その世界の先にあるものを見るために
「絶対に森の外に出ちゃいけない、分かった?」「うん……」「そう、いい子ねユイは」そう言いながらお母さんは私の頭をなで、「それじゃ行ってくるわ。お留守番、頼むわよ」「うん。行ってらっしゃい、お母さん」そう、満面の笑みを私に向けて、お母さんは森の外へと出かけていった。その後ろ姿と言い出せなかった言葉を今でもはっきりと覚えている。
「なつかしい夢……」私はベッドの中で目を覚ましてそうぽつりとつぶやく。
「あれから、もう二年も経つのか……」と、ふと感慨にふけり「ううん、ダメダメ、明るくいかなくちゃ」そう自分に言い聞かせ、窓を開ける。
窓の外では小鳥が元気よく歌い、木々は心地よくざわめき、澄み切った青空がこの森を包んでいた。
「うーん、今日もいい朝」伸びをしながら私はこの一日の始まりに立った。
「おはよう、今日もよろしくね」外に出て、森に呼びかける。私の声に呼応するように爽やかな風が吹き、木々のざわめきが聞こえる。
木の枝には色とりどりの鳥たちがとまり、きれいな声色を響かせていた。「今日もよろしくね」そう呼びかけ、静かに耳をすまし、鳥たちの声に魅了される。
私が歩く道脇にある木々の影からは小さな動物たちが顔を覗かせ、私は笑顔で手を振り挨拶をする。
底まで見通せそうなくらいに透き通った湖には、白いフウリンの花が浮かんでいて、いい匂いをふりまき、そこに住む魚たちは今日も今日とて、生き生きと泳ぎ回っている。
湖岸に生えている赤いイチリの果実を少し摘み、それから少し歩くとサクラチョウの花がたくさんある丘に行きつく。お母さんに教えてもらった、私のお気に入りの場所だ。
ピンクのきれいな色をふりまき、枯れることのない花びらが舞い、光が散って輝いている。私は手に持っていたかごを地面に置き、両手を広げ、くるりとまわる。私の動きに合わせて、花びらが舞い一人でもたくさんのものと踊っているような感じがする。
しばらく、その花の中に身をうずめ、帰路へとつく。その途中にいろいろな木の実を少しずつ摘んでいく。今日のお昼と夜のご飯になる。家に着いてから、庭の芋をとる。
簡単にご飯を作って食べた後は、お茶を読みながらほっと一息つく。生まれたときからある、たくさんの本の中から一冊を選び、ゆっくりとページをめくる。私が行くことのない架空の世界に身を置き、想像する。
そうやって、昼は過ぎ、やがて夜となって、私は私の一日を終える。
次の日の朝、起きるとしとしとと冷たい雨が降っていた。昨日はあんなにも天気がよかったのにと、ちょっとがっかりする。雨の日の森は少し危ないから、今日は家にいようかな。
特に何事もなく時間がゆっくりと過ぎていった。いつも通りにご飯を食べ、本を読んでいた。ふと外を見ると一羽の小鳥が窓辺にとまっていた。私はそれを見て微笑みながら、窓を開け「どうしたの、こんなところで?」と問いかける。続けて鳥は私の目を見て、そして森の方を見た。その先に視線を移すと、そこには森の動物たちが集まっていた。
「なにかあったの……?」と私は問いかける。鳥はチュンと一声鳴き、私は「ちょっと待っててね、すぐ行くから」と言いながら、雨具を身に着けて外に出る。私の肩に鳥がとまり、森の動物たちが先導をする。
しばらく森の外側に向かって歩き続ける。「ねえ、あとどれくらいなのかな?」と森の端に近づいていることを心配しながら鳥に尋ねる。鳥は首を傾げ、そして私の肩から飛び立って近くの木の枝にとまった。わたしがその木に視線を移すと、その木の下には人が倒れていた。
「え……なんで?」私は硬直し、動物たちはどうしたいいのかが分からずにその周りで立ちすくんでいた。
おそるおそる近づいていって私は気づく。「この人……怪我してる」そう、怪我をしていたのだ。顔から、手足から血を流し、至る所に青痣をつくって、気を失っている。それを見て恐怖心が体の中を支配していって、だけどなんとか体を動かして「大丈夫ですか……?」と声をかける。息はしているみたいだけど、肩をゆすってもうんともすんとも言わない。
「はやく手当をしなくちゃ」と思うも家に戻らなくちゃ手当はできないし、私の力じゃこの人を運ぶことはできない。「お願い、この人を運ぶのを手伝ってくれない?」と私は森の動物たちに頼むしかなかった。
