8.パーティー会場
何とかドレスと靴、ショールなどが決まった時、既に時刻は16時になろうとしていた。
専務はぐったり気味になった私の手を引っ張り(←もう抵抗する体力もない)、再び車の助手席に座らせた。そしてこの場からそう離れてはいないホテルに到着し、今度は美容室に放り込まれてしまった。
「何とか間に合ったか」
腕時計を見ながら呟いた専務の発言から、事前に予約されていた事が窺える。まったく、どんだけ用意周到なの、この人は。「よろしく頼む」と一言告げ、彼は近くの待合室へ向かった。私は半ば憔悴したまま、美容師さん達に好きにいじられて、ヘアメイクを施された。
「こちらが試着室ですので、どうぞ」
促されるまま椅子から立ち上がり、案内を受ける。そして購入したばかりのドレスに袖を通した。
これは一体何番目に選んだドレスだったかしら……。
濃紺に近い深い青色のドレスは、首元までしっかり覆われるタイプ。薄い透け感のある生地がデコルテを隠しているが、背中は大胆にも真ん中まで開いている。ハイネックの部分は繊細なレースとパールがついていて、ところどころアクセントが利いているのが可愛らしい。身体のラインに沿ったデザインだが動きにくくはない。膝までのスリット入りで、ウエスト部分はキュッとくびれている。
シルクのような手触りのこのドレスの購入価格は、意識して見ないことにしていた。一体いくらしたのか気になるが、知ってしまったら絶対に着られない。余計な緊張を味わう事になるので、やめた方がいいと判断した。
「一見シンプルだけど、地味じゃないのよね……」
鏡に映る自分は、まるでいつもの自分じゃないみたい。私も趣味で研究している方だけど、やはりプロのヘアメイクさんて凄い。華やかなパーティーメイクとアップにした髪型が、ドレスとピッタリマッチしている。寝不足でいつもより血色だって悪いのに、肌の不調が見当たらない位キレイにカバーされてるし。
クールに見えがちなアーモンド状の目も、睫毛の一本一本にまでマスカラがコーティングされている為、いつも以上に存在感がある気がする。
先ほど自分で購入したストッキングを履いて、同じ同系色のヒールを履いた。
今まで着ていたスーツと靴は預かっててくれるそうなので、スタッフの方にお礼を告げてお願いする。上品なドレスを纏う自分も服には負けない位エレガントに見えるよう心がけて、一歩一歩意識しながら歩き始めた。
背中と肩を隠す薄手のショールを羽織りながら、専務が待つ場所まで向かう。少し視線を彷徨わせただけですぐに探し人が見つかるとか、目立つ人物はこういう時便利だ。遠目からでも本当存在感があるのよね、あの人は。
彼はコーヒーを飲みながらソファに腰掛け、何やら呟いている。仕事の電話だろうか、眉間の皺が濃い。普段どちらかと言えば無表情に近いが、縦皺一本刻むだけで威圧感が増した。
電話中の専務の前にすっと立てば、私に気づいた彼はその皺を瞬時に消して、目を瞠る。
すぐに電話を切り、ふっと目じりを下げた。
「いいな、それ。やはり良く似合う」
「……ありがとうございます」
先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。いきなり微笑みかけられて、内心たじろぐ。
じっと見つめられながら褒められるって、何の拷問よ! じろじろ不躾に見られているわけじゃないのに、妙な緊張感に襲われてしまうじゃないの。
何やら思案するように流れる沈黙が、正直痛い。「あの、」と目を合わせて、そろそろ見るのをやめないかと告げようとすれば。専務は一言、「髪は上げたのか」と呟いた。
自分ではどうなっているのかさっぱりわからないが、私の髪は複雑な編みこみがされている。すっきりと可愛いのバランスが丁度よくまとめられた髪は、ドレスの印象を損なわない上品さも醸し出していた。
何となく意図を察した私は、冷静に口を挟んだ。
「首はちゃんと隠れてますよ?」
「ああ、そうだな」
「露出は最小限かと思いますが」
勿論、ショールを脱がなければ。
余談だが、この人は先ほど私に膝丈よりちょっと短いドレスを着せた時、即却下を出した。デザインは気に入ったから着た所は見たいが、脚は出すなと言ったのだ。そこそこ鍛えているから悪くない脚をしていると思ったが、どうやら逆に「目立つから却下」とか。いろいろと要求がましい男だと、新たな一面を知った。
「露出は抑えたはずなのに、禁欲的な色気みたいなのを感じるのは何故だろうな」
「は?」
ぼそりと呟かれ、「何を言ってるんですか? 専務」と率直に訊き返す。時折この人が言っている言葉の意味が分からない時があるんだけど。これが所謂ジェネレーションギャップかしら。
「いや、いい。だが、外では役職で呼ぶなと言ったはずだが? パーティーが始まるまでは、俺はなんて呼べと言ったか、賢い君なら覚えているだろう?」
うげっ、と咄嗟に呻きそうになった。
当然覚えていて、その上であえて通常通りに呼んでいるのに、この人は許してくれないらしい。逃げ道すら残さず、こうやって追い詰めてくるとは、Sっ気があるのだろうか。
一年間専務の仕事ぶりを間近で見て来た時は、いろいろと勉強させられる事が多く、同時にいつも鮮やかな手腕に尊敬の念を抱いていた。だが、自分がロックオンされる立場になると、途端に不安と焦りが湧きあがって来る。専務のやり方を思い出しそうになって、寸前で留まった。待ちなさい、蘭子。今思い出したら最後、暫く立ち直れそうにないわよ!
