第六話 受肉
夕陽で橙色に染まる空の中、わたしは大河を目印に飛行し、東へ向かう。
都市国家アガペ。
そこがわたしの向かうべき場所。
アガペの神官、人心を惑わす思想、そしてニュンペ滅亡に関わったとされる天使たち・・・。
わたしは〈人間〉を見定める身として、真相を確かめなければならない。
大地を区切るように連なるのはオロシア山脈。
そして眼前に立ちはだかるのはその一角であるボノ山。これを越えればアガペが見えてくるはず・・・。
パイスの話によれば、アガペは成人市民全員で国家を運営する民主制の都市国家。
かつてはニュンペと西の大陸の覇権をめぐり戦争を繰り返していたそうだが、戦費捻出のための重税や増え続ける戦死者の数から厭戦の気運が高まり、内部崩壊の末、敗北。その後ニュンペの介入により政治体制を寡頭制に移行したが、当然支配者たちの席は全て親ニュンペ派に独占されており、そのアガペの文化や伝統を蔑ろにする政策は民衆の不満を募らせ、支配者たちと民衆との間で一触即発の混乱期が続いた。
そこに現れたのがシモンという男。
シモンは支配者たちと民衆に神への信仰を説き無血で政治体制を民主制へと回帰させたという。その偉業から無血のシモンと呼ばれ、今もアガペの神官として市民たちから厚く尊敬されているそうだ。
わたしの思い描いた人物像とはずいぶん違いがあるが、アガペと敵対していたニュンペの元王子がそう言うのだから、無血のシモンという人物像の方が正確なのだろう。
とはいえ、実際に会って見なければ本当のところはわからない。
・・・。
わたしがニュンペを去って、二日ほど経ったが、
パイスは今頃・・・。
「ソフィアさまああ!」
ん?
遥か後方からわたしを呼ぶ声がする。
振り返ると、土煙を上げながら駿馬如き速さでこちらに向かって来る者が見えた。
わたしが瞬きをする間に、その距離は一瞬一瞬の時間を切り取ったかのようにどんどん縮まる。
ーーー今、姿をはっきりと捉えた。
西日に輝く金色の髪に澄んだ青い瞳、天使のわたしから見ても美しいと思える顔立ち。
間違いなく、ニュンペの元王子・パイスだ。
「ソフィアさまあああああああああ!!」
わたしは急いで地上に降りる。
パイスは満面の笑みで両腕を広げ、わたしを待ち受けている。
わたしはパイスから三歩先に降り立つ。
「えっ。いや、ソフィアさま・・・」
困惑した様子だが、理解し難いのはわたしの方だ。
「パイス。わたしには訳が分からないからぜひ教えて欲しいのだが、なぜ君はアガペに向かって走っていたのだ? それも、わたしの名を叫びながら。」
「何ですかその言い方は。ぼくはあなたを追って来たのですよ!」
「追って来た?」
「そうですよ。なぜぼくを一人ニュンペに置いていったのですか!」
「・・・わたしは君を連れて旅をしていたのか?」
「はは。いいえまさか、ニュンペで知り合ったばかりではないですか。」
なんだこいつは。
「パイスよ。わたしは君に追って来るなとは言わなかったわけだから、それに関して咎めることはしない。しかし、わたしの名を無警戒に叫ぶのはいただけないな。ここはすでにアガペの領域だろう。」
パイスははっと驚いた様子で当たりを見渡す。
そして人気が全くないのを確認すると、胸を撫で下ろした。
「すみません。ぼくも今の自分がよく分からなくって・・・。頸木が取れたというか、心が軽くなったというか。王子という称号が消えて自由を感じるようになったというか・・・」
それはわたしも感じていたことだが、ここまで変わるとはな。
「で、君はなぜわたしを追って来たのだ?」
「もちろん、あなたの力になるためですよ、ソフィアさま。ぼくがあなたに働いた非礼をどうしても、ぼくはあなたの力となることでお詫びしたいのです。」
「力になるとは? 具体的にいいたまえ。」
「はい。あなたは天使であり霊的な存在です。ゆえに普通の人間から情報を得るのは難しい。かといって無闇に姿を晒せば、敵対者があなたの気付かぬうちに逃亡を図る可能性があります。だからあなたに代わって、このぼくが情報収集を行うのです。それにアガペには王族の繋がりで上流階級の知り合いがいますからね、これは実に合理的な話だと思います。」
「なるほど。ただ寂しさを嫌って子犬のようにのこのことついて来たわけではないようだな。」
「いや、もう少し言い方がーーー」
確かに、天使たちは勿論だが、神官やその関係者たちの中にパイスのようなネフィリムがいた場合、わたしの行動を察知してあの思想の教典か何かの証拠を葬り去ってしまうかもしれない。
