EP.1 眠りネズミの微睡み - 1
幕が上がる直前。視界いっぱいに虚空にも似た暗闇が広がる。この瞬間、彼女の胸を占める感情は高揚でも緊張でもない。恐怖だ。ただ漠然と“怖い”のだ。
セットリストの一曲目、最初のフォーメーションの位置で呼吸を整える。1と2のバミリの間にある1.5は彼女の目の前だ。場所が視認できているのはうすぼんやりとでも明かりがあるから……そう頭で理解していてもこの幕裏は彼女にとって暗闇だった。
ひどく静かな場所にいるような気持ちとは裏腹にOver Tureが盛り上がっていく、それに呼応するように一枚の幕を挟んだ会場が熱気で満ちていく。聞こえる歓声に耳を傾けながら、彼女はふと思った。
――どうしてこの場に立っているのか。
それは……求められているから。
そうあることを、“アイドル”であることを。
それは、誰が?
誰だろう。
わたしなのか。わたしじゃないのか。
わたしじゃなかったら、誰が求めているんだろう。
ファン? メンバー?
求められるって……
《幕、上がります。十秒前……》
インカム越しに聞こえる女性スタッフの声にハッとする。彼女は詰まった息をそっと吐き出して瞼を閉じた。そのまま、もう一度息を吸って、吐く。ゆっくりと自分のなかで感情を現実とリンクさせていく。アイドルとして、あるために。最後に瞼を開いて自身の衣装を目に焼き付ける――この紫の衣装が、己の責任なのだと。
カウントダウンに合わせてOver Tureが最大音量に達し、緞帳が上がる。その瞬間、待ちきれなかったとばかりに抑え込んでいた熱が決壊してなだれ込んでくる。すでにピークなのではないかと錯覚するほどの熱量に対し、努めて上品に彼女の隣にいる赤い女が口を開く。
「……【Knock2(ノックノック) Alice】に迷い込む準備はできていて?」
赤い衣装を翻し、レッドブラウンに染めた髪をふわりと靡かせて、ステージの真ん中で問いかける。待っていましたといわんばかりに叫び声をあげる会場を満足そうににんまりと見回す彼女はまるで女王様だ。今しかないというタイミングで一曲目のイントロが流れ出し、会場が呼応するように揺れる。紫の彼女もステップを踏みながらフォーメーションを移動する。その目に映るのは、赤・青・黄・緑……紫。
いつもと同じ、五色に輝く客席。紫に光る場所があることを確認して安堵する。よかった、ここにいていい。ここにいることを求められている。なら、意味がある。
紫の衣装を身に纏い、蠱惑的に微笑みながら彼女――桜木弓はそっと胸を撫で下ろした。
◇
「今日のライブもちょーーーう楽しかった~! 新曲サプライズも大成功で、一安心だよー!」
「ふふ、双葉ちゃんはライブの宣伝に行くたび『見どころは?』って聞かれて、いつもわたわたしてましたから~。そこもまたかわいくてヨシでしたけども」
黄色の衣装を脱ぎながら情けない声を出す市ヶ谷双葉。それに応えるのはもう着替えを済ませ、手元のスマートフォンでゲームをしていた森下木乃香だ。ライブ終わりの控室は、ステージから持ち帰った興奮とコスメや制汗剤をはじめとした女の子の香りで満ちている。そんなファンには内緒の秘密の部屋で、双葉は緩く編みこんでいた髪をほどきながらも口をとがらせて話を続けた。
「だって、双葉的に一番の見どころは新曲お披露目だったから! だってだって、双葉がセンターの曲だから! でも、これでやっと言えるよう。早くマネちゃんに感想投稿してもらわなきゃ!」
大慌てで自身の衣装をハンガーにかけ、キャミソールのままスマートフォンと向かいあう。そしてとてつもないスピードで文章を打ち込んでいった。時折、嬉しそうにむにゅむにゅと動く口元が双葉にとって今日がどれほど待ち遠しかった日なのかをよく表している。
「えーっと、『アリスちゃん、アリスくんへ。今日のライブもアリガトー! 双葉うさちゃん的に最高の一日だったよう。なんといっても、』ァイダッ!」
べちん。
「先に着替えって」
「梓ぁ……」
通りすがりに双葉の頭をはたき、ニコリと一言。無邪気で自由が代名詞の双葉も、梓と呼ばれる彼女――氷野梓には逆らえない。切りっぱなしのボブカットに涼やかな目元といったクールなビジュアルに加え、彼女の口から飛び出すのは凛と響く京言葉なので、なんとも逆らい難い印象を与える。
「ちえ……」
梓に注意されて渋々と着替え始めた双葉だったが、今日の服はビッグサイズのパーカー一枚らしく、十秒とかからないうちに着替え終わった。これにはさすがの梓も苦笑いを浮かべる。
「まったく……で、ウチらの女王様は?」
「着替えて消えちゃいました。いつものことデスよ」
ぽち、ぽち。ゲームをしながら器用に木乃香が返事をする。
