表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

不登校の“私”の3年間。

作者: 香海 百合

このお話が少しでも沢山の人の目に留まりますように。

また書き足す可能性ありますがまあ、大きくは変わりませんので。

 これはフィクションでも何でもない、本当に起きていた実話。不登校の“私”の話。


 ◇◇◇


 つい先日、“私”は中学校を卒業した。中1以前から不登校で学校にほぼ行けなかった。1年生と2年生の時は学校とは別の場所にある、小・中学生が通えるサポート室へ通っていた。私服でも制服でもOKな場所。小学生は制服なんて無いからね。でもしっかり行けたのは1年の時のみ。2年の最初と最後は少し行けた。

 そのサポート室は色々な理由で不登校になった人が沢山いる。在室人数は1年生の時は25人ほどで、女性が8割、男性が2割。よく来るのは15人程度。最初のコロナ禍で学校が長期休みもあり、不登校が増えたのも1つの原因かもしれない。

 行く事で出席日数はカウントされるが、流石に成績はカウントされないし、学習は自分でやる。分からない所があればサポート室の先生に聞けば教えてくれるけど。そして期末などのテストの日は学校へ行かなければならないし、サポート室を休む時は自分(どうしても自分でできない時は保護者)が連絡する。

 3年の時はサポート室へ行かず学校にある別室へ。そこにはサポート室へ通っていたが進級して、通わなくなった人もいる。サポート室と学校を行き来したりする人もいる。

 “私”はクラスは違うものの、一緒の場所へ通うのでいつの間にか仲良くなってた。1、2年の子も来るのでその子達とも仲良くなるのはとても嬉しい。

 さて、ここからは“私”の中学校生活3年間の思い出を話していこう。若干、朧気な部分もあるけど……。

 ますは1年生。1年生の時は──


 ◇◇◇


 お腹痛い……。やっぱり緊張するぅ。このサポート室を知ったのは、確か、スクールカウンセラーの(すす)めだったはず。学校はコロナ禍で入学式も無く、初めの頃は臨時休校だった。始まったのは5月下旬か、6月上旬だったはず。うろ覚えだね……。HRからは行けなくて、1限目の途中に登校して、職員室に行って、教材室と呼ばれている場所にいた。余談だが、その時期、気温が高くて学校に着いた時点で汗だくだった。そりゃあ、自転車で学校に来て、一息つく間もなくマスクをすれば、汗だくになるな……。背中汗びっしょり。気持ち悪かったよ……。

 さて、話に戻るが、サポート室に時間がある時に見学して、次の日から通い始める事にした。

 そして本日、初日。入ってまず、職員室のような場所に行って、そこの先生に「ここはこうですよー」という説明を受けながら、自主学習をする場所である、学習室に行った。

 そこは長机が7台で1台を除き、2脚のパイプ椅子がある。なので12人ほど座れる。残りの1台は先生が座る席が1つ。ちなみに隣にも学習室2がある。そこは長机4台。

 この時、学習室1来ていたのは女子が2人。だが学習室に入った頃に男子が1人来たので計3人。その人達と自己紹介をした。皆は学校が違うが中学生で。互いに苗字ではなく、名前で呼び合う。なので設置されているロッカーの名前札の苗字に、これ誰だっけ、と思う事もしばしば。

 ちなみに当時3年の先輩もいたが秋ぐらいに退室した。緊張したものの、学習時間を3時間。各自持ってきたお弁当を食べ、昼休み。

 午後の活動は、新しい人が来たらやるという、ルーレットを回し車を進めて、所々乗車人数やおもちゃのお金が増えたり、大金を支払わなければならなくて絶望したり、などするボードゲームを。その結果はもう覚えていない。

 1週間後くらいには同じ中学から同級生が来た。知っている人である。その子が来た時も、“私”の時と同じボードゲームをした。同じく結果を覚えていないが、楽しかった記憶がある。

