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第九話 公爵令嬢は、追放を望む

「……アニェッタ・ノルデグレーン伯爵令嬢。ご自分では何もなしていないのに、どのような根拠があってそんな傲慢な態度をとるのです?」

「――っ!!」

 始まった。みながそう思った。最後の最後までよくやる、と。

 どうやら、ノルデグレーン伯爵令嬢が従者に横柄な態度をとったらしい。皿に自分の好きなものを並べなかっただの、さっさと飲み物を取ってこいだの。

 わがままだが、そんなもの、どこにでもある自然な場面だ。

 貴族社会において、従者やメイドを顎で使うなど当たり前すぎるのだが……アストリッド様の意図が読めない。今回は少々無理筋ではないか。

 

「勘違いなさらないでいただきたいのですけれど」

 その声音は、まるで山頂から吹き下ろす冬の冷気ように澄んでいて、痛かった。

「従者や……いえ、領民が貴女を敬っているのは、貴女の“血”に対して、ですの。今の貴女に敬う価値など、ひとつもなくてよ」

「なっ、な、あ……っ」

 ギリリと、恐ろしいほどの力で、歯を食いしばる音が聞こえたようだった。

 相手は公爵令嬢だから、迂闊に言い返せない。表面に漏れ出てはいるものの、今にも爆発しようとする怒りをぎりぎりであっても抑える精神力は見事なものだった。


「民たちが頭を垂れるのは、貴女のご先祖様に対して、ですわ。命を削り、貴女の家を貴族であると認めさせた人々に対してですの。何もしていない貴女が、その成果を当然のように手にし、威張り散らすのは……盗人の発想というもの」

「ぬすっ……‼」

 ああ、なるほど。そのように持っていくのかと感心した。

 貴族とは、最初から貴族であったわけではない。志を立て、それに見合う実績を見せたからこそ貴族であると認められたのだ。

 従者がこうして彼女に頭を下げるのは、彼女個人に対してではない。その背後にいる、血の滲む思いで家を立て、繋いできた彼女の先祖たちに対してだ。

 それを忘れて偉そうに振る舞う彼女の態度を、アストリッド様は咎めている。


 ……だが、他者を盗人呼ばわりするのであれば、やはり今回も伝わらないだろう。

 言葉の選び方が悪すぎる。この伝わらない言い方は、私がどれだけ改めるよう伝えても、三年間全く変わらなかった。

 最後まで、アストリッド様はこのスタイルを押し通すつもりのようだった。

「貴女がその果実を欲すると仰るなら、どうすべきか。それすら解らないのでしたら、一から教えて差し上げましょうか?」

「っ――!」

 怒りが、吹き上がる寸前で冷やされてゆくのが見えた。山の冷気が、マグマを凍らせていく。

 だが、感情までは冷やしきれず、涙となってぽろぽろと零れ出した。

 

「そこまでにしろ」

 高く早い足音。聞かずとも分かる、殿下だ。怒りを押し隠さないあの足音を私は幾度も聞いてきた。

 三年間で何度もこんな場面があった。この先も解る。

 見かねた殿下が間に入り、アストリッド様に言い負かされる。いたたまれない空気となり、周囲に押されて私が仲裁するのだ。


「――アストリッド。そなたにノルデグレーン伯爵令嬢を傷付ける権利など与えてはいないのだが」

「頂いたつもりもございませんわ」

「ならばこれ以上ノルデグレーン伯爵令嬢を傷つけるのをやめろ」

「しておりませんが?」

「しているではないか。ノルデグレーン伯爵令嬢を泣かせたのは誰だ」

「ノルデグレーン伯爵令嬢です。私が泣けと命じた訳ではありません」

「詭弁を弄するな!」

「事実でございます」

「ぐぬぬ……っ!」


 少しの間があり、アストリッド様がことさらに大きなため息をついた。

 これ以上待っても殿下は次の句を繋げないと見たか。まぁ、それはそうだろう。そもそも口論でアストリッド様に勝てる学生などいないのだ。

「……もう、飽き飽きですわ」

 肩をすくめ、演技がかった仕草で首を振る。その口ぶりが信じられず、周囲は静まり返った。いつもの喧嘩とは、何かが違っていた。

 いつも通りではなかったのか?


「今、なんと言った……」

 殿下の声が低く冷たいものになる。アストリッド様は、怯むことなく言った。

「見苦しいと申し上げているのですわ。いつもいつも簡単に口を封じられ、悔しくありませんの?」

「そなた……」

 まずい。これは本当に引き返せない。

 早く止めなければ、と思った。なのに、足が動かない。

 この言い争いが最後だと。そう思っていたのは、私だけだった?

