第十話 湖の表面に、波は立ったか
しん、と静まりかえった会場は、まるで音もなく雪が降り続く夜に似ていた。
布団に潜り込み、朝を待つだけの夜。あの無力さのようだ。
会話など、できる雰囲気ではなかった。
強烈な印象を残して主人公は去り、残された自分たちは脇役だった。
本当に、これでよかったのか。誰もが複雑な表情をしていた。
それでも、物語は進む。起こったことは、起こったことなのだ。
私自身は、覚悟していたぶん、衝撃はもちろんあったが、それでも彼女が追放されたという事実をすぐに受け容れることができた。
だが、会場にある人々はいまだに動揺しており、その様子を見て、私はひらめいた。
チャンスだと。これを逃してはならないと思った。
意を決して殿下の前に一歩進み、膝をつく。
「殿下、発言をよろしいでしょうか」
「あ、ああ。別に構わないが」
立ち上がり、全員に向き直る。
今はもう、いなくなってしまった彼女へと。
せめて、これくらいはしたいと思った。
それは、届くはずのない、自己満足だ。それでも。
息を吸い込み、できるだけ胸を張り、声を大きく。
「――私たちは、誤解していたかも知れません」
「誤解、とは?」
みなが眉を寄せ、首を傾げる。
「アストリッド様は、果たして私たちをどうしたかったのでしょうか」
一瞬、静かになり、苦々しい顔をする同級生がまばらに見えた。
「……嫌がらせではなかった、と言いたいのか?」
殿下が片眉を上げて問う。私は頷かない。さすがに悪意がなかったとは言えないだろう。なかったのなら、あんな言い方はしない。
「例えば、さきほどの話ですが」
「っ……」
ノルデグレーン伯爵令嬢が小さく悲鳴を上げる。
「言い方はさておき、アストリッド様は貴女に、貴族であるからと誰に対しても傲慢であって良い訳ではない、と忠告していたとも言えます」
「単なる誹謗中傷にしか聞こえなかったが」
「アニェッタ嬢がどう思うかが問題だろう」
同級生たちが口々に言う。膨らんでゆく敵意が私の肌を刺す。ひるむな、私。
アストリッド様が退出するとき、私をチラリと見て、どんな表情だったか思い出せ。
泣き笑いをしていた彼女に、何も報いないのか。
私は、果たさねばならない。
ぐっ、と奥歯を噛みしめ平静を装って。
「……その理屈を突き詰めれば、最終的にひとは、言葉を捨て去らねばなりません」
相手の受け取り方で全てが決まるのなら、それを悪用することもできる。
誰もが相手にどう受け取られるかを考え、やがて何も言えなくなってしまうだろう。
「ならば、トリストシェルン公爵令嬢自身がその誤解を正すべきだ」
私は首を振る。
確かに、私が何を言ってもそれはどこまでいっても私の感想だ。あるいは解釈違いかもしれない。
それでも。
「ですが、こう捉えた方が、前に向けませんか?」
民に尊敬される貴族となれ。そのために努力しろ。そう忠告されたと思えば、まだ自分の中で消化しやすくはないか。
「……」
肌を刺す痛みが減ってきた。
私たちは、未来を見るべきなのだ。
前を向いて生きられるよう、過去のできごとを解釈し直してもいいではないか。
私は、次に目を向ける。
「そしてオクセンスターナ伯爵令息。貴方はかつて、造語の乱用を咎められました」
「お、おう」
のけぞる彼は、入学してすぐにアストリッド様にやりこめられた。最初のターゲットだったように思う。
だが、彼はそこから変わった。勉学に打ち込み、常に学年五位には入るようになった。
だからこのやりとりは、ある意味私が一方的に書いたシナリオだ。期待通りに動いてくれれば嬉しいが。
「……造語の乱用は、いかがですか?」
「駄目だな。論外だ」
にっと笑って、彼は答えてくれた。こちらの意図を察したのだろう。ありがたい。
「俺は、悔しくて、見返したかっただけだがな。だが、あのお嬢様の言ってたことは、間違っていなかった」
そして、苦笑いで頬を掻きながら。ぽつりと付け加える。
「言い方はとんでもなく悪かったけどな」
それはそう。
私は頭を下げ、そこから全員に語りかけていった。
