第4話
■D-day -5
「スタートアップ・チェックリスト」
傾いた陽が暖色に染めるコックピットの中で、シャーマンが宣言した。右に座る副操縦士のサクソニー中尉が頷く。
「エンジン・アンド・プロペラ・エリア」
「クリアー」
「スロットル」
「アイドル」
「フライトアイドル・ゲート・レバー」
「オン」
「フュエル・ポンプ・スイッチ」
「チェックオン」
「プロペラ」
「ハイRPM」
エンジン始動にあたってエンジンとプロペラの周囲に人がいないことを確認し、スロットル位置を地上での最低出力のグランドアイドルにセット。離陸したあと、飛行中の最低出力となるフライトアイドルより出力を下げないためのロック機構を動作させる。エンジンに燃料を送るポンプのスイッチを入れ、プロペラのピッチを離陸時の設定である高回転に合わせる。単語ばかりの単調なやりとりだが、その手順の全てには人命と、10人単位の生涯収入で計るほどの値段の国有財産の安全がかかっている。
「エンジン・スタート・シークエンス、エンジンワン、スタートスイッチ」
こんどはエンジンをスタートさせる前にチェックすべき項目の読み上げが始まった。
コックピットから見下ろした機首の先、エプロンには、機体からずるずると引っ張ったケーブルをインカムをつけたグランドクルーの若手が、チェックリストの読み上げが終わるのを待っていた。B-10のエンジンは、4つある。飛行機を飛ばすというのは、非常に手間がかかるのだ。
シャーマンの指揮するB-10がようやく離陸したとき、太陽は地平線に没しようとしていた。
この日以降、戦略爆撃軍団は連日40ソーティ以上の飛行訓練を開始した。
ヴァンダイク基地には飛べなくなったB-10が余ってる。正式に用途廃止として書類上の処理をされたわけではないけど、損傷や疲労で飛行任務から外されて部品取りに回された機体は10機以上になる。僕らはこのうちの1機で暗視装置の実装を練習したいとティール軍曹にお願いしていた。
ティール軍曹は何かと忙しい人だけど、スクラップのうちの1機と、員数外の電源車を用意してくれた。翌日には、エンジンも武装も外され、でも外部電源を繋げばアビオニクスは動作するというまさに教材用としか言いようがない機体を用意してくれた。ご親切に「この機体で死人は出てないからな」とまで言われたのは、こないだの醜態に呆れられたからだろう。
それはともかく、ここ2日で実験してきたことを実機でできるかどうか試せる準備ができた。それは、作戦中の暗視装置の冷却を液体窒素で行うというアイデアだ。暗視装置はスターリング式冷却装置を使う設計になっていたけど、実際にはその冷却装置の能力が足らない。もっと悪いと冷却装置が動かないこともある。暗視装置は、単体でテストできるように液体窒素を通す配管がある。液体窒素であれば、ボトルの中身が尽きるまでは冷却できる。動作確認ができた検出器も6セットほど用意できた。動作する検出器実機に組み付けた上で、液体窒素による長時間動作ができないかを試したくて、僕たちは夕暮れに染まるスクラップに乗り込んだ。
そして僕らはここで大失敗をやらかした。
「窓っ! 窓開けて!」
「飛行機にそんなもんあるかっ!」
持ち込んだ改造ボトルは、当たり前だけど暗視装置の純正のボトルホルダに収まらず、かと言ってその場で軽金属製のボトルホルダをどうこうできるわけもなく、仕方なしに格納庫で純正ボトルに液体窒素を詰めなおしてからボトルをセットした。爆撃手席でボトルを開き、暗視装置をテストモードで作動させた瞬間、赤外線レシーバーを冷却した液体窒素は気化して白い煙となって吹き出した。この瞬間まで、4人が4人とも術科学校で叩きこまれたはずの低酸素症のことを忘れていたのだから、どれだけうかれていたのかがわかる。
大気中の酸素濃度が下がると人間は死ぬ。大気中の酸素は21パーセント、肺が出す呼気の酸素濃度は16パーセント。肺胞はこの5パーセントの差の中でガス交換をしている。そしてこのガス交換は一方通行じゃない。空気中の酸素が16パーセント以下になると、肺は酸素を取り込めないどころか、低酸素の空気と均衡しようと血中の酸素を吐き出し続けることになる。高山病と違うのは、高山病はあくまで気圧の低下に伴う空気の薄さが問題であって意識して呼吸を早めたり身体そのものを慣らすことができるのに対して、低酸素症は人体の酸素を取り込む仕組みそのものを壊してしまう。そんな空気を吸えば一瞬で意識を失うし、救護されても脳に後遺症が残る。閉所での溶接や塗装、排ガスの一酸化炭素など低酸素になる可能性のある作業は航空機整備でもいろいろあるから、専攻問わず全員が安全衛生の初歩として授業を受けたはずのことだった。気化ガスが吹き出すまで誰もそれに思い至らず、それを見てやっと思い出し、そして全員がパニックに陥った。
ラングレンがあわててバルブを閉じたのとラッセルが脱出ハッチの爆発ボルトを動作させたのはほとんど同時だったと思う。ガスの気化は止まったけど、爆発ボルトは動作しなかった。教官の「倒れた奴を助けようと安全を確認しないまま近寄らないように。心配するな、やられた方は苦痛を感じる暇もない」という言葉が脳裏に浮かんだ。
