第1話
子供の頃の楽しい思い出というものがわたしにはない。きっとわたしには明るさや彩りに欠けているのだと思う。
両親は4歳の時に戦災で死んだ。家も財産も失い、引き取る親戚もいなかったから、わたしはすぐに孤児院に入れられた。
施設とそれを管理する国は、わたしに法に定められた教育を施してくれたが、子供達の進路についてはかなり片寄った指導をしていた。わたしはそれに気付いていたけれども、わたしを育てた人たちに抵抗する意味も必要性も見つけられず、かといって他の進路を探す気力も得られぬまま、義務教育を終えると彼らの勧めるまま軍の幼年学校に入った。
軍人のなり手は少なかった。だから軍はわたしたちを大切にしてくれた。わたしと同じ性別の者はさらに大切にされた。
下士官に任官し、戦争のないまま軍の仕事を続け…これはわたしの先輩や後輩に比べれば間違いなく「運は良い」…20歳を過ぎたとき、他人の手によってわたしにまた別の人生が提示された。
上司が「紹介」した大尉はわたしよりも7歳、年上だった。
そのころ、わたしの職場の同じ歳の頃の同性の同僚たちは、半数以上が姓を変えていた。
三度までなら話を断われるという不文律は先輩に聞かされていた。
だが、結局は彼らの用意した選択肢から逃れる余地が無いという点で、それまでと何かが変わる訳ではなかった。
「大尉」との2回目の食事で、大尉の家族が紹介された。大尉には肉親が一人しかいなかった。20歳近く離れているが、間違いなく実の弟だという少年は、初対面の私に対して、子供なりに緊張していた。
確かに大尉の言うとおり、同じ栗色の髪をしていた。
目元も、どこか似ていた。
けれども、大尉のように何が面白いのかすぐに笑うことも、変に自信たっぷりな態度をとることもなかった。
わたしは少しおびえたようにこちらを見上げる少年が、不意にいとおしく思えた。
理由は無かった。
彼を守らねばならないと思った。
彼をおびえさせた自分の態度が情けなかった。
彼の唯一の肉親である大尉はその義務を十分に果たしていないとも思った。
そのことに対しては憤りすら感じた。
わたしは大尉に、今後わたしと会うときはかならず少年を連れてくることを要求した。大尉は、それがわたしから大尉への好意の表現であると判断していたようだが、それはわたしにとって重要ではない。
少年がわたしの膝で眠ることに躊躇しなくなったころ、わたしは婚約した。
大尉は弟と婚約者の仲が良いことに満足していたようだ。わたしも大尉を不快にさせる気はなかった。大尉の機嫌が悪いと少年が不安がる。彼の笑顔と信頼がわたしに向けられるためならば、どんな労苦も厭わない。
その後、国際的な緊張が高まったり紛争が相次いだり式の直前に大尉が訓練で殉職したりといろいろあったが、彼がわたしの側にいてくれるならば、瑣末なことでしかない。
血縁者ではない彼の養育権を得るため、わたしは永久服役の士官を志願した。
わたし自身は相変らず明るさや彩りとは無縁だったが、成長する少年と過ごせる時間こそが最も重要だった。
そんな日々は彼が18で兵隊にとられるまで続いた。
■D-day -371
赤い非常灯とCRTの照り返ししかない空中指揮管制機の機内では、無骨な巨人の掌のようなシートに身体を納めたオペレーターたちが、それぞれの担当の部隊に指示を下していた。
「フォックスバット編隊、襲撃終了。現在編隊集合中」
「地上管制局より支援情報。敵重爆4機の撃墜を確認」
「敵編隊の針路は?」
飛行作業服に中佐の階級章を付けた士官が、傍らのオペレーターに尋ねた。
「変わりません」
若いオペレーターがCRTから視線を外さずに答えた。士官はそれを聞いて、敵の指揮官は随分肝が座っているなと感心した。今日は、空中指揮管制機のデビュー戦であり、同時に新型夜間戦闘機のデビュー戦でもあり、管制機による防空戦の一元管理という新戦術も初めて披露されている。