 1ヶ月後には1人の友達ととても仲良くなった。昼休みに髪を結んでもらったり何気ないおしゃべりをしたり。こんなに仲良くできるとは思わなかった。

 今では一緒にカラオケに行くほどに。ただ、その子は1年生の半ばぐらいで退室したが。でも連絡先を交換しているので、近況報告を連絡し合ってるし、カラオケも行っている。

 ALTの先生も定期的来てくれて2、3時間目にALTの先生と授業をした。と言っても中1の英語が中心で、3時間目は殆ど英語を使ったゲームをした。

 そのゲームは中3の今、昼休みに別室にいる下級生の皆でやったりする。大盛り上がりで同級生は下級生から「嫌なマスに止まれー!」とも言われていて大笑いした。

 他のゲームもあってその1つ、一定程度の距離を取った場所からピンポン玉を投げ1〜3バウンドさせて、バケツに入れる。入ったら次の場所へ。入らなかったら次の自分の番も同じ場所から。多分だが10箇所くらいあった。

 ALTの日の午後は高確率でバトミントンや卓球をする。

 ALTの先生対自分達の一対一だったり、先生もサポート室の誰かとペアを組んで2対2にで勝負する。

 たまにトーナメント表をホワイトボードに書いて勝負もする。まあ、ALTの先生が来ない日でも運動をする。例えば勉強を教えてくれる先生と戦ったり、子供だけでの戦いだったりね。

 よく勝った!「“私”休みに練習したでしょ!?」とALTの先生に濡れ衣を着せられた。“私”は練習なんてしてないよ?

 そんなこんなでサポート室を過ごしていく。

 年度末の方は人が多いから、体を動かしたい人とボードゲームをしたい人で分かれて遊んだり。“私”は運動派。運動派もまあまあいるのでペアを組む事が多かったかな。

 ALTの先生が来る最後の日、お別れ会をした。生徒を何人かに分けてゲームをした。5人いる“私”の青チームは障害物リレーを。

 卓球のラケットにピンポン玉を乗せて落とさないようにしながらコースを進み、輪投げ→紐の下を潜り抜ける→借り物競走→次の人へバトン代わりのラケット&ピンポン玉を渡してバトンタッチ。但し、輪投げと借り物競走はピンポン玉を置いたり押さえてていい、直前の食事の事情で全員お腹いっぱいだろうから走らないというルールもあった。

 借り物競走も紐の下を潜り抜けた直ぐ後にある、お題袋の中から紙を引いて近くの台に置いてある品物を、またまた近くにある確認場所に青チームの主催側が確認してOKしたら進む。だった。

 最終アンカーはゼッケンを付けてもらったりもした。

 そんなに広くはない場所でのリレーだったが大いに盛り上がった、と思う。

 赤、黄色チームはクイズだったり、学習室を使った宝探しゲームだったり楽しかった。ちなみに宝は、刺していき、ある場所を刺すと顔が描いてある人形が飛んでいき、名前に四字熟語がある、とっても有名なおもちゃの刺すやつね。後はダミーもあった。

 ALTの先生とのお別れ会の他に、ボランティアか何かで来てくれていた3人の先生達とのお別れ会と終了式前日の自分達のお別れ会。

 前者の時は3人でハンドパペットを使った劇を。あ、ALTのお別れ会とは別メンバーね。“私”は語り役を。もう2人はハンドパペットを。元々、ハンドパペットを持ってきてくれていたのはボランティア?の先生だったので大いに喜んでくれた。

 後者は…………………………………………………。やったっけ?あー、覚えてません!!