全員が間抜け面を晒した事故死を覚悟して顔を引きつらせて固まっている中で、白いガスは数秒で常温に溶けて消えた。
さらに数十秒が経ったとき、ウィリスが口を開いた。
「えっと、ボトルが空になるまで気化しても、問題なかった…のかな?」
動作試験用の液体窒素ボトルは容量250ミリリットルで、全量が気化すると排出される窒素は大雑把に150リットルを超えるくらい。B-10のガラスドームは爆撃照準装置や機銃が備え付けられていたけど、流線型を描くために長く伸びているから容積は4立法メートル以上ありそうだ。実際には爆撃手席のうしろの通路は扉もなく開け放たれているのでそうはならないけど、仮に機首ドームが密閉されていたとしても、酸素濃度の低下は2、3パーセントくらいだろうか。
ウィリスは早口で「それなら人が死なない」と説明した。
「いや、違う」
膝から力が抜けてへたり込んだ僕は言った。
「事故にならないように、機首ドームの容積から、動作試験用のボトルの容量を設計段階で決めていたんだ…」
無様に死にかねないドジを踏んでから、バカ対策フェイルセーフに命を救われて、僕らはそれにやっと思い至った。
「なんかもう、ダメダメだな、俺ら」
ラングレンが半泣きの顔で真っ赤に塗られた爆発ボルトの動作レバーをガチガチと動かしながら言った。動作しないのも当たり前。用途廃止機に、少量とはいえ火薬で動作する爆発ボルトが残っているわけがないから。
悄然とする仲間たちを見ているうちに自然と涙が出た。なんでこういう作りなのか、何を意図して設計したのか、どうして手順を守らせようとするのか。半年も学校で習っていたのに、本当の意味でのその重要性を全然わかってなかった。何の作業を何のためにやって、どのような結果を得るのか、どんな不具合が起こりえるのか、その時にはどう対処するのか、全く考えていなかった。あさはかにも6時間以上稼働するようにと張り切って改造した2リッターのボトルをいきなり付けていたら、そして気化ガスが無色のまま排出されていたら、酸素濃度が低下しても死ぬ瞬間までそれに気づくこともなかっただろう。もし爆発ボルトが動作していたら、ひとりふたりはハッチから落ちていたかも。地面まで4メートルというのは、打ちどころによっては充分に死ねる高さだ。
そしてガスの漏洩や戦闘被弾やボトルの破損を考えたら、爆撃手の傍らに数時間も稼働させるような大容量の液体窒素のボトルなんて置けないからこそ、開発軍団はモーターで動作するスターリング式冷却器に固執していたんだ。それがわかっているから、ショップ長は必死になって動く冷却装置クーラーを仕立てようと何十台も分解しては組み上げていたんだ。役立たずを作ったとざんざんバカにした僕らこそがバカだった。無知で、考えなしで、未熟で、間抜け。そりゃ、呆れられもするな。
「なら考えようよ。暗視装置を、使えるようにしようよ」
ラッセルが言った。血を吐くような声だった。
「それができなきゃ、本当に役立たずなんだから」
僕らももうすぐ戦争が終わるらしい、という話は知っていた。今度の出撃が停戦交渉を有利にするためだというのも聞いている。たったいま死にかけた僕たちだけど、命を拾ったことよりも役立たずのまま戦争が終わることが怖かった。
こいつはちょっとおかしい。航空機関士のマーティン中尉は思った。
試作機の頃からB-10に関わり、いろんなパイロットと組んでいるが、その中でもシャーマン大尉の操縦はトップクラスだった。そりゃ、首都爆撃の指揮官機のコーパイをやってたくらいだから下手くそなわけがないが、戦闘神経症のことを抜きにしても1年のブランクがある。普通は勘を取り戻すところから始まるが、復帰初日からまるで毎日飛ばしてきたかのように機を操ってみせた。
そして今回の任務だ。戦闘機の飛べない夜間に、共和国の長距離レーダーサイトのレーダー覆域よりも低い高度を高射砲陣地を避けて何度も変針しながら長距離侵攻する。低空で大型機を振り回すということであれば海軍の対潜哨戒機もやっているし、海軍に派遣されている間に多少は見聞きして知っているが、対潜哨戒機がぐるぐる回るのは何も無い海上だ。気を抜くと山地に激突するわけでも地面自体の高さに合わせて高度を変えるわけでもない。だいたい、機体自体、あっちはB-10の1/4の重量しかないのに馬力は1/3なのだから、出力重量比でも操縦性でも重爆撃機は対潜哨戒機よりも不利なのだ。
海軍の対潜作戦だとソノブイなりMADなりに反応があると発煙筒やトーチを落として旋回の基準点にするが、今回の作戦のB-10がやるのは単なる進路変更なのだから目視できる基準点などない。そもそも夜間に目視などアテにできない。それを電波灯台と慣性航法装置に頼る航法士との連携だけでドンピシャで旋回する。下手くそがやると旋回がオーバーしたり足らなかったりで修正が必要になり、それはたいてい高度の低下を伴う。延々と低空を飛行するわけだから、高度低下は即、リカバーしなければならない。そうなればバカのひとつ覚えみたいに「パワーパワー」と出力を要求され、航空機関士はエンジン寿命と燃費を引き換えにフォローすることになるのだが、シャーマン大尉は機の持つエネルギーの管理が異様に上手い。ちょっとした高度差を速度に転換し、高度が欲しければ速度を差し出し、旋回もバンク角をビタっと決めたら一定のGでレールの上を走るかのように80トンの重爆撃機を飛ばす。もしシャーマン大尉が戦闘機に乗っていたら、恐ろしく空中戦に強いパイロットになっていただろう。
