事件
金曜日
P.M 9:35
「…くん、タクくん!」
園部は微睡みの中、耳に突き刺さるような甲高い怒号と頬の痛みと共に、重い瞼を開いた。
ぼんやりとした視界には、腕や頬を擦り剥き、額から細く赤い筋を垂らす平野が一杯に映っていた。
「タクくん!起きて!生きてるんでしょ!?ねぇ!ねぇってば!!」
平野が右手を振り上げたのを見、園部のぼやけた頭は咄嗟に目を覚まし、今にも振り下ろされんばかりの右手を遮った。
「だ、大丈夫です…もう、大丈夫…」
園部は平野を安心させる為の言葉を続けようとしたが、平野の平手打ちを遮った左腕と、息をする度に全身に響く鈍い痛みがそれを遮った。
歯を食いしばり、必死の形相であった平野は、園部の一言に安心したように大きなため息をつき、全身を脱力させた。
よく見ると、目尻には涙が浮かんでいた。
「あぁーもう!こんな時に呑気に寝てるなんて、タクくんホント、馬鹿じゃないの!?」
そうは言いながらも、平野は今にも泣き出しそうな顔をしている。
園部は平野の顔もそうだが、それ以上に、額から滴る細く赤い筋に目を奪われた。
「サエコさん、けが…」
「ばか!私の怪我なんかどーでもいいの!!」
平野は、体を起こそうとする園部を地面に押し込みながら、声を張り上げた。
「私の怪我なんか、ほっとけば治るようなものばっかだから…!」
「それでも、頭の血、押さえといた方が、いいですよ」
「この辺り」と左手で自身の額を指差しながら、園部は上着のポケットに入れていたハンカチを自分でも苛立たしい程にまごつきながらも右手で引っ張り出し、平野に差し出した。
それを見た平野は、自身の額を手で撫で、その手についた赤い液体に驚き、差し出されたハンカチと手についたそれを暫く見比べ、躊躇いながらもそれを受け取った。
「それに、僕は体がっ、丈夫、なんですよっ!」
痛みはするが、両腕がある程度無事な事を確認し、園部は仰向けの体を左に倒し、うつ伏せ気味になりながら上半身を起こした。
全身を強く打った鈍い痛みと、処々にある擦り傷や切り傷が発する、ちくりとした痛みはあるものの、体が全く動かせない、という程ではなさそうだ。
「僕の、唯一の自慢、なんです」と言い、園部はふらつきながらも立ち上がった。
「サエコさんには、負けてられないですよ」
「馬鹿…」平野は涙を流しながら、園部を見上げる。
「男ってホント馬鹿ばっか!車からここまで引っ張り出すのに、どれだけ大変だったと思ってるの!?それにすぐ、二言目には『大丈夫』だもの…!マサさんもタクくんも、私なんかよりずっとボロボロのくせに!」
堰を切った様に平野の口から言葉が迸り、両腕から力が抜け、子供の様に涙も声も抑えず大泣きした。
そんな平野を見て、園部は妙に安心し、平野の前に屈み込み、彼女に渡したハンカチを手からそっと抜き取り、額に添えた。
「それしか、僕らには分からないんですよ。馬鹿なんで」
泣きじゃくる平野をあやしてい時、ふと、園部は彼女が発した言葉が気にかかった。
「サエコさん、マサさんとノブさんは何処に?マサさんは先程まで居た様ですが…」
平野は洟を啜りながら、園部の言葉を遮った。
「マサさんは、タクくんここまで引っ張って来た後、すぐにノブさん探しに行ったの。ノブさん、私たちが気がついた時には居なくなってて…それで、タクくんを私に任せるって…」
平野は喋りながらも心細さが蘇ってきたのか、言葉は途切れ、目から涙がぼろぼろと零れていた。
「…ありがとうございます」
園部は平野にかける言葉を見つけられず、在り来りな感謝を伝えることしか出来なかった。
「…てきて」
不意に放たれた平野の涙混じりの呟きを聞き取れず、園部は思わず「え?」と訊き返した。
「2人を、探してきて。どうせ、そのつもりなんでしょ?」
平野は涙を流しながらも、無理に笑みを作り、園部に向けた。
「私は、少し休ませてもらうね。後で私も行くから」
寂しげな笑みは彼女の手元へ向かい、顔に陰を作る。
「サエコさんはもう充分頑張りましたよ。もう、これ以上無理しないでください。
僕は、少し、周りの様子を見てくるだけですから。10分で帰ってきます。約束します。だから、ここで休んでいてください。」
そう言いながら、園部は自分のスマホを取り出し、割れた画面越しに10分のタイマーをかけ、平野に見せた。
平野はそんな慌てた園部の様子を見、くすりと笑った。
「ホント馬鹿ね、タクくん。そんなことしている間に、私が探しに行こうって思っちゃうかもよ?行くなら、早く行きなよっ!」
平野は笑いながら額に当てられていたハンカチを奪い取り、園部を追い払うように手を振り、彼に行くように促した。
金曜日
P.M 9:40
「サエコさんは大丈夫だ…」
黒煙、炎、鉄塊、人、血、混乱。
園部は喧騒の中を駆けていた。
見渡す限りにある殆どの車はひしゃげ、転がり、唯の鉄くづと化していた。
中には黒煙を吹き上げ、赤い炎が車の表面を舐めるように這っているものまである。
幸いな事に、煙はトンネルの中に溜まらず、空調によって吸い上げられていた。
「あと8分…」
園部は右手に握ったスマホの歪んだ画面をちらと見、2人の名前を叫んだ。
「マサさん!ノブさん!どこですか!?」
足元にはガラスや車の破片が飛び散り、道には怪我人や途方に暮れる人、混乱し喚き散らす等、様々な様相の人々が居た。
園部の様に、見失った誰かを探す人も。
「あと6分…」
足を一層早め、目線を素早く動かし、声を更に張り上げる。
「マサさん!ノブさん!」
「あと4分…」
園部の頭に、平野の顔が過る。
平野は、平素の女の子らしさに隠れて、強い芯を持っている。
先程の別れ際の様子から考えると、既に立ち直り、もう動き出しているかもしれない。
2人を見つけられないのは残念だが、それ以上に平野ともはぐれてしまう方が問題である。
その場に留まるにしろ、引き続き探すにしろ、一旦平野の元へ戻ることが賢明ではないか。
そう思い、園部が踵を返そうとした瞬間、聞き覚えのある怒号が、喧騒の合間から聞こえてきた。
マサさんの声?
