」

 私は半信半疑であったが、指折りポンドに換算して答えた。

「500万ポンド程度かと」

「それなら、我々、教団でも買えない金額ではありません。出来れば我々が買いたいです」

 私は耳を疑った。もしかしたら買っていただけるかと、遊び半分でロンドンに来たが、まさに瓢箪に駒。ポカーンとしているとラシエド師は私に対し、命令口調で言った。

「兎に角、今日は泊まって行って下さい。後で、最高指導者ハズールにお会い出来るように取計らいますから」

「物件も見ないで、ハズールに提案して良いのですか?」

「小林さんの話された学校なら知っています。あの町には、我々の支部があるので、時々、その学校の傍を通ります。湖の傍でしょう。中に入ったことはありませんが、そんなに古くありませんよね」

「築15年と聞いていますが」

「そうでしょう。だったら諸設備がどうなっているか、建物の傷み具合がどうなっているか、専門家に診せれば直ぐに分かります。ロンドンの教友の中には建築士や設備の専門家もいますから・・」

 話はトントン拍子に進み、その日のうちに4代目カリフのミルザ・タヘル・アハマド指導者とも、お会いする事が出来た。ミルザ・ハズールはザファルーラッハ卿から、私の事を聞いていて何時か会えると思っていたと話してくれた。また学園を購入するが、正式契約を結び、支払い出来るのは1年後だと言われた。こうして、ミルトンキーンズに乗り込んだ翌日には、私の今回の使命の主目的は果たされた。ミルザ・ハズールが、契約金を支払うのが、1年後と言ったのは、現在、『アフマディア教団』はロンドン郊外のモーデンで、新施設の大工事をしていて、その費用が明確になったところで、支払い方法を相談するという事だった。その工事が本当に行われているのjか、目で確かめて欲しいとラシエド師に言われ、私はその工事現場に案内して貰うことになった。その案内人は何と私がラヴアの神学校で学んでいた時の先輩、オスマン・チンだった。彼の中国名は周忠義。国民党政権時代の最後の新疆省主席、張治中閣下の甥である。昭和25年(1950年)に叔父たちと一緒に中国共産党から逃れ、パミールの天険、クンジュラップを越えてパキスタンへ逃げて来た亡命者だ。その後、いろいろあって、かってのマラヤ王国の王女と結婚したり、分かれたりして、現在は英国籍を取得したという。見栄えも性格も大人そのもの。誰からも尊敬されているようだ。姓が周なので、先祖を訊くと、あの殷の後をうけて興った周王朝の末裔、184世だという。教団ではナンバー3になっていた。彼も私が持ち込んだ話に大賛成で、ミルザ・ハズールに是非、購入して欲しいと勧めてくれたという。

「小林さんの持つて来てくれた情報は『G学園ロンドン校』が学校ですので、居ぬきそのままで神学校として使えます」

 するとミルザ・ハズールは天を仰いで叫んだという。

「パキスタン政府との確執以来、ラヴアの神学校が機能しなくなった現在、これはアッラーの思し召しかも知れぬ。アルハンムドリッラー」

 オスマン・チンは、その言葉を聞いて、最高指導者が買収を決断したと確信したと語った。工事現場は地下鉄ノーザン駅線の終着駅の直ぐ近くで、以前、ミルク工場があった跡地だという。私は、その工事現場を見て、あの代々木のミナレットを備える『東京ジャーミイ』のようなモスクが、ここに出来るのだと感激した。