肉体を持つ者の協力は不可欠か。
判断の難しいところだが。
ーーー。
「あの・・・。」
「パイスよ。」
「あ、はい!」
「あの川のほとりにある漁師小屋が見えるか? 今夜はあそこに泊まる。それで君にはその準備を頼みたい。」
「はい!」
「まずは川魚を獲れ。」
「はい!」
「薪を集めろ。」
「はい!」
「それから土を用意せよ。」
「え、土?ですか?」
「そうだ。できるだけ人の手のついていない神聖なものが好ましい。そうだな・・・あのボノ山の頂上付近のものがいい。量は君の体重と同じくらいだ。」
「あの切り立った山の頂上・・・ですか。」
「出来ないなら無理強いはしないが・・・」
「いえ、出来ます!やってやりますよ!」
二時間ほど経っただろうか。
川面に映った満月の中でわたしが沐浴をしていると、パイスが息をあえがせながら川縁まで戻ってきた。
そして衣に包んだ土を漁師小屋にあった大きな水瓶の中に入れている。
これでちょうど十往復。そろそろいいだろう。
「ご苦労。もう十分だ。」
「はぁ・・はぁ・・。ん、はい!」
パイスは息を整えてから返事をした。
疲労と汗と土で、美しい顔もぐしゃぐしゃになっている。
さすがに体力はほとんど残っていないだろう。
「パイスよ。喉が渇いているだろう。この川の水は清潔だ。飲みたまえ。」
「あ、ありがとうございます。ソフィアさま。」
わたしは両手で水を掬い、パイスの口元に近づけた。
そしてわたしは言葉を発する。
「水よ。何者をも酔わす葡萄酒になれ。」
パイスはわたしの指先から溢れる葡萄酒をまるで水でも飲むように勢いよく喉に流し込む。
ーーー彼が眠るまでに十秒も掛からなかった。
ネフィリム。
身体能力は想像以上に高い。
わたしはパイスの仕事ぶりをよく観察していたが、
飛び跳ねる魚を素手で正確に捕らえる瞬発力。
ボノ山の断崖を山羊のように飛び上がる跳躍力。
そして、それらを可能にする集中力と持久力。
どれをとっても〈人間〉以上であることは確かだ。
わたしは水瓶の中を覗く。見たところ、小石や雑草は混じっていない。
「ふっ。誠実な男だ。本当は何でもよかったが、どうせなら君の力はある程度知っておきたかったからな。」
わたしは言葉を発する。
「土よ。我が血となり肉となれ。」
土はわたしの言葉を聞き入れる。水瓶から蜂の群れのように飛び出てきて、わたしの全身を覆い尽くす。
今や土はわたしの血となり肉となった。
わたしは頬や腕や脚に触れて感触を確かめる。
これが肉体。
これが物質的存在。
恐ろしく窮屈で、息苦しい。
〈人間〉の生とはわたしが思う以上に苦痛を伴うものなのだな。
しかし、この肉体があればわたしの存在に気づかれることはないだろう。まさか天使が肉体を得るとは思うまい。
わたしは寝息を立てるパイスに目をやる。
パイスの提案は実に見事だった。だが、わたしが肉体を得た以上、彼と行動を共にする理由はない。
・・・こうして寝顔を眺めていると、感情の見えない冷静さを持っていた王子の頃とはまるで別人だ。しかし、こちらの方が本当のパイスであると、根拠のないただの直感だが、そう感じるのだから不思議な気分だ。
「パイスよ。今日の労働をもってわたしへの償いとしよう。君は自由だ。」
わたしは土から絹へ変化させた衣の袖でパイスの汚れた顔を拭った。それから彼の乱れた衣を直していると、腰の帯革の辺りで何かにぶつかった。
帯革に挿してあるこれは・・・あの時の短剣か。
わたしは鞘から短剣を抜く。
ーーー警戒して正解だったな。『生成世界』には不釣り合いなまでの完璧な刀身。これは『天界』で作られたもので、霊体を斬ることも容易だろう。
「神話によれば、その短剣は天使たちが天界の星々から集めた鉱石で作られ、人間が使う剣や刃物の全ての原型になったそうです。」
「・・・なんだ。起きていたのか。」
「ソフィアさま。あの土塊を肉体に変える力、見事でした。神話によれば、天使は神から名前と力を与えられるとありますが、今のはその一部なのでしょう。これだけのことを成す力を持つなら、あなたはあの時、ぼくを討ち取るなど容易かったはず。でも、あなたは力尽くで解決をはかろうとはしなかった。」
「ソフィアさま・・・あなたはやはり天使なのですね・・・」
「ぐぅ・・・ぐぅ・・・。」
また眠ったか。
わたしが天使であることなど、ただの事実だが・・・。
しかし、まあ。
パイスはわたしが〈人間〉を滅ぼす選択をしたとき、その時にも彼は同じことを言ってくれるだろうか。
次回 12月18日 投稿予定。