今回の出撃では腕がイマイチな連中は撥ねられている。技量で脚切りしたうえで連日、80両編制の燃料列車が毎日届ける燃料を使って訓練しているのだから、他の操縦士も早晩同じことができるようになる。しかし初っ端からこれができて、それを教本にまとめて配ってるシャーマン大尉の操縦センスは、やっぱりちょっとおかしい。
■D-day -4
イエローが本格化する作戦業務のためにヴァンダイク基地で空いている大部屋を要求したところ、庶務課は地下司令部施設の会議室を割り当ててきた。過日、高級士官を集めて戦況説明会を行ったあの部屋だ。保安基準的にどうよと思わないでもなかったが、たしかにこの戦争では使ってもいなければ使うアテも無い。折り畳み机を繋げて作られた作業台の上には、大判でプリントされた偵察写真が並べられている。その周囲では借りてきたラセット少佐の部下たちが、ルーペを覗きながら解析作業を続けていた。
シャーマンは、夜は飛行訓練、昼は参謀職と二足のわらじを履くことになった。解析班から報告を受けるたびに傍らのダンボールから取り出したパウンドケーキの缶を渡す。受け取ったパウンドケーキ缶を押し抱くようにして戻っていく解析班を微妙な表情で見送ったシャーマンは、軽く頭を振ると広げられた作戦地図に色の違うピンを刺したり、注釈を書き込んだ付箋を貼っていく。
「みんな、ご苦労さま」
書類を抱えて会議室に入ってきたイエローは分析班員の敬礼に応えながらシャーマンの側に歩み寄った。シャーマンが夜間訓練から帰投してデブリーフィングを行い、シャワーを浴びて着替えたらそのままこちらに詰めているのは知っていた。夕方からまたブリーフィングが始まる。この子をとっととデスクから引き剥がしてベッドに放り込まないと。
「首尾はどう?」
「目標選定はほとんど終了しました。明日の午前中には最終報告にまとめられます」
もっと手こずるかと思っていたが、予定よりも早い。さすがパウンドケーキの威力だとイエローは感心した。
長期保存が可能な軍用糧食はいずれも「食欲をそそらない」ことで知られるが、唯一の例外がパウンドケーキだった。どういうわけかこれだけは店に出しても金が取れるというレベルの出来で、公式には5年保存とされていた。だが、ある将軍が退役パーティで新任少尉時代に死守命令が下された折に支給されたといういわくつきの30年モノのパウンドケーキ缶を開けたことが、伝説を作った。
誰もが「あの時に食べておけばよかったですね」というお約束な結果になると思っていたが、ところがどっこい、その中身は腐敗どころか劣化もなく、将軍がちゃんとおいしくいただけてしまったのである。
その結果、戦闘糧食を開発する補給軍団兵站研究所の奇跡とも言われるパウンドケーキ缶は、軍においてはある種の通貨としても通用することになる。供給量が一定で急激が増減がないこと、経年による価値の低下がないこと、さらには所持するそれを譲渡や移送をしても罪に問われない合法性は、経済学において通貨に求められる役割とまったく同じだったからだ。
詳細を知らされてはいなかったが、シャーマンへの無礼に対する「手打ち」として差し出された整備班400人あて1ヶ月分のパウンドケーキのダンボールの山は、イエローに万能ではないにせよ兵科や所属部隊の垣根を超えて無理融通をきかせられるだけの権力を与えていた。嗜好品という意味ではコーヒーやタバコも該当するが、砂糖もがっちり統制されて店売りのケーキどころか飴玉ですら15歳以下の扶養家族証明書を提示しての配給となっている戦時であれば、老若男女軍民問わず確実に需要がある甘味は「何とでも交換できる」万能通貨と化していた。現にラセット少佐は最も腕利きの分析班員を送ってよこしたし、彼女らは出稼ぎとして成果給を稼ぐ気満々だった。特急料金は報告のたびに都度、シャーマンから手渡された。シャーマンの方はパウンドケーキを差し出すたびに、子供の頃に遠足で行った水族館で見た、芸をするアシカと飼育員を思い出していたのだが。
「燃料廠からの列車は明日到着予定、機体の方は明後日に全機の改修が終わるわ」
「全力出撃ですか?」
シャーマンの問いに、イエローは微笑んだ。
「1年ぶりのね」
今度は言えた。
相当にナメた口をきいて戦争英雄御自らの鉄拳制裁を食らったと聞いたからどんな愚連隊かと思ったが、会ってみりゃただのガキだった。それがワトソン上等兵の持った印象だった。4人兄弟の長男という出自を持つ彼にしてみれば、故郷のいる弟たちを思い出すなあ、といった程度で、整備部古参の激怒っぷりは過剰反応なのではないかとさえ思ったが、まあ立場が違えば気にしなきゃならないことも違ってくるんだろう、と殴りつけた方のシャーマン大尉の心情も含めて、鷹揚に流していた。
