カゴノ、コトリ
どうしてここに来たんだろう。自分の間抜けさに溜息しかでない。ここについた瞬間から気が滅入っていた。
うるさいだけで興味もない音楽はバズとまくしたてる自意識過剰で成り立っていて、アルコールでもごまかせない神経の鈍りが余計に重くのしかかってくる。
小鳥に飲みに行こうと誘われてついた先がこのクラブだ。
飲み、というかただのナンパに付き合わされているだけだ。
それがわかっているのに小鳥に誘われたら嫌と言えない。
ハイネケンのメタリックな緑が幻想的なライトと影に照らされて俺の手の中で汗をかきながら生暖かくなっている。
「加護!」
小鳥がフロアから、こちらのバーカウンターに駆け寄ってきた。
無造作な、灰をかぶったようなくすんだ若草色の長めの縮れ髪を振り乱しながら、目前のテーブルに両手を叩きつけた。
「なんでフツーに飲んでんだっつぅの!」
「うるせぇサノバビッチ」
「ばっか! おめぇ毎回やる気ねぇのはどーいうことだ! やりたくねぇのかインポチン!」
「てめぇ殴るぞ」
「つぅかさ、お前さ、男辞任してぇの? っつうかむしろ人間を?」
「なんだ? スペルマンじゃなきゃ人間じゃないっていうのか」
「九割!」
といいながら、小鳥が立てた指は三本だ。
前々から馬鹿だと思っていたが、やはり俺の予想は的中していた。
「一割の男になりたいんだよ俺は」
小鳥が俺の腕に縋る真似をしながら
「そんなこと言わずにさ〜、頼むョ加護チャ〜ン」と素っ頓狂な声を出した。
だらしなく伸びきったモヘアの赤黒ボーダーセーターにロールアップデニム。足元はボロボロの黒革のジャックパーセル。
追い討ちをかけるかのような、ぼさぼさの緑頭。そのいでたちが、女っぽい甘く整った顔を台無しにしているように思える。 背もそんなに高くないし不健康的に痩せているが野良猫のような気性の荒さのせいで、俺よりも喧嘩慣れしている。
喧嘩っ早くて、感情の起伏が激しくて気まぐれだけど人懐っこい。
めちゃくちゃ好かれてめちゃくちゃ嫌われる。 俺は唯一の小鳥の友人で、彼もまた俺にとって同じだった。
「嫌いなんだよ。ナンパ」
そう言うと小鳥は口を尖らせる。
「女嫌いなわけじゃないんだろ?」
「うちはな、上が四人全部姉貴だったんだ」
「ふうん、ご愁傷様」
小鳥はニヤッと無邪気に歯を見せて笑い、
「俺なんて正真正銘ビッチの息子だけど、オニャニョコ大好きー。セックス大好きー」と万歳をして見せた。
「最低だな。小鳥」
「ん。よく言われるけど加護は言うなよ」
「なんでだよ」
「お前は俺の友達だからだよ。友達に最低って言われたら悲しいだろ」
小鳥は俺の隣に腰を降ろす。壁側は全部繋がったソファ席で、ガラガラに空いているのに小鳥は俺に体をぶつけてきた。
「痛ぇよバカ」
「サノバビッチって言えよ。いつもみたいに」
俺はさっき小鳥が母親の事をビッチと言っていたので、何となく気を使って言わずにいたら訂正された。俺が小鳥に気を使うなんて馬鹿げていたらしい。
「痛ぇよサノバビッチ」
「お前だけだぜ。サノバビッチて言われても笑って許せるの」
「そりゃありがたい」
「だろ? なぁ、あそこの黒髪おかっぱお前好きじゃねぇ?」
小鳥が指す人差し指の先を見ると、赤い肩紐つきのワンピースを着た前下がりの黒髪おかっぱの女の子が、バーカウンターで退屈そうにグラスを傾けていた。
「たしかにいい感じだ」
タリスカーが底をついた。溶けかけの氷がグラスを鳴らす。
「俺ウォッカレッドブル割り」
小鳥が右手を上げた。
「了解」
俺は空のグラスを持ってカウンターに向かった。