 毎年、サポート室は年度末で卒業なので1年生のサポート室の思い出はこれで、お(しま)い。

 次は2年生。全く行けなくて家に引きこもり気味……ばっかりだった頃の話──


 ◇◇◇


 2年生。うん。ほぼ初っ端からサポート室へ。なので話は短い。

 既に1年生の時に来ていたメンバーが何人か来ていた。サポート室を週2回、学校を週3回という風に行き来した。6月くらいまではちゃんと行けていたはず。7月辺りから、また、行けなくなった。そこからずっとサポート室も学校も行けなくなって、ずぅ~っと行けなくて。11月か12月くらいに、学校で三者面談があって、別室の存在を知った。

 特別支援学級とはまた別の教室。と言っても普通の教室の半分の広さ。そこは8人分の机があってどこでも座っていい。

 サポート室と同じように勉強は自分で選んでやる。サポート室と違うのは、担任の先生がたまに来たり、誰か分からない先生が顔を出して、勉強を教えてくれたり。

 驚く事に、校長先生や教頭先生が来たりしてた。凄い事に週1程度で来てくれて親に話すと「また!?」って驚いてた。

 別室はこの時、3年生の先輩が3人程とサポート室に通っていた同級生が1人程。

 3年生が卒業するまであと少し。3年や同級生、特別支援学級の生徒と体育館でバドミントンや、卓球の部室?で当たり前なのだが卓球を。初心者の戯れ程度だけれども。別室のにいる先生ともやったりね。実に楽しかった。先輩達も優しかった。

 その3人の先輩の内2人は卒業後も別室に顔を出してくれた。そして余談だが、“私”がこれから通う高校にその先輩がいる。別室にいる先生に、会ったらよろしく言っておいて、とも言われて笑えた。

 次はALTの話。そんなに行けなかったから最初と最後の方しか参加できなかったが。と言っても1年時と同じ先生で明るすぎる先生なのだが。覚えているのはペアのトーナメント形式でバドミントンをしたって事だけ。何故ペアなのか。理由は単純。人が多いから。“私”のペアはいい所までいったが優勝はできなかった。そしてこのALTの先生。なんと、3年時もサポート室に来るらしいが、どうだったのかは知らない。

 そしていよいよ、サポート室も最後。いつも通り、お別れ会をやった。今回は準備をしている時、学校に行っていた回数が多く、サポート室の方を休んでしまったりしたので、主催側としてはできなかったが。内容はクイズが多かった気がする。

 もう、話す事が無いので次に行こう!

 最後は3年生。3年時は笑いまくったかな──


 ◇◇◇


 3年生の時は沢山の話したい事があるので1番長い。初めから別室に通って始業式も、その部屋からリモートでの参加。コロナとかのせいで全クラスが各教室からリモートで、なのでまあ、問題無い。

 と言っても初めの頃の記憶も段々、朧気になっているので話す事はちゃんと覚えている事になるのだが。

 まずはしっかり覚えている体育祭の事から。体育祭はコロナのおかげで1年時は短縮化。2年時は学年ごとにのみでの、だった。なので何も短縮せず、本来の形式の体育祭を、最初で最後の3年生でやれた。

 体育祭に参加するつもりはなかったが、別室にいつもいてくれる先生が参加するらしいので、“私”達も半ば強制的に何でもいいから種目1つに参加。“私”は学年リレーに参加した。本番3日前くらいに決まった事で、クラスの人は嫌な顔1つせず(本当はしてかもだけど)歓迎してくれた。

 練習で1回走って次の日、筋肉痛になってた。運動不足を痛感したね……。中学校生活の中じゃ、1年生時が1番体を動かしたかな。練習をしに運動場に行く時、クラスの人が迎えに来てくれたりした。リハーサルの日は3人?くらい普通に走って残りは一斉に走った。

 後はすっ飛ばして……いよいよ本番。本番は特別支援学級や別室の人の為に作られているテントにいた。養護(ようご)テントと記録テントの間にある場所。少ない人数しかいなかったけど。多分片手でいける程。

 で、学年リレー。並び始める少し前に本部と反対側の入場門の並びにあるブロックテントに行ってクラスの人の後ろにいた。

 入場門でリレー順に奇数で、偶数で並ぶ時、何番目に走るかは知っていたけど前後が誰か分からないし、入場の仕方も分からず、どうすればいいのかも分からないけど、並んだ前後の人に教えてもらいながら、ちょっと適当気味だけど入場した。“私”は奇数で走るので入場門の近くからスタート。