     17,ミルトンキーンズにて

 私は、『アフマディア教団』との商談が終わると、日本の『G学園』の田中茂雄理事長に、買い手がほぼ決まったので、『英国G国際学園』を視察して、1週間ほどで帰国するからと、妻に連絡するよう伝えた。すると2日後、日本の『G学園』から、『アフマディア教団』本部にいる私にFAXが届いた。曰く、来年の3月末、つまり3学期の終わりまで、『英国G国際学園』に代表者として、残ってくれないかという理事会からの懇望だった。迂闊だった。学園の売却先を見つけてくれと頼まれたから、遊び半分でやって来たのに、どういう事か。学校教育というものが、どんなルーティンで運営されているのか、如何なる機構なのか、全く門外漢のまま来てしまった。売れ先を決めれば、それで良いとしか考えていなかった。世事に疎い私は、抜き差しならぬ領域に足を入れてしまった。渡航前に貞子から、『G国際学園』の顧問という名刺を渡され、イギリスに来たが、自分は、その時点で重要な役目を負わされてしまっていたのだ。どうしたものか?私が考え込んでいると、ラシエド師が私に訊いた。

「オウェース・小林さん。どうなされましたか?」

「実は、学校から連絡が入り、当分、イギリスに居残って欲しいと。来年の3月、三学期が終わるまでだというんです」

「それは我々にとって有難いことです。ここから学校に通勤しては如何ですか?」

「それは出来ません。相手はキリスト教カトリックの学校ですから。学校に行って、探してもらいます」

「そうですか。では、学校を見学がてら、協団の車で、ミルトンキーンズまで、お送りしましょう」

 私は、そこで、『英国G国際学園』の高野亘平副園長に電話を入れ、ミルトンキーンズに移動した。ロンドンから1時間半ほどで、ウイレン湖畔の『英国G国際学園』の学校キャンパスに到着した。私はまず高野亘平副園長に自分の名刺を差し出して、それから同行したラシエド師と周忠義を紹介した。高野副園長は既に日本の理事会から内密の話として知らされていたのであろう、私たちにキャンパスの詳細を教えてくれた。また各校舎や学生寮、スポーツ施設などを案内し、現状を見せてくれた。そのキャンパス見学を終えると、ラシエド師たちは、私を送って来た車で、ロンドンへと帰って行った。その後、私は高野副園長から野口智弘事務長や事務職員や教員を紹介してもらった。大勢なので直ぐに名前など覚えられなかった。その後、園長が来た時、使用するという園長室に連れて行かれた。

「この園長室を、お使いください」

「ええっ」

「田中理事長のご指示ですから・・」

 私は驚き、顎鬚を撫で撫でながら天井を仰いだ。すると高野副園長が、心配顔をして訊いた。

「どうしました?」

「私は、学校経営について、全く素人であり、来年までいてくれと頼まれましても・・」

「名刺にはコンサルタントとなっています。学校の経営指導ではないのですか?」

「はい。ド素人です。来年3月末までいてくれと、田中理事長に頼まれ、困っています」

 そう本音を伝えると、高野副園長は微笑を浮かべながら説明してくれた。

「学校という所は、入学させた以上は、生徒を何としてでも預からなければならない責任があります。学校の機能は、その責任を基本にして回転しているのです。余程の事情、理由が無い限り、先生や職員の個人的勝手は許されません。ですから、小林さんも『英国G国際学園』の顧問の肩書を背負った以上、逃げることは出来ないのではありませんか?」