ヘボ銃手と揶揄されたことも、実際、首都爆撃では、かすかに見える夜間戦闘機の排気炎に向けて確証もなく引き金を引くのみで、所詮、銃座の防御射撃など景気付け以上の意味がなかったことを実体験として知っている以上、嘘じゃねーわなとしか思わなかった。だいたい整備の連中に空中勤務者サマと士官パイロットと一緒に持ち上げられても、入隊早々に適性を認められて士官養成コースで大事に育てられるパイロットと、早ければ半年で実戦に出る一山いくらの銃手では絶対的なヒエラルキーの違いがあるのだ。そういった意味では、士官パイロットであっても一目置かざるを得ない海軍派遣中に挙げた戦闘機撃墜確実の戦果と鉄砲上手の評価も、彼が大人な態度を保てた理由ではあったろう。
いまとなってはヴァンダイク基地の「クソガキども」で括られる4人だが、ワトソン上等兵は彼らを名前で呼ぶ数少ない例外だった。あと一人だけいる例外は引率のティール軍曹だ。そんな4人が自分たちのやっていることをワトソン上等兵に教えたのは、空中勤務者の評価を知りたかったこと、ティール軍曹では逆に大目玉を食らいかねないことにあったにせよ、この先天的なお兄ちゃん気質に懐き始めていたからかもしれない。
「へえ、それだけでいいのか」
「はい、このリレーを抜くと安全装置が切れて、飛行中でもテストモードの冷却が始まります」
ウイリス二等兵は他人と話せる高揚を押し隠しながら説明した。彼らがいるのは教材用のスクラップではない。迫る出撃に備えて連日訓練を行っている実戦機の爆撃手席だ。夜半の飛行訓練開始まで気持ち暇になったワトソンが対空銃座の軸線調整を覚えてみるかと声をかけた。ひと通りのレクチャーを終えたあとに、ガキどもはおずおずと「こういう方法はご存知でしょうか」と新型暗視装置のイリーガルな冷却法を切り出した。
液体窒素を用いた冷却は、あくまで動作試験用である。最大30分の動作時間の時間配分は、検出器を77ケルビンへ冷却するのに20分、テストに10分というものである。本調子のスターリング式冷却装置であれば同条件まで冷却するのに7分であることを鑑みればオマケの機能でしかないが、それがアテにならない以上、オマケの機能でもなんでも使って性能を発揮させるしかない。ウイリスたちは飛行中は動作させないようにする安全装置を切れば、スターリング冷却装置を作動させたまま追加で液体窒素を吹き付け、赤外線検出器を規定温度にできると説明した。
爆撃手席には正規のテスト用ボトルを1本だけ設置し、破裂に備えて基地には腐るほどストックのあった
銃手用防弾ベストで赤外線レシーバーを覆ってある。検出器を冷却したあとの窒素ガスは、機首ドーム内に溜まらないように排出口に目張りしてダクトホースで通路まで引っ張っていた。通路が狭いといっても機首から機尾まで30メートル近くある。実際のところ空中勤務者には酸素マスクもあるし与圧もない通路で密閉はありえないのだが、仮に密閉されていたとしても酸素濃度を1パーセント下げるのに必要な窒素は液体窒素換算で4リットルほどになるので、ボトル数本分の消費でも問題はないはずだった。
「自分たちが試した分では、クーラーが動いている状態で液体窒素をかけてから規定温度まで冷却するまで5分くらいでした。マニュアルには載っていない冷却方法ですが、本当に飛行中に液体窒素のボトルを動作させたくなければいくらでもやりようがあるので、簡単に安全装置が切れるようになっているのは設計者も想定してたからかもしれません」
併せて、液体窒素のボトルの被弾による破裂や排出ガスによる低酸素症のリスクも説明する。聞かされたワトソンはふんふんとうなづきながら言った。
「こんな方法はパイロットの士官様も含めて知らないだろうな。昨夜の訓練でも爆撃手はクーラーが動かないと文句を言ってたし」
ワトソンの傍らでは赤外線検出器を冷却したあとの窒素ガスがふしふしと音を立てている。昼間であればフードを被せなければ画面が読み取れない直径5インチのCRTは遮光カーテンがひかれて薄暗くなった爆撃手席でむき出しにされ、射撃場の反対、3000メートルの滑走路の向こう側の風景を可視光ではなく熱の強弱を白黒…正確には蛍光剤の色であるグリーンの濃淡で表現していた。
画面上をのろのろと動く輝点な何かとカーテンの隙間から双眼鏡で覗いてみれば、支援車両のタンクローリーとわかった。暗視装置を使えば夜間でも同じ情報が手に入るとなれば、なるほど開発軍団が入れ込むのも爆撃手たちが罵りながらも未練たらたらなのも納得だ。
「どのリレーを抜けばいいか、メモくれるか?」
「でも、本当に動かしていいのか僕らでは判断できなくて…その、ショップ長に聞きに行けなくて…」
「いや、似たような安全装置の殺し方は銃座にもあるんだわ。ボトル1本分ならぶっ倒れることもないんだろ? たぶん行けると思うが、うまく行かなかったからって恨みゃしないよ」