 でも最初(1番)に走る人だけはスタート場所ではない、本部側、つまり偶数の人がスタートしていく方に行ったので奇数側はザワザワ。偶数側は分からない。

 そして訳が分からないまま、スターターピストルが、パンッ!と鳴り、その音が鳴った瞬間、最初(1番)の走者達が撃たれたフリをした。そして放送していた放送部員が「ふざけないで下さい」と冷静に言い、“私”や並んでいる前後の人達は笑った。

 “私”が走って思ったのは。筋肉痛がまだあるなぁ、って事。呆れる?呆れていいっすよ〜!前々日辺りの筋肉痛が残ってて少し痛かった。“私”は最下位でバトンを貰って、最下位でバトンパス。

 ちなみに同じ別室の友達も少しの距離を走ったらしい。ただ、朝に皆で別室のホワイトボードに意気込みを書いた。その友達、とある事を書きフラグを立て、リレーの際、「しっかりフラグ回収したわ!」と言っていた。

 体育祭で1番面白かったのが、部活動リレー。柔道部は組み手をしながら(流石に投げたらしないけど)走り、途中にマットが用意されていて背負い投げを披露してくれた。剣道部は剣を交えながら。吹奏楽部は途中で楽器を吹く。美術部は描いた絵を持って走っていて、全員が走り終わり、持って走った絵を合わせると1つの絵になったりしていて、体育祭で“私”史上1番の興奮だった。友達2人も楽しんでた。ほんっとに楽しかった。ちょっと見るだけで(参加しなくて)いいからもう一度見たい!

 そして総合優勝はブロックごとなので“私”がいる青ブロック!

 後は何の話をしよう……?6、7月あんまり覚えてないかも。

 ああ、もう!分かんないからぶっ飛ばして秋でいいや!

 その頃には高校が決まっている子もいた。正直、早っ!?って思ったわ……。“私”の受験日は年明けだったし、別室にいる周りは、年明け前に高校が決まった人達と年明け後に試験がある人達。半々くらいだったと思う。

 10月(?)11月(?)あたりに文化祭があった。中学校生活最初で最後の文化祭。去年は展示のみやったらしい。

 今年の文化祭の内容は、ブロック対抗の学年別合唱、3学年の合唱、展示を昼休みやブロックの合唱の時に見たり、後は最初に生徒会オープニング、吹奏楽部演奏、最後の締めに生徒会エンディング。ちなみにオープニングとエンディングはちゃんと繋がっている話。

 面白かったのは生徒会劇。通っている中学校と有名な童話を混ぜたお話。とある部分で面白くて吹き出してしまった。面白い部分は他にも何箇所かあるけど。

 吹奏楽部の演奏では有名な曲何曲か奏でてくれた。そして最後の方、サプライズで3学年の担任の1人がヴァイオリンを持って吹奏楽部と共に演奏して大いに盛り上がった。

 次はクラスマッチ。クラスマッチで女子はバレーボールだった。元々、参加せずに観戦だけにしておこうと思ったのに。クラスの面々に流されて(気圧(けお)されて)参加する事に。

 準備運動の時、腕立て伏せがあった。入学してこのお方、体育の授業(そもそも授業自体)に参加した事はなかったし、体育祭の時も腕立て伏せとかやってなかったので今回だけかと思い、友達に聞くと普通だった。

 ただ、まだ他に2つあるらしく、バーピージャンプと腹筋だそうだ。次の日、左腕が筋肉痛になった。“私”は右利きなのでバレーボールのサーブが原因ではなく、腕立て伏せが原因か……、思った。

 全ての準備運動が終わった後、何故か「国歌斉唱!」と言われた。クラスの男子は胸に手を当てて斉唱していて(いつもはやってない)、それを見た女子が笑っていた。理由はその頃にサッカーの試合があってたからと、男子はサッカーの試合だという事が関係するかも。