 言われてみれば全く、その通りである。お客様は無垢な子供たちなのだ。そして私の立場は日本の本部から派遣された顧問で、ミルトンキーンズ校の副園長に文句を言える役職だ。迂闊だった。白紙に戻してと言いたいところだが、約束したからには引き返せない。私が日本にいなくなって、貞子は老いらくの恋を楽しんでいることだろう。物笑いの話だが、仕方ない。本部の頼みを飲まざるを得ず、私は滞在期間の延長を覚悟した。という事で、私は、その日から、キャンパス内の寄宿舎で生活することになった。翌日、私は身の回りの生活環境を快適に送る為にミルトンキーンズとは如何なる所なのか自分の足で歩いて確認した。この町はサッチャー政権時代、政府の肝いりで新しく開発された工業都市だった。住宅地と商店街が隔絶されていて、片や純然たる住宅街なら、片や町の中心のショッピングモールとして集められ、商店数は数千軒を下らない賑やかな商店街だった。噂によると、その規模はヨーロッパ随一だという。人口は20万人近くだとか。政府肝いりの新興工業都市であるから、世界中から大企業が集まって来ている。日本からも27社の大企業が工場を進出させていた。私は成程と思った。日本企業が海外に社員を駐在させる場合の年齢は、20代後半から40歳半ばの中堅社員が多い。家族がいれば、妻や息子や娘を連れて来る。教育問題が重要課題となる。そういった時代の趨勢に応えるべく発足したのが『英国G国際学園』だと理解した。そんなであるから、日本経済がバブル期の15年前、この地に学園を開校したのは喜ばれ、生徒数は男女合わせて370名。翌年には、まだ増えそうなので、急遽、寮棟を増築したという。それがバブルが弾けた途端、日本企業の撤退が相次ぎ、生徒数は三分の一になってしまった。また私からの学園売却成功の可能性が高いとの情報で、新規の生徒募集を中止にした。従って、私がミルトンキーンズの顧問に着任した時点の3月末で、卒業生が去り、男女合わせて54名の生徒数になっていた。そんなミルトンキーンズの状況を知った私には、売却契約に至るまでの1年間、経費の削減の指導をしてくれと言われても、全く自信を持てなかった。何故なら生徒1人からの収入は、年間授業料と寮費合わせて、320万円。その中には各学期末に帰国させる為の航空券代も入っている。従って収入は1億5千万程度だ。その中から教職員の給料や、学園の光熱費、メンテナンス費用などを支払っていかなければならないのだ。そんなだからであろうか、高野副園長は何時も暗い顔をしていた。元気なのは野口事務長と経理の松本真弓女史くらいだった。私は、どうすれば会社の経費を減らせるかを考えたが、全く考えが浮かばなかった。日がな、副園長室の隣の部屋に座っているのも苦痛だった。そこで町の不動産屋に訪問して、イギリスに於ける不動産売買の契約方法について教えてもらった。その中で耳寄りの情報をいただいた。イギリスでは売却金額が決まっても、買う側は、お金を払う前に、もう一度、物件をよく点検し、ここが傷んでいるから、これこれの金額を差し引くと言うらしい。破損している個所を新しく取り替えるには、これだけ掛かるからと、その分、引くという。一番、計算の対象にされるのは、何といっても、直ぐ目につく内外の塗装だという。私はかって、東京で暮らしていた学生時代、ペンキ塗りのアルバイトをしたことを懐かしく思い出した。校舎を塗装した事により、売値が多少でも増えれば、これに越したことはないと考え、早速、校舎の点検をした。15年もメンテナンスしてないので、相当に汚れている。私はそこで内部はともかくとして、外装だけでも塗装しようと決めた。売却してしまうのだから、そこまでしなくてもと高野副園長に言われたが、実行させてもらった。建物の構造は、ほとんど全部がレンガ造りの二階家で、天井裏は木部であるが、まだしっかりしていて、塗り替える必要は無い。窓枠は木で、オーク材で、ステイン塗装である。この部分を総て塗り替える必要ありと判断した。校舎全部を塗装するとなると、日数、それに人件費、材料費が掛かる。期間は私と用務員で半年はいかないまでも、5ケ月は要するだろう。ざっと、その費用、ペンキと道具代等を加えて、80万円と計算した。私の人件費は含まずである。私は塗装の助っ人として、校舎管理人、ヘニング・マクレガーを選択した。学校から10分足らずの住宅街の食堂に連れて行ってヘミングを口説いた。その食堂はバングラデッシュ出身の兄弟がやっていて、味もさることながら、他の店に比べてメニューの品々の値段が安かったので、ケチな私にはお似合いだった。また店主のフセインは、私がイスラム教徒と見抜いて、私の秘密の場所に相応しかった。