あれからなんとか私の家まで動物たちに手伝ってもらって、あの人を運んだ。「あとは大丈夫だから、ありがとうね」と伝えると、動物たちは帰っていった。ベッドの上に寝かせて、雨でぬれた服をぬがせて体をふき、薬草と包帯とで止血をした。それからは体が冷えないように毛布を目一杯かぶせて、私はほっと一息つく。今は、森の端で倒れていたその少年は静かに眠っている。
「はぁー、でもびっくりした。まさか、この森で私以外の人と会うなんて……」私が森の外に行っちゃいけないと言われていたのと同じように、この森に誰か他の人が入って来たことなんて今ままでなかった。
「なんだか疲れちゃったな……」その日の私にとっていろいろ大変なことが起こって、椅子に座ってその人の様子を見ているうちにいつの間にか意識を手放していた。
「うぅ……」と頭を横に振りながら目をこすり、瞼を開く。そこで私はいつの間にか寝てしまっていたことに気付いて、慌てて怪我をした少年の方を向くと、そこにはすでに目を覚まして窓の外を見つめている姿があった。
「あのっ……」と思わず声をかけて、その少年が私の方を向く。一瞬、その人は私の目を見て怯えたような表情をして、そのあとどこか懐かしそうな目をして、すぐに笑顔で「ごめんね……なんだか君のベッドを占領してみちゃったみたいで……」と言った。「ううん、そんなことない……」
「そう、よかった。君が僕の傷の手当てをしてくれたの?」
「うん、だっ、だけど私そういうの初めてでちゃんとうまくできてるか……」
「大丈夫だよ、大分痛みもましになってるから。ありがとう」
「そう、よかった……」と少し安心する。
「だけど、君にこんな手当をしてもらって申し訳ないけど、あいにく今の僕には君に恩を返せるようなものはないんだ」
「ううん、そんなのいいよ」
「ありがとう。だけど、いつかするよ。……ところで、ここってどこなのかな?」
「どこ……って? 森だけど」
「いや、そういうんじゃ……そうか、森か……」
「あなたは……森の外から来たの?」
「……そうなるね。ここに入ったのは初めてだから……」
「本当? 本当に?」
「うん、本当だ」と言いながらベッドから起きて立ち上がる。
「え……なにしてるの?」
「いや、いつまでも君に迷惑かけちゃ悪いからさ」
「私はそんなの全然……」
「ううん、迷惑になっちゃうよ。僕なんかがいたら」重い足取りで前に進もうとしている。
「なんで、そんなに……?」
「止まれないんだよ、どうし」その言葉の途中で体がよろけ、近くの家具に体をぶつける。
「ちょ、無理してるよ! 私は全然大丈夫だから、せめてちゃんと動けるようになるまでここにいて! じゃないと……」また倒れて、もし誰にも見つからなかったら……死んじゃうかもしれない。あの時、血を流して倒れていた姿を思い出してそんな恐怖が巡った。その人の体を支えて「だから、治るまではここにいていいから、だから……」私の言葉を聞いてその人は驚いたように目を丸くして「ふふっ……やっぱり作り話だな」小さく呟いた。「え?」「いや、なんでもないよ。……そうだね、じゃあお言葉に甘えることにするよ」「ほんと、よかった……」「心配してくれて、ありがとう。じゃあ、これから少しの間よろしくね。僕はアランって言うんだ」と手を差し出しながら言う。初めてだけど、これが“よろしく”っていう意味だというのは本の中で散々見た。「私はユイって言うの。よろしくね」久しぶりに感じた人の温もりと、他人と触れ合ったという初めての出来事、それにこの先の時間に心がときめき、笑顔がこぼれ出た。
アランの怪我が治るまで、それはどんなに頑張ったところで本当に短い時間でしかない。
でも、その間に私はアランから外の世界のことについてたくさん聞いた。
醜くて、いつかは壊れてしまうであろう私にとっての外の世界のこと。
壊れかけの世界に立ち向かった人のこと。
そんな醜くなってしまう前の愛すべき世界のこと。
私以外にもたくさんの人がいて、その人たちがどんな生活をして、どうやって生きて、死んでいくのか。
「幸せって何なんだろうね?」そうひっそりとつぶやいていた。「希望なんてもうなくてさ……だから僕は逃げてきたんだ」私の心にその言葉が深く突き刺さったのを覚えている。
正直よくわからなかった。外の世界に憧れがあったわけでもない。でも、その話を聞いて、私はアランが見てきた世界を見たいと思った。きっとアランも同じだろう。
