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眠らない街のサカナたち

作者: あさい恵

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## 眠らない街のサカナたち


深夜の、とあるホテルのバーで、私はひっそりとグラスを傾けていた。琥珀色の液体は、氷が触れ合うたびにカラン、と小さな音を立てる。その音は、まるで遠くで誰かが鍵盤を叩いているかのようだった。ここでは、世界がいつもより少しだけゆっくりと回っているように感じられた。カウンターの向こうで、老練なバーテンダーが無言でグラスを拭いている。彼の指の動きは、まるで熟練の外科医のそれのように正確で無駄がない。


隣の席には、誰もいない。だが、三十分ほど前までは、そこに一人の女が座っていた。白い麻のワンピースを着た、三十歳そこそこの、ひどく疲れた顔をした女だ。彼女はカクテルを二杯だけ飲んで、何も言わずに消えた。まるでおとぎ話に登場する透明な妖精のように、ふっと姿を消したのだ。私にとって、それはごく自然な出来事だった。この街では、人は突然現れ、そして、突然消えていく。そのことを、いちいち訝しがるような感性は、とっくの昔にどこかに置き忘れてきた。


彼女は、カクテルを飲みながら、時折、遠い目をして壁の絵を眺めていた。抽象的な、青と緑の大きな絵だ。深い海の色と、その中でゆらゆらと揺れる海藻のような線。それは、彼女の心の中の風景を映し出しているかのようだった。私は、彼女の視線が絵の、とある一点に釘付けになっていることに気づいた。そこには、小さな魚の群れが描かれていた。金魚鉢の中の金魚のように、ひどく閉鎖された空間で、それでも懸命に泳ぎ続けている魚たち。


ふと、女は私に視線を向けた。その瞳は、深海の底のように暗く、しかし、微かに光を宿していた。

「あの魚たち、私たちみたいだと思いませんか?」

彼女の声は、低く、少し掠れていた。深夜のバーに、その声だけが不自然に響く。

「泳ぎ続けているけれど、どこにも辿り着かない。ただ、同じ場所をぐるぐる回っているだけ」

私は何も言わなかった。ただ、グラスの中の氷が溶けていくのを眺めていた。彼女の言葉は、私の心の奥底に、まるで冷たい雫のように染み込んだ。


彼女は話し始めた。断片的な言葉の連なりは、まるでバラバラのパズルのピースのようだった。夫との関係。仕事の閉塞感。満たされない日々の繰り返し。彼女の人生は、まるで砂漠の中をさまよう旅のようだった。出口の見えない旅。そして、その旅の途中で、彼女は私という見知らぬ男と、このバーで偶然出会ったのだ。


「私、今夜、ここに来る前、死のうと思っていました」

彼女は淡々と言った。まるで今日の夕食のメニューでも話すかのように、何の感情も込めずに。

私は息を飲んだ。いや、飲んだふりをしたのかもしれない。驚きという感情は、もう私の中ではほとんど機能していなかった。

「でも、あの魚たちを見ていたら、なんだか馬鹿らしくなって」

彼女は、また壁の絵に目をやった。

「彼らは、きっと、自分がどこにも行けないことを知っている。それでも、泳ぎ続けている。それを見たら、なんだか、私ももう少しだけ泳ぎ続けてもいいかな、って」


私は、何も言えなかった。彼女の言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも生々しかった。私のグラスは空になり、バーテンダーがさりげなくそれを下げた。


「あなたも、そう思いませんか?私たちはみんな、あの魚たちみたいに、限られた水槽の中で泳ぎ続けている。でも、もしかしたら、その水槽のどこかに、小さな抜け穴があるのかもしれない」

彼女は、私に尋ねた。その問いかけは、まるで迷宮の出口を探すような、かすかな希望を含んでいた。


私は答える代わりに、グラスをもう一杯頼んだ。今度は、ウォッカをストレートで。冷たい液体が喉を焼く。

「抜け穴、ですか」

ようやく絞り出した声は、ひどく乾いていた。

「あるといいですね。もしあるとしたら、それはどこにあるんでしょう」

私の言葉に、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「わからない。でも、きっと、泳ぎ続けた先にしかないんだと思う」


彼女は、そこで言葉を区切った。そして、二杯目のカクテルを飲み干し、静かに立ち上がった。

「ありがとう。あなたと話せて、少し楽になりました」

そう言い残すと、彼女は本当に、音もなくバーを後にした。残されたのは、グラスの縁に残る口紅の跡と、微かな香水の残り香だけだ。


私は、彼女が消えた後も、しばらくの間、壁の絵を眺めていた。青と緑の海。その中で、まるで運命に翻弄されるかのように泳ぎ続ける魚たち。彼女の言う通り、彼らはどこにも行けない。それでも、ひたすらに泳ぎ続けている。


私たちは、みんな、それぞれに異なる水槽の中で生きている。大きな水槽もあれば、小さな水槽もある。透明な水槽もあれば、濁った水槽もある。そして、私たちは、自分がその水槽の中にいることを知っている。でも、誰もが、その水槽のどこかに、小さな抜け穴があるのではないかと、かすかな期待を抱いている。


ウォッカのグラスを空にし、私は静かにバーを出た。外は、真夜中の闇が街を覆っていた。眠らない街。その街のどこかで、また誰かが、小さな水槽の中で懸命に泳ぎ続けているのだろう。そして、もしかしたら、私もまた、そのサカナたちのうちの一匹なのかもしれない。



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