「誰にも言うなよ。給料の他に、特別手当を出して上げるから」

 するとヘニングは喜んで、塗装の助っ人を受け入れてくれた。これで段取りは完了。次の日から、休日以外は塗装の仕事に専念した。ヘニングは給料の他に小遣い銭が入るので労働意欲を発揮し、私の指示に従い頑張ってくれた。お陰で、夏までに塗装工事を終えた。これは学園が売れてから知らされたことであるが、塗装の分として、3千万円も上乗せして貰えたという。いずれにせよ、『英国G国際学園』は毎月280万円からの赤字を出してる。その赤字分について、田中茂雄理事長から私のところに電話がかかって来た。

「小林さん。田中です。ご苦労をお掛けっ放しで申し訳ありません。先日、野口事務長から、資金不足になって来たので、また送金してくれとの電話がありました。去年までイギリス校の赤字分は、本校からの送金で、かろうじて賄って来ましたが、今年から、本校の会計検査が厳しくなって、海外送金が出来なくなってしまいました。そこで、私、個人のポケットマネーを、そちらに数回送りましたが、僕の貯金も、ほとんど底をついき干上がり状態です。あと1回、送ったら、もう終わりなので、早く売り先との契約を済ませていただきたいのですが・・」

「教団は1年先でないと契約出来ないと言っています」

「そこを何とか早めて、契約金をいただく方法はありませんか・・」

「分かりました。交渉してみます」

 私は田中理事長からの要望を聞き、そんなに経営状態が悪いのかと、直ぐに野口事務長に詳細を確認した。すると野口事務長は答えた。

「はい。田中園長の申される通り、毎月の赤字以外に2億2千万円からの累積赤字があります。小林さんは、そのことを、教えて貰わないで、顧問を引き受けたのですか?」

「はい。詳細を知らずにやって来ました」

「ここの実情を説明したら、小林さんが、後処理の仕事を引き受けてくれないと、田中理事長は読んだのでしょう」

 野口事務長の言う通りだ。実情を伝えれば、私が引き受けないだろうと、一切を秘密にしていたのだ。どうしたら良いのか。私は今回の使命を投げ出しても、何ら非難される理由は無いのだが、私を全面的に信頼してくれている『アフマディア教団』への私の立場を汚したくない。だが学園として、のんびり構えていられない切迫した事情であることを知り、急遽、ロンドンの『アフマディア教団』本部に足を運んだ。教団のラシエド師に会い、交渉した。

「支払いが1年先という事でしたが、そこを何とかなりませんか?」

「如何に親しい小林さんからの依頼でも、先払いは出来ません」

 懸命に当方の事情を説明したが、教団にも教団の都合があった。ラシエド師は私の苦しい立場を理解しながら、教団の事情を話してくれた。

「我々としては、今のプロジェクトが、後6ケ月すると、目鼻がつきます。その前に資金を支払うことはどうやっても不可能です。ご了解下さい」

「困りましたな。日本の理事長にどう答えたら良いのか、悩みます」

 私は、腕組みをした。そんな私を見詰めて、ラシエド師が言った。

「資金を急ぐなら、入札を試みては如何でしょう.。そこで希望価格の相手が見つかったならば、直ぐに契約して、契約金を頂ければ、願ったり叶ったりです。もし希望価格が得られなかった場合、その時は、約束した通りの期日で、我々が、500万ポンドで引き受けましょう」

 私は希望通りの交渉が出来ず、愕然としてミルトンキーンズの学園に戻った。高野副園長も野口事務長も私の交渉結果を聞いて、残念そうな顔をした。本当に『アフマディア教団』が買ってくれるのか、私の事を疑った。特に高野副園長はカトリック教徒なので、イスラム教団を毛嫌いしているので、他の相手に買って欲しいみたいだっ。た。私はロンドン出張の報告後、野口事務長から預かって行った250ポンドの出張費の精算をして、残金を返済した。すると事務長は驚いた。