さらには執拗な航空偵察で位置がバレて迂回されていた高射砲陣地も、新型砲に更新した上で極秘裏に再配置した。敵の対応能力を超えるという意味では、十分に戦術面での奇襲となっている。共和国は、これらによって首都爆撃という同盟の戦略を、士気と実戦力ごと一撃で叩き潰そうとしていた。
「こちらフォックスバット編隊、トップドックどうぞ」
インカムから、ノイズによっていささか明瞭さを奪われた声が聞こえた。
「こちらトップドック。入感している」
「編隊集結終了。指示を請う」
オペレーターはちらりと士官を見やった。
「フォックスバットの残り燃料は?」
士官が尋ねる。
「トップドックよりフォックスバット。残り滞空時間を知らせよ」
「巡航で30分、全速で15分」
なんとも中途半端な数字だった。オペレーターはインカムのマイクを手で押さえると上司の判断を仰いだ。
「もう一度攻撃させますか?」
士官は首を振った。
「いや、敵はもうすぐ味方の高射砲陣地に入る。フォックスバットに帰還命令。味方に誤射されないうちに降ろせ。ベララベラ管区の高射砲陣地に警報を出すんだ」
航法士の計算が正しければ既に共和国の首都の上空に達してる筈だった。
星と月が強く輝く一方で、地上は深い闇に沈み、世界に冠たる百万都市の夜景は欠片も見えない。
だが、航法が間違っているはずがない。間違っていればこのような激しい抵抗に遇うはずもない。
深夜、日付が変わってから約2時間。同盟空軍の重爆撃機は密集編隊を組んで進撃を続けていた。
全長35メートル、全幅も35メートル、最大離陸重量80トン。細く流麗な胴体にゆるい後退角のついた主翼を高翼に配置し、推進式の4基のターボプロップエンジンの絞りだす計2万馬力の出力は、10トンを超える爆弾を搭載した状態でも700キロ以上の速度を叩き出す。爆撃照準の最小単位であるセルと呼ばれる4機編隊を12個組み合わせたその集団は、ジュラルミンとケロシンと高性能火薬で構成された高空の厄災と恐れられたが、それも昨日までの話となりそうだった。すでにいくつものセルに穴が空き、また少なからぬ機体が損傷していた。
そのレイヴン編隊の先頭を飛ぶ指揮官機、レイヴンリーダーの副操縦席にグレン・シャーマン中尉は座っていた。彼の狭い職場には他に左隣に座る機長のレーキ大佐と背後に陣取る航法士と航空機関士がいたが、この爆撃機には帰還するまで顔を会わせることの出来ない同僚があと6人、搭乗していた。
「全エンジン回転数正常、吸排気温度正常、正副油圧正常、発電機ならびに電装系に異常なし、燃料消費量確認」
「目標まで4分」
「レイヴン・ワンゼロが堕ちたとき、パラシュートはいくつ開いた?」
「いえ、自分は…」
レーキ大佐の問いにシャーマンは言葉を濁した。たとえ夜間であっても、今日のようなほぼ満月に近い快晴であれば、白い絹で作られたパラシュートの確認は困難ではない。だが、夜間戦闘機の大口径機関砲弾の直撃を受けて左側主翼を付け根から断ち折られたレイヴン・ワンゼロは、その直後に回復不能の水平スピンに陥っていた。その状態でクルーがGに逆らって何らかの意味のある行動を起こせる筈がなかった。彼らがあらゆる意味で自由になるのは、機体が地表に達したときであろう。
言葉の接ぎ穂を失われたことが作りだしたかりそめの静寂が、不意に響いた爆発音によって破られた。機体が激しく揺さぶられる。シャーマンが風防の外に目をやると、数十、数百もの高射砲弾の爆発が同高度に水平に拡がっていった。
「高射砲だ…共和国の連中、今夜は手際が良すぎるぞ」
シャーマンの背筋に冷たいものが走った。理由は複数。技術的により困難とされる高度測定が(おそらくは新型のレーダーによって)正確になされていること。その情報によって射撃を行なう高射砲の爆発調停にばらつきがほとんど無いことから最大射高になお余裕があるであろうこと。そして編隊をすっぽり覆うほどの弾幕を張れる高射砲陣地のど真ん中に、自分たちが放り込まれてしまったこと。
過去十数回の爆撃行で、ここまで苛烈な抵抗にあったことは無かった。
