Ep.2 眠りネズミと変わる世界 - 3
弓が事務所でグラビアの仕事を引き受けた翌日、牧野から届いた撮影スケジュールは数えて一週間後だった。
初めてのグラビア撮影ということもあり、ご飯くらいは減らしたほうが良いのだろうかと弓が食事制限を始める矢先、薫から「アタシ特製スペシャル配合のパーフェクトサプリよ。これさえ飲んでればなーんにも気にしなくていいわ」と渡された一週間分の怪しいサプリ。恐る恐る試した弓だったが、その効果は絶大で、いつもどおりの食生活だったにも関わらず肌ツヤは良くなり、身体も少し引き締まった。
――そして迎えた撮影当日の朝。
撮影場所の最寄り駅で牧野と集合した弓は、緊張した面持ちで歩みを進める。半歩先を先導しながら、「ちゃんと眠れましたか?」「楽しみですねー!」と話す牧野の表情もどこか固い。事務所にとっても初めての仕事であり、スポンサーがついた大切な仕事だということを改めて感じ、弓は気を引き締めた。
十分足らずで、撮影場所でもあるディアコーヒーの店舗前に到着する。都内でも特に広い敷地面積を持つ店舗は商業ビルの五階にあった。商業ビルの開店時刻は4時間後のため、付近の店舗に人影はない。入口でスマートフォンをいじっていた男性が弓と牧野に気づき、慌てて尻ポケットにスマートフォンをしまった。その様子を見て、弓が先行する。
「ギフトピュール所属「Knock2 Alice」の桜木弓です。本日はよろしくお願いします!」
「マネージャーの牧野です。よろしくお願いいたします」
「制作の佐々木です~。今日はよろしくお願いします!」
佐々木に案内され、弓はバックヤードに臨時で設置されたメイクルームへ向かう。オープン前の店内はほのかにコーヒーの香りがした。
「!」
「オッハヨー! 弓ちゃん!」
弓がメイクルームに入ると見知った顔が待っていた。
「今日のメイクさんって愛さんだったんですね!」
「そー! 私も昨日知ったのよ~! 弓ちゃん初グラビアでしょ? もうめちゃくちゃかわいくしてあげるから任せなさい!」
「今日もよろしくお願いします~」
「あっはは! 任せなさいな! 緊張も顔の筋肉もゴリゴリにほぐしてあげるわ! って、なーに、この肌! ツッヤツヤ!! コンディションバッチリじゃないの!」
「社長のおかげで……」
「薫ちゃんの仕業か~! 相変わらず謎が多いやつだわ……そろそろ『魔女になったのよ~』って言われても信じるもの……」
ぐりぐりと弓の顔をマッサージしながら、愛は話を続けた。薫が現役でアイドルをしていた頃からの仕事仲間である愛は、薫の良き友人でもある。髪をひとまとめにし、頭の高い位置でお団子をつくるヘアスタイルが人好きのする朗らかな笑顔に良く映える。ノクアリの現場に携わることも多く、弓をはじめとしたメンバーたちに慕われていた。
(もしかして、社長なりに気を遣って愛さんにお願いしてくれたのかな)
そう自分のなかで紐づけ、弓は愛にメイクを任せる。
「今日はナチュラルめにってオーダー受けてるんだけど、それで大丈夫?」
「はい、お任せします。あ、でも……」
「ん、いつものやつね~。おけおけ。まあ、弓ちゃんは元がいいから気にしなくてもいいと思うんだけど」
「一応、お色気担当……なので。気持ちの問題なところがあるのは否めませんが」
「ううん! 弓ちゃんのモチベが一番大事だから! 本日も綺麗目仕上げ。承りました! あ、そうそう新作のブラウンのシャドウがいい感じなのよ。これとこれ。今日の撮影に合うと思うのよね~」
軽快なトークをしながらも、丁寧に。愛の仕事は彼女のプライドが詰まっている。鏡越しに徐々に完成する桜木弓を見ながら弓は気を引き締めた。
◇
「わー! 弓ちゃんめちゃくちゃ可愛いですね! 衣装もよく似合ってます!」
両手を叩き絶賛する牧野の前で、弓はあはは……と照れ笑いを浮かべている。
用意された衣装は上から、黒色をベースに小さなねずみの耳がついたフリルタイのヘッドドレス・黒いリボンが付いた丸襟タイプのつけ襟・黒いビキニの上下(細紐)・シンプルな白の付け袖・白のサロンエプロン・二―ハイソックス・ローファー……そして、胸元には【ディアコーヒー】のロゴを模したタトゥシールが貼られていた。事前に資料として写真を見ていたが、実際に着てみると色々すごいなと弓は思った。