だから私も私の世界のすべてを彼に見せようと思った。どう思うか分からないけど、それが私のすべてで、少しでも彼のためになればいいと思った。私のこれまでのこと、優しい森の動物たちを、七色の声色を持つ鳥を、どこまでも澄みゆく湖の底で自由に泳ぎ回る魚たちを、この森の豊かな食べ物を、そして私のお気に入りの場所を……。
「ここは……いいところだね……」月明かりに照らされて舞うサクラチョウの花びらを眺めながらアランはそう言った。
「私のお気に入りの場所なの」
「そうじゃなくてさ。君の住んでいるこの世界が、さ」穏やかな暖かい風が頬をなで、髪を揺らす。
「そう……? でも、やっぱりこうしてると、一人は寂しいなって思う……」
「世界は関係ないさ。僕は僕の世界で一人だったんだ。……君の方がもっとたくさんのものに囲まれている」空に散りばめられた月と星の光が彼を悲しげに照らす。
「……だったら……アランもここに住めばいいのに……」ここには私がいる。
「…………そうできたら、どんなにいいことなんだろうね。だけど、これ以上は……どうしよもなく迷惑がかかってしまう」
「迷惑なんて……私は……」
「君にじゃなくて……君がいて、君が愛すこの世界に、ね」
「…………?」
「……僕は、君とこの世界にはこのままで在ってほしいって思ってるんだ。だからね、ユイ…………君とは明日でお別れだ」
「え……」分かってはいた別れの足音がもうそこまで来ていた。笑顔で別れを告げるアランの顔は一点のかげりもなく、私は何も言うことができなかった。
「…………少し雲が出てきたね。雨が降りそうだ。そろそろ戻ろうか」
「……うん」
私は曇りが狩り始めた空を見つめ、そうして家へと戻った。
夢を見ていたような気がする。どこかで温もりを感じながら、ゆりかごにいるような穏やかな気持ちで、いつまでもそんな時間を感じていたい。その先を知っている素直な私の気持ちそのものだった。
「起きろ!」そして、そんな風にしてそんな和やかで温かい時間が壊された。
身体を揺さぶられてそんな風に大声で起こされ目を覚ますと、すぐさま腕をつかまれベッドから立たされる。
「はやく、靴をはいて! 逃げよう!」とアランが必死の形相で叫んでいる。
「え? ちょ……」と私は何が起こっているのかが分からないまま靴を履き、引っ張られるようにして家を出て走る。
「待って! なにがっ……」周りの状況を確認しようとした。
「うそ…………」そしてそこで私が見たものは、私の心を深く抉った。
「なんで…………森が燃えてる……?」
そう燃えていたのだ。赤橙色の燃え上がる火の粉。木が煤けた臭いと倒れる音。曇り空にぼおっと浮かぶ炎は私の世界を壊すようにして進んでいる。お父さんとお母さんが生きて、私が生まれて、私が生きて、その証がいろんなところに散りばめられている森が燃えていた。それが私の目が捉えた光景だった。
「だめ……いやっ! とめなきゃ」このままじゃ、全部なくなっちゃう。逃げてる場合じゃない。
「だめだっ!」アランは私が行動を起こす前にそう叫んだ。
「どうして? このままじゃ、全部なくなっちゃうかもしれないんだよ!」
「大丈夫だから。全部はなくらないから」
「どうしてそんなこと……」とその時、私の頬に一粒の水滴が落ちてきた。それは次第に数を増やしていき、やがて大粒となって地面に打ち付けるような激しい雨が降り始めた。
「雨……」これで、森の炎は消えるのだろうか。少なくともアランはそう考えて、そしてしばらく私たちはそんな雨の中を走った。
「ここまで来れば大丈夫かな」と息を荒くしながら、木の下で雨をよけながらそう言う。
「…………」
「ユイ、大丈夫……?」
「うん、多分……」笑みを作るけど、内心きついものがあるのは変わらない。
「ごめん……こんなことになって……」
「なんで? アランが謝ること……」
「いや、全部僕のせいなんだ。守りたいと思っていたけど、甘えだったね。……ユイ、もう君を傷つけたくない。だから……」悲しげな笑みを浮かべ私の前から離れる。それが何を意味するのか、森から去ったお母さんの姿と重なって分かった。
「待って! 行かないで!」気が付くと叫んでいた。そんな急な別れなんて嫌だ。一人はもう嫌だ。だから
「行くんだったら……私も連れて行って!」口をついてすぐに言葉が出た。
「ユイ…………」私を見つめるその目がアランの気持ちを語っていた。ダメ、見ないで、そんな目でみないで!