うまく行きゃダクトの細工ぐらいこっちでやれるし、とワトソンは笑った。とはいえ凶状持ちの前科者扱いであることはガキどもも自覚していた。ワトソンが「そんなに気にしなくても」と言ったが、彼らは頑なまでに自分らの発案であることを伏せてほしいと懇願した。まあ、責任回避の保身から言ってるわけでもなさそうだし、うまく行けば折見てこいつらの殊勲だと明かしてしまえば良い。こんな方法で赤外線検出器が働くなら、こいつらは爆撃手の妹達でハーレムが作れる。
「お前ら、よく教えてくれた。これも勉強の成果だな」
ブリーフィングのために爆撃機をあとにするワトソンは、そう笑ってガキどもの頭をわしゃわしゃとかき回した。部外者故の、整備の人間関係や組織や軋轢を知らないからこその態度であったが、それは彼らをある意味で救い、一方で依存という泥沼に叩き込んだ。
ノーズギア備え付けのラダーを降りるワトソンの「銃座からも見えりゃいいのにな」という何気ない一言は、4人の耳に届き、神託と同じ効果を発揮した。
そのクソガキどもがそのあと何を始めようとしているかを知ったら、ティール軍曹はビンタを張ってでも止めたであろう。久方ぶりの全力出撃へ向けて殺気立つ基地の空気と、追い詰められた(と思い込んでいる)自らの立場の挽回のために、ノリス二等兵以下の新兵4人組は軍規違反のラインを軽々と飛び越えて制式兵器の無断改造に及ぼうとしていた。完全な視野狭窄である。
周囲の大人がゴミ扱いしているために認識がズレているが、政府納入価格で庭付きの戸建てが買える値段の新型暗視装置を子供がバラかしている光景は異常の一言に尽きた。
彼らは新型暗視装置の設計意図(の一部)をある意味自らの身体で理解したものの、だからといって新型暗視装置を対空射撃の管制に使えるはずもない。そんなことをB-10や暗視装置の設計者は意図していない。にも関わらず突拍子もないことに手を付けたのは、彼らを相手した数少ない人間であるワトソン上等兵の言葉にあった。
レーダー夜戦が遠距離から侵入機を探知できるといっても攻撃手段は30ミリ砲で、それも同口径の対戦車砲に比べれば反動の問題から薬莢の短いものを使っている。これは自動発砲の弾道計算の精度の問題でもあるのだが、射撃距離の500メートルから300メートルというのはB-10の50口径機関砲でも射程内で、見つけられさえすれば撃破の目もある。つや消し黒の夜間迷彩は満月の夜であっても肉眼ではまず捕捉できないのだが、赤外線暗視装置であれば色は関係ない。温度を持つか持たないか、周囲と温度差があるかどうかでしかない。ならば高温を発するエンジンを装備したレーダー夜戦を見つけられないわけがない。見つけさえすれば、狙えさえすれば、ワトソン上等兵なら撃墜してくれる。何と言っても彼は鉄砲上手なのだ。
とはいえ各銃座ごとに設置するのは端から不可能だった。赤外線検出器だけなら手のひらに乗る程度のパイプ状の部品でしかないが、赤外線の強弱を点でしか感知できないチューブに二次元の画像を描かせるためにX軸Y軸で走査するガルバノミラーや、検知器にくっつくスターリング冷却器、検出器を2400ボルトまで昇圧する電源部を含めたレシーバーセットのユニット重量は50キロもあるのだ。銃手が潜り込んだら背中も掻けない狭さの銃座に収まるわけもない。
そして電力供給の問題があった。各銃座は電気モーターで動く動力銃座だったが、とくに上部銃座は回転数や回転方向の制限を無くすために銃塔内との配線はスリップリングを介していた。スリップリングとは電源や信号コードの一端をリング状にし、軸に備えたブラシで接点することで自由に回転してもコードの捩じれを無視できるように作ったスイッチの一種である。
B-10の場合、銃塔の旋回モーターは銃塔外にあって、操作レバーのスイッチの信号をスリップリングを通して動作させていたほか、インカムの音声信号と照準器と銃座の仰角モーター、クルーの保温用電熱服に電気供給していたが、システム一式で40アンペアも必要な暗視装置を動かすような通電容量はなかった。一般論としてはより容量の大きなスリップリングを使うという手段もあるが、酸素マスク用のスイベルジョイント…これも回転の影響を受けずに液体や気体を送るためのものだ…と一体の専用品となれば、交換のアテもない。もっとも、狭い銃塔内に、言い換えれば生身の人間のそばに液体窒素ボトルを備えることなど、今の彼らにとって論外であったのだが。
実現の可能性が低いが故により安易に辛い現実から耳目を塞ぐ手段を見つけた少年たちは、それに耽溺するかのように段ボールで作った赤外線レシーバーと同寸の空箱を抱えては、設置場所を探して飽くことなく爆撃機の機内を這いずりまわった。
バックライトを点けなければ計器の針も読めない暗い爆撃手席で、カレッジ曹長はマップライトに照らされたメモを、胡乱なものを見るような目で眺めていた。彼の乗る…シャーマンが機長を務めるB-10フライングフォートレス「レイヴン・ゼロフォー」は、日没直後に航法訓練として離陸してから既に2時間以上飛行し、十数回の旋回をこなしていた。単に旋回しているのではなく、操縦席では遮光カーテンを降ろして外が見えないようにした上で計器飛行をやっているらしいが、カレッジ曹長には普段の飛行と何が違うのかはわからなかった。
