プロローグ 春は、まだ遠い
見上げた空は、どこまでも沈んだ灰色だった。
今にも大粒の雪が落ちてきそうなほど、重くのしかかっている。
踏み固められた道は凍りつき、両脇に積み上げられた雪は人の腰あたりまで積まれている。
馬の蹄がぱかり、ぱかりと規則正しく鳴っているが、寒さのせいか足取りに元気がない。
いつもならば藁の中でぬくぬくと眠っているところを、無理やり引っ張り出されたのだから……まあ、同情はする。
しかし、それにしても寒い。
この、クルフトヘイム王国が大陸の最北端にあるとはいえ、限度というものがあるだろう。
そろそろ四月だというのに、春はどこをほっつき歩いているのやら。
鼻の奥を刺す冷気に、任務への不満が募る。
今回の任務は、王子殿下の命令によるものだ。
辺境の修道院へ生活物資を届ける。それだけの、簡単なお仕事。
しがない下級貴族にやらせるには、お似合いだろう。
殿下が、こういった“少々事情のある”仕事を思いついたとき、決まって私にお呼びがかかる。
あの方が短く整えられた金髪を揺らし、困ったように眉を下げて「頼むよ」と言えば、私はどこにだって向かうのだ。
それには当然、理由がある。
少し前。そう、ほんの数年前のことだ。
我が国では、すべての貴族が成人前に王立学園へと三年間通うことが義務付けられている。
通学にあたって、家から通うか、寮から通うか。それは個人の事情次第だが、なぜか殿下は寮生活を選び、そしてなぜか、私と同じ部屋で三年間を共に過ごした。
その“偶然”のせいで、私は今やすっかり、殿下の雑用係である。
もし貴族の働きに応じた功績ポイント制度などがあれば、今ごろ伯爵にでもなっていただろう。
だが、現実にそんな都合の良い制度はない。私は、永遠の雑用係だ。
蹄の音が止まり、御者が小さく合図をした。どうやら目的地に到着したらしい。
顔を上げると、目の前には――事前に聞かされていた以上に、寂れた修道院が広がっていた。
横に長い建物の中央に、玄関棟が突き出しているだけの簡素な造り。
目を引くような装飾もなく、もしここに一枚でも美しいステンドグラスがあれば巡礼者の足も向くのだろうが、それもない。
この地で暮らし、祈る者は、せいぜい三、四人といったところか。
背を丸めた老女たちがひっそり祈りを捧げる姿が思い浮かぶ。
やれやれ。なにを期待していたのやら。
ため息を漏らしながら私は荷台から降り、門へと向かう。
ノックしようと手を上げた、まさにそのときだった。
視界の隅に、揺れる何かが映った。
修道女、だろうか。
修道院の裏手に広がる、凍った湖のほとり。
そこに、一人の修道女が立っていた。
ベールの隙間から見える顔立ちは若く、整っているように見える。
こんな場所に、若い女性がいるとは思わなかった。
そういえば、昨晩宿を借りた村で聞いたことを思い出す。
数年前にいずこからともなく流れてきた若い女性がいたと。
その女性が、目の前の修道女なのだろうか。
王都から流れてきたという噂もあるという。
言動が、この辺りの者とは明らかに違うのだと。
目を細め、よく見ようとした瞬間、胸の奥に微かなざわめきが走る。
修道女にしては、どこか雰囲気が違う。
その姿だけが異様に存在感を放っていた。平均的な背丈にもかかわらず、不思議と“大きく”見える。
まるでそこにだけ、光が差しているかのようだった。
まさか――。
私は知っている。この気配を。
忘れようにも忘れられない、あの感覚を。
そう、あれは――。
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