嘘つきの木
私が目を覚ました場所は、やはり逆さの虹が架かっていた森の中だった。
暖かな日差しと木の葉のベッドの香りに微睡みかけ、私は慌てて上体を引き起こした。
「夢の中で寝て、起きるなんて。可笑しな話だ」
私は自嘲するような、面白いような、何ともいえない感情で呟くと腰を上げた。
立ち上がってみると、昨日の疲れは綺麗さっぱりなくなっている。それどころか、いつも以上に体が軽く感じられた。
「おはようございます、人間さん。昨日はよくお眠りでしたね」
私が上体を捻りながらストレッチしていると、折り重なった木の根の向こうから、ひょっこりと赤毛の狐が顔を出した。彼女は綺麗なハンター歩きで私の前までやって来ると、行儀よく腰を下ろした。
「ああ、助かったよ。……あぁ、ええと、お名前は」
「名前なんて、ありませんよ。この森に棲んでいる動物は限られていますし、種族を言えば分かりますから。それに、名前で個体を識別するのは人間だけです」
赤毛の狐は小首を傾げて私を見上げる。
「そうかい。……じゃあ、狐さん。私には分からないことがたくさんあって、いつくか質問したいのだけれど」
「構いませんよ。ですけど、その前に、私たちからもあなたに質問したいのです。どうしても人間を信用しない方がいるのです」
赤毛の狐がそう言うと、どこからか動物たちが集まってきた。それらは昨日私が見たアライグマや、蛇や、コマドリ、リスだった。熊は向こうの木の影からこちらを窺い見ている。
「ここは、私たちが『根っこ広場』と呼んでいる場所です」
狐は幾本もの木が密集している所から私たちの足元までを手で示し、木の根の敷き詰められた広場を見渡した。
「根っこ広場?」
私が狐にそう聞き返すと、今度は木の根にどっかりと座り込んだアライグマが高慢そうに口を開いた。
「ここで嘘を吐くと、たちまち木の根が伸びてきて捕まっちまうんだ。人間なんて、きっと嘘吐き野郎さ。根っこに絞め殺されちまえ」
彼は両手を組んで鼻を空に向けると、片目で私を睨み付けた。私が何と答えたものかと考えていると、頭上の枝から歌うような声が降ってきた。
「あらあら、そんなの野蛮ですわ。アライグマさん、きっとこの方はいい人間よ」
「コマドリ夫人、そんなこと分からんじゃないか。アンタもキツネも、他の奴を信用しすぎさ。そんなんだから、大事な卵をヘビ野郎に喰われちまうんだ」
「ああ、何て酷いことを言うの!私の可愛い卵たち……」
コマドリは悲嘆的な声音で言い、木の根の間から顔を出している蛇を見つめた。
「おれは喰べてない、喰べてないったら!」
蛇が弁解を口にした時だった。
私たちの足元にある無数の木の根が、まるで生き物のように畝って蛇の体を頭上高くに吊し上げた!
木の根はしばらくの間這いずるようにして動いていたが、やがてゆっくりと動きを遅くして、完全に動かなくなった。
「ど、どうなっているんだ……」
私は呆気にとられて、蛇を絡め取っている木の根に恐る恐る触れてみた。
木肌の感触は、普通の木の根と変わりないように思えた。しっとりと濡れていて、しなやかさと丈夫さを兼ね備えている。しかし、その芯はしっかりとしていて、私の力ではびくともしなかった。
「あはは、馬鹿なヘビさん!早く謝らないと、“嘘つきの木”の一員になっちゃうよ!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!確かにおれは、コマドリ夫人の卵を二つ、喰べたよ。もうしない、もうしないから……」
蛇が身をくねらせて泣きながらそう言うと、木の根は骨を抜いたようにだらりと地面に戻ってきた。蛇はくたびれた様子でコマドリの傍によると、何度も何度も謝罪を繰り返しているようだった。
「この広場で嘘をつくと、ああやって木の根に縛り上げられるのです。人間さん、くれぐれも、嘘はつかないでくださいね」
「分かったよ」
私の返事を聞き、動物たちは裁判の傍聴席にいるように静まり返った。
「それで、何が聞きたいんだい」
「ではまず、あなたは何の目的で、どこから来たのでしょう」
「私は山向こうの、大河を越えた先にある町から、逆さ虹の森を探しにやって来たんだよ」
「高慢ちきな人間!どうしてこの森を探しに来たんだよ」
