EP.1 眠りネズミの微睡み - 3
「ソーシャルネットワークサービスの一斉凍結から三年、社会……主にインターネットの世界は驚くほど変化しました――」
淡々とした低い声が教室に響く。弓は教科書を開きつつ、前の生徒から回されてきたプリントを後ろに座る生徒に渡した。その間も教授は年季の入ったスクリーンにスライドを表示させながら話を続けている。
インターネット史と題されるこの講義は、全学部生の必修講義だ。履修生徒が多いため複数コマ用意されている特別な授業で、弓が履修しているこのコマはインターネット史B。月曜2限である。
「およそ十年前から、動画配信者・インフルエンサーといった存在が爆発的に増えました。これは別に悪いことではありませんでした。表現の自由がインターネットという場を通して行使された結果であり、様々なタレントが現れました。あ、これは才能という意味のタレントと芸能人という意味のタレント。ダブルミーニングです。ふふ。ゴホン……しかし、それは一般人と芸能人の境界線がほとんどなくなるということでもありました」
月曜午前の講義ということもあり、教授のボケに対しての反応は薄い。
(……いや、時間は関係ないか)
と、弓は一人納得して、講義の内容に集中する。
教授が話す全盛期と呼ばれる時期、彼女は中学生だった。動画配信をするクラスメイトや、昨日バズっちゃってさなんて自慢をしている人も身近にいた。しかし。
「悲しいことに、ネット上では匿名による誹謗中傷・殺害予告・盗撮動画などの悪意が蔓延し、情報社会は混沌を極めました。誰もが触れることのできたインターネットはリテラシーとモラルの低下から、どんどん攻撃的な場所に変化してしまったのです。どのような事件が起きたかは配布したプリントを参照してください。中には、痛ましいものもありました」
教室の空気が揺れる。記載されている事件の数は抜粋にしても膨大だった。それは弓の記憶に新しいものから、当時は報道されなかったものまで様々であり、中には生死に関わるものもあった。
「そうして発生した諸問題を解決するべく大規模なSNPが設立されました。しかし、圧倒的な数の差に対処が追いつきませんでした。当時のニュース番組の資料映像がありますので、見てください」
教室の明かりが落ちる。
流された動画は十分にも満たないものだった。しかし、様々なニュース番組が代わる代わる映し出されるのにそのどれもがインターネット犯罪について論ずる内容ばかりであった。異様で気味が悪い。生徒のほとんどが程度の差こそあれ不快だと感じていた。例に漏れず弓もである。
(そういえば、あの頃もこれが嫌でテレビつけるのやめちゃったな)
明かりが戻ってもなお重い空気の中、教授が再び口を開く。
「これはTVの報道ですが、実際は様々なメディアがこの問題に対して意見していました。結果、日本国内においてSNSを半永久的に凍結することになります。表現の自由の一部を歪める策ではありましたが、他者の人権を害してはならないという項目に大きく関係があるとしての結果です。ここから先は、皆さんもよく知っているだろうと思います」
――SNSの半永久凍結
三年前から今日まで日本の人々はネットワークでのつながりというものをほぼ断絶させられている。英断であり、衰退だ。世界各国から様々な意見が飛んだ決定は、確かにその言葉の通りであった。インターネットをきっかけとした犯罪事件は一気に数を減らすことになったが、突然インターネットという生活の一部を絶たれた人々からの不平不満は相当なもので、最終的に国政にまで影響を及ぼそうとするほどとなる。そこで政府はSNSを全面的に禁ずるのではなく、新たに【オフィシャレート】【アノニマス】という国内に限った二つのサービスの運営を開始した――教授の言葉と自分の記憶を擦り合わせつつ、弓はプリントの図を見る。
【オフィシャレート】超大型情報サービス・各公式アカウントのフォローが可能
【アノニマス】匿名完全主義総合掲示板(要本人確認)
「この二つのサービスには高性能トップダウン型AIが組み込まれていて、AIによる投稿内容の自動検閲が必須になりました。また、AIで判断できない点に関してはSNPの検閲が入りますね。アカウントの作成にも個人情報・本人確認が必要ですし、問題が確認されると瞬時に凍結されて以後利用禁止という厳しさ……まあ、この辺りは皆さん利用しているでしょうし、身に染みて分かっていますよね」
ぽりぽり、こめかみを指でかきながら教授は話し続ける。
「講義なので簡単に説明しますと、オフィシャレートは大型の情報サービスです。過去のサービスでいうところのTwitterやインスタグラムといったものを参考に開発されています。しかし、個人アカウントの作成は不可。公式に認められたアカウントのみ登録が許されています。しかし、情報を手軽に得るという面では大変便利ですね。気象庁公式アカウントで天気、各種レストランなどの公式アカウントからはクーポンが発券されるなど……使用者は国民の九割越えと言われています」