 女子は屋内。男子は屋外なので、女子は自分の試合や審判係でなければ男子の試合を観戦する事ができた。ちなみに逆もあり。

 そして“私”が参加する試合。ルールも何も分からなかったが、クラスメイトはとりあえず「地面に落ちないように打てばいい!」と言われた。アンダーサーブでは居ても役立たずな“私”でもできた。相手が何故か返してこなくて得点になった時があったから。あれはホントに不思議だった。

 1日かけて、総当たりのクラスマッチなのでお昼はお弁当。一緒に食べたのはクラスメイトの2人で。1人は同じ小学校だったから名前は知ってるけど、もう1人は名前も知らない。クラスマッチの日は、ほぼほぼその子と一緒にいたかな。おっとりしてる子だった。卒業数日前に制服にある名前部分で知った。気まずい思いも特にする事なく、お昼休憩は終わった。

 午後もバレーボール。総当たりの試合。全クラスごとA、B、Cのチームに分かれて2クラスの対決につき3試合。

 例えば1組対2組だったらまずAチーム同士が試合。終わったらBチーム同士。次がCチーム同士。この3チームが終わったら次のクラスとまたA、B、Cチーム同士で戦うかコートの関係で審判とかを、というのを繰り返す。

 試合時間は多分、10〜15分間だったはず。コートは2つしかないので試合するのは常に4クラス。残りの2クラスは審判や記録係をする。と言ってもどの試合で誰が審判をやるというのを決めてあったので、審判などをやらない残りは男子の試合を観戦しに行ったり好きに過ごしていた。

 “私”が出た試合の合計は6。そう!“私”が出る予定の試合、全部出たのですよ!!その事を別室の先生に話したら驚かれました。

 中には人数合わせでAチームに出たけどCチームにも出る、という人もいた。

 さて、結果発表〜〜〜!!!

 結果は────────見事、“私”のクラスが優勝!と言っても男女別での順位分けなので1位なのは女子バレーボールだけだけど。男子サッカーは2位だったらしい。

 冬休みに入る前、学校から出される宿題をするのは無理だろうから、自分で中1を中心に宿題を作った。5教科の約90枚程。あ、ちゃんと冬休み中に終わらせたよ?

 さて年が明け3学期に。受験日がいよいよ近づいてきて、勉強や面接練習を頑張った。そして教頭先生直々に面接練習を。「特別支援学級の人達が教頭先生と面接をするので一緒にどうか?」と誘われたので、お願いした。

 試験日前日、帰る際に友達から受験頑張ってと言われて鬱陶(うっとう)しいと思う人もいるかもしれないけど、“私”にとっては勇気をもらえた。

 ちょっと飛ぶが合格発表!────合格です!!6限目までずぅっと合否が分からなくて「さっさと合否を教えろー!」と頭の中でぐるぐる毒吐いてた。合否は12時までには届くはずなので、12時過ぎたらさっきの言葉が何度も頭の中を反芻(はんすう)してた。さらに合格発表聞いて早く帰りたい、とも思った!

 1月の末、図書室の先生と語り合った。途中から同級生が来て、一緒に好きな本を思いっきり3人で語り合う。途中で同級生が叫び出したりしてビックリしたけど、それだけその本が好きなのが伝わってくる。時間はあっという間に過ぎてチャイムが鳴ってしまって終了してしまった。「またやりたい」と話しながら別室に戻った。

 2月はほぼ行けなくて、中学校生活の最後の2週間だけはしっかり行けた。遅刻・早退・欠席もせずに。“私”にとって、これは進歩。最後の方の午後まで(5、6時間授業が)ある日は昼休みに下級生も含めて皆でトランプのババ抜きをした。1番驚いたのが初っ端からから1枚になってしまって、引かれてお(しま)いだった。