「まるでこちらの手の内を読んでいやがるような…」
レーキ大佐の呟きを遮るように高射砲弾の爆発音がひときわ大きく響いた。右隣につけていたセルの爆撃機の至近距離で砲弾が炸裂、無数の破片が彼女をさいなんだ。そして数秒後、こらえ切れなくなったかのようにゆっくりと高度を落とす。同じセルのクルーが盛んに無線で呼びかけるが、それに応えることなく、急速に下方に消えていった。それを見ていたシャーマンはレーキ大佐に叫んだ。
「大佐、離脱しましょう、これ以上の進撃は自殺行為です」
この爆撃行の総指揮官であるレーキ大佐は、現場で作戦中止を決定できる唯一の人間であった。だがレーキ大佐はシャーマンを一瞬横目で睨んだだけで彼の言葉を無視した。再び至近弾が機体を揺さぶった。シャーマンはあわてて正面を向いた。
「レイヴンリーダー、レイヴン・ゼロスリー。エンジンの出力低下。現在の速度と高度を維持できない。爆弾の投棄を許可されたい」
同じセルに属しているレイヴン・ゼロスリーからの無線だった。かなり事態が切迫しているのが、ノイズ越しにも感じ取れた。だがレーキ大佐の判断はシャーマンの理解を越えていた。
「レイヴン・ゼロスリー、爆弾の投棄は許可できない。独航されたし」
「なんだって?」
レーキ大佐の言葉にレイヴン・ゼロスリーは、一瞬、自分を取り囲む全ての状況を忘れた。レーキ大佐は続けた。
「いま投棄すると在共和国の第三国の資産に損害を与える可能性がある。繰り返す、爆弾の投棄は許可できない。編隊からの離脱許可を与える。独航されたし」
「くそったれ了解、レイヴン・ゼロスリーは編隊を離脱、独航する。以上」
シャーマンはレーキ大佐の指示に自分の耳を疑った。重爆撃機が複数の銃座を備えているとはいえ、敵戦闘機に対して防御砲火が有効なのは編隊を組んでいるからだ。はぐれた爆撃機を始末することなど、敵戦闘機からすればそれこそ赤子の手をひねるようなものだろう。重量物の爆弾など投棄して編隊に留まり続ければ、まだ生還の可能性もある。
「大佐…彼らに死ねと」
「そういう命令だ」
「爆弾抱えて地面に突っ込むのが命令ですか!」
シャーマンは混乱した。だがレーキ大佐は淀みなく答えた。
「撃墜された爆撃機が突っ込んできたのならば、それは不幸な事故だ。しかし、投棄した爆弾が第三国の施設にに損害を与え、さらにそれが意図的なものだったと非難されると…我が国が国際的に不利な立場に立たされる」
「そんなっ! 戦争中に」
「我々だけで戦争をしているわけじゃないのさ…」
レーキ大佐が、笑う。その時、衝撃と閃光と熱がコックピットを埋め尽くした。次の瞬間には氷点下の大気が轟音を立ててコックピットに吹き込みあらゆる熱と光を奪い去る。時速600キロの強風に反射的に首をすくめたシャーマンは、だが訓練によって叩き込まれた第二の本能にしたがって計器を確認すべく、薄く目を開けた。正面のコンソールパネルは半ば破壊され、残りの計器もバックライトが消えたために読み取れない。だがコックピットにはあと二組、コンソールパネルがある。
「大佐! ベルナール! マーフィー!」
大声を出して振り返ったシャーマンが見つけたのは、高射砲弾の破片によって簾のようになった航法士席と航空機関士席、その周囲に飛び散った真っ赤な「何か」と、笑い続けるレーキ大佐であった。レーキ大佐の顎から上は写真を破いたかのように消えていた。
笑い声のように聞こえていたのは、レーキ大佐の肺の空気が抜ける音だったのだが、シャーマンにとってはもう、どうでもいいことであった。
シャーマンは目を一杯に開くと、内なる衝動のままに絶叫した。
■D-day -14
大型機の発着が可能な3000メートル級滑走路が地平線に向かって伸びていた。同じ長さの滑走路があと2本もあるヴァンダイク同盟空軍基地は、戦略爆撃軍団のマザーベースとして知られる。かつては70機を超える重爆撃機が蝟集し共和国に破壊と恐怖をまき散らしたこの基地も、首都爆撃による大損害のあとは前線から遠すぎるため防空戦闘機さえ配備されない後方基地のひとつでしかない。