「それは、探検家のロマンだからさ!ほとんどの人が見たことのない逆さに架かった虹を、この目で見てみたかったんだ」
「私たちの棲むこの森を、どうするつもりなのかしら」
「どうもしないよ。本当に、ただ美しい景色を見たかっただけなんだ」
「仲間を呼ぶ?」
遠くの熊と足元の蛇が、不安そうな顔で同時に聞いてきた。
「呼ばないよ。それに、俺はどうやってここまで来たか分からないんだ」
私は彼らに不安を与えないように、できるだけゆっくり、優しく答えた。
「あなたは私たちに、乱暴を働きませんか?そう、誓ってくれますか?」
「ああ、もちろん」
最後の狐の問いかけに私がそう答えると、辺りは一瞬静まり返って、私と動物たちは足の下に横たわる木の根をじっと見つめた。
太い蔓のような根は、ピクリとも動かず床を覆っている。
「あなたが嘘つきでなくて、何よりです」
狐が尻尾をぱたりと振って見上げてくるので、私は思わず彼女の小さな頭を二回撫でた。
「それじゃあ、俺の質問を聞いてくれるかい?」
「ええ。もちろん」
「まず、そうだな。俺はどうやって、この森に来たんだろう」
「キツネさんを追ってきたからだ!」
「ええ、そうですね。この森にあって、私だけが外の世界へ行けるのです。けれど、あなたが入ってこれたのは森の意思ですよ」
(コマドリ)逆さ虹の森は魔法の森。不思議なことで満ちているのよ
(ヘビ)そう!根っこ広場にドングリ池!
(リス)生きた木の根に願い事の叶う池!
(コマドリ)森を分ける川の向こうへはオンボロ橋を渡っていくのよ。けれど誰も渡れない
(アライグマ)橋の先には雪が降っている
(リス)橋の向こうは、きっと人間の世界!
(アライグマ)コマドリの羽では渡りきれない
(ヘビ、リス)泳いで行くには岸が遠すぎる
「みんな、歌が上手なんだね」
いきなり始まった合唱に私が驚くと、動物たちは各々嬉しそうにしたり、誇らしそうに胸を張った。
「歌好きのコマドリ夫人が、みんなに教えているんですよ」
尻尾を揺らしてリズムをとっていた狐が、微笑ましそうにそう言った。
「コマドリ夫人、ということは、コマドリはもう一羽いるのかい?」
私がそう訊ねると、コマドリはさも悲しそうに項垂れて悲観したように答えた。
「愛しい夫は、人間に撃たれたのよ」
「やはり、私以外にも人間が来たのかい?」
「ええ。私どもがわざわざこの根っこ広場であなたに質問したのは、そういう理由です」
動物たちは悲しそうに項垂れたり、私を睨み付けてそっぽを向いたりした。
狐は両耳を伏せて私を見上げると、鼻を鳴らして質問を促した。
「ええと、その……」
私はどうにも言葉に詰まってしまった。
「どうすれば、帰れるだろうか」
そう口にしたものの、本心ではこの森を探検したくてうずうずしていた。なんて自分勝手な人間!
「いえ、いえ。あなたは何も気まずい思いをすることはありませんよ。あなたはいい人間です。そうでもなければ、きっと根っこに捕まっていますよ」
狐の言葉に、動物たちもおずおずと頷いた。アライグマは相変わらず両手を組んで、そっぽを向いていた。
「……ありがとう」
「ところで、この木は何なんだい?」
「嘘つきの木だよ!嘘つきを捕らえる審判の木」
リスが忙しく動きながら、木々を指差して言った。彼はえくぼのできる笑みを浮かべて(彼はいつでも笑っていた)、尻尾をピンと伸ばした。
「この森には、魔法がかかってるんだ!」
「魔法?」
昔々、嘘つきのクマゲラがいました。
意地悪で傲慢なクマゲラは、いつも悪さを繰り返して森の動物たちを困らせていました。
「クマゲラさん、どうしていつも嘘ばかりつくんです?」
狐がそう聞くと、クマゲラは胸を膨らませてふんぞり返って言いました。
「俺はこうするのが楽しいんだ」
ある時、世界中を旅する老獪な梟が森にやって来ました。
梟は森のみんなにこう言いました。
「一晩この森の止まり木を貸してくれたら、お礼に知恵を与えよう」
その日の夜、クマゲラが梟の止まり木に行くと、年老いた梟は羽を膨らませて眠っていました。
「やあ、旅のフクロウさん」
「おや、クマゲラさんかな」
「そうだよ、俺がクマゲラさ。なあ、何でも教えてくれるって、本当かい?」
「ああ。何が知りたいんだい」