出処も明らかではないメモは、離陸前にワトソン上等兵に液体窒素の入ったボトルと一緒に渡されたものだ。「ちょっとだけ、試してやってくれませんか」と鉄砲上手に低姿勢で言われると、こっちの階級や年齢が上でも断りづらい。
傍らの魔法瓶の中身が全部ぶちまけられても健康に影響はないと理屈を言われたからと不安を拭えるわけではないが、やりもしないでダメだったと積極的に嘘をつかなきゃならない理由もない。うまく行かなきゃこれっきりとはワトソン上等兵の方から言っているし、無碍に断るのも角が立ちそうだしというのが、カレッジ軍曹がこの非公式な「実験」に付き合っている理由だった。
「第16旋回点まで1分、目標まで10分」
インカムから航法士のヘントン少尉の声が聞こえた。カレッジ曹長は液体窒素のボトルを赤外線レシーバーのカバーを開けてボトルホルダにセットし、キャップを外してクーラーにつながる金属ホースを嵌め込んだ。これでカバーを閉じればボトルの口が下向きになる。
彼は意を決するとカバーを閉じた。通常であれば飛行中であることを安全装置が検知して、リレーが勝手にソレノイドバルブを切り替えてドレン管から液体窒素を捨てるはずだが、予め指定されたリレーを抜いていたことから、カバーを閉じてもバルブは切り替わらなかった。
色も臭いもない液体窒素が気化して爆撃手席に広がっていくのかと想像すると、すこし気分が悪くなったが、それも赤外線検出器が冷えるまでの5分ほどの時間でしかなかった。
「おい…嘘だろ」
昨晩まで、どうあやしてもいじってもノイズ混じりに無意味な模様を写すだけだったCRTは、赤外線レシーバーがとらえた信号をもとに、物を判別できるだけの映像を映していたからだ。もちろん、ぼやっとしてると評判の悪いテレビジョン放送よりなお鮮明さで劣り、画像も少々歪んでいる。コマ落ちしたかのようなカクカクした動きで滑らかさの欠片もない。だが。
「真下は畑で、あっちが森林。いま通り過ぎたのは道路か…いや、線路だ。複線の線路だ。じゃあ、あれは川か。温度が低いのか」
カレッジ曹長はごちゃごちゃと押し込まれた機材の隙間から、外を見た。夜間の低空飛行の最中に外を眺めても、すべてが闇に沈み、何も見えない。爆撃照準器をはじめ各種計器を読み取るために、輝度を落としたとはいえ豆球の光を見ているのだ。暗順応でどうにかなるわけもない。
しかし、新型暗視装置は、まさに新型と思わせるだけの情報を画面に表示していた。
「爆撃手、何か見えるか」
シャーマン大尉が呼びかけてきたが、期待している口調ではなかった。カレッジ曹長は少しあわてて言った。
「ちょっ、ちょっとだけ待ってください」
射爆場には施設部隊によって標的となる廃車両が置かれている。幾つかにはご丁寧に燃える練炭を詰めた一斗缶まで載せられている。赤々と燃えているわけではないが、熱量だけは走り回ったトラックのように「見える」ものがあるはずなのだ。
見えた。というか、映った。周囲よりも温度の高い「何か」のあつまりを、新型暗視装置は検知した。
「目標まで1分」
「針路0-8-8!」
「0-8-8宜候」
カレッジ曹長の咄嗟の叫びに、シャーマン大尉は慌てるでもなく合わせてきた。CRT上の輝点は周囲より多少明るいという程度で、物の形や、まして敵味方の区別が付くわけではない。だが、戦線後方に侵入する以上、周りは全部敵、補給廠という施設、敷地を攻撃するのだから、そこにあるのがトラックか戦車か、コンテナかドラム缶かを区別する必要はない。
「爆弾倉開け」
「了解」
「エフイー、エンジン出力最大」
「了解」
「目標まで30秒」
暗視装置は暗視装置でしかなく、爆撃照準器として使えるものではない。だが、どこに敵がいるのかもわからなかったのだ、いままでは。
「よーいっ!」
だがカレッジ曹長は、10年近い爆撃手としての経験があった。低空から、目標の真上を航過する。そのどこに苦労があるのか。彼はこの1年で最も自信を持って投下レバーを握った。
「撃てっ!」
投弾して1分後、航法士のサクソニー少尉が「第17変針点まで1分」と告げた。
「爆弾倉閉じろ」
「爆弾倉閉じます」
「爆撃手、自信はあるか?」
「今夜はあります」
「そうか」
先ほど投下したのは、本物と同じ落下特性をもつ小型の訓練爆弾で、爆薬は入っていない。入っていないから、当然だが爆発はしない。その代わり、染料で着色した石灰が詰まっている。訓練爆弾は着弾すると容器が割れて石灰をまき散らす。これを翌朝、射爆場の片付けにきた工兵が色ごとに着弾点を調べて、成績として部隊に送って寄越す。
いささか臨場感に欠けるが、複数の射爆場を手当てしたとはいえ、一晩に何十ソーティもあるのだから、いちいち実弾を使っていたら面倒なことになる。
「上方銃手」
「はい機長」
「帰ったら種明かししてもらうぞ」
ばれてーら。上方銃座でワトソン上等兵は嘆息した。
■D-day -3
