第3話
■D-day -8
空軍基地には付属病院がある。院長は軍医大佐か軍医少将で、下手をすると基地司令より階級が上だが、あたまに軍医がつくので兵科将校への指揮権はない。陸軍だと軍医であっても初級幹部課程を勤めあげないと部隊に着任できず、戦時の指揮継承の順位にも組み込まれているそうだが、そういった意味では空軍の軍医とは戦争から切り離された存在だった。
その附属病院は精神科の診察室に、シャーマンはいた。内科や外科であれば医師のデスクの正面にはレントゲン写真を見るためのライトボックスがあったり、診察のための医療器具や薬品棚が置かれたり、あるいは看護婦が助手として控えていたりするが、極端に調度品の少ない白さの目立つ診察室は、カルテとペン立てが置かれただけの医師のデスクと、その対面に座るシャーマンの椅子があるだけだった。医師は白衣こそ着ていたものの、聴診器すら持たず、医者らしくないなとシャーマンは思った。
「夕べは良く眠れましたか」
「はい」
嘘だ。
「夢は見ましたか」
「いいえ、全然」
これも嘘。
「そうですか…」
医師はカルテをめくる。
「先日行なった空中勤務者の適性検査からは問題は見つかりませんでした」
当たり前だ。航空身体検査に落ちないようにトレーニングを続けてきたし、心理テストはどう答えればどんな結果になるのかもわかっている。だが、ここは大人しく頷くだけにする。
「投薬をやめて半年が過ぎましたが、精神的なストレスが神経系の機能にはっきりとした形で影響を与えるというようなことは起きていないようです」
薬がなくて寝られないことを悟らせず、声を出さずに悲鳴を上げる方法を編み出し、周囲にあわせて表情を変えるよう注意を払ってきた。
「ただ…」
まだ疑っている。疑われている。さもありなん。シャーマンは力なく笑ってみせた。
「あれは、自分でも思い出してみて、ひどかったと思いますよ」
さて、先生には自分の表情が申し訳無さそうに見えているだろうか?
「あの出来事を自分の心の中で完全に納得させておかなげれば、飛行作業中に症状が再発するおそれだってあるんですよ? 現実から逃避したいという欲求が、発作の引き金を引く訳ですから」
「わかっています。しかし、私は一刻も早く任務に復帰したいのです」
「あせっても、結果は出ません」
医師はぴしゃりと言った。すこし機嫌を損ねようだ。しかしシャーマンは目をそらさずに医師を真っすぐに見返した。医師は「機嫌を損ねた振り」をしてこちらの反応を見ているのかもしれない。目を合わせられないような精神状態であるとか、眼球運動が不審であるとか疑念を持たれてはならない。シャーマンは全力で「生真面目な青年士官」の演技を続けた。数秒ののち、医師は小さくため息をついた。
「こんな戦況でもなければ腰を据えて治療にかかるところなんですがね」
医師はカルテに何事かを書き込むと、引き出しから一枚の書類を取り出した。書式は飛行任務への復帰を認める許可証だった。医師は無造作にサインした。
「どうなっても知りませんよ…とまでは言いませんが、お大事に」
シャーマンは立ち上がって許可証を受け取った。話は終わりだ。もう用はない。
「お世話になりました、先生」
シャーマンはドアの手前で振り返った。
そこには、血まみれの医師がいた。顔が火傷に覆われ黒く炭化していく。白かった診察室が薄青色のジュラルミン防錆塗装に変わる。砕けた防弾ガラスとずたずたにされた計器盤。破裂した油圧系統から漏れた動作油が燃える臭い。焼け焦げた飛行服を着ている医師が座るのは、B-10のコックピットだ。いつの間にか死んだクルーたちが医師を取り囲んでいた。
それは、シャーマンにとって懐かしい光景。
恐怖を克服した彼にとって、帰るべき場所。
顎から上のないレーキ大佐の笑い声は、シャーマンの飛行任務への復帰を祝福していた。
「どうかしましたか」
白衣を着た医師が怪訝そうな目でこちらを見ていた。
「いえ、別に。なんでもありません」
シャーマンは心から朗らかに笑うと、診察室をあとにした。パイロットとして復帰するには、まだ作らなければならない書類があるのだ。
左の頬が熱くなった。ショップ長の平手を食らったのだとわかるのに、一瞬の時間が必要だった。無線小隊の作業所は、しんと静まり返っていた。大尉殿に殴られたのに比べれば全然だったけど、なによりショップ長のラミー上級兵曹に引っ叩かれたことが信じられなかった。
「ノリス二等兵、誰が触っていいと言った」
僕は説明しようとした。ゆうべ、ティール軍曹と一緒にワトソン上等兵の講話を受けて。でも声が出なかった。