 あとは図書室の先生含めての同級生6人で本の事を語り合った。これがまた盛り上がるの!!最後の語り合いだったけど。

 中学校生活最後の1週間は月曜日だけ5限目までの授業だった。近頃の中じゃ、1番ショックだったかも。

 残りの3限授業は、ほぼ学活で、卒業式練習、文集作り、アルバムや5年後の手紙を書いたり、大掃除とか何とか。

 大掃除、教室の扇風機をクラスメイトとやった。担任の先生が「行こうか」という事で。そのクラスメイトはクラスマッチで一緒の人達だったからそんなに緊張せずにできたと思う。と言っても必要最低限、話しかけられたら話して後は沈黙を貫いてたかも。ちなみに扇風機、案外汚れてたよ。たわしと洗剤を使ってやってて、水を含ませる為のバケツが汚かったから。

 卒業式も最後の学活も“私”は出ないつもり。卒業式は生徒会席の後ろに座る事に。

 卒業式練習、本番も出ないのでクラスの輪に入る必要は無いと思ってて、体育館の後ろで見てた。でも誰か分からない先生から強制的に入らせられそうになって、挙げ句の果てにクラスメイトを呼ばれた。

 結局、行かなかったので無駄足を踏ませてしまったので申し訳なかった。

 文集作りをしてる時、ファイルに閉じる為に穴に入れていたら、穴が合ってない!バラッバラッ!!なので閉じ終わった後、紙の端っこもバラッバラになっているので綺麗じゃなかった。クラスの何処(どこ)かから「穴が広がって破れたー!」って声も聞こえたよ。

 文集作りの時、クラスマッチで一緒にお弁当を食べた名前も分からなかった子に教えてもらいながら作っていった。2個作った。3個目に入っている人もいたけど。

 さてさて、卒業日前日、前々日は連続で予定が遅れた。前々日は4限の途中で終わったけど、前日は長引き過ぎて荷物取りに行って帰る為に別室戻ったら下級生、給食食べてたよ!!3限までの授業じゃなかったのかっ!?長引くのって卒業前の恒例行事なの?小学校の時はコロナで前日も前々日も無かったから分からない。

 前々日、先生達からのビデオが体育館で流れた。正直言って、よく会う先生(名前と顔が一致する先生)なら分かるけど、ほぼ分からない人ばかりだった。実を言うと、1、2年ほぼ学校に行ってないのと、3年で少しは行けたけど会う先生は限られるので、「顔は知ってても名前が分からない!」って先生がめっちゃいた。「この先生、誰?」っていうのがよくある。

 いよいよ最後の学校へ通う日。制服……は最後じゃない。入学説明会で制服だから。

 朝、別室に来ると“私”が最初だった。別室の人の内、4人は荷物を置いて教室へ。残っている4人は生徒会席の後ろで参加。

 体育館に入る為に廊下に並び始める際、クラスマッチや扇風機を掃除した時に一緒にいた女子が別室まで来て「一緒に行こう」と言ってくれて、体育館の入り口までクラスの人達と行った。

 国歌や卒業生の答辞、在校生の送辞。来賓の言葉や校長先生からの言葉。1番長かったのは卒業生の答辞だった。終わるか!?と思ったら終わらなかった。

 そして最後の校歌斉唱。“私”の通っている学校の校歌、5番まであるのだが、普段歌うのは1、3、5番のみで2、4番は3年後半で歌い始めたそう。それでうろ覚えなので本番、生徒手帳の校歌を見ながら歌っていいと許可が出ていた。

 そして式が始まる前の体育館に向かう際「生徒手帳持った?」と聞いていて「一緒に見させて」と言っていた。それを聞いて近くにいた先生が「自分で持ってこい」と言われていた。

 “私”、校歌、覚えてない。歌う機会がほぼ無かったから覚えてない。言い訳か?

 式が終わって体育館の外に出たら図書室の先生がいて「卒業おめでとう」と言ってくれた。4回目の語り合いができなくて残念!!

