5.決着と始まり
9000文字超えてます。お時間がある時にでもどうぞ。
(誤字脱字訂正しました)
恋は、先に惚れた方が負けだ。
惚れた弱みがあるから、大抵のことは許してしまう。相手に振り向いてもらいたくて必死になる。たとえ同じ気持ちが返されなかったとしても、”好きだから”の一言で尽くしてしまう。その努力が実るかどうかもわからないのに。
嫌だ、そんなの。そんなボランティア精神、私には持ち合わせていない。
あの初恋が砕け散った時、私は決心した。もう二度と、自分から誰かに気持ちを伝えることはしないって。少し気になる相手を自分に惚れさせる真似はしても、自分から心底相手に惚れることは絶対しない。あってはいけない。だって、傷つくのはもう嫌だもの。
片想いのドキドキもときめきも。声が聞けただけで、目があっただけで湧き上がる些細な喜びも全部。残酷な言葉と共に一瞬で捨てた。遠い彼方に追いやったあの気持ちを、再び拾うつもりはないの。
愛するよりも愛される方が幸せになれる。愛されなくても誰かを想ってるだけで幸せだなんて思えるほど、私は人間が出来ていない。
この復讐が成功するまで、恋なんてしないと思っていた。誰かを自分から好きだと思えることも、初恋を清算しない限りは無理だと気づいていた。中途半端な気持ちの今、専務の告白に答えることはできないし、私も前に進む事はできない。
だから、長年の敵に再会し、親しく言葉を交わせるほど近づけた今。これは復讐の女神から私に与えられたチャンスなのだと思った。この大舞台を絶対に成功させてみせる。じゃないと、私はいつまで経っても、昔の私と決別できないから。
◆ ◆ ◆
一瞬の静寂が流れ、空気が震えた直後。勢い良く水が落下する音が鼓膜に届いた。
噴水に背を向けたまま、私は面白そうに人を観察する男を真正面から見やる。
端整な顔立ちは幼い頃から変わっていない。甘いマスクも、人好きする笑みも、相手の緊張感を解いてくれる穏やかな話し方も。
全てがまがい物の癖に、当人はきれいに本性を隠している。だが、周りには悟らせないその腹の内が、ようやく垣間見えてきたようだ。
緩く弧を描く唇に反して、瞳の奥から放たれる光は怜悧で鋭い。冷やかさと同時に、まるで獰猛な肉食獣を内側に飼っているような、荒々しさまで伝わってくる。
かつて少女だった私達は、一体諫早のどこを見て王子様だと騒いでいたのだろう。多分、外見と口調と、態度か。
わけ隔てなく、誰とでも平等に付き合えて、人望も篤い、誰もが認める人気者。完璧な人間なんているわけないのに、ましてや幼い子供が完璧であれるはずもないのに、欠点がない王子だと思えていた私達は、やはり見る目がなくて節穴だったのだ。
誰にでも平等でいられたのは、特別な誰かがいないからという事にも気づかない。特別扱いをする人間がいないのだから、群がる同級生達はきっとその他大勢の一括りでまとめられていたのだろう。
人の本性を暴かない方が幸せなこともある。気づかない方がいいこともある。でも、気づいてしまったらもう、後戻りなんて出来るはずがない。
ゆっくりと、細く息を吐き出した。仮面を被り続けていた方の諫早を相手にしても良かったのに、あいつから自分をさらけ出しているのは、私にとってある意味好都合。この際言いたい放題言ってやれる。私も奴同様、有能秘書の仮面を被り続けて取り繕う事は、過去がバレた時点で必要ないのだから。
私の名前をいつ思い出したのかとか、聞きたい事もたくさんあるけれど。ここで狼狽えるような無様な姿は決して見せないし見せたくない。挑まれた勝負には真っ向から受けて立つが、話の主導権を奴に握られたら厄介だ。
私は、かつて私をこっぴどく振った憎い男を一瞬で魅了するような、艶やかな微笑を向ける。
「――そう。ようやく名前を思い出せたようね? 諫早君」
若干皮肉るように目を細めてふっと笑う。
現在の奴との距離は約5歩。至近距離でお互い一歩も退かず見つめあいながら、私は再び口を開いた。
「でも、6年生の時だけじゃないんだけど、あなたはどうせ忘れてるんでしょう。思い出せたのも、卒業アルバムを見たから?」
アルバムをじっくり見るような奴でもないけどね、絶対。一度だけパラパラめくってすぐに放置だろう。奴はあまり物にも人にも執着しないように見えたから。それはゆかりから定期的に送って来られた情報からも言える事だった。だから学生時代、交際相手も頻繁に変わっていたのだろう。社会人になってからはわからないけど。
「4年生から、だったっけ? あの頃は人の顔を覚えるのがあまり得意じゃなかったから」
……へぇ?