「誰が触っていいと言った」
最後にワトソン上等兵に「整備がんばれよ」って言ってもらえて。ティール軍曹はショップ長には話しておくと言ってて。
「誰が触っていいと言ったか聞いているんだ!」
だから、整備に復帰できると思って、担当の装置の整備をしようと思って。
「よこせ」
僕は持っていたアッセンブリーをラミー上級兵曹に引ったくられた。ラミー上級兵曹が僕の後ろに眼を向けた。大尉殿と同じ眼だと思った。首をすこし動かして背後を伺うと、修理待ちの棚に手を伸ばしてかけていたラングレンとウィリスがあわてて気をつけをして、ラッセルがアッセンブリを作業台に置いたところだった。ラミー上級兵曹がため息をついた。あわてて前を向く。そうだ、説明、説明しなきゃ。
「あ、あの、ゆうべ、ティール軍曹が、えと」
「いつからティール軍曹が無線の担当になった」
ティール軍曹はメカトロニクス部の油圧、僕らはアビオニクス部の無線。課業外の再教育を担当しているだけで、僕らの部署とは本来関係ない人だ。ラミー上級兵曹は顎をしゃくった。その先には作業所の扉があった。それは嫌だと思ってラミー上級兵曹の顔を見たけど、有無を言わせぬ眼だった。
僕たちは作業所を出た。4人共、泣いていた。
外務省情報企画室分析員の肩書きを持つコリンズがカーディナル港の客船桟橋に来たのは、特命大使を団長とする停戦交渉団に最新にして書類として渡せる最後のレポートを届けるためであった。
交渉が行われる帝国まで直接飛行できる航空機は存在しない。まさか共和国で給油するわけにもいかず、政府は客船をチャーターすることになった。非武装の外交船舶として通告済みとはいえ、半島の西側に出る際に共和国寄りの海峡を航行することは許されていないため、いささか遠回りをして亜大陸まで航海しなければならないし、万一の場合に備えて帝国での燃料の補給なしに往復できる船が求められた。
結果、軍需省に特設輸送船として徴用されていた同盟最大、排水量1万7000総トンの客船、ユニコーン号が急遽軍の徴用を解除され、即日外務省と傭船契約することとなった。
船体を軍艦色から白へ塗り直し、緑十字を書き加え、さらには陸揚げした調度類から最低限を据え付け直す工事は突貫で行われ、いまはペンキの匂いも新しく最後の出航準備を進めていた。
「軽食どころかコーヒーひとつ出す余裕はないよ。パーサーも定数は揃っていないんだ」
「べつにたかりに来たわけじゃない。すぐに帰るよ」
「今度の航海は戦闘配置の軍艦並の食生活になるって話だ。冷凍庫に空きはあるが肉も野菜も揃わなくて、足りない分は缶詰を積み込んでいるんだぜ」
交渉団の一員として派遣される同僚のコスティンはそう言って笑った。この規模の客船の乗組員数は200名近いが、船を動かすだけであれば40名もいれば足りる。残りはサービス部門のパーサーやイベント部のエンターティナーだ。
交渉団は異例の120名規模。旅客定員の1/4程度だから通常であれば収容に問題はないが、先週までは兵員輸送船として使われていたのだ。特命大使や幹部はともかく、タイピストや下級職員の一部の部屋は客室設備の復帰が間に合わず、鋼板剥き出しの客室に簡易ベッドを持ち込んだだけという。
復帰が間に合わないのはクルーも同じで、一流ホテルなみのサービスを提供するはずのパーサーをはじめ、コックやランドリースタッフも足りない。乗員乗客800人で3週間分の肉や魚介類、野菜を30トンを積めるというが、いまは外務省が政府公用を振りかざしてなお2トンの精肉すら集められない。統制経済で畜肉の生産が最低限にまで抑えられたところへもって、国民への配給と軍の消費で供給先と量ががっちり決められていたからだ。
「船上レセプションは何がなんでも回避だな」
「造水装置のお陰で真水だけは潤沢に使えるのが救いだが、洗濯も風呂トイレの掃除もセルフサービスだ。クリーニングも難しいから上陸まではスーツを仕舞ってジャージで過ごそうかって話があるくらいだ。なのに豪華客船で交渉に乗り込むという外面は保ちたいとは、まあなんというか、ハリボテな祖国の現状にある意味相応しいな」
「ふむ」
一時は共和国首都まで占領した戦線はじりじりと押し戻されている。いや、押し戻される速度が上がっている。戦況が不利なのはバカでもわかるが、統合参謀本部がこの戦争の落とし所をどう考えているのかを明かさないのが気に食わない。政府と軍とで共同歩調をとらねば交渉の成立などおぼつかないのだが政府…いや、内閣は、それを曖昧にしている。
