Ep.2 眠りネズミと変わる世界 - 2
弓と栞が出会ったのは、高校2年生の夏休み。長期休暇も折り返しという頃。親の仕事の都合で郊外に引っ越してきた弓は、日が暮れて涼しくなると見知らぬ街を一人で彷徨い歩いた。
その日も変わらず、一人で街を見ていた。見知らぬ路地を行けば新しい景色と出会う。サンダルの裏に感じる昼の陽射しの名残を踏み消すように、夕陽の落とす影が夜の闇に隠れてしまうまで。そして何度目かのレンガブロックの迷路を抜け、次に足を踏み出すのは右か左かと視線を彷徨わせた先に彼女はいた。
彼女は朱色の鳥居に向かって伸びる階段に腰かけ、チカチカと光始めた頼りない街灯に目もくれず、ぼんやりと朱色に染まる空を眺めていた。ほんのりとあどけなさの残る横顔が湛えるのは哀愁、否、それとも別のものか。その姿に迷い子のような己の姿を重ね、弓はそっと近づいた。
「こんばんは」
「!」
ビクリと体を跳ねさせ、振り向いた少女は訝し気な表情を浮かべていた。
「となり、いい?」
「……。どうぞ」
二メートルもない、狭い石造りの階段。弓は僅かなスペースを空けて少女の隣に座った。そして、じっと見つめる。鎖骨の辺りまで伸ばされた茶髪は、癖なのか緩く内側を向き、落とされた視線を縁取るまつ毛がぱちりぱちりと上下する。一番上のボタンを一つ外した半袖のシャツを引き締める赤色のネクタイが呼吸するたび微かに揺れる。会話などない。ただ、弓が見つめるだけ。遠くで鳴くセミの声が、沈黙を彩っている。そんな時間に耐えきれなくなったのは見られ続けた被害者のほうだった。
「……楽しい?」
弓のほうを見るでもなく、ただ虚空に投げ込むように発されたのは純粋な疑問。
「そんなに面白い顔じゃないと思うんだけどな。わたし」
「うん、面白くはない。でも気になる、かな」
「初めて会ったのに?」
「初めて会ったからだよ」
「ふーん」
にこり、微笑む弓を一瞥して彼女はネクタイを緩める。日中と比較すれば涼しいとはいえ、いまだ夏の盛り。時折吹く風が与える清涼感など微々たるもので、通気性の悪いシャツはじとりと肌にはりつく。弓の首筋にも汗がにじんでいたのだが、不思議と不快ではなかった。
弓は彼女の横顔に話しかける。
「私ね、最近ここに越してきたの。秋から近くの高校に編入するんだ」
「近く……? それって折山東?」
「うん。二年生」
弓はブイと二をかたどった指を差し出し、少女の目前でチョキチョキとゆっくり動かした。
「……ふーん」
不自然な沈黙のあと、少女はフイと顔を背けた。
「もしかして、あなたも?」
「さあ、それはどうかなぁ」
「……いけず。教えてくれてもいいのに」
「秋になったら分かるじゃん」
むうっと頬を膨らませる弓を楽し気に見つめる瞳。気づけば弓の唇は言葉を紡いでいた。
「それは秋になるまで、もう会えないってこと?」
会いたい、という意味を弓はその問いかけに多分に込めた。それは、目の前の彼女に惹かれたから。どうしてなのかはまだ弓にも分からない。けど、会いたいという気持ちに対する理由はそれだけで十分だった。弓は半身だけ体を寄せ、もう一度問う。
「もう……会えない……?」
また、会いたい。
先刻の会話からして恐らく彼女とは同じ学校なのだろうと弓は思う。けれど、同じ学校だからと行って必ず会えるわけではない。それが目の前の彼女ならなおさら。野良猫のようにするりと逃げられてしまいそうだった。階段についた手をぎゅっと握る。砂利が指に触れて少し痛んだ。
「……名前」
「え?」
「名前、教えてよ」
そう言って弓を見つめる瞳に滲む薄墨のような憂いに、弓の心臓はトクリと跳ねる。
「……桜木、弓」
「字は?」
「桜の木に弓引くで、桜木弓」
「……弓?」
弓の顔を覗き込むようにして名前を呼ぶ。トクン、トクン。胸が跳ねる。
「そういうあなたは?」
「佐久間栞。えっと……あー、三文字の佐久間、分かる? それに本に挟む栞」
「しおり……栞。いい名前ね」
「本を読むのが好きなわけじゃないから。宝の持ち腐れみたいなもんだけど」
そう言って、ばつが悪そうに頬をかく栞の姿がなんだかかわいく見えて弓は笑った。
「ふふ、これから読めばいいじゃない」
「どうかなぁ……」
会話が途切れ、栞は自身の膝を土台にして頬杖をついた。先程よりも柔らかな表情の横顔に弓の頬はゆるむ。互いの名前を知っただけ……けれど確かに近づいた距離。セミの声もいつしか消え、二人の微かな息遣いだけがこの場にあった。
栞がポツリと呟く。
「……このくらいの時間なら明日も明後日もここにいるから」
風が栞の髪をさらりと揺らした。それを押えながら、栞は弓の方へ顔を向ける。
「来たいならおいで。物好き」
つっけんどんな言葉使いながら優しく細められた瞳、それは――またおいで。と弓に訴えるようだった。
「うん」
胸に浮かび上がるあたたかな気持ちを噛みしめるように、弓は応える。
「また、明日。また明日来てもいい?」
栞はフッと笑った。
「いーよ」
――これが二人の出会い。彼女にとって大切な思い出の始まりだった。
夏が終わりを迎えるまで続いた逢瀬。
固い石造りの階段は長く座ることに向いていない。ともすれば、くすんだ星空と夏の終わりの匂いは心をざわつかせる。けれど、寂しがりたちはお互いにその胸に抱く気持ちを持て余すように、それでいて、不思議な心地よさに浸るようにこの場所に足を運んだのだった。