じっと黙って見つめてくる専務の視線から逃れようと一歩後ずされば、すかさず間合いを詰められる。手首を握られ、低いバリトンが鼓膜に届いた。
「どうした? まさか忘れたわけではないだろう?」
その声音に、からかいの色が含まれている事に気付く。ムッと僅かに柳眉を寄せて、挑むように専務を見つめ返した。
「わかりました。では、神薙さん」
「うちの社内には一体何人の神薙姓がいるんだろうなあ?」
「専務はあなた一人ではありませんか」
「役職で呼ぶなという話だったはずだが」
し、しつこい……
どんどん声が低くなるにつれて、若干ヒヤリとした空気が肌を撫でる。握られている手首に意識が向きそうになるのを何とか堪えて、私は小さく息を吐いた。
「わかりました。では、迅さんで、よろしいですか?」
「嫌々なのが気にくわないが、まあいいだろう」
ポン、とその大きな手を頭に置かないでほしい。髪型は崩れていないだろうけど、何だか表情が緩みそうになる。専務じゃないが、眉間に皺を刻んで顔を再び引き締めた。
「行くぞ」
そう言って、彼は私を会場内へエスコートした。
◆ ◆ ◆
堅苦しい集まりじゃないと言った言葉通り、今夜のパーティーは華やかで、そして若い世代の方が多く集まる場だった。というのも、主催で主役は映画監督の愛沢秀。まだ30代前半だというのに、ついこの間外国の映画祭で賞を受賞した、今注目の若手映画監督だ。
また、彼は多岐にわたるクリエイティブ活動をしている。高校時代からバンドを組み、作詞・作曲を担当。今では時折作曲家として、複数のアーティストに曲を提供したりしている。大学在学時には服のブランドを立ち上げたり、自作のゲームを作ったりと、知れば知るほど謎な人物だ。
30歳を超えているようには見えない若さに、映画祭で受賞した時会場内は騒然としたのをテレビで見て覚えている。若いというよりは、軽いのでは? と、今間近でその人物を見ていて思った感想だ。
今日の出席者は映画や音楽関係者が多く、そして必然的に芸能人も多く集まる。視界に入るのは、雑誌で見たことのある有名モデルや俳優、アーティストやら。大物俳優まで視界に入り、私の笑顔は一瞬で引きつりそうになった。
今更だけど、何で一般人の私がここにいるのかしら……。
専務をちらりと見上げれば、涼しげな顔で真っ直ぐ前を向いている。寄り添うように歩く私は、彼を守る防波堤だ。会場入りした途端に突き刺さるこの視線の嵐……。芸能界でイケメンを見飽きているはずの彼女達も、彼の精悍な顔立ちと、周囲に漂う男の色気に虜になっているようだ。
少しはフェロモン調整なさったらどうですかね……。硬派でストイックに見えるのに、何でこう肉食系女子の注目の的になるんだ。
見られる事に慣れている男は、それでも顔色一つ変えない。真っ直ぐ主催者に挨拶するべく歩き続ける。そして私にだけに聞こえるように、ぼそりと言った。
「隙を見せたら食われるぞ」
「それはあなたにですか? それとも、専務を狙う彼女達に?」
美女の視線が怖い……。
根性で微笑みを浮かべているが、気を抜くと頬が引きつりそうになる。ヤバい、気を付けねば。
ふ、と小さく笑った専務は私をちらりと見下ろして、口角を上げた。
「両方だ。だが、俺の前では存分に隙を見せろ」
「謹んでご遠慮させていただきます」
そんなの見せたら最後。足許をすくわれてしまうと、思わずにはいられなかった。
専務のフルネーム、ようやく登場。
神薙迅です。遅くなりましてすみません。