生き残りの重爆撃機をかき集めてもかつてのような威風堂々たる進撃を再現できる数がないことから、最近では海軍に協力しての長距離洋上哨戒を専らの任務としている。戦略爆撃軍団司令部は部隊再建の必要性を訴えていたが、機体を再生産したところで共和国の防空網を突破するには性能に不足がある以上、新型機の開発は必須であり、しかしそのような新型機の開発が「いまの戦争」に間に合うわけもない。故に「現在は」部隊再建の必要は認められないというのが統合参謀本部の判断であった。
その意味では、ヴァンダイク基地にとっての戦争は終わったも同然と見做されていた。給料のうちとして冬の迫る滑走路外周をランニングする兵士たちにも、覇気はない。だがそんな軍事的片田舎に、複数の連絡機、連絡ヘリが飛来した。いずれも座席数を絞り、軍用機にあるまじき防音材を奢ったVIP仕様であり、降り立った一団を迎えたのは無蓋の野戦四駆ではなくセダンであった。
「昨年より、我が軍は全ての戦域で戦線を後退させています。第27軍集団の解囲成功以降は遅滞戦闘を専らとし、戦力の回復を優先しております。戦術空軍と海軍は、限定的であれば反攻作戦も可能ですが、積極戦闘はさし控えております」
壇上でひとりの、怜悧な表情の士官がOHPを使って説明を行っていた。空軍大学の卒業略綬に高級参謀飾緒に大佐の階級章。「切れ者」と書かれた腕章がついていないのが不思議なくらいだ。ヴァンダイク基地の地下司令部は大会議室である。10トン爆弾の直撃にも耐える構造で、戦略爆撃軍団が空軍の花型とされていた時代に作られたものだ。
「これは来月に予定された中立国を経由しての停戦交渉を控えた微妙な時期に、軍事的緊張を高めたくないという外務省の要請によるものです」
スクリーンに映し出される地図には旧戦線と縮小された新戦線とが描かれている。部隊の撤退スケジュールまで書き込まれた、軍のまごうことなき最高機密である。大佐の所属は統合参謀本部第三部、通称作戦部、その最先任参謀。空軍だけでなく、同盟軍全体の作戦を仕切っている張本人のひとりでもある。
「共和国側も同様の配慮からか攻勢を控えているようです。この休暇によって、燃料弾薬の消費が抑制されたことから、補給状況は好転しつつあります。今月いっぱい、大規模な戦闘が発生しなければ、前線配置の14個師団を編制に欠のないカテゴリーAに回復できるでしょう」
参加者は10名。統合参謀本部からは作戦、兵站、情報の部長級、陸軍と海軍からの連絡士官はともに大佐、空軍からは作戦、兵站、情報の担当に加え、空軍工廠の技官は少将、そして上座には戦略爆撃軍団のボスであるハネウェル中将が構えていた。このまま戦争方針を決めても構わないような実務者のトップが並ぶあたり、衰えたとはいえハネウェル中将の権勢を伺うことができる。
そんな中、末席に並んで座る化粧っけの無い顔にブルネットをひっつめた女性士官と、どこか童顔が残る尉官…イエロー中佐とシャーマン大尉が異色を放っていた。先週に中佐の辞令を受けたばかりのイエローと、大尉になって半年のシャーマンはこの場での最下級であることは間違いない。軍中枢のエリートでないのは、このふたりだけなのだ。
大佐がシートを置き替えた。補給状況を示す図表になる。
「我が空軍も順調に燃料、弾薬、補充部品の備蓄を進めており、これは降伏勧告の失敗以降では、最良の状態に近付きつつあると言えます」
ここにいる佐官で5年経っても将官になれないのはわたしくらいでしょうね、とイエローは思った。そのくらいのきら星がここに集められている。しかしその一方でやっていることは単なる戦況説明会だ。確かに最高機密の羅列ではあるが、適当な閲覧許可を出せば文書で済ませてしまって構わないようなことである。イエローは傍らのシャーマンを見やった。シャーマンは背筋を伸ばし身じろぎもせずスクリーンを凝視し続けている。だが、それが緊張によるものでないことを、彼女は知っていた。退屈しているのだ、この子は。