*****
「ありきたりで申し訳ないんだけど、君今一人?」
前下がりの黒髪おかっぱに、犬の口周りみたいに黒いアイラインを引いた女の子は俺を上から下まで眺め、赤くて厚ぼったい唇を横に広げて見せた。
「あなたの名前は?」
「加護」
「そういう名前のアイドルいたよね?」
「たまに言われる」
「あたしはクリコ」
「もしかして名字はヴーヴ?」
「まさか」
クリコは肩をすくめる。
「だよね」 俺は頷いた。
そんな偶然があるはずがない。他愛もない話をしながらアルコールを消費する。
「ヴーヴ・クリコばかり飲んでたら、このあだ名がついたの」
クリコは得意げに赤い口角を上げてみせる。
その仕草に目眩がして軽く息が詰まった。
赤い色。俺が最も愛する深紅の艶めき。
でも、見たいのはこの人工色ではない。
青ざめくたびれた顔をした女がふらりと横切った。
いつの間に紛れ込んだのだろう。
そう思いながら、俺はクリコの唇へ視線を落とした。
俺が好きな赤はこれじゃない。
ダンスフロアから悲鳴が響いた。
クリコがうろたえ、すがるような眼差しを向けた。
ダンスホールに向かう。待ちかねていたのを素知らぬ振りで。
深く鮮明な紅に目を奪われた。黒を含んだその色は、花の女王の最も高貴な色と同じ。
ブルーメタリックの真夜中のダンスホールで、烏みたいに黒ずくめの俺はその色から目が離せない。
「平気か? 小鳥」
小鳥は顔をしかめながら薄目で俺を睨む。
「んなわけねぇっしょ神野ちゃん」
右脇腹を掴むその指の間に突き立てられた小さなナイフから、フレッシュジュースみたいな血液が滴り落ちている。
あまりにもきれいな赤だから、思わず魅入ってしまった。
「やっぱそうだよな」
小鳥の前で混乱した女が顔をグシャグシャにして泣きわめいている。
「泣くくらいなら最初からやるな、っつぅの」
小鳥が青ざめた顔で舌打ちをする。
上体を支えてやりながら、小鳥はやっぱり軽いと思った。
「救急車呼ぼうか、小鳥」
「保険証持ってない」
「言ってる場合か。治療費ならそこの女に払わせろ」
「でも、俺が悪ぃんじゃねぇの。この場合」
「最悪おれが立て替えてやる」
「そりゃ最悪だ」
「まったくな」
無駄話を切り上げて携帯を耳に当てた。
小鳥の頭を乗せた腿が重くなってくる。
小鳥から流れ出す深紅に目眩がする。
初めて逢った真冬の真夜中。小鳥はぼろ雑巾みたいに血まみれで、路地裏のゴミ捨て場に転がっていた。
数人にリンチされた後らしく、まだ新しい血を流していた。
俺はそのゴミ捨て場のすぐ近くでバーテンをしていた。
終業間近、深夜のゴミ捨て場で、女みたいに綺麗な顔をした華奢な男が、白い肌を赤い血液で濡らしていた。
薄く開いた小鳥の潤んだ瞳が、俺を見ている。
「なぁ、加護……」
薄ら笑いを浮かべて、かすれた声で俺を呼ぶ。
「……お前さ、初めて逢った時も、そうやって俺を見てたよな」
「うるせぇよ、サノバビッチ」
ふ。と息をもらすように、小鳥が笑った。
「加護、友してるぜ」
頭の足りない小鳥の、最上級の愛の言葉。
あの夜の次の日、病院で言われた。
「親友を前提に、俺と付き合って下さい」
「やっぱり、お前バカだよな」
俺が好きなのは、お前の血液なんだぜ。その美しい血液がお前を作ってるんだからな。
そう言おうとしたが、到着した救急隊員が鮮やかな仕草で、小鳥を俺から奪っていった。
「友してるぜ。小鳥」
見舞いには行かない。震えるクリコの肩を抱いて、今から港の近くにある古い倉庫に行き、そこで排他的な行為に耽る。
小鳥はたぶん放っといたって、戻ってくる。
なぁ、そうだろう小鳥。