Ep.0 眠りネズミは夢を見るか
意識が夢と現を行き来する心地良い時間、ふわりと唇に触れたそれもまた唇だったということに気づいたのは、霞む視界のなかで現行犯が微笑む姿を見たからだ。
「起こしちゃった」
悪戯がバレた子供のような声を出してはいるが、心の中では悪びれもしていないだろうことは想像に難くない。たまらず私は文句を言う。
「……はじめて、だった」
けれど、ファーストキスを奪った犯人はしれっとした顔で「知ってる」とのたまうのだ。私の好きな、とびきり甘い声で。
――十七歳の冬、大好きな栞と迎えた初めての朝。
お互いに向かいあうかたちでシングルサイズの寝具を分け合う。二月の半ば、六畳の自室に満ちるひやりとした空気に触れた頬から睡魔が逃げ、意識はゆるゆると覚醒していく。けれど、ついさきほどの初体験を思い出してたまらず頬が熱を取り戻した。ゆるむそれを隠すようにたまらず羽毛布団を手繰り寄せれば、勢いあまって栞のぶんの布団も引っ張ってしまう。
「……寒いよ」
栞は呆れたように呟く。慌てて上半身を起こし布団をかけ直そうとすると、細い指に手首を掴まれた。え、と反応したのも束の間。そのままクイッと引っ張られる。
「わっ」
ポスン、布団に逆戻り……どころか、栞の腕に搦めとられる。ふわりと同じシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
「こうすれば寒くないかなぁ」
「……っ」
見上げると満足そうに微笑む栞の姿。グレージュに染めた髪が朝陽に透けて眩しい。とくりと胸が鳴る。ずっと見ていたかったけれど、さすがにこの姿勢は少し息苦しい。体をよじろうとしてふと思いつき、栞の胸元に耳を寄せた。トクントクンと響く胸の鼓動は私の心臓をそっくりそのままそこに移したようで、栞のなかの私はここにいるんだと……そう思えてならなかった。
栞の胸に頬を寄せたまま、しばらくゆっくりとした時間が流れる。気持ちの良い温度は眠りを誘うけど、この瞬間をもっと噛みしめていたい……でも、身をゆだねて眠ってしまうこともまた幸せなのかも。と、弓はふわふわとした気持ちでめいっぱい愛しい人との朝を享受していた。すると、栞が思いついたようにぽつりと話しはじめる。
「……弓は小さい頃の夢ってなんだった?」
「どうしたの、急に」
「んー、なんかね……ふと。このぬいぐるみも小さい頃の弓が好きだったやつなのかなぁって思ったりして。まだ弓の知らないところたくさんあるなって」
ベッドのヘッドボード部に飾っている手のひらサイズのハリネズミのぬいぐるみを撫でながら、栞は「……で?」と促す。確かにそのぬいぐるみはお気に入りで、幼稚園の頃はずっと一緒にいた子なのだけど、ちょうどその頃の私は何になりたかったんだっけと記憶をたどる。
「覚えてるのだと、おかし屋さん……?」
「かわいい」
ふふっ、と栞が笑う。そういう栞がかわいいな、と頬がゆるむ。栞からすればかわいいと言われてにやけたように見えるかもしれないけど、それも、まぁ……いいかな、なんて。そう考えてしまうのも、このぬくもりのせいにする。
「……じゃあ、今は?」
栞に問われて、はたと思う。将来の夢なんてここ数年考えたことがなかった。夢、夢かぁ。おかし屋さんは随分前に卒業したし、そのあとは何になりたかったんだっけ。でも、なんだかんだもうすぐ進路を選ばなければならない高校2年生の身だ。今の私がなりたいものを一生懸命捻りだす。
「うーん……ぅーん……こうむいん……?」
「っふ、似合わない」
堅実に生きていこうと出した答えは笑われた末に似合わないと一刀両断。思わず「ひどーい」と反論すれば、栞はくつくつと笑う。けど、公務員がどんな仕事なのかなんてあやふやなまま口にしたうすっぺらい夢なので、実際にそこまでダメージは負っていないのが正直なところだ。
「じゃあ、私はなにが向いてるかなぁ?」