「私としては早く帰りたいんですケドね。弓ちゃんもそうでしょ?」
お見通しだぞと眼鏡のフレームの隙間から自分を見る木乃香に対して、弓は手元の本に注いでいた視線を上げる。
「そうだね。家に帰って課題のレポート、やっちゃいたいかも。今週ちょっと課題が多くて大変」
「あうー……、木乃香は課題から逃げたい人生デス。優等生解答あざざ」
「そろそろ弓のツメの垢煎じて飲んだらええんやない? 冗談ちゃうよ。メンバーが落第とか洒落にならんから」
「うう、返す言葉もございませんがなにぶん木乃香のキャパシティは8割が趣味なので……」
「……あとの2割は?」
「せ、せいかつりょく…?」
弓があげた一言のトスから話が広がっていく。いつもはここに双葉も入るが、今は感想を仕上げるのに必死なので、お喋り担当は梓と木乃香だけだった。片やゲームをしながらではあるが、会話が途切れることはない。その様子を見て、弓はまた本を開いた。
「と、というか梓ちゃんはもう感想送りました!? 木乃香にSプレイするよりそっちのが大事ですよ」
「送ったで、ライブ終わってすぐ」
「うそ!? 早すぎません!?」
「そんなん、事前にざっくり書いといたほうが楽やん。そこにちょっと付け足して終わり」
「うぇええ……できるオンナってかんじですなぁ。白旗デス」
「木乃香も似たようなもんやないの? 今もそうしてゲームしとるし」
「いいえ、木乃香は〆切ギリギリに駆け込む女なので。いけます」
「今やりいや……」
「大丈夫です。頭の中では仕上がってます。ドッヤ!」
「あほらし……。弓は」
ガチャリ
弓が自分の方に落ちてきたボールを再びトスしようとした時、楽屋の扉が開いた。
「もしかして、待たせた?」
問いかけというよりも事実確認としてその言葉を選ぶ女王様――もとい、立花愛理。
「待ってはいましたけど、双葉ちゃんが推敲チュウなので問題ないですよ」
「そ、ならいいわ」
カツ、カツ。ステージ衣装のように繊細なデザインのハイヒールを静かに鳴らして、愛理は自分の荷物が置いてある場所――弓の隣に座る。
どこに座るかということはグループ内で特に決めているわけではないので偶然だ。
「何読んでるの?」
「今朝本屋さんで平積みしてあった本」
「おもしろい?」
「まだ読み始めたばかりだから分かんないなぁ」
「……ふぅん」
興味を失ったらしい愛理はスマートフォンを取り出し、視線を落とす。その様子を確認して、弓もまた本を読んでいるフリを再開する。
弓にとって楽屋での会話はどこかラジオを聞いているような感覚に近いものだった。加えて、視線を落としているだけの本の言葉は頭に入ってくることもなく、結局家に帰ってから改めて読み直すことも多い。
(――ほんと、どうしてここにいるんだろ)
弓の胸の中、隠すように幾重にも巻かれたベールの奥で囁く声。
(でも、桜木弓として必要とされていたい)
アイドルという仕事が嫌いなわけでもない。メンバーが嫌いなわけでもない。なのに、そんなことを考えてしまう自分を覆い隠すように更にベールを重ねる。
そうして沈みそうになる思考の海は、凪いでいるのに真っ暗で――。
「ねえ」
グンッと弓の意識が愛理の声に引っ張られる。
「弓、疲れてるんじゃないの? そんな小難しそうな本をライブ終わりに読むのって結構しんどいと思うけど」
少なくとも、私は。そう付け足された言葉に弓は苦笑いで返す。
「うーん、そうなのかも。でもちょっと気になって」
「……」
じぃっと、こちらを見る愛理に弓はドキリとする。そして、何を思ったのか愛理は自分のカバンを物色し始めた。がさごそ、黒の小ぶりなカバンは高級感があり、愛理によく似合っている。
「……あ、あった。これあげるわ」
取り出したのは、掌に乗るくらいのサイズの棒付きキャンディー。飴の部分はピンク色でぷっくりと立体的なハートの形をしている。そして愛理はむすっとしながら「頭に糖分まわしなさい」と言って、ほとんど押し付けるようにして弓に飴を手渡した。
「ありがとう……」
正直なところ、珍しいなと思った弓だったが、愛理なりの優しさに感謝する。
そしてすぐ愛理は睨みつけるようにスマートフォンに向き直ったので、視線を手元の飴に移した。透明なフィルムを外し、口に含もうとして……諦める。中々ボリュームのある飴はゆっくり舐めるのが正解だろう。ふんわりと優しいピンク色は、一舐めすると予想以上に甘くて驚いた。
その結果、弓はマネージャーが呼びに来るまでの間、双葉の唸り声や梓と木乃香の会話をBGMにぼんやりと飴を転がすことになった。
さっきまで彼女の頭の中を覆っていたベールは、少し遠い場所にいったようだった。