 別室に戻ってきて、卒業証書を貰う為に親を不本意ながら待っていて、学活が始まるので担任は教室か何処(どこ)かに行った後、校長先生が来て、校長先生直々に卒業証書を貰った。別室の先生は「ここの特権」と言っていた。

 最後の学活。参加するつもりは無かったけども、何もしないのを条件に朝、別室に迎えに来てくれのと同じ人に引っ張ってもらいながら教室に入った。

 “私”の席も分からないし、保護者で廊下も教室内もごっちゃごちゃだし。“私”が教室に入った数は両手で数えれる程だと思う。

 そして、最初で最後の学活が始まって、1人1人(ひとりひとり)担任から卒業証書を貰って1分スピーチを。全く1分じゃなかったけど。

 内容は「卒業おめでとうございます」だったり「成人した時にまた会いましょう」「ありがとうございました」そんな、それぞれのスピーチで。

 中でも印象に残ったのは「“幸”という漢字の逆と言えば“不幸”だったり“不運”だったりを思い浮かべるだろうが、“幸”という文字自体ををひっくり返しても“幸”になる」というスピーチだった。

 皆、ちゃんとスピーチの内容を書いた紙を見ながらが多かったけど「アドリブでいきます!」って言っていく人もいた。笑ったりして、“私”が座っていた場所の隣の席は、教室まで連れてきてくれた子がいて、前の子は出席番号が私の1つ前なのでクラスマッチの時によく接してくれた。

 先生からは、このクラスは最初は心配になるくらい大人しかったのに3日目ぐらいには“大人しい”の“お”の字も消え去ったという。

 そして喧嘩も多かったらしいし、次の日には何故か別の人と喧嘩している、という事もあったらしい。全く来なかった“私”は分からないけど周りが笑っていたので事実なんだと思った。

 その後、担任が編集したビデオを見て、担任と副担任にお礼や花束やらを渡して、全員で写真を撮って解散になった。

 別室に戻ると教室に行っていた人が戻ってきていて、他の人達も含めてスマホのQRコードを読み取って使うコミュニケーションツールのアプリを使って連絡先を交換した。

 卒業式の日、1、2年生も含めてのグループを作った。その日、コミュニケーションツールの通知音が凄かったという事をここに記しておこう。なんちゃってね……。

 この話は見てないだろうけれども。別室の、同級生の皆、卒業おめでとう。

 卒業してから別室の人達とは会ってない。打ち上げしたいと言っておきながらも予定が合わない……というか、1人から連絡が来なくて予定が合わせられない!

 そして、1、2年生とカラオケに行けるのはいつになるやら。


 こうして不登校の“私”の中学校生活が幕を閉じた──


 ◇◇◇


 ここまで読んで頂きありがとうございます。もう少しだけお付き合いくださると幸いです。

 皆様の周りに不登校の人はいましたか?

 この話をお読みになられて少しでも“私”が中学校生活を『楽しんでいた』という事実を知ってもらえたら。

 まず、今年度2023年3月に御卒業なさった皆様、卒業おめでとうござまいます。そして、入学を控えている方も多いでしょう。進級や入学も、おめでとうございます。

 日本には不登校の人が年々増えていると、前に見た事があります。実際、この別室には、サポート室には、3年生が1番多かったそうで。

 何故(なぜ)、学校に来ないのか。病気だったり、人が多いのが、心が学校に向かない、それで無理となったり、無理にでも頑張りすぎてしまって、と様々な理由で学校に行けないそうです。

 でも“私”は家に引き篭もっているよりも、こういうサポート室があって楽しかったから、毎日出席はカウントされるが授業に参加した事にはならないけど、同じ『不登校』という悩みを持つ人が出会うサポート室に行った。

 そして沢山(たくさん)の小・中学生と壁の隔てなく笑って、パワフルに過ごせている。敬語無しに明るく“私”らしく過ごせた。

 不登校だったからこそ、サポート室に行って友人の輪が広がったりした。それは“私”にとって嬉しかった事。そして運動して筋肉痛になると運動不足を痛感したらしい。

 中にはこのお話を読んで、「何言ってんだコイツ。()達は週5でちゃんと行っていたのにズルじゃね?」と、そう不満を思われた方もいるでしょう。ですがそれが不登校の人にとって恐怖だと思います。“私”にとって、教室に入る時も人目がとても気になったそうなのです。