逆の見方をすればある意味、内閣と軍の共同歩調がとれていると言えないこともないが、それで表面化するのは内閣と政府行政組織との対立だ。
今回の交渉団も長として特命大使を任命しているが、全権大使ではない。人選じたい、肩書きが与党の青年委員会委員長という若造だ。交渉においては内閣がいちいち指示をするつもりでいるのが透けて見える。
もちろんそんなことはこちらも先刻承知だから、外務省で4台しかない電子式暗号機のうち2台と、水をかけるとぐずぐずに溶ける特殊な紙に印刷された使い捨ての暗号表を夜通しで製本してたっぷり積み込んだ。無駄に増えるであろう通信量と、共和国外務省による解読に対応するためだ。
見栄を張るのはいい。国がメンツを捨てたら終わりだからだ。しかし誰に向かってどんな利益を得るために張る見栄なのかがわからない。交渉団の足など海軍に言って重巡洋艦の1隻も工面すればよい。いまさら巡洋艦の1隻2隻でどうこうできる戦局ではないし、戦力を抜くことで本気で戦争を止めるつもりがあるのだというメッセージとすることもできる。交渉団だって重巡の司令部設備に収まる40名以下に減らしても業務そのものは困らないはずだ。それをわざわざ無理を重ねて人数を増やし、豪華客船を仕立てている。まったく気に食わない。
「しかし、この船の航海が祖国の現状を表すというのであれば、徹底してそうしてほしいものだな」
コリンズの言にコスティンは片方の眉を上げた。
「だってそうだろう。6日の航海を耐えれば、君は戦争の無い国で統制と無関係に食料でもなんでも買い放題だ。交渉に成功して終戦が確定したなら帝国で帰りのコックを雇ったっていい。外交機密費でお大尽じゃないか」
コリンズの不機嫌の発露であったが、コスティンはそれをあっはっはと笑い、確かにそうだと答えた。
「ではその夢の航海のために職務に邁進するとしよう。食糧事情の悪い祖国に残る君が喜びそうな土産を買ってくるから楽しみにしていてくれ」
そう言って右手が出される。おどけたことを言っているが、状況はそれほど気楽なものではない。共和国との間で安導権が保証されているとはいえ、それでも誤認によって攻撃されるかもしれないからこその純白塗装のやりなおしであるし、潜水艦を振りきれる航海速力21ノットの高速船の手配なのだ。コリンズは強く握り返した。
その日の夕刻、同盟船籍の客船ユニコーン号は、往復3200海里の航海に乗り出した。
また面倒事だった。
格納庫の裏で小僧どもが泣いているからなんとかしろと言われ、ラミー上級兵曹のところに事情を確かめに行き、しかし頑としてこの作戦が終わるまでは小僧どもを整備に携わらせることはないと追い払われた。
いい年してそんなことも自分の裁量で処理できないのかと言われそうでイヤだったが、本業だって押している以上、余計な時間はかけたくない。親父のところへ報告と指示を仰ぎに顔を出した。案の定呆れられたが、ラミー上級兵曹がブチ切れていることまで責任は持てない。
最終的には親父がケツを持つということで、小僧どもは課業時間内は「自習」することになった。といっても自習用の教材だの作業場だのの手配は俺がやらされた。「教材」はラミー上級兵曹に提供してもらった。実の所またブチ切れるんじゃないかと思ったが、小僧どもが術科学校で習ったという新型暗視装置なら好きに持っていけという。なんでも出来が最悪で、整備が悪いせいかと青くなって無線小隊総出で手順書と首っ引きでいろいろ試したが、結局は冷却装置に根本的な問題があったというオチで拍子抜けしたらしい。
しかも戦略爆撃軍団を総ざらいしても現有保有機が30機かそこらなのに、大損害以前の定数に合わせて予備まで入れて120セットも届いたもんだから5セットや10セット壊しても構わんとまで言い切った。実際、渡されたのは封も切っていない新品だった。
いま技術本部で冷却装置の設計をやり直している最中で、そのうち改良型が届いたらどのみち廃棄なんだとか。極低温で動作するバネ1本で俺の給料1月分を余裕で超えるのに積み上がった在庫は廃棄確定なのは思う所がないでもなかったが、いまは小僧どもを暇にさせない方策が先だ。
総務に無理を言って空き部屋を確保し教材と工具も用意した。用意したはいいが、俺も暇じゃない。側について面倒をみてやれるわけではない。暇だったとしても専門が違うから何かを教えてやれるわけでもない。