「そして、アノニマスは匿名の総合掲示板サービスなのですが、利用するにあたって厳しい本人確認があります。過去にインターネット上でのトラブル履歴などがあるとアカウントの作成も不可能です。AIの検閲はとても厳しく、誹謗中傷などは書き込まれてから平均0.1秒で削除されています。リスク回避の徹底により成立しているサービスといえるでしょう。えー、このように現在はとても平和と言えるインターネットサービスなのですが、SNS半永久凍結によって、一部の職業は立ち行かなくなりました……」
そう、この厳しすぎるともいえる管理によって、当時SNSを大々的に利用していたエンタメ業界――なかでも“アイドル”という職業に関わる人々は大打撃を受けることになった。地下アイドルと呼ばれていたインディーズアイドルは検閲や情報拡散能力の低下からほぼ壊滅状態となり、メジャーで活動していたアイドルすらも時代の変化から運営が成り立たず、著しく数を減らすことになったのだった。
◇
「さ、さくちゃん! 昨日の配信もすっっっっごく素敵だった!」
インターネット史Bの講義が終わり、学生は昼休みを迎える。各々席から立ち上がり、ぞろぞろと数か所用意された出口に向かう生徒の波が落ち着くのを待っているとき、桜木弓は二人組の女子に横から声をかけられた。
「ノクアリちゃんやっぱりすごくかわいくて、目が離せない!目が足りないー!」
「同じ大学で、同じ学部で、一緒の授業を受けてるさくちゃんが桜木弓だなんて……今でも夢を見てるんじゃないかなって思う……」
「ほんとそれ! こうやって直で感想言えるのやっばいよね! さくちゃんが弓ちゃん! まじでリアルラック天元突破してる~!」
声をかけてきたのは弓と入学時から面識のある二人。元々アイドルは好きだったらしいのだが、弓がノクアリのメンバーとしてデビューしてからというもの、それはもう熱心に応援してくれている。
「はは、いつもありがとう。」
けれど、弓はこうして面と向かって好意を向けられることに未だに慣れないでいた。苦笑いを浮かべながらも、自然と目の前の二人が見ている桜木弓の姿を探る。
「生で見たいんだけど、ほんとにチケットが取れなくて……。弓ちゃ~んってコーレスしたいよー!」
「わかるっ! 弓ちゃーん!」
「いや目の前にいるんだけどね! 弓ちゃんいるんだけどね! でもそれとこれとは別なの……ッ」
「……二人はずっとさくちゃんって呼んでくれてたから、弓ちゃんって呼ばれるのは変なかんじだなぁ。」
弓がそう返すと、
「うーん、でももう自然と出てくるよね!」
「さくちゃんは弓ちゃんだから!」
「何当たり前のこと言ってんの! さくちゃんは弓ちゃん!」
「でもやっぱりさくちゃんなんだよね! っふ、あはは!」
と、ケラケラ楽しそうに話す二人。その姿を見て、弓の胸はチクリと痛んだ。刺された箇所からじわじわと鈍い痛みが広がっていく。弓はその痛みをごまかすように微笑み、そして申し訳なさそうに眉毛を下げた。
「……あ、私このあと行くところがあって……ごめんね。急がなきゃ」
別にどこに向かうと決めているわけではない。けれど、なんだか今日は少し逃げたい気持ちだった。講義の内容が重く、気持ちがやや沈んでいたことも原因かもしれない。弓はもっともらしい理由をつかって輪を抜け出す。
そかそかまたね~と手を振る二人に手を振り返し、弓は小走りで人波が引いた出口から校舎の外へ向かった。息をするために。
◇
それはある日の夕暮れ時。なにがあった日かなんて記憶にない、ありきたりな放課後。
『ねぇ、もし本当にSNSがなくなったらどうする?』
『どしたの急に』
突拍子もない質問はきっと信頼と親愛の表れ。
『最近よく聞くでしょ? だから、どうするかなって』
『どうもこうもしないよ。元々そんなに興味もないし……』
『ないし……?』
『私たちはこうして会えるんだから、関係もないと思うなぁ』
そう言って彼女は手を伸ばす。触れた頬はじんわりと温かくて気持ちが良い。
『ん……』
触れられた彼女もまた目を細めて掌に擦り寄る。まるで猫のようなその姿に思わず跳ねる胸は恋のリズムを奏でている。
『……ねえ、栞は私といると幸せ?』
教室の片隅。時折カーテンがふわりと揺れる。二人だけの世界はあまりにも甘い。
『幸せ。弓といる時、私は私でいられる』
そうして頬に触れていた手は徐々に下がる。遮るように動いた手は搦め取られ、そして――
「……はぁ」
溜息。今もこうして思い出してしまう日々は、弓にとってまるで砂糖菓子のようだった。
また溜息をつきそうになったので、ふるふると頭を振り、思考を切り替える。
校舎の裏、申し訳程度に作られた中庭のベンチに腰かけて、持っていた紙袋を開ける。中に入っているのはハムサンド・レーズンバゲット・カスタードパイ。どうやら今日は甘めの構成のようだ。7号館校舎の前、毎週月・水・金にやってくるパンの販売車で売られている三百円の詰め合わせ袋である。教室から抜け出したあと、この場所にくるまでに購入したものだった。