 ――いや、もしかして、本当の意味で“最後”なのか?

 ぞくりと背筋が震えた。そのとき、背後から肩を掴まれた。

 

 殿下に近い侯爵令息だった。彼は無言で首を横に振る。

「止めないと。あれはまずい」

「……ご意向だ」

「……ご意向?」

 そう。これは、殿下の望んだ展開。私が止めないことで、何が起きるかを分かった上で。

 それはつまり――本当に、終わらせるつもりなのだ。


「――そなたは越えてはならぬ一線を越えた」

 殿下の瞳が、これまでにないほど鋭くなる。本気だ。震える手を、私はただ握りしめた。

「越えたら、どうだと仰るのですか?」

 私は、目を逸らしたくなった。

 いつかはそうなると思っていた。ただ、そうなるとしても、卒業した後にして欲しかった。こんな場面など、見たくはなかった。

 

 だが、周囲はどちらかというと、そうではないようだった。期待に満ち溢れた目で、息を潜めてクライマックスを待ち受けている。

 私は、当然ながら少数派だった。

 悪趣味だとは思うが、これまでのアストリッド様を思えばこうならないはずがない。我々は若く、どうしても感情優先で動いてしまうのだ。


 ――そして、その時がやってきた。

「アストリッド・トリストシェルン。今をもってそなたとの婚約を破棄する!」

 わあっ、と周囲がざわめく。多くの生徒たちが殿下の断罪に快哉を叫んだ。

 反して、アストリッド様は、森の奥にひっそりと湛えられた湖のように静かだった。微笑を浮かべ、ほんの少しだけ、目を細めた。

「……王や、大臣はご存知ですの?」

「もちろんだ。何なら、トリストシェルン公爵にも、な」

 根回しまでされているとは。背筋が寒くなる。大きくなるざわめきが遠くに聞こえた。

 

 この日に合わせて用意されていたのだ。気取らず、誰にでも友好的だった殿下は、すでに卒業し、他者を追い落とす謀略を練っていたのだ。

 心がついていかない。クラスメイトたちは観客気分でやいのやいの騒いでいる。

 冷静な目をしているのは殿下とその取り巻き、そしてアストリッド様のみ。それもそうか。さすがはこれから国政の中枢に参加するような方々だ。学園では三年間、近くにいたせいでそんなことすっかり忘れていた。身分差を感じさせなかった、素晴らしい方々だったのだ。

 いや、上下関係は確かにあった。だが、気持ちは、どこか近いように感じていた。

 錯覚していたのだ。近しく思わせていた殿下たちは、やはり私など手の届かない、遙か高みにいた。


「……いっそ、追放してくださいませ」

「なんだと?」

「私は、トリストシェルン公爵家の娘ですの。それが、このような公衆の場で、このように辱められて――ご先祖様に合わせる顔がありません」

 ざわり、と空気の流れが変わった。このような話が、かつてあっただろうか。

 王都の貴族が、自ら追放を願うなど。

 こういった場合、恥辱にまみれたという昏い思いを胸に、失意のまま、どこかの貴族に嫁いでゆくものだ。

 王都での贅沢な暮らしを捨て、みずから追放を望むなど、聞いたことがない。


 だが、アストリッド様らしいとも思う。

 おそらく、納得はしていない。

 だが、くつがえせないものと理解した。

 ならば、もはやこれまで。

 誇りが、この地に留まるのをよしとせず、潔さが、即断させた。

 アストリッド様は、高潔なのだ。


「ならば、処分が決まるまでカルドスヌー宮にて過ごすとよいだろう」

 カルドスヌー宮は、いつ、誰が作ったかはっきりしない、狭くて質素な宮だ。

「……寛大な処置、感謝致します」

 アストリッド様が片足をすっと引き。

「っ……!!」

 それは、王宮のサロンに咲き誇る、どんな淑女たちよりも美しいカーテシーだった。

 

 誰もが息を飲んだ。自分たちはもしや、とんでもないことをしてしまったのではないかと思った。

 いつになってもその姿を思い出せるような。それほど、鮮烈にみなの心を打った。

 もはや、彼女の姿を見て、気分を晴らす者はいない。

 困ったような顔で、私たちは彼女を見送った。

 

 ――彼女は、高山に咲く、一輪の黒い百合のような人だった。

読んでいただきありがとうございます。

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