「うんうん。サイズ感もばっちりですね。えっちすぎず、弓ちゃんの魅力がちゃんと出てます!」
「やー、この可愛い子のメイクは私なのかぁ! すっごくいい!」
「はぁ……っ! 桜木弓ソロで堂々グラビアデビュー! 最高です!」
やんややんやと褒め続ける牧野と愛にとうとう弓が音をあげた。
「お二人とも……そろそろ恥ずかしいです」
「そうですか⁉ まだまだ褒めたりないところですけど……撮影も始まりますもんね! 仕方ありません……行きましょう!」
ブランケットを羽織り、牧野の先導のもと撮影場所へ向かう。といっても、店内中央に作られているのでさしたる距離ではない。
「佐々木さん、桜木準備できました」
「わー! 時間ぴったりですね! 助かります!」
ハキハキと取り仕切る佐々木に弓は一歩歩み寄った。
「改めて、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。 桜木さん入られます!」
よろしくおねがいしまーすという声があちらこちらで飛び交う。弓も指定された場所に座り、説明を聞き始めた。
「では説明させていただきますね。今回は中学館さんのヤングパンプの巻頭グラビアにディアコーヒーさんがスポンサーとしてつくかたちになります。桜木さんにはヤングパンプ読者にディアコーヒーさんの魅力を伝えていただきたくオファーさせていただきました」
「光栄です」
「趣旨としては、衣装がメイドライクなこともあり『弓もお仕事頑張ります!』『こっそりコーヒー飲んじゃお…♪』『弓とコーヒー、どっちが好き?』というようなカットを撮影できればと思っております」
イメージカットを織り交ぜて、説明が続く。
「……以上になります。ご不明な点はありましたか?」
改めて手元の資料を確認し、弓は頷いた。
「大丈夫です。ご説明ありがとうございます」
「では、準備でき次第すぐに撮影開始となります!」
資料をトントンと机で叩いてまとめ、席を立つ佐々木を見送った弓は頭の中を整理した。
(大丈夫、大丈夫。どのカットも桜木弓のイメージができる)
桜木弓としての大仕事を必ず成功させる。絶対に。弓は誰にも見えないようにぎゅっと拳を握りしめた。
◇
そして始まった撮影は順調そのものだった。
「……弓ちゃん、今日はいつにも増して色っぽいわね」
ゴクリ、愛は思わず唾を飲んでしまう。様々な撮影に仕事柄立ち会っているが、今日の弓は目を見張るものがあった。
そこに撮影の邪魔にならないよう小声で、それでいて熱の入った牧野の声が続いた。
「ええ、本当に……初めてのグラビアなのに、かわいいカット・クールなカット……それだけじゃない。魅力的な身体のラインの見せ方まで。きっとすごく研究してきてくれたんですね」
「薫ちゃんの喜ぶ姿が目に浮かぶわ……コレ、発売されたら弓ちゃん忙しくなるでしょうね」
「グループ活動もありますし無理はさせられませんけど……もしかしますね……!」
カシャ カシャ
シャッターを切る音が店内に響く。
首を傾げて上目遣いで切なげな表情を浮かべたかと思えば、腕をぎゅっと寄せ悪戯っぽく笑みを浮かべてスポンサーロゴの刻まれた胸元をあくまでも上品にアピールする。コーヒーを隠し飲みする仕草もきゅっと添えた唇と伏した目の塩梅が完璧だった。
(うん、いいかんじな気がする。)
弓自身も周りの視線や撮影のスムーズさから手応えを感じていた。
「弓ちゃん、次はカメラをじっと見つめて……うん。いいね」
カシャ
「で、少し視線を外す。そう」
カシャ
「よし、じゃあこの角度であと五枚」
カシャ カシャ カシャ カシャ カシャ
「ん、いいね! すっごくいい!」
「……ありがとうございます!」
カメラマンの称賛に、弓は照れながらも言葉を返した。
撮影資料を確認しながらカメラマンは続ける。
「初めてだとみんなもう少し緊張するんだけど、弓ちゃんは弓ちゃんの見せ方を分かってるね……っと、もう次が最後のカットか。順調も順調、いいことづくめだ。じゃあ照明を動かしたりセッティングがあるから、その間弓ちゃんは休んでて」
弓は言われるまま、その場を離れた。休憩にと用意されている場所には簡単なお菓子や飲み物といったケータリングも用意されていた。保温ポットの中に入っているのはコーヒーだろうか、と弓は思う。何か飲もうかなと悩んでいるとそこに牧野が近づいてきた。