しかし親父は「整備は機械に触ってなんぼ」「仕事は盗んで覚えろ」「整備なら腕で黙らせろ」とアナクロなことを言う。高卒の入隊半年の子供が、盗むお手本もないまま隔離部屋に放り込まれて、どうやったら腕で勤続15年のショップ長を黙らせられるというのか。こいつらの身から出た錆とはいえ、ブラック企業の退職圧力じみた扱いにはいい加減気の毒になってきた。
何事も今度の作戦が終わってからにしかならんか。またぴーぴー泣かれても困るから、再来週には親父も交えて今度こそちゃんとショップ長に取りなしてやるから、整備員の自覚をもって勉強に励むようにとそれっぽいことだけは言って、仕事に戻った。
■D-day -7
作戦参加機の選定作業の最中、シャーマンはイエローに言った。
「これ、無駄じゃありませんか?」
きっかけはシャーマンがB-10の側方銃座を廃止すべきと言い出したことだった。
前後上部下部に左右の側方銃座によって防護されるB-10であったが、その側方銃座は他の動力銃座と違って人力で操作された。
時速600キロを超える気流の中で連装や4連装の機銃を人力で振り回せるわけもなく、この2箇所の火力は50口径の単装という貧弱なものであった。過去の戦闘詳報を見ても当人の申告はともかく撃墜や阻止の実績が芳しくなく、他の動力銃座が一応は防弾ガラスに守られているのに比べると銃手の防護は無いに等しいために死傷率が高く、かつ戦闘態勢をとるためにスライド式のドアを開けると空気抵抗で速度が低下した。シャーマンは盲腸とまで言い切った。
そのくせスライドドアだけは「閉鎖状態、射撃時、脱出・乗降時」を圧搾空気で段階動作させるという無意味に凝った設計で、無駄な分割構造の可動部や圧搾空気用コンプレッサーなどの補機類の重量は200キロを超えていた。それだけあれば厚さ20ミリの防楯だって作れたことを鑑みれば、生残性のわずかな向上を側方銃手の生命で贖うのは非効率というのがシャーマンの主張だった。
機長資格者を集めたミーティングでも賛意をえたことから、順次、ドアとコンプレッサーを外して嵌め殺しの外板にする改造が決定されたが、このことが潜在的な問題を顕在化させた。
戦略空軍の重爆撃機は固定クルーと専用機が建前だったが、昨年の大損害のあとは部隊再建の優先順位を統合参謀本部によってがくんと落とされていたことから、人員補充が滞っていた。海軍への派遣において銃手が欠けたり、あるいは航法士を作戦海域に慣れた海軍から借りたために本来の航法士が基地に帰されたり、さらには昇進によってクルーが他の部隊に転属してしまったりで、紐帯を誇った固定編制はすっかり建前のものとなっていた。
作戦直前に編制をいじることにはデメリットもあったが、戦闘行動が1年ぶりというブランクを埋める猛訓練が控えていることもあって、シャーマンはクルーのチーム分けを側方銃手の廃止も含めて全面的にやり直すことを主張した。難色を示す機長がいなかったわけでもないが、いじる必要のないチームは極力いじらず、機長と副操縦士のペアを核とすることで話は落ち着いた。戦略爆撃軍団の気風からすると大事件と言って良い事柄であったが、それに疎いイエローにとっては「あらそう」という程度の認識だった。新しい編制表が届くまで、イエローは誰が出撃するかを知らなかった。
赤外線暗視装置はもともとはレーダーの小型化がうまく行っていない夜間戦闘機のために開発されたものだ。とはいえ、赤外線利用のアイデアそのものが、民生用TVカメラが近赤外線まで検知できることを知った軍が軍事利用出来ないかという思いつきで始めたことである。スタジオで使えればいいTVカメラと違い、屋外に持ち出し飛行機に載せて振動でも温度変化でも気圧変化でも耐え、何よりもメートルではなくキロ単位で目標を探知するには、技術的課題が400メートルハードルなみに立ち並んでいた。
口上としてはジェット機を10キロ以上遠方から捕捉できるものであったが、この「ジェット機を」というところが曲者だった。これは赤外線レシーバーが近赤外線領域までしかカバーしていないためで、対象の温度が摂氏600度以上でないと検知できなかった。実際の運用においては、後面を向けたジェット機、すなわち高温の排気とそれに熱せられたエンジンノズルを検知するのが精一杯。セレクターで切り替えたレーダー用のディスプレイにぼやっとした輝点で上下左右の方位を表示するのみで、距離となるととんとアテにならず、赤外線を吸収する大気中の水分…端的に言うと雲で探知距離は激変し、至近距離での失探も珍しくは無いという代物だった。
