第七話 深くて青い、沼底に沈むもの
――その日も、どこか空気が重かった。
これまでも、首を傾げるような出来事は何度もあった。
私が、はっきりと認識したのがその日であったというだけで、もっと前から兆しはあったのだろう。
ぱきり、と乾いた音が広間に響いたのは、昼下がりのこと。
割れたのは小さなものであり、床には豪華な絨毯が敷かれている。派手な音などしようがない。それなのに、いやに大きく響き渡った。
どこまでも鋭く、耳の奥に突き刺さるかのように。
ティーカップは三つほどの欠片に分かれ、紅茶の香りがふわりと絨毯から立ち上る。それは、お嬢様に渡されるはずのものであった。
侍女の手元から滑り落ち、砕けてしまった。
場の空気が一瞬で凍り付く。メイドたちは青ざめ、同席を許された私もさすがに固まってしまった。それは、お嬢様のお気に入りのカップだった。
何か言うべきだ。そう思いながらも、適切な言葉が出てこなかった。
「……それ、お父様からいただいたものよ」
お嬢様の目はとても深くて、濃い青だった。底など少しも見通せない、どれほど深いか解らない。不気味で、恐怖を感じる沼だった。
「何度も言ったわよね。お父様からいただいたものだから気を付けてと。とても、とても大事なものだからと!」
その声音は鋭く、強く、まるで刃物のようだった。
侍女は何も言えずに、ただ俯き肩を震わせている。
「ねぇ、忘れたの? とても大事なものなのよ!」
私は、何も言えなかった。やはり、変わってしまったのだと理解した。急速に心が冷えてゆく。
あれほど人に優しかった彼女が、こんな風に誰かを怒鳴りつけるなど。
あの時の彼女はどこへ行った?
今と同じ事があった。あの時も、新しく雇用されたばかりのメイドがカップを割った。
いきなりやらかして震えるメイドにアストリッド様は何と仰ったか。
花がほころぶような笑みを浮かべ、メイドをかばっていたではないか。
それが縁でそのメイドを自分のお付きとしたではないか。
それが、今はどうだ。
あの時の笑顔は、どこにも見えなくなってしまった。
怒りに染まったその表情は、どこか哀しくも見える。
静かに震えるアストリッド様は、他人を責めることでご自身を保とうとしているかのようだった。
代わりに謝っておくと言った彼女は、もうどこにもいない。
そして、十二歳を迎えた日のこと。アストリッド様は正式に廃嫡され、弟君が公爵家の嫡子と定められる。
それと同時に、私たちは婚約者候補から降ろされ、弟君のお付きとなったが、これは予定通りだ。
私たちはアストリッド様が女公爵となる予定だったから、ひとまずのお相手として候補に挙げられていただけに過ぎない。
いずれはどこかの伯爵家の次男坊や三男坊が正式な婚約者としてこの屋敷に来たはずであり、だから、候補だったのだ。
それが、ただの公爵令嬢になってしまった今では、打って変わって家格の釣り合う家柄のご長男がお相手となる。公爵令嬢としては少々遅い婚約者探しだが、公爵閣下持ち前の政治力で、あっと驚く相手を見付けてくるに違いない。
弟君におかれては、多少なりともアストリッド様とご一緒した時間があるだけに、私たちに対してやりづらい部分を感じるかもしれない。
その気がなくても、比較されてしまうから。
若君のご器量はこれからだが、少なくともアストリッド様は飛び抜けた才覚をお持ちであった。
まぁ、それはよいとして、私は、ひとつの期待を抱いた。
アストリッド様は、今後、淑女としての道を修めるだけで良いのだ。
これで、気持ちに余裕ができて、少しは昔のような優しさを取り戻すのではないかと。
期待していたところに、さらなるご乱行が耳に入った。
廊下ですれ違った顔見知りのメイドが、腕に包帯を巻いていたので声をかけたところ、予想通りの答えが返ってきたのだ。
物をぶつけられたのだと言う。失敗したメイドをかばって。