そう思った途端、それまでの考えが吹き飛び、視線が声の方に向け走る。
左に曲がった、カーブになっているトンネルの向こう。
小さく、身体半分程しか見えていないが、見覚えのある背中が見えた。
園部は止めていた足を少しずつ早め、目と耳をその方向に集中させた。
「…こだ、ノ…」
再び、怒号。
間違いない、これはマサさんの声だ!
園部の疑念は確信に変わり、最早スマホの画面には目も呉れず、駆け出していた。
次第に減ってゆく人影にも気付かずに。
「マサさん!ノブさん!」
トンネルのカーブを抜けると、不意に視界が開けた。
そして、園部は声を失った。
そこには今野ではなく、依田だけが、居た。
依田は、園部に背を向け屈み込み、ぶつぶつと何かを呟きながら地面に向け一心不乱に拳を振り下ろしていた。
否、地面ではない。
依田の下から。
人の足が。
「ノブさん…」
園部は何も考えることが出来ない侭、依田の名が口から不意に溢れてた。
依田はぴたりと動きを止め、すっと静かに立ち上がる。
「ノブさん…」
再び、口から声が漏れる。
依田は、酷くゆっくりとした動作で踵を返しながら、平素と何ら変わらぬ調子で「タクか?」と訊ねてきた。
あぁ、いつものノブさんだ。
園部は安心し、再会の喜びを込め、三度「ノブさん!」と呼んだ。
しかし、ゆっくりと園部に向けた依田の顔は。
目を瞑っていた。
目を瞑り、右の拳を赤く染めながら、園部に向け。
笑った。
園部は半端に開けていた口を咄嗟に食いしばり、後ずさりながら身構えた。
しかし、それとは対照的に、笑みを向けていた依田は、不意に表情を無くし、首を横にくいと傾けたかと思うと糸の切れた人形の様に、どさりとその場に倒れた。
園部は、突然の依田の狂態に身構え、見つめた侭、動くことが出来なかった。
だが、その硬直も長くは続かなかった。
「いゃあああああ!ノブさあん!!」
固まっていた園部の背後から、平野の悲鳴が轟いた。
目の前の光景に集中しきっていた園部は、背後から響いたそれに身体を飛び上がらせ、素早く振り返った。
そこには青ざめ、口元に手を当て体を震わせる平野の姿があった。
「タクくん!何があったの!?ノブさんは!?何で?何なのこれは!?」
震えながらも、ヒステリックに捲し立て、平野は依田の元に近寄ろうとした。
平野が園部の右真横を通った瞬間、それを目で追っていた園部は、視界の左端で何かが蠢くのに気づいた。
咄嗟に園部は平野の前に飛び出し、正面を見据えた。
園部の顔の前には、目を瞑りながらも、怒気に満ちた、依田の顔があった。
その口が、小さく呟く「止めろ、やめろ…」
悲鳴を上げる平野と体を強ばらせた園部は、重なるように背中から地面に押し倒され、その上に素早く依田がのしかかる。
そして、園部の下からはみ出るように伸びた平野の首を左手で掴み、依田は赤黒い拳を振り上げる「黙れ、黙れ…」
狙いはサエコさんか!
腕で庇おうとしたが、依田の膝で確りと押さえつけられ、肘を曲げる程度しか動かせない。
園部は顔を平野の上に重なるように伸ばし、出来るだけ頭を浮かせ、歯を食いしばる。
間もなく、依田の拳が園部の顔や頭に降り注いだ。
必死に堪える園部の下で、首を押さえられ喘ぐ平野が「助けて、たすけて…」と声を絞り出す。
「…ぐっ、ノぐっ、ざっ!…うぐっ」
園部は拳を喰らう度にぐわんと揺れ、痛みが響く頭で、必死に依田に呼びかけた。
それでも依田は耳を貸さず、愈々意識が遠のこうかという瞬間、不意に拳の雨が止んだ。
園部の歪んだ視界には、体格の良い男同士がもみ合っている様子が見えた。
「ノブ!てめぇ何してやがるっ!」
マサさんの声だ。
園部はその声に安心し、平野の上から転げるように地面に倒れ落ち、仰向けになりトンネルの天井を見上げた。
「っはっ、はあっ、たっ、タクくん…!」
暗くなってゆく園部の視界に、左手で首を庇うように覆う平野の顔が一杯に映った。
「サエコ!タク!無事か!?…くそっ、止まれ!ノブ!」
「マサ…?マサ!待て!マサ!!」
「嫌っ、タクくんっ、いや、イヤぁ!!」
「おいっ!なに、言ってやがるっ!くそ、ノブ!やめろ!目を開けろ!!」
金曜日
P.M 9:50
次第に重くなってゆく瞼の中、園部は冷たい何かが頬を伝うのを感じながら、目を閉じた。