栞は、笑うのをやめてじっ……と私の瞳を見つめる。自然、私も栞の瞳を見つめることになる。この瞳で私の将来を視ているのかな、と思うと気恥ずかしいような嬉しいような――どんな答えが返ってくるだろうか。緊張も束の間、、栞が口を開く。
「そうだなぁ……アイドル、とか?」
んん? と私は顔を顰める。
「……今、一番将来がない仕事って言われてるのに?」
栞のなかでアイドルなんて不確かな未来を描かれているとは予想外で、ちょっとがっかりしてしまう。よりによってアイドルかぁ。今は良くないニュースが多いのに。
「うーん、確かに風当たりが強いけど、弓は向いてると思うよ」
すり、と優しく頬を撫でられる。
「弓が可愛いのはもちろんだけど、心が、アイドルに向いてると思う。だれかに優しくできる人が求められてる仕事だと思うから」
「もしかして褒められてる?」
「そりゃあもうべた褒めだね」
「……でもやっぱり、アイドルはなぁ。栞には悪いけどパスかも。だって、もしなれたとしてもいいかんじのビジョンが見えないもん。将来がない仕事って言葉のままだし」
ふぅ、と息を吐く。そもそもアイドルという仕事がなくなりそうだというのが現状なのだ。連日ワイドショーを騒がせている内容を思い出すとげんなりする。せっかく栞と二人で幸せな時間を過ごしていたのに。ぐりぐりと栞の胸元に頭を擦りつける。ばかばか。しおりのばーか。けれど、私の無言の罵りは栞の手のひらでぽんぽんと諫められた。
「……じゃあ、私がそばにいるよ」
「どゆこと?」
〈アイドル〉と〈栞がそばにいること〉が頭の中でうまく結びつかなくて、顔をあげる。きっと今の私の頭上には大きなハテナマークが飛んでいるはずだ。そんな私に栞は甘く密やかな声で言葉を紡ぐ。
「私が弓の将来になってあげる。弓はさ、私のそばにいるって将来ができれば……たとえ将来がない仕事をしたとしても大丈夫じゃない? どう?」
どう? なんて、そんなの。
「……ばか」
将来になってあげるという言葉の衝撃をうまく受け止めきれなくて、それ以上の言葉が出てこない。……やっぱり栞はばかだ。ばか。ぎゅっと彼女のTシャツを掴む。だって、だってそんなの……プロポーズみたいじゃないか。
「本気なんだけど……弓はお気に召さなかったかぁ。………くぁ」
そう言って欠伸をする彼女をぎゅっと抱きしめる。少しよれたTシャツ越しに伝わる薄い皮膚。その下に確かに感じる体温が、私を安心させる反面ひどく寂しい気持ちを誘う。こんなにも愛おしくて、手放したくないもの。触れていてもまだ足りないもの。今だけでは飽き足らず、未来までも欲しいと思ってしまうもの。それを叶えようとしてくれるのだ、栞は。
「ね、弓」
ぎゅっと抱き込まれる。まるで壊れやすい宝物を扱うかのような優しさに、鼻の奥がツンとした。
「……一緒に夢みよ、ね?」
頭上からふってくる声は眠たげで、ふと思い出す。そういえば私は彼女に起こされたのに、当の本人が二度寝を誘うなんておかしな話ではないか? 考えれば考えるほど理不尽に思えて眠ろうとする彼女に仕返しを試みる。掌をそっと避けて、ゆっくりと顔を近づける。唇を触れ合わせるだけ……ただそれだけなのに、こんなにも幸せを感じるのは相手が彼女だからだ。
「……あまいなぁ」
薄く目を開き微笑む彼女も私と同じように思っているだろうか。今この時を幸せだと思ってくれているだろうか。どうしてか、胸が締め付けられる。
「もういっかい、して?」
そう言って彼女が頬に触れる。いつもより体温の高い指先があまりにも愛しくて。乞われるままにもう一度口づけた。先ほどよりも少し長く、お互いの熱を確かめあうように。
唇を離し、目と目を合わせる。ひとつのベッドにふたつの体を横たえ、ひとつの枕にふたつの頭をのせる。昨晩と変わらないはずなのに、ずっと近い。
ふっ、と彼女が微笑む。その瞳に映る私も幸せそうに微笑んでいる。
「おやすみ、弓」
そして私たちは瞳を閉じる。
先ほどまでその目に映していた人を想いながら。
叶うなら同じ夢を見たい……そう願いながら。