「なんでっ? 森の外が危険だから?」
「いや……」
「だって、森の外には私と同じくらいの人だっているんでしょ?」
「違うんだ、そうじゃ……」
「じゃあ、なんで? 大丈夫だよ、私は」
「だめだ! いや、ごめん……だけど、そうじゃないんだ。君が、君の両親が言うように君が森の外に出ちゃいけないのは……ユイが魔女だから……」意味が分からなかった。
「え……魔女……って、なんで……?」
「今の君になるべく酷なことは言いたくない……けど、森の外じゃ君はただ殺されるだけだ」
「ころ……なんで、私魔女じゃないよ。アランと同じひと……」何も違わないじゃない。
「いや、違う。君のその朱色の左目は魔女の証。それだけで……」
「うそ……うそ! だって、私のお母さんも私と同じで、でも森の外に行って……」
「君の両親、クリスとユリは……死んだよ」
「……うそ……!」嘘だと信じたかった。だけど私の両親の名をアランには言ってない。知っているはずがない。
「嘘じゃない。僕が殺したんだっ。この森を燃やしたのも……僕だと言うようなものだっ」目を伏せ、どこか辛そうに言葉を吐き捨てる。
「いや……いやっ! なんでっ、なんでそんなこと言うの? なんでっ……?」私の両親を、この森をアランが奪った? なんで?
「ユイ……」
「いやっ! 来ないで! もう何も言わないで!」私は目を瞑り、耳を塞ぐ。もうこれ以上傷つきたくなかった。何も見たくなかった。
「……ごめん。けど、これでいいんだ。……まだ今はこうするしか……」
しばらくして恐る恐る目を開けるとそこにアランの姿はなかった。木の下から出ても見つけることはできなかった。炎はもう消えていた。いまだに大粒の雨が降って、雨音は激しかった。曇った空を見上げ、そんな雨に混じって瞳から涙が零れ落ちた。森の一部を失い、外に行けば殺されてしまうと知り、お父さんとお母さんとはもう会えなく、そしてまた一人になった。そんな思いをせき止めることができなくて、しばらく嗚咽を漏らしながら泣いた。ああ、きっとこの声は雨音にかき消されて誰にも届かないだろう。私は一人だ。
あれから何があったということはない。ただ時間が過ぎていっただけ。日付を数えることをやめ、悲しみに身を浸し、ただ過去を思い返すだけの毎日を長く送った。一度、森が燃えた場所に行った。何もなかった。ただの黒焦げた大地があるだけだった。だけどそんなところからでも、ひっそりと小さな緑の芽が顔を覗かせていた。お気に入りの場所にも行った。サクラチョウの花びらは、私が知る限りずっと舞い続けていたその花びらは役目を終えたようにもう舞ってはなかった。
そろそろかもしれない。そう思った。
“森の外に出ちゃいけない”とお母さんと約束してから、そしてあの日から決して短くない時間が過ぎた。
私は今日、その約束を破る。願いを踏みにじる。任されたことを放り出して。
きっとこれから何十年とかけて元の姿を取り戻す緑がはぐくまれ始めた場所を通って、その先のまだ見ぬ地を目指す。伸ばした髪の毛で左目を隠し、ゆっくりと歩を進める。
この世界は私がいなくなっても同じように回り続けるだろうか。今踏み入れようとしている世界は私が行っても同じように回るのだろうか。
ちょっとの先に降り注ぐ光が人影を作っている。ああ、そうか。眩しいなぁ。
怒られちゃうかなぁ。なんて言われるんだろう。なんて顔をすればいいんだろう。
懐かしい声が聞こえ、多分一生誰の顔も見れなかったであろう暗い世界に光が差し込み始めた。私はこれから先、この世界をどこまで光でいっぱいにできるだろうか。
名も知らない桜色の花びらが目の前でひらひらと舞う。
私はその花びらを追い越して、先へと進んだ。