「次にパイロットの養成状況ですが…」
大佐は戦況分析を、さらに1時間続けた。
ヴァンダイク基地の士官食堂は、一面がガラスとなって外光に照らされている。前線に近い基地では空襲に備えて窓を潰したところもあるのだから、なるほど、後方というのは事実なのだろう、とイエローは思った。
「退屈だったでしょう、大尉」
テーブルには大豆が原料の代用コーヒーを淹れたカップがふたつ。イエローは久しぶりに顔を合わせたシャーマンに声をかけた。
「いえ、勉強になりました。中佐」
甘たれで泣き虫な子だったけど、空軍に入隊してからはおねえちゃんと呼ばなくなったし、ですます調でしか話してくれなくなった。せめて去年、首都爆撃の大損害のあと、そばについていられればまた違ったのかも知れないけれど。
「嘘おっしゃい。正直に言ってもいいのよ?」
続けて「あれから1年ね」と言いかけたが、それは飲み込む。シャーマンは曖昧に、薄く笑う。
イエローは永久服役の士官になったあと、参謀教育課程を経て戦術空軍の作戦部で参謀勤務を続けていた。徴兵されたシャーマンは兄と同じく大型機パイロットとしての適性を認められ、航空学生として訓練を受けたのち、戦略爆撃軍団に配属されていた。勤務地そのものが離れていたため、同じ空軍に奉職しながらろくに顔もあわせられないまま戦争が始まり、シャーマンは首都爆撃を繰り返し、1年前の大損害で半死半生で帰還した。しかしそのとき、イエローはシャーマンを見舞うことしかできなかった。それも1回、2週間も経ってから、短い時間だけ。もちろん軍務のためだ。
遷都した共和国の新首都に対して長駆出撃した戦略爆撃機が大損害を受けた同じ時期、まったく無意味となった旧首都占領部隊は反撃に出た共和国軍に袋叩きにされ逃げ出した。彼らの撤退を潰走に転落させないために戦術空軍は連日連夜の出撃を繰り返していた。出撃計画を策定するイエローも当然、激務に忙殺された。
ようやくイエローが見舞った時、シャーマンは軍医によって急性ストレス障害の診断を受け、四六始終頭痛とフラッシュバックに苛まれ、食事をすれば嘔吐を繰り返し、薬がなければ眠ることもできない有り様となっていた。がちがちを歯を鳴らしながら血走った目で任務に復帰したいと繰り返すシャーマンは、イエローにただただ抱きしめられることで、帰還後初めて投薬なしで就寝した。思い起こせばシャーマンを看病するなど10年ぶりであった。
見舞いを繰り返すうちに回復してくれればなどというイエローのささやかな願いは、しかしあっさり裏切られた。病状は回復しなかった。戦術空軍は更に多忙となり、イエローは司令部に缶詰にされ、見舞いにも行けない間にシャーマンの診断書の病名はPTSDへと変わっていた。それでも週に2回は手紙を送っていたが、返事は軍務への復帰の熱望だけが綴られていた。
爆撃任務への復帰に異常な執着を見せるのは、わたしが彼を見捨てたと思ってしまっていることが原因なのではないだろうか。イエローはそんなことを考えていた。シャーマンに聞けば違うと言うだろうが、実際に違うと聞いたとしても、イエローには慰めにならない。イエロー自身はすでに裏切ってしまったと思っていたからだ。イエローにとって「あれから1年」とは、おとうとを見捨ててからの1年であり、弾劾されるべき1年でもあり、責められて楽になることもできない1年でもあった。
この子は修羅場もくぐり、すでにいっぱしの青年士官となっている。負傷から復帰してからは、病状を克服しつつ3ヶ月の初級参謀課程も受け、参謀職の入り口にもいる。まだ軍医の許可は下りていないが、飛行任務に復帰するために適性検査も受け直したという。そしてもうすぐ亡くなった兄、わたしの婚約者が死んだ年齢にもなる。なのに甘やかすことができなかったことを悪と思ってしまう自分は歪んでいるのだろうとイエローは自覚しているが、口に出せるわけもない。