しかし中赤外線領域をカバーできるセンサーがあれば、より低温の目標を探知できるし、大気の窓と呼ばれる透過率の高い波長を使って探知距離を伸ばすこともできる。航空機の大気と機体の摩擦熱を検知できればどちらを向いていようが関係ないし、地上車両の排気管や艦艇の煙突はもっと高温だ。レーダーや光学観測では同じに表示される地上目標も、温度によって稼働している工場なのかただの倉庫なのか、あるいはバルーンのダミーなのか実働する戦闘機なのかまで一目瞭然となるのだ。実用化できれば夜間戦闘機部隊のみならず、戦術空軍や陸海軍でも大いに役立つ装備となると見込まれた。夜間戦闘機部隊では罵倒に近い評価しか得られなかった新機材に戦時中にも関わらず急速改良の予算があっさりつけられた理由は、赤外線センシングの持つバラ色の将来性にあった。
だが、将来とは現在ではないからこそ将来というのであり、いまそれを実現する技術が揃っているわけではない。いまの戦争に間に合わせるために探知距離と検出波長以外の要求は段階的かつ劇的に切り下げられたが、その影響をもっとも受けたのは平均故障間隔、一般に信頼性と呼ばれるものと、重量と寸法だった。便宜上「初期型」と区別されることになった夜間戦闘機隊で試験運用されたタイプは、邪魔だの重いだのと文句を言われても、まだ戦闘機の機首に収まった。しかし「新型」は絶対目標である中赤外線検知のためにセンサーを極低温に冷却する設計としたことから、ユニット重量で3倍を超えるまでに肥大化した。一旦席に座ると空しか見えず、その過剰な開放感から操縦士以上に適性を重んじるとうたわれたB-10の爆撃手席のガラスドームの内側は、元からあった爆撃照準器と4連装の50口径機銃に加え、赤外線レシーバー、ビデオコンバーター、極低温冷却装置、ジャイロ、5インチと3インチのCRTを備えたコントロールパネル、電源ユニットとその補器で埋め尽くされ、比喩なしにほとんど外が見えない有り様となった。
ウチらが暇そうだから試作品の実用試験のお鉢が回ってきたのだろう、くらいに考えていた戦略爆撃軍団のクルーは、開発軍団の技術者によって改造された爆撃手席を見て、確かにこれは容積に余裕のある戦略爆撃機以外では搭載できないと納得したが、その性能にはまったく納得できなかった。爆撃手席からの視野は爆撃照準装置か暗視装置に頼ることとなり「いっそ窓を潰して防弾鋼板で覆ってしまえ」と言われる有り様で、ではその暗視装置で外界を見た場合はどうかというとスコープの視野角は15度かそこらでしかなく、しかも爆撃照準ができるだけの解像度は無かった。ただでさえぼやけた画像は応答特性の悪さから残像がひどく、何が映っているか滅多なことではわからないことから爆撃手たちからは「ブラウン管式ロールシャッハテスト」とアダ名され、軍事的に有用な情報を読み取るのに必要なのは妄想力とまで評された。だがその妄想力とて検知器をマイナス200度近くまで冷却できなければモニターがノイズで真っ白になって発揮のしようがない。
「新型」の暗視装置の赤外線レシーバーにはスターリングエンジンを応用した特殊な冷却装置が装着されていた。スターリングエンジンは外部からの熱を動力に変える仕組みだが、これを逆に外部から動力を与えることで冷却を行うのがスターリング冷凍機である。理屈の上では小型化でき、高効率で、極低温も実現可能であるが、実際に作ると様々な問題が出た。目標となる極低温に近づくほど、パッキンに問題が出てスプリングに問題が出て触媒に問題が出た。
原因究明に至っては実施部隊の整備員の任務の範疇を完全に超えていた。冷却装置の動作は気まぐれであり、まともに動くものとロクに動かないものがありながらその違いを特定できるだけの知見を持たず、しかしながら設計が運用寿命を満たさない点では一致していた。いや、設計段階で信頼性の切り捨てを行っていたのだから、ある意味設計通りではあった。赤外線レシーバーの解像度や残像の問題も、所定温度まで冷却できないとS/N比を改善できず信号がノイズに埋もれてしまうとなれば、まずは冷却がきっちりできてからの話である。
理想と現実の乖離の具体例を突きつけられた無線小隊では、その職務を果たすべく山のような在庫品からマシな部品を選定して組み上げることで、少しでもマシな動作品を作るという方針を採った。本来であれば要求仕様を切り下げてなお数百時間の寿命を持つという仕様書を信じ、無駄に早手回しに先行量産された無駄に豊富な員数外と予備部品を頼りに、最初の十数時間の試運転で壊れなかった部品をかき集めて数回分の出撃に耐える冷却装置を組み直すという手法は、不調機を抱えた整備屋が完動品を作る場合の常套手段ではあったが、まともな部分品の選定そのものが組み上げて動かしてみないとわからないとういあたりで底なしの工数を要求しており、その作業は賽の河原の石積みに似ていた。