避けると、さらに多くの物が飛んでくるから、避けないのだと。
「もしや、その傷痕も……?」
よく見ると、顎の辺りにも小さな切り傷の痕がある。メイドは、困ったように眉を寄せた。
「まさか……たびたびなのか?」
悲しそうな笑みを浮かべていた。今にも泣きそうだった。
めまいがした。余計にひどくなっているではないか。手が出るのであれば、罵倒などは当たり前なのだろう。
「そなたが言っても駄目なのか?」
無言で頷く。ため息が出た。このメイドは、十年近く前にティーカップを割って、アストリッド様がかばったメイドだ。
それからずっとアストリッド様のお付きをしており、今では筆頭のような位置にいるが、そんな彼女でもどうにもならないとは。
誰彼構わず怒鳴り散らし、時には物に当たり、ぶつけて怪我をさせると。
最悪だ。
とはいえ、私にはどうすることもできない。
私は、アストリッド様とお話したいと願い、許される立場にない。
お諫めするのだと言っても僭越だと見なされるだろう。
偶然を装うにしても近付くだけで咎めを受ける。
「すまない」
メイドに、深く頭を下げる。こんなにも傷付いているのに。
身体だけではない。遠いあの日、失態を演じても赦され、救われた心は、今やあちこち傷ついてボロボロだ。
私では、何の慰めにもならないし、補償ができるわけでもない。
言葉がないのではない。私がどれだけ言葉を尽くそうと、彼女にとって無意味だからだ。アストリッド様をとめるすべがないからだ。
解っている。私はしょせん、男爵令息だ――。
それでも私は謝りたかった。同じ心を痛めている同士として、無力さを懺悔し、悲しさを共有したかった。それは、ただの自己満足だ。解っている。
「……いえ。お気になさらず。お言葉だけでも私は嬉しいです」
どう思ったのか。心の内は解らない。
だが、メイドが見せた笑顔はさきほどまでと打って変わって、あの日と同じものであった。それだけで、私は救われた気分になった。
私は、もう一度頭を下げた。
数年が経ち、学園入学を翌春に控えたある日。私たちの元に驚くべき情報がもたらされた。
「嘘だろ……」
アストリッド様の婚約が決まった。最初は、噂が。そして、公爵閣下からの正式な発表。
相手はなんと、このクルフトヘイム王国の第一王子であるマティアス殿下だという。
私は、公爵閣下の政治力に恐怖した。
王子殿下には、もともと婚約者がいらっしゃった。
それなのに無理矢理その婚約を破棄させ、なにかと噂されている娘を代わりに婚約者として押し込むなど、いったいどれほどの見返りを差し出したのだろうか。
たとえ見返りを用意できたとしても、よくぞ実現できたものだと思う。普通なら、有力貴族からであったとしても、札付きの娘など迎え入れたくはないだはずだ。
発表の場には、当然ながらアストリッド様も同席していた。
お会いするのは若君に嫡子の座をお譲りになって以来となるが、多少、背が伸びているように見えた。薄紫がかったつややかな髪は腰よりも長く伸ばされている。
表情は固く、目元に見えたのは濁った影。
身にまとう水色のワンピースドレスは冷ややかで近寄りがたく、水晶を散らしたような装飾が施され、光に反射してきらきらと輝いている。
国内屈指の有力貴族の令嬢にしては少々地味な印象だった。見目麗しいお姿を映えさせるには、装飾品が足りない。
そういえばかつてのアストリッド様は、何についても必要な分だけで良いと、話されていたな……。
「オードゥンよ。学園ではくれぐれもアストリッドを頼むぞ」
閣下が私の肩を叩く。
親子揃って、表情に動きが少ないのだな、と思った。
そして年が明け。
アストリッド様と私は、ともに十六を迎え、学園の門をくぐった。
読んでいただきありがとうございます。残りエピローグ含めて四話です。
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