ため息をつきたい気分になったとき、数人の士官が食堂に入ってくるのが見えた。他人がいるところで、個人的な会話などしたくもなかった。イエローは立ち上がって言った。
「行きましょう。ハネウェル中将が呼んでいる」
ハネウェル中将の執務室は奇をてらったところがない。独身士官宿舎なら3部屋分ほどの面積、正面にマホガニー製のデスク、となりには副官用のデスクが控えるが副官本人はいない。革張りのソファセット。卓上には灰皿とライター。将軍たちの嗜好は最大派閥の紙巻派、少数のパイプ派、最近増えてきた禁煙派などに分かれるが、中将は更に少数派となる葉巻派のようだ。シガーカッターとチューブが入った箱がある。壁には過去の栄光を示す数々の写真に盾、キャビネットのガラスの向こうには高級酒の酒瓶とグラス。典型的な将官の執務室だった。
そのヌシであるハネウェル中将もまた、典型的な将官だった。士官学校首席卒業、昇進は常に同期トップである一選抜。パイロット資格を得て実戦を経験すると早々にデスクワークに転向して頭角を現し、各種学校で首席を総なめにしつつ部隊勤務をそつなくこなし、出身である爆撃機閥をまとめあげて戦略爆撃軍団を設立するとそのボスに収まった。このポストが余程お気に入りなのか、通常は2、3年で異動するのが通例なのにもう5年も居座り続けている。正規士官の定年が早いこの国において、見事な白髪になるまで軍人をやっているということは、それだけで一廉の人物であることを示す。例外規定を使ってもっと居るつもりじゃないかと噂されるのは、そのような我儘さえ通せる影響力があると見做されているからだし、実際にそれだけの力がある。戦術空軍からイエローを引き抜きついでに昇進させるなどその最たるものだ。昇進のアテも無ければコネも無いまま3年後には定年となって軍から放り出されていたはずのイエローからすれば、自分の昇進さえ自分で決められるチートさはなんとも羨ましい限りだった。
もっとも、そのイエローもいまでは羨ましがられる立場だ。同期の全士官を合わせても4割がたどり着けるかどうかという中佐に昇進できたおかげで、50歳まで軍で働ける。
勧められたソファにイエローとシャーマンが座ると、ハネウェル中将は「会議は退屈しただろう」と切り出した。
「いえ、たいへん勉強になりました」
イエローはしれっと言った。まあ、嘘ではない。戦術空軍の作戦参謀は、もっと泥臭い、飛行隊単位の、稼働機を1機づつ数えるようなその場しのぎな作戦立案ばかりしているのだ。先刻の会議など高所大所過ぎて目眩がしそうだった。
「早速本題に入らせてもらおうか。この戦争の行く末を、どう思う、シャーマン大尉?」
イエローとシャーマンは視線を合わせた。いきなりではあるが、シャーマンが初級幕僚課程を終えていることを知った上での問いであることはわかった。シャーマンはイエローが小さく頷いたことから口を開いた。
「来月から行われる停戦交渉の成否が重要であると認識していますが…?」
「その場合、停戦合意のための条件はどうなるだろう?」
ハネウェル中将は鷹揚に頷くと続きを促した。
「今次の戦争は我が方より宣戦しておりますが、その…」
シャーマンが「ボロ負け」をどう言い直そうか思案していると、ハネウェル中将が言葉を引き継いだ。
「そうだ。同盟の方から戦争を仕掛けておきながら、共和国のしたたかな逆撃を食らって、劣勢のまま停戦交渉のテーブルにつく訳だ。イエロー中佐、共和国の要求するであろう条件を挙げてみたまえ。推論で構わないが、具体的に」
「はい、陸海空三軍の規模縮小、戦時賠償の請求、国境周辺の領土の割譲、捕虜虐待等の戦争犯罪人の引き渡し。それぞれについて、厳しい数字を出してくるものと思われます」
「正確な洞察だな」
しらじらしい、とイエローは思った。休戦が近いことそのものはペーペーの歩兵でも知ってる。戦術空軍の仕事ぶりがいくら泥臭くとも、その程度は即答する。ハネウェルは二人の前に、書類綴りを置いた。