猫の手でも借りたいほどの事情において、新入りの小僧であっても重宝された理由でもある。シャーマンにぶっ飛ばされるまでの話ではあるが。
「いまのショップのやり方は間違っている、と僕は思う」
ノリス二等兵は同期の少年兵たちを前に言った。空中勤務者相手の暴言がもとでハブられて以来、基地で人語を介す相手は同じ原因でハブられた同期の3名しか居ないと言っても過言ではない。それ以外の人間は基本無視であり、意思の疎通が必要であっても顎の向き以上の何かが示されることは滅多になかった。
「この冷却装置は使い物にならない。別の方法をとったほうがマシだよ」
同盟軍の開発軍団は秀才揃いで知られるから、高卒入隊の小僧がそれに上から目線で物申すという態度は前回の件の収拾さえついていない状況では不遜の誹りを免れることはできないだろう。ノリス二等兵は中学2年生の持つ全能感や高校2年生の持つシニカルさの影響を否定できない心理にあったとはいえ、術科学校では延々と新型暗視装置をいじらされていた。無線小隊の整備員はベテランであっても、ショップ長のラミー上級兵曹も含めて「新型暗視装置の本来の性能」を知らない。皮肉なことであるが、ヴァンダイク基地でまともに動く暗視装置にもっとも長く触った経験を持つのは、この4人なのだ。
「レシーバーの設定温度の差が100度以上あるからねえ…」
ラッセル二等兵があとを引き継いだ。熱電対によれば実測温度はマイナス90度。食肉であればマイナス50度でも保存期間を年で図る極低温とされるが、赤外線レシーバーの冷却にはマイナス196度が必要とされる。いろいろとハードルを乗り越えたり蹴倒したりして製作された新型暗視装置において、冷却の要件はもともと理不尽なまでに厳しいのだ。一方で術科学校の教材は、手順書どおりに整備すれば概ね仕様書通りの性能を発揮した。教材にされたのは「追加で製造された試作品」と言っていいような一品もので、使用方法も整備手順も量産品と同じではあったが、部隊に配布された新型暗視装置、こと冷却装置とは部品レベルで材質も加工方法も異なっていた。ラッセル二等兵の声に呆れたようなニュアンスが混じっているのは、なぜ教材と同じ品質で量産できなかったのかという非難があるからだ。
小僧たちは冷却装置をバラしたり組み立てたり動かしたりした結果、性能低下の原因は試作品では旋盤での削り出しや鍛造だった部品を、量産品では値段や加工性の問題から材質を変更したり、プレス加工や鋳造に変更したことにあると推測した。これらの変更が経験の浅い分野の工業製品の量産において本来は影響を受けないはずの部品も巻き込んでことごとく悪い方に作用したのだろうと。もっとも、高校生がモーターサイクルやオーディオセットの評論をするのと変わらない気分で暗視装置の機械的欠陥に見当をつけたからといって、初年兵が部隊でその代わりをほいほい作れるわけもない。そんな工作機械もなければ材料も無いし、なにより技本で試作品を専門に作ってウン十年のベテラン技師のような技量もない。無理に手を出しても金属ゴミを量産するだけだ。
とはいえ、彼らの知る「新型暗視装置」として動作させるには極低温は絶対条件なのだ。
「で、どうやって冷却するの?」
ウィリス二等兵が眠たげな目で言った。まさか術科学校に完動品をくださいと言うわけにもいかない。この後、4人はある意味で暇を持て余した結果として暗視装置にかかずることになるが、それは役立たずと見做された装置の復権に自らの立場を重ねあわせた結果でもあった。
■D-day -6
従来の戦略爆撃軍団の内規に従うならば、シャーマンに爆撃機が与えられることは無い。そこを搭乗員の再配置によって機体とクルーを浮かせ、まんまと乗機と部下を手に入れたシャーマンは上機嫌で新編制のクルーたちと顔合わせした。まだ日が沈む前で課業時間内であったが一同を引き連れるとトラックで近場の繁華街へ繰り出した。移動のために整備班からトラックごと借りた運転手に小遣いを握らせると、予約していた居酒屋に入った。
なんの変哲もない雑居ビルの地下の居酒屋は、女給は若い娘がつとめているとはいえおさわり厳禁で、女性が席について酌をするような店ではなかったが、この店の特色は別にあった。