「小林さん。こんなに細かく、お手洗いの出費迄書いてくれなくても良いのですよ。あれっ。1泊してるのに、ホテル代が無いじゃあないですか?」

「はい。先方の宿舎に泊めてもらいましたから、宿泊費はタダです。出張費の精算はどういう風にすれば良いのですか?」

 私が、そう訊くと、野口事務長は席を立って、揉み手をしながら、私の机に近寄って来て答えた。

「学園業務に必要な出張費用は、あらかじめ費用を見積り、副園長のサインをいただき、その予算内で処理してもらいます。余ったからと言って、返金された記憶はありません」

「領収書と照合したことはないのですか?」

「細かな照合は致しません。小林さんが何回、トイレに入ったかなどチェツクなどしてられますか」

 言われてみれば、その通り、イギリスでは公衆便所というシステムがほとんど無い。6ペンスか7ペンスで、有料。私は老人だからオシッコが近く、日に10回以上は行く。確かに数えるのは面倒だ。でも問題だと思ったので言ってやった。

「学校の事務というのは随分、雑なんですね」

「私は前の事務長が、おやりになった通リ、やって来ただけです」

 野口事務長は、私の指摘に不快感を露わにした。私はこういった人物が管理しているのでは、赤字が増えるのは当然だと思った。私は、この学園の出費を如何にして減らせば良いのか悩んだ。そんな悩み事がある時、私は何時も湖の畔を散歩することにしている。その湖は学園から5分の所にあり、周囲5キロの人造湖で、真ん中に小径があり、それが美的景観を生み出している。イギリスの緯度は日本より遥かに北に位置するから日没が遅い。何時までも太陽が沈まない。そんな湖畔を散歩している最中、学園の経理をしている松本真弓に出会った。彼女は50歳をちょっと過ぎた独身女性で、イギリスに20年以上、住んでいるという。ちょっと変わった女性で、私に用事がある時、部屋のドアをノックせず、中に入って来て、両足を踏ん張って、拳を握りしめ、斜に構えて要件を言う。まるで喧嘩腰だ。これでは男が近寄らないのも、分かるような気がする。その上、他人とのコミニケーションが嫌いときている。それでいて結構、気取りだけは人一倍である。何故なら、彼女はロンドンのイーストパトニーの高級住宅街の一戸建て住宅に住み、乗っているのは真っ赤なベンツのスポーツカー。普通ならロンドンからミルトンキーンズまでの92キロを1時間かけて来るところを、彼女は高速道路を利用し、40分で、ぶっ飛ばして来る。どう遣り繰りしているのか、実家が相当の財産家であろう。その彼女に散歩の途上、出会ったので、彼女と会話した。

「松本さんは、どんな関係でイギリスに来て働かれているのですか?」

 すると彼女は、突然、止まって、私を見詰めて言った。

「私は『A学院大学』の英文科を卒業し、都内の商社に勤めていたのですが、父が亡くなり、その上、母が頻度の痴呆症になった為、その介護の為、会社を辞めました。ところが母が言う事を訊かず、私をぶったりたり、殴ったりいじめるので、私がノイローゼ気味になった為、お兄ちゃんが私を可哀想に思って、海外に出してくれました」

「では一番、苦労しているのは、お兄さんの奥さん」

「兄は私と同じで独身よ。あんな母がいたら、お嫁さんなど、来るわけ無いでしょう」

「えっ」

「代々、調布の農家なので、土地持ちだから、生活に困らないから、兄に任すしかないの。私は母から逃げて、ここにいるの」

「そうでしたか」

 私は、彼女の身の上を想い、後の言葉が続かなかった。彼女は、この時とばかり、胸に詰まっていることを私に吐露した。

「だから私、毎週土曜日の飲み会に出席しないんです」

「土曜日の飲み会と申しますと?」

「野口事務長と教職員の希望者が集まって、市内の中華料理店で、会食をするんです。会費制で無く、学園が全額負担しているんです。可笑しいと思いません。事務長は、海外だから、それくらいの特典があって良いのじゃあないかと考えているようです。それに対し、高野副園長は文句を言わず、黙認してます」