アストリッド様に何を言われたのか、その意図を違う角度から見直していただきたいと。
もちろん、答えはさまざまだった。そう簡単に納得できるものではない。
そこで、私は問う。彼女の言葉を受け入れた場合と、そうでなかった場合とを比べたとき、それぞれどんな未来が待っているだろうと。
多くは無言となり、それ以上の攻撃はなくなった。頭では解ってもらえたのだと思う。今はそれでいい。
やがて、全員への問いを終えたその時。殿下が静かに、私の名を呼んだ。
「……オードゥンは、これをもって何を望む? 私と、アストリッドの復縁か?」
その声は、もはや敵意ではなく、静かな問いであった。私は、ゆっくりと首を横に振る。
「アストリッド様が、みなさまの心を深く傷付けたことは紛れもない事実です。この償い自体は、して頂かねばなりません」
「ふむ」
「その償いが、婚約破棄であると私は考えています」
「……なるほど」
この場に集う卒業生は、やがて未来の王たる殿下の家臣となり、王妃のサロンを美しく飾る淑女となる。それらを傷付け、敵意を持たせるなど、王妃として相応しくない。
その地位に相応しくなければ、遺憾ではあるが、破約するしかないだろう。
なるほど、確かに、確かに。と殿下は何度も呟き、頷いた。
「ならば?」
婚約破棄の取り消しでなければ、何が望みか。
「みなさまのお心です。アストリッド様は婚約破棄をされることによって罪を償いました。どうか、これ以降は、悪い感情を手放して頂きたく」
「傷付けられたことを赦せと?」
「……赦す必要はありません。ただ、事実としてのみ記憶に留めて頂ければ」
「ふむ……」
例えば昔、友達に殴られたからといって、その恨みを延々と言い続ける態度は貴族としてどうか。極端な話、やり返したいなら謀略で返せば良いのだ。
だが、アストリッド様は、今夜限りで歴史上からその名を消す。やり返しようがないのだ。そんな相手に、未来ある方々がとらわれる必要はないはずだ。
「どうか、少しでも哀れとお思い頂けたなら――」
深く、頭を下げる。駄目で元々だ。言いたい事は言えた。これで良しとしよう。
あとは、それぞれの問題だから。
「……やり返す相手がいないのでしたら、仕方ありませんわね」
意外な声が、背後から聞こえた。
「ノルデグレーン伯爵令嬢……」
「いつか、ヴァルハラに召されたとき、あの方に笑われないよう、せいぜい努力するといたしますわ」
ほほほ、と彼女は顔を扇で隠しながら横を向いた。隠し切れていない耳が、真っ赤だった。
「ありがとうございます……」
一番新しい傷を持つお方がこう言ったなら、もう充分だ。他の誰がどんなに異議を唱えようとも、彼女の方が痛いのだ、の一言で終わる。
「ヴァルハラでも厳しく言われそうだがな」
「ちょっとオクセンスターナさま、なんてことを」
「違いない。ありゃぁ、とんでもなく高い山だ」
「なぁに。やりがいがあるってもんよ」
「見てろよ、一泡も二泡も吹かせてやる」
森に吹き渡る風が、木々を揺らすように。鳥が一斉に飛び立つように、大広間が再び、お祭り騒ぎとなった。
謝恩会は、まだまだ続く。
学びの多い、学園生活だった。
これにて幕が下りた。そう思っていたのだが――。
謝恩会が終わった後、殿下に呼び出された私は王家の力をまざまざと見せつけられた。
「明日からオードゥンは私の直属の部下だからな」
「は?」
「トリストシェルン公爵に交渉した」
悪気のないいたずらを自白する子供のようだった。ぺろりと舌でも出す勢いだった。
「そんな簡単に……」
「オードゥンだけだ。男爵領は弟に継がせろ」
「そんな簡単に……」
「新たな爵位もやろう。エルヴステン子爵なんてどうだ?」
「えっ……」
「昨日決めた」
めまいがした。入ってくる情報が多すぎる。
こんな話を一日で決められる。これが王家の力。これが政治……。
まぁ、家名がなくなる訳でもなし、父上も嫌とは言うまい。やれやれ、と私は深々と頭を下げて。
「これからもよろしくお願いします」
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