 何か言われる事が、怖かったそうです。

 人目がこっちに向くだけで嫌になるそうです。

 新しいクラスになった時や何日も休んで学校に来た時とかに似ているかもしれませんね。

 「この気持ちを分かれ」とは言いませんが、少しだけ温かい目で見て頂けませんか?それか話しかけられた時、必要最低限(挨拶や立ち尽くしていたら、どうしたの?)だけ話しかけてるだけでもいいです。それでも不満があるなら無視して下さい。無理に話しかける必要はないです。


 そして、不登校だからといって中学校生活が『楽しくなかった』というのは間違いでもあり、正解でもあるかもしれません。当たり前ですが、私と“私”に人の真意は分かりません。

 そして不登校になってしまった理由はとてもデリケートです。自分から話してくれる人もいるだろうけど、ずっと、ずっと言わずに隠す人もいる。もしかしたら嘘の理由を言って本当の理由を隠すかもしれない。

 そして、陰キャなのか陽キャなのか見た目では判断できません。この話に出てくるフラグ回収をした子は普段は大人しい子です。ただ好きな本を語る時、こちらが驚く程の大声だし、物凄い興奮状態だったりして、大好きな漫画で登場人物が亡くなったりする話の時、情緒がとても不安定。そして話し上手で“私”はお腹が痛くなる程に笑ったそうです。語ってくれた話を聞いて私も大笑いました。

 勿論(もちろん)だけれど嫌な事も多々あった。だけど、少なくとも“私”は楽しかったそうです。3年生は、最後の方は特に。

 でも()せなかったのは卒業式の日、親に「写真を撮るな、何もするな」と言っていたのに写真&ビデオを撮られたのが1番嫌だったそうですよ。


 ◇不登校の、不登校だった、皆様へ(すっ飛ばしてもらって構いません)◇

 1つ好きな事(趣味)がありますか?得意分野を活かしながら学校を週1回でも10分だけでも、30分だけでも、放課後に先生に会いに行くだけいいので行ってみるのはどうですか?学校も無理なら陽の光を浴びて毎日、ラジオ体操でもしてみますか?

 でも、それができただけで進歩です!できたら目一杯(めいっぱい)自分を褒めて褒めて褒めまくって1日だけでも自分を甘やかしちゃえ!!だって“私”、学校に行った時、大体早退してましたもの。


 不登校だからって自分を卑下(ひげ)しないでくださいね。

 自分の人生、後悔しないように生きて下さい。(偉そうに聞こえたらごめんなさい)

 皆様の顔も名前も何もかも分かりません。私の提案は綺麗事かもしれません。ムカつく、逆にプレッシャーになると思います。なので聞かなくても構いませんし、実行しなくていいです。ご自分の体調や精神状態で自分なりに判断してみて下さい。無茶せずほどほどに楽しめば何とかなる!“私”はほどほどに楽しんだら何とかなりました。

 私は、“私”は、ただ『読んでくれた』という事実だけで嬉しく思います。


 ◇◇◇


 不登校だからといって無能じゃない。

 出来る事は沢山(たくさん)沢山(たくさん)あるわ!


 どうか、少しでも不登校の偏見が無くなりますように。

 最後までお読み頂きありがとうございました。

すみません。勢いで投稿したので誤字脱字があるかもしれません(一応確認しましたが)。あったら教えて下さい。

11,000文字以上の長いお話です。特に3年生部分が長かったですかね……。(だって“私”、3年生が1番覚えてるから)

こんなに長くなってしまったのに最後まで読んで頂き、本当に感謝で一杯ですし、嬉しいです。


またいつか、お会いできたら。

              香海 百合、“私”より


そうそう!高校生活が終わったらまた百合が“私”の3年間を書いてくれるかも!!よければ高校生活が終わる3年後まで待っててくれ!!りゅ、留年しなければ2026年の3月に卒業予定だから!留年しなければ……。

                    “私”より


追記:活動報告に“私”からの質問があるのでお時間あれば、読んでもらい質問に答えてもらえたら。

この作品だけは感想の制限は設けていません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