持ち歩いているウェットティッシュで手を拭いたあと、控え目に手を合わせて弓はちいさく呟いた。
「いただきます」
もぐり。ハムサンドを一口。ふんわりとした食パンの優しい甘さとハムの塩気、レタスのしゃきしゃき感が心地良い。そして、一緒に購入した紙パックのコーヒー牛乳にストローを刺して、それもまた一口。じわりと広がる甘さと午前の講義が終わった解放感も相まって、やっと一息つけた気がした。
(――そういえば、よくいちごミルク飲んでたな)
弓の脳裏によぎるのは、過去に昼休みを共にしていた相手の好み。
「……っ……はーぁ、今日はよく思い出すなぁ」
数秒前に飲んだコーヒー牛乳の苦みが嫌な感じでリフレインする。上書きするように食んだハムサンドもさっきより味気なく感じ、弓はたまらず上を向いた。生い茂る葉の隙間、ざくざくと切り取られた空は抜けるような青。行儀が悪いのは承知の上でハムサンドを咥えたまま、彼女はカバンからスマートフォンを取り出した。
カシャ
緑を避けて、青だけを切り取る。
スマートフォンの画面いっぱいに映る青は、絵の具をといた色水のようでなんだか懐かしい気持ちがした。最後に絵の具を使ったのはいつだったっけ、と弓は思った。ハムサンドを食べながら一瞬思い出そうとしたけれど、すぐにやめる。別にそこまで気になることでもないからだ。スマートフォンのカメラ画面を終了し、慣れた手つきでアプリを起動する。さっきの講義でも説明されていた【オフィシャレート】は、SNS全盛期に流行っていたネットワークサービス――ツイッターと呼ばれていた――世界中の人々が短文を投稿するサービスのデザインを元に作られている。そして、大まかなシステムも似ている。
タイムラインを更新すると、新しい投稿が数件表示される。そもそも彼女がフォローしているのは【Knock2 Alice】のアカウントとその他数個しかないのだが。
「ライブのお知らせ、出演情報……ああ、この前収録したやつは今日、か。録画するの忘れちゃったな」
しまった。と顔を歪める。
(ま、梓あたりが録画してるだろうし、今日会ったら聞いてみよ。見逃し配信とかあれば、そっちのほうが楽なんだけど……)
頼れるメンバーの存在を思い出し、とりあえず事なきを得る。スマートフォンをスリープモードにし、ハムサンドの最後のひとかけを口に放る。そして、サンドイッチを包んでいたビニールをコンパクトに畳み、もう一つくらいは食べられそうだと弓はパンの入った紙袋を手に取ろうとした。しかし、そこであるものを思い出す。
(そうだ。お手紙来てたんだ)
カバンの中から一通の便せんを取り出す。
差出人の名前は〈ゆかり〉
【ミーツ・レター】と呼ばれる手紙だ。
【アノニマス】のアカウントを利用した匿名の手紙交換サービス。どのような話題の文通がしたいのかソートすることで文通相手をマッチングできるという郵便局が開始したこのサービスは一躍ブームとなった――どうやら、インターネット上での交流が断たれた人間はアナログに回帰するらしい。アノニマスアカウントと紐づけられているため、トラブルがあれば本人情報が開示される。加えて、文通相手がミスマッチだった場合もすぐにキャンセルが可能なためサービス開始から二年が経つ今もなお利用者は多い。
〈さくちゃんへ
こんにちは。お元気ですか?先日、お仕事がお休みだったのでクッキーを焼きました……?〉
(……? ハテナ……?)
?の意味が分からず誤字かと思った弓だったが、同封されていた写真を見て納得した。
「これは……すっごい不器用……」
少々不格好なクッキーは、恐らく星の形になるはずだったのだろう。ところどころひび割れ、形の歪んだそれはヒトデのように見えた。けれど、その写真の奥に〈ゆかり〉の悪戦苦闘……そしてなんだかんだ楽しかったのだという様子が見えた気がして弓の心は思わず和む。会ったことも喋ったこともない――そしてこれから会うことも喋ることもない存在。
しかし、弓はかれこれ〈ゆかり〉とのミート・レターを半年続けている。ゆかりちゃん、などと呼んだりして。どこか安らぎを与えてくれるような手紙を好ましいと思っていた。けど、この感覚は……あの子と過ごしていた時間に近いものだな、と感じる自分がいることもまた彼女は分かっていた。
――いけない。一人になると、どうしたって考えてしまう。ふるふると頭を左右に振って弓は思考を切り替える。手に持っていた手紙はそっとカバンにしまった。続きはまた時間がある時に読めばいいのだから。
そして、時間を確認するためスマートフォンの画面に触れる。もうすぐ昼休みが終わる時間だった。新着メッセージなどがないことを確認して弓はスマートフォンの画面を落とした。そして、真っ暗な画面に反射する自分の顔をじっと見つめ、思いっきりカバンの中へ投げ込んだ。