「なるほど。そんな野口事務長を田中理事長はどうして、採用したのですか?」

「高野副園長はキリスト教のことや文学については詳しいですが、経理の事になると全く駄目です。8年前、経理に詳しい事務長が病気になって帰国した時、ロンドンの法人誌に、経理募集の広告を載せたんです、その広告を見て、応募され、野口事務長が採用されたのです。『東京大学』経済学部卒の元『B銀行』出身で、大阪船場の支店長までやった人です」

 それを聞いて、私はハハーンと思った。学園側は、これは良い人が来てくれたと雇ったのであろうが、とんだ食わせ者であると分かった。彼女が遊び好きな人と言うが、現在、私より3つ上の73歳。女性の方は卒業したようで、飲み食いが大好き。胃袋の容積も並はずれ。彼が来てから学園の福利厚生費が倍になったという。このことは問題であるが、そんな優秀な経歴を持つ、男なら、無駄遣いを注意せず、逆に利用すべきだと考えた。数日後、私の方から彼に声をかけた。

「私はほとんど飲めませんけど、たまには一緒に食事でもしませんか?」

「珍しいですね。小林さんから食事の話が出るなんて。大いに歓迎します」

「でも、2人だけで」

「良いですよ。学園で話せないこともありますからね」

 そして、私は野口事務長の馴染みの中華料理店で、2人で食事し、酒を飲みながら話した。彼はいろいろ喋った。

「小林さん。高野副園長はイスラムと関係する貴方を嫌っていますよ」

「それは分かっています」

「なら良いですが。それから私は元銀行員で、出向させられたアパレル会社の専務をしていた時代、株にのめり込み、数億の負債を背負い、銀行にいられなくなりました。そして海外に逃亡し、ロンドンの格安ホテルに宿泊中、学園の経理募集広告を見て応募し、採用されました」

 私は、それを直接聞いて、遠慮しがちに彼に言った。

「それじゃあ、失礼だが、貴方は犯罪者ではありませんか」

「その通りです。私は犯罪者のカテゴリーになるでしょうね。しかし、私のかっての部下が弁護士になって、その対策を考えてくれていますので、ゆっくり時を待っています」

 ここまで来ると、お見事と言うしかない。私は、少し酒に酔い始めた野口事務長に、『アフマディア教団』のラシエド師からアドバイスされた、学園の公募入札について相談した。すると長年、銀行に勤めていたからであろうか、彼は目を輝かせた。

「小林さん。それで良いのですか、教団を裏切ることになりませんか?」

「良いんです。田中理事長に一任されているので、実行したいんです」

「お任せください。今、ヨーロッパは不動産バブルです。二人で力を合わせ、成功させましょう」

 私たちは翌日から、公募入札の仕事に着手した。野口事務長は水を得た魚のように動き回った。てきぱきと公示やら段取り等、必要書類を作成し、手順良く進めてくれた。公募に応募した入札相手は、全部で7社だった。そして入札させたところ、下は400万ポンドから最高額は何と1100万ポンドまでの企業が登場した。私が『アフマディア教団』に提示した500万ポンドの倍の金額を提示する企業の存在に驚嘆した。その数値を見て、私が有頂天になっていると、野口事務長が耳元で囁いた。

「入札金額が高ければ高い程、良いとは限りませんよ。御覧下さい。最高根を付けたのは、ロンドンの華僑グループですよ。しかし彼らは支払いの時、目の前に現金を積み上げて、屋根に問題があるから、修繕費用がかかるからこれだけ引きます、あの設備機械が不具合だから、その分、差し引きますなどと、あれもこれもという風に、現金の山から、一束ずつ抜き取って、最後には三分の一位に値切り倒すのが通例です。マッチ1本売ったことが無い人が、とても勝負出来る相手ではありませんよ」

