第二話 男と女
『地球』
神が〈人間〉を住まわすために造った星。
わたしは神のめいにより、この星に来た。
〈人間〉は生かすべきか、滅ぼすべきか。
わたしは〈人間〉を観察し、いづれどちらかを選択しなければならない。
雲の上で羽を休めていると、眼下に人影を発見した。
麦畑が広がる長閑な田園地帯。
照りつける太陽のもと、海岸まで伸びる長い一本道を、にぎやかな二人が歩いている。
わたしはその道目掛けて雲から飛び降り、二人の前に立つ。
そうか、これが〈人間〉・・・。
姿形は天使と似ていなくはないが、美しさは天使に劣る。
これは神から生まれた者と神から造られた者の違いだろう。
男と女があるのは天使と同じか。
二人はわたしに目もくれず、会話を弾ませながら通り過ぎてゆく。
やはり、〈人間〉には霊的存在である天使を視認することは出来ないようだ。
彼ら〈人間〉はあくまで『生成世界』に生きる物質的存在。
彼らの持つ肉の眼に、霊的存在を捉える機能はないのだろう。
もっとも、わたしの生まれ持った知識によれば、天使が存在を示す意志を持つことで『生成世界』の生き物に姿を晒すことも出来るようだが・・・。
わたしは二人の後を追った。
わたしにとってこの二人は生まれて初めて見る〈人間〉。
この〈人間〉たちから受ける印象がわたしの今後の指針に少なからずか、あるいは無意識のうちに影響するかもしれない。
十分に注意して〈観察〉するべきだろう。
「・・・で、僕は父上に言ってやったわけだ。あんたの用意した女と結婚するなんて、たとえ剣を喉元に突きつけられてもお断りだってさ。」
女は口元に手を当てて嬉しそうに笑う。
「ああ、アネル。あなたそれで本当に剣を突きつけられたらどうしたの?」
「いや、それがね、ギュネ。本当に突きつけられたのさ。この実の息子に向かって、実の父親が、だよ? 信じられるかい?」
女は心配そうに男の喉に触れる。
「でも傷はないわ。」
「それはそうさ。僕はその時、あんたの用意した女と結婚するって言ったんだから。」
女は唖然とした表情を浮かべた後、思い出したかのように微笑み、男の頬に接吻をした。
「・・・でもあなたはここにいるじゃない。嘘つきね。」
「嘘はついていないよ。僕はその時確かに、その女と結婚しようと思ったんだ。死ぬくらいなら、好きでもない女と結婚した方がいいと、本気で思ったんだ。でも、父が剣を下ろしたらね、気が変わったんだ。死なないのに何で好きでもない女と結婚しなくちゃいけないんだって。だから走って逃げてきたんだ。」
「アネル。あなたって本当に自分の気持ちに正直な人なのね。」
「これは悪いことなのかな。」
「ちっとも。」
二人は手を握り合う。視線は真っ直ぐ、道の先を見据えている。
わたしが思うに、どうやら二人は恋仲のようだ。
それも身分違いの恋仲。
よく見れば、男の衣はシミ一つない清潔なものだが、女のそれは虫食い跡のあるボロだ。
やがて麦畑は過ぎ、二人は静かな森に入る。
照りつける太陽の光は青々と生茂る木葉に遮られ、涼し気な木漏れ日へと変わった。
「僕は信じているんだ。天国に昇る人間は自分に正直な人だってね。だって、自分に正直な人は自分にも他人にも嘘をついていないわけだから。」
女はうなずいていたが、恐る恐るといった風に問い返す。
「でも、正直に生きることで人を傷つけてしまうこともあるわ。そうでしょう?」
「否定はできないね。」
「なら、正直な人は地獄に墜ちると思わない?」
男は沈黙した。
しかし、返事に困ったというわけではなさそうだ。
男は口をもごもごさせながら、落ち着かない様子でしきりに鼻の頭を指で掻いている。
言いたいことはあるが、興奮して感情的になりそうなので、今のうちに話を頭の中で整理している。と、いったところか。
男はしばらく経ってから話し出した。
「これは僕が都市国家アガペの神官から聞いた話なんだけどね。実は地獄っていうのは今、僕たちが生きているこの世界のことを指すらしいんだ。」
女は相槌も打たずに、男の話に耳を傾ける。
「初めは馬鹿げた話だと思ったよ。でも考えれば、考えるほどにね、実は本当のことなんじゃないかって思うようになった。なあ、ギュネ。よく考えてごらん。僕たちは気づいた時にはこの世界で生きていて、わけのわからないままに、まわりの大人から色々なことを教え込まれる。僕の場合、僕が貴族であることを誇らせるために。君の場合は、君が奴隷であることを正当化するために。・・・でも、こんなのは全部デタラメでうそっぱち。僕らを正直に生きさせないため、僕らの本当の気持ちを踏みにじるための真っ赤な嘘さ。ほんと、これはとても理不尽なことだよ。そして、こんな理不尽を許している世界を、神が造っただなんて、確かに考えられない。考えられるとするなら、そう・・・悪魔だけさ。」
「・・・なら、私たちはきっとすごく悪いことしたからこの地獄に堕ちてきたのね。」
「いや、いや。そうじゃないよ。ギュネ。その神官によれば、人間は本来〈魂〉として、天国で幸福に暮らしていたそうなんだ。でもその悪魔に捕らえられて無理矢理この世界に連れてこられた。〈肉体〉はその悪魔が僕らを逃さないために作った、一種の牢獄なのさ。だから僕たちはその悪魔に抗わないといけない。そうしないと本当の神に見つけてもらえず、またこの地獄に生まれ戻ってしまう。」
「抗うって・・・。一体どうすればいいの?」
「正直に生きること。それがこの世界を造った悪魔に抗い、僕らが再び天国へ昇る唯一の方法なのさ。」
「だから僕らはここにいる。僕らは抗うんだ。」
男は女の手を引っ張って森を駆け抜けた。
眼前に広がるのは荒々しい海。
二人はそれを断崖から眺める。
「こわい?」
男は女の肩を抱いた。
「少しね。でも覚悟はしていたから。・・・アネルこそ、また気持ちが変わって正直に、逃げ出したりしない?」
「いや、ギュネと離れる気はないよ。一緒に天国へ昇ろう。これが今の僕の正直な気持ちだよ。」
二人は断崖のふちに立つ。
女が下を覗き込んで言う。
「アネル。私ね、奴隷になる前は東の大陸にいたの。そこではね、人が間違いを犯してしまいそうになると天使さまが現れて止めてくれるって言い伝えがあるんだ。」
「分かった。じゃあ十を数えよう。それで現れなかったら・・・」
「うん。」
わたしは荒れる海を眺めながら、男が語っていた思想について考える。
ーーーこの世界は悪魔が造った地獄で、天国から連れ去られた霊的存在としての〈人間〉は、そこで悪魔によって作られた〈肉体〉という名の檻の中に囚われている。
これは真実ではない。
『生成世界』は偉大なる神の造ったもの。霊的存在としての〈人間〉も〈肉体〉も然り。
何より、悪魔などというものはそもそも存在しない。
男は確か、都市国家アガペの神官からこの思想を聞かされたと言っていた。
神官はどれほどの〈人間〉にこの思想を説いたのだろうか。
そして、一体どれほどの〈人間〉がこの思想を受け入れているのだろうか。
選択するには時期尚早だが、わたしの旅は案外早くに終わるのかもしれないな。
次回、11月20日 投稿予定。