クマゲラは嘴で自分の胸元を撫でて(これは彼が悪巧みをしている時によくやる仕草だった)、自信家らしくこう聞きました。
「ずっと遠くの、山の向こうの海を越えた先に、年中雪の降っている氷の島があるってのは本当かい?」
「ああ。本当さ」
「なら、その島の上に掛かるっていう魔法のカーテンを見たことがあるんだな」
「ああ。あるとも。ほら御覧、この氷の中に、その魔法の一片が閉じ込められているんだよ」
梟はそう言って、小さな氷の欠片を取り出しました。溶けない氷の中には、魔法の虹のカーテンが一片、ゆらゆらと揺れていました。
「へえ、こいつはすごいね。ちょっとだけ、見せてくれよ」
クマゲラはそう言って梟から氷の欠片を取り上げると、素早く森の中へ飛んでいきました。
梟はその後ろを悲しげに見つめて、一度、「ホーロロロ……」と低く鳴きました。
「やあこんにちは!……こんばんわだっけ?こんばんわ、フクロウさん!僕にもお話聞かせてよ!!」
暫くして、慌ただしげにリスがやって来ました。彼ははたきのように尻尾を上下に動かして梟の前に座り込みました。
「今晩は、リスさん。何の話が聞きたいんだい」
「面白い話!」
梟は目を瞑って少し考えたあと、歌うように話し始めました。
「遠く、遠く、海を越えて、雪の降る山を越えた先にある町で、とても不思議なものを見た。木の実を食べた動物が、たちまち巨木になってしまうんだ」
「どうして、どうして?」
「私が聞いた話では、昔、嘘つきの魔女が『これはとても美味しい木の実だよ』と言って魔法の種を植えていった。木が大きくなって実が生ると、動物たちはその実を噛ってみた。それはなるほど、とても美味しい木の実だったが、木の実を食べた動物たちは、一匹残らず大きな木に変化してしまった。木になった動物たちは、怒って森に来た魔女を木の根で掴んで大きなうろに放り込んだ。魔女は木の一部になって、二度と元に戻らなかったそうだ。ほら、これがその種だよ」
そう言って、梟はリスに小さな種を出して見せました。
「とっても綺麗な黒い種だね!」
「これを君にあげよう」
「本当に!?いいの?」
「さっきクマゲラさんに、魔法の氷をプレゼントしてしまったからね。不公平にならないように」
さて、種をもらったリスは上機嫌でドングリのうろあなに戻りました。そこにはリスの宝物がたくさんあって、きらきら光るガラスの破片や、美味しい木の実の種がありました。リスは毎年狐やヘビに聞いて、正しい季節に一つずつ宝物の種を埋めていました。
「あれ、クマゲラさん。ここで何しているの?」
「ああ、リスさん。俺はフクロウの奴から面白いものを貰ったのさ。これをやるから、ここにあるもの全部俺にくれよ」
クマゲラは胸元に嘴を埋めて言いました。
「嫌だよ嫌だよ!嘘つきのクマゲラさん、どうせ何にもくれやしない!」
「本当だとも。ほら、綺麗な虹の氷だよ」
クマゲラはリスが氷に魅入った隙に、リスをうろあなから突き落としました。
「今日からここは、俺の場所!ここのものも全部、俺のものさ!」
それからクマゲラはリスの持っている黒い種を見て、聞きました。
「へぇ、何の実だい?フクロウから貰ったのか」
「そうだよ、フクロウさんからのプレゼントだよ。とっても美味しい木の実だって。でも……」
クマゲラはリスの言葉を最後まで聞かずに、嘘つきの木の実を、ごくん!
「本当だ!とっても美味しい木の実だ」
「ああ、駄目だよ!クマゲラさんが嘘つきの木になっちゃうよ!」
頬に手を当てるリスの前で、クマゲラの体がどんどん大きく、茶色くなっていきます。
「なんだなんだ!どうなってるんだ!」
驚いたクマゲラが持っていた氷を取り落とすと、氷が割れて中から虹の欠片が溢れだしました。それは逆さまになって、空へ架かりました。
クマゲラの体はどんどん大きくなります。
足は木の根に、羽は枝になっていき……
ついに、クマゲラは見たこともないほど立派な大木になりました。
「そのクマゲラが、この木なのかい?」
「うん!そうだよ。あの後ろにある木が僕の宝物の木!でも、クマゲラさんがこんなところで木になっちゃったから、中の宝物、取れなくなっちゃったんだ。本当に、迷惑なクマゲラさん!でも、クマゲラさんのお陰で、逆さの虹が架かったんだよ」
リスはにっこりと笑ってそう答えた。