「成程。だったら、どこが良いと思われますか?」

「私なら、500万ポンドを付けた下から2番目のミルトンキーンズの開発公社にします。日本円にして14億円です」

「その理由は?」

「二つ御座います。第一の理由は15年前にこの開発公社から土地を購入し、学園を建設したからです。その相手が、今度、買ってくれると入札に参加してくれたからです。イギリスでの不動産売買の法的難しさを熟知した上での入札だからです」

「第二の理由は?」

「開発公社は、役所ですから、民間企業のように小細工を弄しないからです。信用出来ます」

「成程」

 私は野口事務長のアドバイスに従い、開発公社にすることを、即刻、日本の田中理事長に国際電話し解答を求めた。すると田中理事長は、委細、小林さんに任せると答えた。そこで私たちは開発公社との契約を取り交わし、その時点で、契約金額の20%をもらい、残金は来年3月末、学園を引き渡す時にいただくこととなった。開発公社との契約を済ませ、私はほっとした。ハサミは使いようと言うが、人間の才能は使い方であると実感した。私は、この結果を『アフマディア教団』のラシエド師に連絡すると、彼も喜んでくれた。野口事務長は、ほっとしている私の顔を見て、からかった。

「小林さんは、お金の醍醐味を知りませんね」

「中国からの引揚者の家庭に育ち、金には縁がありませんでしたので・・」

「私は知り過ぎぎてしまいました。来る日も来る日も銭勘定。その遣い方の面白さに味を覚え、気が付いた時には金の泥沼に嵌ってしまった中毒者。もう泥沼から出られません。お金の味を知らない小林さんは幸せ者です。金の罠にはまり、泥沼に落ちることがありません」

 褒められているのか、貶されているのか分からない。兎に角、野口事務長たちにお世話になったことは確かだ。開発公社と契約を済ませ、イギリスにやって来た使命の目途がついたので、ホッとした。そこで御苦労いただいた野口事務長、松本真弓女史、デビット・ムーアー、ヘニング・マッカーシーの4人を、私が贔屓にしているインド料理の店『ガンジス』に招待した。ヘニング以外は初めてで、美味しいと気に入ってくれて嬉しかった。主人のフセインが小林サーフィブとしきりに言うので、松本真弓が私に訊いた。

「どうして、店の主人は、小林さんのことを、サーフィブと呼ぶのですか」

「どうしてかな?尊敬語だろう」

 私は、主人の言葉が日本語の様を意味することは分かっていた。フセインは私がモハマッド・オウェースというムスリムであることを誰からか耳にして知っているのだ。だから私はこの町のイスラムのタクシードライバーたちにも、その名が知れ渡っていて、タクシー代を請求されないことが、しばしばあるのだ。4人を招待してから、その2日後の9月11日、アメリカで大事件が起きた。イスラム過激派テロ組織、アルカーイダによって行われたアメリカ同時多発事件だ。世界中の目がイスラム教徒を敵視する状況となった。あの長谷川劉生が言っていた予言が現実となった。ブッシュ大統領が拳を振り上げて、リベンジ、リベンジと報復を呼び掛ける映像をテレビで何度も観せられた。それからの私の毎日は苦痛だった。高野副園長や教師たちから、白い目で見られた。だが残り半年だ。我慢するより仕方ない。ある時、松本真弓から訊かれた。

「小林さん。イスラムは何で、あんな過激な事をするの?小林さんは何でイスラムに?」

 私は、そう訊かれて、自分が『早稲田大学』を中退し、アフマディア神学校で学んだ経歴を話し、教えてやった。

「私が付き合う『アフマディア教団』はムスリムの異端として、ロンドンに逃げて来たムスリム信者だ。彼らはイスラムと考え方が違う。イスラムは世界統一、勇気と闘争の宗派だ。闘争の為なら一般人を標的としたジハードも行う。だが私の付き合っているアフマディアは違う。世界平和、愛と寛容の宗派だ。イスラムは武器をとるが、アフマディアは他社との共存を理想としている。だがムスリムの内情を知らん世界の連中は9・11によって、ムスリムへの差別的偏見を増々、強めている。そのような状況の中、私の仲間は我慢しなければならないのです」