開戦からこっち、航空機搭乗員とはいえ口にするのは、すねや横隔膜や端切れ肉の挽き肉で作った料理か、あるいはハム、ベーコン、ソーセージ、さらには一旦缶詰にしたコンビーフやスパムなど塩分過多な保存加工肉の再加熱品ばかりで、それでさえ供給量は戦前の半分と言われていた。しかしいま女給の営業スマイルとともに次々とテーブルに並べられる肉料理は、見事なTボーンステーキにおおぶりな肉塊がごろごろと入ったシチューと贅沢どころの話ではない。
シャーマンの合図で店主自らが用意したボトルにはアンドリューズのラベルが貼られていた。世界最大の清涼飲料水メーカーと同じブランド名だが、こちらは創始者がサイダー屋の株を売り払って莫大な財を成したあとに道楽同然で始めた酒造メーカーのウイスキーで、ラベルに描かれたブルーのリボンは12年物であることを示していた。その意味をわかる者達から、おお、とどよめきが走る。ステーキとウイスキーを至上とする爆撃機乗りにおいてもアンドリューズが別格とされるのは、その製法に宇宙人の入れ知恵があったからだ。
ウイスキーそのものは世界各国で作られているし国産品もあるが、その製法は試行錯誤を重ねている段階と言っていい。旨いウイスキーができることもあるし、失敗することもあるが、なぜ旨いウイスキーが作れたのか、なぜ失敗したのかがわかるとろこまでノウハウが蓄積されていないのだ。しかしアンドリューズは旨いウイスキーができる科学的条件を宇宙人から知った。なぜモルト原酒のアルコール度が60度なのか。なぜグレーン原酒とブレンドするのか。なぜ40度で樽詰めするのか。科学的に説明できる部分を知識として得て、自ら追試することでライバルを品質向上において数十年分突き放した。醸造、蒸留、熟成から樽の材質や作り方、はては積み上げ方まで、何が理由でこうなるというノウハウを下敷きにして生産していることから、頭ひとつふたつ飛び抜けた品質を誇る。
農産物としての原材料や実際に熟成させたあとのモルトやグレーンの出来、ブレンダーのセンスなど理屈や手順と無縁の要素が山ほどあるため宇宙人の作るウイスキーに比べると全然という話だが、昨今大手を振っている穀物アルコールをカルメラで着色した戦時増産品など比べるのも馬鹿らしい貴重品であることに変わりはない。同時に用意されたビールも、水増し用のとうもろこしや醸造アルコールを使っていないホップから作った本物だった。
料理や酒のチョイスや給仕の順番も、作法やマナーという言葉とは無縁だったが、首都爆撃の大損害以降、露骨に補給状況が悪化し貧乏ったらしくなる以前の戦略爆撃軍団の栄華がそこにあった。心浮き立たせる料理と酒は、初対面のぎこちなさや警戒心を棚上げするに十分な威力だった。
副操縦士のサクソニー中尉は大損害以降の数少ない補充組のひとりで、シャーマンも知るベテランのジョーンズ大尉と組んでいた。だが、ジョーンズ大尉が少佐に昇進して教育飛行隊に転出したことから、機長資格をもつシャーマンと組むことになった。戦闘処女のサクソニー中尉は、機長が実戦経験者であることに安堵していた。
航法士のヘントン少尉は階級は低いが最年長で、腕を見込まれて戦略爆撃軍団と輸送軍団、救難飛行隊をぐるぐると渡り歩くいわゆる職人で、去年は救難飛行隊の捜索機に乗り込んでいたらしい。元天文少年が天測つながりで航法士配置になったものの、最近では無線や電子兵装の管理が仕事のほとんどになったことをボヤいていた。
航空機関士のマーティン中尉は逆にB-10一筋、戦略爆撃軍団一筋で、士官搭乗員では唯一、シャーマンと直接の顔見知りだ。もっともそれ故にシャーマンの飛行任務への復帰に不安を抱いているようであるが、酒の席でそのことに触れない分別は発揮した。むしろ場の雰囲気が盛り上がるように率先して騒いでいた。
爆撃手兼前方銃手、上部銃手、下部銃手、後部銃手の4名は徴兵の下士官兵だった。士官と下士官兵はもともと同じ機のクルーでもなければ接点が少ない。いずれもシャーマンとは初対面だった。
爆撃手のカレッジ曹長は徴兵の叩き上げから下士官教育を経て首都爆撃にまで参加したベテランだったが、機銃手の技量には期待せんでくださいと言ってげたげたと笑った。新型暗視装置が押し込まれた現在の爆撃手席で対空射撃を行う事自体がほぼ不可能であるのは知れたことだから、誰も笑わなかったが。
上部銃手のワトソン上等兵は、実戦経験者だった。それどころか海軍派遣中に敵戦闘機2機撃墜確実という大金星を挙げていた。
後部銃手のニルソン一等兵は未成年で、アルコールの注文を許されず、マーティン中尉に無理やり牛乳を飲まされていた。もっとも、訓練部隊での成績は優秀で期待の新人という扱いであった。