「弓ちゃん、絶好調ですね! 撮影中も愛さんと二人で大絶賛でしたよ! 今から完成が楽しみです!」
「私もすごく楽しいです。牧野さん、素敵なお仕事ありがとうございます。」
「弓ちゃんなら大丈夫って思ってましたが想像以上で……! 社長にも何枚か撮影中の写真を送ったんですけど喜んでましたよ~!」
そう言って牧野がポケットからスマートフォンを取り出し、トントンと画面をタップする。弓は表示されたメッセージアプリのトーク画面を見せてもらってホッと胸を撫で下ろした。
〈あら、初めてにしては中々じゃない。やっぱり私の目に狂いはなかったわね〉
スポンサーがついているだけでなく薫が推した仕事ということもあり、プレッシャーを感じていた弓だったが当の薫もこの反応ならば間違いはなかったのだろう。
(よかった。桜木弓のグラビアはこれで正解だった)
ゆるみそうになる頬を慌てて引き締める。まだ撮影は終わっていないのだ。
「牧野さん、最後の撮影ってコーヒーに嫉妬する女の子……ですよね」
「えっと……はい。そうですね。サンプルの煽りは『私とコーヒー、どっちが好きなの?』なので」
(……難しい、な)
資料を確認する牧野とセッティングされる撮影場所をそれぞれ確認し、弓は思考を巡らせた。
(撮影はカフェのカウンター。私はカウンター裏でカメラマンがお客さんの位置を取る……。コーヒーを美味しそうに飲むお客さんに想いを寄せる弓はこっちを見てよ、と拗ねた顔をして……ううん、これだとコーヒーを下げてしまうかな……)
コーヒーも弓もどちらも等しく魅力的に映らなければならない。スポンサーグラビアとしての正解と桜木弓としての正解をシミュレーションする。
(弓がコーヒーを差し出す……うーん、ちょっと違うかな……顔の横に持ってきて、困ったようにはにかむ。あ、うん。いいかも。さっきまでホットコーヒーと撮ってたから、アイスコーヒーにしてもらって。カップとグラスで差も出るし。結露しないようにだけ注意すれば大丈夫そう)
ふん、ふん、と頭の中を整理して牧野に伝える。
「あの、牧野さん。私なりに考えたんですけど……」
「……なるほど。素敵だと思います! アイスコーヒーがすぐに用意できるか、ちょっと佐々木さんにお話してきますね」
弓は小走りで佐々木の元へ行く牧野を見送る。そして、自分の提案したシチュエーションを脳内の桜木弓に演じさせる。視線の動かし方にはじまり、指の角度、髪の流れに至るまで計算する。桜木弓らしさを体現するために――
「桜木さん! 準備できました。お待たせしてすみません。先ほど、牧野さんから桜木さんのご提案を伺ったのですが、ぜひそれでいかせてください! カメラマンとも共有済みです!」
「よかったです」
弓はそう言いながら席を立ち、佐々木と共にカウンターへ向かった。ライトスタンドやコードを避けて指示された場所につく。カメラマンと二言三言交わして撮影の方向性を固める。バストアップで、俯瞰気味で、そうこう話している間にアシスタントが小道具であるアイスコーヒーを弓に手渡しに来る。弓と同じように障害物を避けようとしたとき、足を配線に引っ掛けてしまった。ゆるく張られたコードはアシスタントのつま先を捉え、そして――
パシャッ
「あ……」
シン……現場の空気が凍る。そして次に聞こえたのは、アシスタントを筆頭にその場に居合わせた人間たちの慌てふためく声と弓への謝罪だった。
弓の胸元から腹部にかけてアイスコーヒーが滴り落ち、細かく砕かれた氷がふんわりと膨らむ谷間に挟まれ、白いエプロンドレスには茶色の染みが広がっていた。洗濯では落ちそうにもない汚れである。
「す、すみません!!!! あ、えと、タオル! タオルをお持ちします」
「ったく、何やってんだ!」
「桜木さん、すみません! 衣装の替えをご用意するので、しばらく待機していただいてもいいですか?」
「メイクも直したほうが良さそうね。先にメイクルームに……」
焦り、怒声、気遣い、様々な声が飛び交う中、渦中の弓は冷静だった。
(これは、逆に……でも、コンセプトとズレないかな)
彼女の中の桜木弓が扉を叩いている。
(うん……うん、桜木弓ならきっと、きっとそうする)
そして、騒然とする現場に対し彼女は口を開いた。
「あの……このまま撮影することは、可能ですか?」