「中立国の大使館を経由して入手した共和国の対同盟要求だ。特定分野を除いて、実に、実に穏やかな要求だ」
目でハネウェルに許可を求めたイエローは書類綴りを開いた。読み進むうちにページをめくる手がだんだん早くなってくる。
「これは…。軍備の縮小には一言も触れてませんし、戦時賠償の額もおかしいです」
「情報部が確認したところによると、その賠償請求額は共和国の戦時国債の発行額と一致するそうだ。いわば実費という訳だ」
イエローは書類をシャーマンに渡す。受け取ったシャーマンも速読を始めた。
「戦争犯罪人の捜査は戦争当時国の義務ですので、これは我々も共和国に要求できます。たしかに領土要求が少々厳しいですが、同盟西部四都市も元を辿れば共和国から分捕ったものです」
ハネウェルは立ち上がると壁際に歩み寄った。そこには、周辺数カ国の描かれた大判の地図が貼られていた。
「倍の州を持っていかれても文句は言えません。それに共和国に編入されるのは半分で残りが中立都市化ならば、呑まざるを得ない条件…いえ、呑むべき条件であると考えます」
このときイエローは「戦争が終わる」という部分で浮かれていた。迂闊でもあった。むしろ隣で書類をめくっていたシャーマンが気づいた。その表情が変わる。
「…イエロー中佐!」
「今回の!」
シャーマンが何かを伝える前に、ハネウェルが大声を上げた。反射的に二人が注目する。
「今回の停戦合意が成立した場合、ジットラ、アースン、ナウチ、エルビットの四都市が同盟を離脱することになる。これを全て失う様な事態を政府は…というより内閣が、憂慮している」
「つまりそれは…」
「現在の議会与党の支持基盤は西部諸都市だ」
ハネウェル、地図の一点を拳でコツコツと叩いた。
「現在の首相のリチャード・クロスマンはアースンの出身だ。彼は共和国の脅威を説くことによって現在の地位に就いた。その彼が今回の停戦交渉をどう考えるか」
「しかし、この条件は」
「そうだ。文句の付けようもない。彼とその取り巻き以外ならば」
ハネウェルはソファの対面に座る。テーブルの箱からチューブを取りあげ、中の葉巻を取り出すとカッターで吸口を切った。
「共和国もこの交渉を成功させることによって同盟の意思決定の中枢から最も右寄りな一派を排除できる。連邦や帝国との対立が控えている共和国としては、今後、同盟と安定した関係を作り上げることができるのならば交渉での譲歩は安いものだと判断した訳だ。これらの情報も、その目的のために意図的にリークされたふしがある」
「共和国は我々を試していると?」
「そうだ。共和国が他国と紛争している間、それを傍観する分別のある国になってくれるか。問うているのだ、我々に」
「そしてそれが期待出来ないようならいっそのこと…」
イエローは己の失策に気づいて黙り込んだ。目の前のハネウェルはライターではなくポケットから取り出したマッチで葉巻に火を着けると、悠然とふかし始めた。
一応、永久服役の中堅参謀とはいえ、出身は通称「花嫁学校」で傍流も傍流の一山いくら、畑違いの女性士官と、ろくな実務経験もないやっとこ大尉のヒラ参謀を転属させて、やったことは統合参謀本部のお歴々を呼びつけての軍機の大盤振る舞い。そして張本人は空軍の実力者の中将で、しかもどっぷり政治絡み。挙句にそれを見抜く試験は落第。もう嫌なフラグしか立ってない。
「戦時内閣が戦後に政権を手放す気がない以上、現状での停戦交渉の成立はおぼつかない」
ハネウェルはぐい、と顔を付きだした。
「早急に軍事的優位を確保して欲しい。それはごく短期的なもので構わない。停戦交渉の期間中だけで構わんのだ。もしもクロスマンが四都市離脱というハードルをクリアできなかった場合、同盟は内紛によって自壊するか、全土が共和国領になるまで戦争が継続しかねない」
ああ、いやなことを言い出しそうな顔だわ。イエローは思った。
「だが、その危機は、戦略爆撃軍団によって回避される」
ほら、いやなことを言った。