その寸法を身近なもので例えるなら、大型バスだなとイエローは思った。幅2.5メートル、高さはシャーマンが立ったままでもまだ天井までには余裕がある。陸軍で使っている兵員輸送型では通常30名、非常時最大で50名を運ぶというから、たしかにバスという比喩は正しいかもしれない。だが、ただのバスとは違うところは、馬力で言うならバスの50台分は発揮するターボシャフトエンジンで飛行し、かつシートがたった12席しかないところであろうか。
この大型ヘリコプターはハネウェル中将の専用機で、普段は中将が作戦指導の際に幕僚と一緒に移動するために使われる。首都カーディナルにいる中将が、ふたりを呼びつけるために差し回したのだ。イエローは形式上、軍に奉職するようになって20年になるし職務でヘリで移動することも珍しくはなかったが、革張りシートにギャレーやトイレまで付いているVIP仕様機に乗ったのは初めてだった。
インカムなしで会話ができるほど静かな機内では、案内のために同乗した中将附きの従兵が代用ではないコーヒーまで振る舞ってくれたが、落ち着かないことおびただしい。膝の上に乗せた手錠付きブリーフケースがなければ狐に化かされたと言われても納得してしまいそう。
「うちの息子の嫁に」と言われそうな、いかにも老将軍好みな清潔感あふれる軍曹に給仕されて平然と礼を言っているシャーマンの図太さを、イエローは羨んだ。
ヘリがカーディナルの軍用ヘリポートに到着すると、ふたりはやはり中将差し回しのリムジンで国防省に乗り付けた。
国防省にもハネウェル中将は執務室を持っていた。執務室にはハネウェル中将以外に、例の作戦三課の大佐もいた。作戦計画書を持ち込んだイエローは、ここでお歴々相手に一席ぶつことになった。
作戦としては特に新味はない。イエローが戦術空軍で散々やった後方遮断をハネウェル中将の戦略爆撃軍団で実施するというだけだ。ただ、使用機材が重爆撃機となった分だけ作戦行動半径は拡大し、攻撃力は大きくなる。それをどこまで有効に引き出せるかが作戦案の要諦であり、イエローの腕の見せ所だった。
今回の作戦では戦術空軍の戦闘爆撃機では届かない師団、軍団規模の兵站を攻撃対象とする。これらには連隊、大隊以下に補給すべき物資が集積されている。戦術空軍の後方遮断との共同作戦でもあった。前線に近い補給廠を戦術空軍が襲撃しつつ、その損害を埋め合わせるはずの方の補給廠を戦略爆撃軍団が叩く。その結果、前線から後方に要求される補給物資は跳ね上がる一方で補給すべき物資が失われることから戦線の広範囲において補給切れの部隊が大量に発生することになる。
搭乗員の再編制と機材の整備の結果、参加兵力は当初の予定を下回って最終的に21機となった。写真偵察で判明した補給廠のうち、32箇所が目標に選定され、重要度が高いと判断された順に2晩に分けてこれらを襲撃する。もっとも2回めの出撃での攻撃目標は未定だ。1回めの戦果の写真判定と合わせて判断する。場合によっては重要度の低い目標への攻撃を取りやめて効果不十分の補給廠へ2回めの攻撃を行うこともあり得る。
出撃する重爆撃機は16機づつだから機数は少ない。しかし1機あたりの爆弾搭載量は同じ距離を進出する戦闘爆撃機に換算するなら10機分を超える。共和国軍にしてみれば夜中に戦線後方に180機近い戦闘爆撃機の襲撃を受けたのと同じことになるはずだった。首尾よくいけばこれらの補給廠が管理する総計20万トン以上の物資の何割かの喪失ならびに兵站の混乱の強要が可能と見積もられた。
もちろん、さらに後方、すなわち共和国本国から補給物資は追加で送られてくるからこの物資欠乏も一時的なものでしかないし、そもそも最前線の部隊にも自前の物資はある。だが、積極的な攻勢を行う余裕は失われるし、実のところ防御戦闘時のほうが弾薬消費は大きい。方面軍単位での差はでるものの、共和国陸軍全体として物資を集積し直し、兵站を整えるまでのリードタイムは、概ね半月と見積もられた。これによって停戦交渉が行われている間、共和国陸軍から行動の選択肢を奪うという作戦目的は満たされる。
イエローの説明のあと、ハネウェル中将と作戦三課の大佐の間でいくつかの修正が行われた。といっても戦略爆撃軍団の任務や作戦内容そのものには変更はなく、共和国が対抗あるいは報復として同種の作戦を行った場合への対策として、首都近辺の防空戦闘機の一部を前線に増派するというものであった。
大佐と並んでソファにかけてイエローの説明を聞いていたハネウェル中将は、書類を置くと老眼鏡を外した。
「作戦名は決まっているのかね?」
「去年の成功にあやかって、ディープダイバー2と」
包囲に陥った第27軍集団を救出するために、輸送軍団が大損害を出しながら補給物資を空輸し続けた作戦名がディープダイバーだった。大佐は一瞬だけ眉を寄せ、ハネウェル中将は何か言いかけたが、口をとじた。数秒、瞑目してから、今度ははっきりと言った。
「いいだろう。やりたまえ」
話はそれで終わった。作戦決行日は、停戦交渉開始初日と決まった。
重爆撃機は旅客機ではないから、窓なんてものは必要最小限しかない。海軍の哨戒飛行艇だと見張りや遭難者捜索のためのバブルキャノピーが設けられていたりするけど、機体外板まで強度を分担するモノコック構造なのだから、余計な開口部なんて作るわけがない。僕らはその数少ない例外にしてある意味一等地を見つけた。