シャーマンは酒を勧め、冗談を言い、実戦での経験を聞かせ、シモの話をした。
ニルソン一等兵は年長組の風俗での武勇伝にあわあわしながらも、周りに囃し立てられてとうとうシラフのまま童貞であることをゲロし、あまつさえ「連れてってください」とまで口にしてしまった。正直者は報われねばならないと鷹揚に宣したシャーマンは、作戦終了時にはシャーマンのおごりでクルー全員を軍公営ではない「高級な」慰安所に連れて行くことを約して、この夜はお開きになった。
この日のシャーマンらしからぬ、ある意味下品な振る舞いはレーキ大佐の言動を真似たものだった。酒と料理だけなのに飛行勤務手当込みで一月分の俸給が吹っ飛ぶヤミ物資上等の非合法店も、レーキ大佐に教えられたものだ。彼の記憶をなぞる行動は、失ったものを取り戻したいという欲求に基づいていたが、所詮は代償行為でしかなかった。
帰りのトラックの荷台で酔っぱらいたちと放歌高吟したシャーマンが部下たちと別れたあとになっても、イエローのオフィスの灯りは消えていなかった。シャーマンは洗面所で顔を洗ってから居酒屋に用意させた土産を持ってイエローのもとを訪れた。
「中佐、夜食はどうですか?」
イエローは頷くと書類を閉じて伸びをした。その間にシャーマンは応接机にバスケットの中身を広げた。タラのフライとタルタルソースの小瓶、豚のすね肉の煮込み、りんごの入ったコールスロー。でっかいソーセージにカマンベールチーズ、赤ワインの瓶も入っていた。夜食の量ではなかったが、考えてみれば夕食そのものを摂っていなかったことに、イエローは今更ながら気づいた。
イエローはソファに座ると「いただきます」と言ってもそもそと食べ始めた。急遽割り当てられた執務室にワイングラスなど気の利いたものがあるわけもなく、統制経済になる前、アル添も甘味料も入ってない戦前につくられたまともなワインがコーヒーカップに注がれたあたり、残念な印象を与えたが、じゃがいもとベーコンばかりが目立つ士官食堂に比べれば文句を言えば罰が当たる。とはいえ、無邪気にごちそうを食べてられない事情もある。編制表の件だ。
「無理をしてない?」
「軍医殿のお墨付きももらいました」
前置きも韜晦もないあたり、確信犯だった。イエローもシャーマンが出撃したがっているのは知ってたが、編制表が届くまでは病み上がりのパイロットなど出撃できないと思っていた。しかしシャーマンが提出した編制表には本人が搭乗割に組み込まれたのみならず、診断書と機長資格を認める書類も添付されていた。
飛行任務から90日以上離れていたシャーマンは機長資格を失っている。本来であれば再取得には訓練と再試験が必要であったから、イエローはいまの戦争には間に合わないと勝手に楽観していた。今回の作戦立案も、ハネウェル中将の命令があったとはいえ「飛べないシャーマンの代わりに彼の大好きなB-10が大活躍」するシナリオを書けば喜ぶだろう、くらいの了見で行っていたのだ。
だが、パイロットの搭乗資格証明の規則には「航空部隊の長は、操縦士の搭乗経歴又は年間飛行実績等から判断して訓練及び試験のいずれか一方又はいずれをも行う必要がないと認めたとき、これを省略して従前その者の有していた資格証明又はそれより下位の資格証明を行うことができる」という但し書きがあった。提出された書類には航空部隊の長も長、ハネウェル中将がサインしていた。
「今度の作戦での仕事は参謀としての作戦立案であって、パイロットじゃないはずよ」
シャーマンはかすかに笑みを浮かべたまま首を振って言った。
「中佐、私は絶対連中に借りを返さなきゃならないんです。死んでいった仲間たちのためにも」
シャーマンは表情を変えていなかったが、拳を握る手に力がこもったのはわかった。シャーマンが陰でこそこそ動いた結果とはいえイエローとて宮仕えの身、一旦、正式な軍命となってしまえば勝手な取り消しはできない。
そもそもそんなことをしておいて食べ物で誤魔化そうというあたりが姑息なのよ。「おねえちゃんへのおみやげ」に小躍りしたい衝動を抑えながらイエローは思った。シャーマンを野放図に甘やかしたいのは本心にせよ、10年ぶりのおねだりがこんなことになるなんて不本意なことこの上ない。
「よきにはからえ」式に安易にサインしたであろうハネウェル中将をイエローは思い浮かべ、余計なことをと心の中で舌打ちした。
昔のように「だめよ」の一言で済ませられればいいのに。