 松本真弓は、私の説明を受け、半分程度、理解したようだった。高野副園長は全く理解せず、私は憂鬱な日々を過ごした。


     18、帰国前の出来事

 平成14年(2002年)になると、田中茂雄理事長から新年の挨拶の電話が入り、『英国G国際学園』の処理が解決したので、今後、『英国G国際大学』をどうするか検討したいので、様子見に行って欲しいとの依頼を受けた。私はこれ以上、学校経営に首を突っ込みたくなかったので、ほったらかしにしていたが、帰国が近づいたので、3月初め、一応、『英国G国際大学』の様子見に、大学のあるレディングに出かけた。インド料理店のフセインの紹介のタクシーに乗り、まず、『英国G国際大学』に行き、通りの喫茶店で学生や教授から、息子を入学させたいのでなどと言って、大学の雰囲気を訊いた。大学の雰囲気は実に快適らしく、彼らは明るい声で質問に答えてくれた。私は、それから『レディング修道院跡』やフォバリー庭園やエイボン運河などを見学して、ロンドンの『アフマディア教団』まで行き、タクシーをミルトンキーンズに戻した。そして、久しぶりにラシエド師と会い、近況を語り合った。彼は9・11以来、ロンドンの住民にイスラム恐怖症が広がり、困っていると語った。イギリス社会との共生、共存が課題になっていると悩みを漏らした。私は自分のイギリスでの使命が3月末に終了するので、4月に帰国すると報告した。そして教団の宿舎に1泊させてもらい、翌朝、教団を離れ、久しぶりにロンドンに来たのだからと、バッキンガム宮殿を眺めに行った。中には入れないので、遠くから眺め、近くのハイド・パークを散歩した。昨夜の睡眠不足が祟ってか、ゴミを拾ったりしているうちにフラフラして来て、ベンチに座っていると、5,6人の老婦人グループが向こうから歩いて来た。そして、その中の一人の紫色のボアの帽子と紫色のオーバーコ-トを着た老婆が、私の所に近寄って来て言った。

「お疲れ様。これを、お使いなさい」

 私は突然、老婆から杖を渡され、何が何だか分からず、キョトンとして、杖を受け取った。老婆はゴミ拾いをしていた私を乞食とでも思ったのであろう。去って行く女性グループを見送りながら、私は貰った杖を確認した。素晴らしい杖だった。私は、早速、その杖を使い、グリンパーク駅まで歩き、ユーストン駅経由で、ミルトンキーンズに帰った。学園に戻り、高野副園長や野口事務長たちに大学に活気があったと報告した。それから自分の部屋に入って、眠りにつくと、何と、私に杖をくれた老婆が夢に現れた。その顔は何と、あの円い笑顔のエリザベス女王ではないか。私は、ハッとして夢から覚めた。


     19,エピローグ

 3月末、私は高野副園長たちと30名の卒業生を送り出し、学園を閉め、4月中旬に日本に帰国した。成田から東京の目白の自宅に辿り着き、玄関ドアを開け、声をかけた。

「只今」

「お帰りなさい」

 貞子が笑顔で迎えてくれた。

「学園の後始末、ご苦労様でした。教団とは縁が無かったようですね」

「うん。それでも、田中理事長のお役に立てたから、良かったよ」

「イギリスで楽しい事、ありましたか?」

 私は、そう訊かれて、エリザベス女王から杖をいただいたと話した。だが貞子は驚かなかった。

「まあっ。嘘、八百」

 本当だと言っても、信じない。皆さんも同じでしょう。私の人生は以上のように奇妙であり、異常だった。この低回顧望を読まれて、皆さんが、あの男は実に奇妙な変人だったと記憶に留めていただければ幸いである。


       《 ある男の回想記 》 完



     


 

 







 


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