「天測ドームか…いま使ってないんだよね?」
「今度の作戦は慣性航法装置と電波灯台だけで航法をやるってさ。ていうか、開発のときにパイロットが非常用にどうしてもと言ったからつけただけで、最初から使ってなかったみたいだ」
ウイリスが答えた。天測というのは太陽や月、恒星の水平線からの角度で現在位置を知る方法で、時計と六分儀と天測計算表があれば事足りる。ただ、あたりまえだけど空が見えていないと使えないから、航空機では天測ドームというアクリルガラスでできたバブルキャノピーを機体背面に備え付ける。
ただ、現在となっては時代遅れとみなされている。精度が足らないとか航法装置の進化のお陰でというより、搭乗員の仕事が忙しくなって席を離れて何かの装置を操作するという考え自体が、現実的ではなくなったからだとか。
「でもこれ、ホント外が見えるだけだよな」
タライを伏せた程度の直径と深さしかないドームに頭を突っ込んだラングレンが言った。
「椅子もない」
ラングレンのガタイの良さを差し引いても、踏み台の上に立ったらもう頭がドームにぶつかりそう。操縦席の後方の小さなキャノピーは、小さすぎて地上からは全く見えないから、そんなものがあることさえ知らなかった。ゆうべ、機内をうろついているときも全く気づかなくて、今日になって機内に細く陽がさしてるのが見つけ、これはなんだとフェノール樹脂製のシャッターを開けたら、天測ドームがあったという次第。
「真ん中にフックがあるじゃん」
ウイリスが指差した先、ドームの天頂部分には金属部品が埋め込まれていた。
「六分儀をぶら下げるためのフックだ。軍用の六分儀は重いから」
フックについて、四つん這いになって付箋だらけのB-10のマニュアルをめくっていたラッセルがここと絵画のようにうそ臭い修正がかけられた写真を指さした。滑り止めとつや消しのための梨地は16ミリのムービーカメラを連想させ、真鍮輝くフレームを持つ六分儀とは似ても似つかない。ふむふむ、空軍制式品のA-10六分儀はミラーもフレームも金属製のカバーに収められているせいで3キロもあるのか。中腰で小銃並みの重さを腕だけで支えるのは確かに辛そうだ。
「でもレシーバーをぶら下げられるとは思えないな」
「俺がぶら下がって平気ならいけるんじゃね?」
「それで割れたら弁償だよ…」
「ターレットみたいにするのは無理っぽいね」
「せめて回転する丸椅子でもついてればよかったんだけど」
僕らはがやがやと言い合った。最初、この天測ドームに気づいた時、回転台に赤外線レシーバーを据えてシンクロ電機で銃塔の向きと同期させ、射撃方向の赤外線画像を銃手の手元のCRTに表示することを考えたけど、それは無理そうだった。
「いいからこれあてて」
ウイリスがラングレンに赤外線検知器を模したはダンボールを押し付ける。ちょっと上向きに傾いたけど、レンズが尾翼を向いた状態で収まりそうだった。
「クランプと鉄パイプで井桁を作って、機尾方向で固定かなぁ」
ダンボールを下ろしたラングレンが指フレームで視野角を見ようとしているが、伏せたタライの中では腕の伸ばしようもない。
「画角は約15度、10キロ先で幅2キロ半。500メートルだと、120、130メートルだね」
「対空射撃をやるには、視野がせまいなあ…」
「いや、真後ろにつけなくするだけでも違ってこないか?」
「レーダー夜戦だって見越し射撃くらいすると思うけど」
「計算機を使ってたって命中率は落ちるよ…きっと」
ぱん。僕は手を打ってみなの話を打ち切った。
「どっちにせよやってみなきゃわからない。実際にレシーバーを据え付けて視野角を確認して、ついでに機銃の弾道がどう映るのかも試してみよう」
「試すって、どうやって?」
「そりゃ、実際に撃って…」
「だからその弾をどうやって手に入れるのさ」
僕らは顔を見合わせた。毒を食らわば皿までって、今みたいな気分なのかも。
親父の指示による再教育を、間近で30ミリ砲の銃撃を体験させるという形で行ってから1週間。小僧どもはたいぶ大人しくなったらしい。まあ1400名近い人員を抱える基地で、どこに行ってもほぼシカト、婦人補助空軍の年頃の娘からは特定の業界ではご褒美になりかねない視線、整備部ではパウンドケーキの件もあって総スカンとくればしおれもするだろう。
先ほど駆け込んできたかと思ったら用途廃止機を使って銃座の射軸調整をやりたいと言い出したが、まあ、親父が「好きにやらせろ」と言っていることだし、あれをしろだのこれはやるなだのと口を差し挟む理由もない。50口径を派手にぶっ放せば気も晴れるだろうと弾薬箱を20個、実包2000発を届けておく。帰りがけにラジオショップにいる同期には何かあったら尻拭いするように頼んでおいた。手土産もなしにやっかいごとかと相当に嫌な顔をされたが、部署が違うのだからしょうがない。
とりあえず、クソガキどもが少しは心を入れ替えて多少は熱心に勉強している。整備部での認識はそんなものだった。




