踊る左手
―――バスケは好きだ、けど、部活はきっついなあ。
はじめは吐きそうだったなあ、なんてことを考えながら蛇口から音を立てて流れる水に口をつけた。汗をかいた体には、ぬるくなった水でも、冷たくてきもちいい。生き返ったような心地で、青くて高い夏の空を見上げた。風は、ない。
「あー……」
おれ(日下部とおる、17さい、男、バスケ部)の通っている、初瀬工業高校には、男子が圧倒的に多い。工業高校だから、オイルにまみれる活動も少なくはないし、けっこうハードなこともやる。だから、女子が少ないのは当たり前といったら当たり前なんだけど。
でも、女子が少ないということは、部活も“男子なんとか部”しかないから、中学のときはあった男女抗争がないから心なしか気が楽、ではある。おれの通っていた中学も、男女バスケ部のコート争いはすさまじかった。運動部の女子っていうものは、気が強いのだ。
(ま、楽だけど、目の保養がないっていうのは、悲しいもんがあるねこりゃ…)
圧倒的に多いといってもいないわけではなくて、いちおう、女子は各学年ひとりは存在する。部活も、女子が入る用にいくつか、片手で足りるほどだけ、いちおう、あって、そのなかに女子バスケットボール同好会みたいなものがある。先輩がちょっとと、同級生がひとり、後輩は知らない。でもたぶん、試合ができるかできないかギリギリの人数しかいないと思う。大会に出たとか、そういう話は聞かないし。
「あっ」
「あっ?…ゲェッ」
「ゲェッってなによ。とーる」
その女子バスケットボール同好会に入っている、それはもう貴重な同級生のおんなのこというのが、こいつだ。渡邉さゆり、17さい。
短く切りそろえられた前髪に、伸び始めたショートカットの、見るからにスポーツやってそうだなあこの子、っていう外見。男みたいな、いや、男なんかよりずうっと、サバサバした性格。女子に好かれるタイプの女子で、でもふわふわかわいいおんなのこを夢見る男からしたらあんまり嬉しくないタイプの女子。でもまあ、おれは嫉妬とかなんとかめんどくさい女ってあんまり好きでないから、こういうタイプの女子はそんなに嫌いではない、けど。
でもこいつは嫌いだ。いつもおれにつっかかってくるから。まあ、おれもおれで見かけたらからかってみたりはしているし、お互いさまなのかもしれないけど。
「べつに?」
「はあ?なんなの?むかつく」
「……同好会のほうはなに、休憩なわけ」
「そうよ。…とーるは、さぼり?いいご身分ね」
「はあ!?おれらも休憩!!さぼってねえし!」
渡邉は、ふうん、と心底興味なさそうに返事をした。興味ないなら聞くなってんだ。おれが不満でいっぱいな目で渡邉をにらんでいると、渡邉は、先ほどのおれと同じように、蛇口で水を飲み出した。
それ、おれがさっきまで水飲んでたやつだし。いや間接ちゅーだなとか全然思ってないけど、全然。でもこいつ、Tシャツになったらわかるけど思ってたより胸あるし細いしスタイルいいし、うなじ綺麗でなんか色っぽいし…あ、汗がうなじに…顔も赤いし、なんか変な感じ、する。
ごくり、と口の中に溜まった唾を飲み込む。その音が聞こえたのか、渡邉はちらりとこちらを見た。さっきまであんなことを考えていたのを見透かされそうで、思わず肩がびくりと揺れる。
「な…なによ」
「べっ、べつに?」
「あっそ」
なんか、なんていうんだ。普段いやだいやだと言っているのに、こんなときだけきちんと妄想している自分が嫌になる。嫌いなら嫌いで嫌いなの貫き通せよ、おれ。こんなとこだけ男に育ったもんで、いや、まあ、他のところも男だけど。
思わず自分の髪をわしゃわしゃとかき乱す。ちらりと渡邉を覗き見ると、渡邉がこちらをじっと見ていることに気がついた。
「なんだよ」
「や、とーる、手、大きいなって」
「まあそりゃあ…男ですから?」
「なんか・やらしー」
くすくすと笑いながら、渡邉はおれのほうに手のひらを向ける形で、ゆるく腕を伸ばした。おれは同じように腕を伸ばして、渡邉と手のひらをぴたりと合わせる。おれの手でみょうじの手がつつみこめてしまいそうなくらい、みょうじの手は小さい。いつも強気でうるさくて男みたいだけど、そんなとこはやっぱり女なんだなあ。
へーおっきー、なんて呑気なことを言っているみょうじの右手をぐっとにぎった。おれの左手にすっぽりと隠れたそれを、その手の主はぽかんと見つめている。
しばらくして、やっと状況を飲み込んだらしい渡邉は、ぼかんと赤くなった。自分の手をおれの手の中からさっと引き抜いて、一言。セクハラよ!
「じゃあいやなの」
「…いっ、いやでもないけど」
「はっ」
「な、なんなのよ!ばか!」
「おれもいやじゃねえから、おそろいな」
「なによばか!セクハラ魔っ!」
なんだ、結構かわいいとこもあるじゃん。なんてそんなことを思いながら、ふわふわと嬉しいあまり踊る左手は、存外この感情を楽しんでいるみたいなのだった。