どうせ私は地味で目立たないどこにでもいる平凡顔だわよ! 今は多少マシになったし、化粧の腕も上がったから”美人”と称されるようになったけどね! あの頃の私と今の私を見比べれば、奇跡的な成長をしたと自分でも思うわ。あ、でも言っておくけど、別に整形をしたわけではない。自力で何とかしたわよ、自力で!
軽く腕を組んで佇む男に、どす黒い感情がこみ上げてくる。ああ、まるであの日のようだ。高熱で寝込んで目覚めた後の、あの日の朝。私がこいつに復讐を決意した時と同じような、強い感情に心が支配されそうになる。
でも、ダメよ蘭子。感情任せにしたら、うまくいく計画も成功率が減ってしまう。冷静になれ、と心の中で呪文のように唱え続けた。
「まるで、誰かに指摘されたような口ぶりね? 特に存在感はない一クラスメイトの女の子を、あなたならいちいち覚えていないもの。一体誰が、……」
とまで言いかけて、ふととある人物の顔が脳裏に浮かんだ。思考を掠めただけなら特に気に留めないのに、一度その可能性に気付いてしまうと、疑惑は一気に膨らんでいく。
いや、まさか。そんなのありえない。
否定する自分と、もしかしたら……と肯定する自分に、僅かながら動揺する。たらりと額に汗が浮かびそうになった。
中途半端に区切った台詞から、何かを読み取ったのだろう。まるで私の思考を覗いたかのように、諫早は私が考えていた疑問に答える。
「ありえない、わけじゃないだろう? お前も知ってるはずじゃないか。彼女が中学、高校、大学と、俺と同じ進路を歩んできた事を。そして就職先まで同じ。ここまで腐れ縁が続けば、多少なりとも交流があると考える方が普通じゃない?」
すっかり仮面を脱ぎ去った素の姿で、諫早が私を興味深げに見つめる。口調も変わり、一人称も「俺」になっていた。あの卒業式の時、私に言ったのと同じように。彼は自分を「僕」と名乗り、社内では「私」と使っていたはずだった。
……とうとう化けの皮を剥いだわね……とほくそ笑む事も生憎今は出来ない。告げられた内容が衝撃的で、でも同時にその通りだと思ってしまったから。
「……何、それ。あんた、まさかゆかりに何かしたわけじゃないでしょうね」
「俺からは特に何も? 中学の入学式で、彼女に呼び止められた時から年に数回会話する程度の仲だ」
「呼び止めたって、あの子は何を言ったのよ」
若干咎めるように眼差しを険しくすると、奴はくすりと微笑んだ。
「『卒業式にあなたがヒドイ言葉で振った女の子――覚えておくといいわ。彼女、諫早君を見返して復讐するつもりだから』、だったか。その時はまるで気にも留めていなかったけど……まさか本当に、ここまで追いかけてくるとはね」
諫早はくつくつと喉の奥で笑いだす。
ゆかりは一言もそんな事を奴に言ったなんて、私に言わなかったのに。流石親友! 愛されてる! なんて素直に喜んでいいのか迷う。
だが、その迷いは実に正しい反応だった。奴が続けて明らかにした事実を聞いて、私の目は極限にまで見開かれた。
「な、何ですって……!? あんた、ゆかりが私に自分の情報を渡していたのを知ってたって言うの!?」
「ああ。特別に、写真を撮られても構わないともね」
何だってー!?
そんな事、あの子は一言も言ってなかった。いつも隠し撮りすげーなぁー、どこでそんな技術身に着けてきたんだ、とか疑問に思ってはいたけれど。
一度「こんなに大変ね」と言えば、「協力者がいるから大丈夫」と返された事があったっけ。あの時はてっきり、ファンクラブに入ってる友人でもいるのかと思ってが……、協力者ってまさかの本人かよ! 気づけるわけないじゃないのよ!!
「それにあれは高2の頃だったか。常盤は俺に賭けを持ちかけた。俺が振った久住蘭子が、彼女が言うように本当に俺を追いかけて、目の前に現れるかどうかを。振ってから10年という期間を設けて、その間にお前が俺を忘れたら俺の勝ち。彼女が言うように10年以上経っても忘れずに、執念で俺を追いかけてきたら彼女の勝ち。結果、確かに久住蘭子は現れた」
すっと視線を細めて、奴は射抜くように私を見つめた。その眼差しの強さに、反射的に身体が竦む。
これ以上は危険だ、聞いてはいけない。そう本能ではわかっているのに、身体が動かない。いや、動けない。まるでメデューサに睨まれてしまったかのように、私はこの場につっ立っている。
一歩間合いを詰めた諫早が、突然私に頭を下げた。ありえない光景に、絶句する。
「子供だったとは言え、傷つけた事は変わらない。すまなかった」
いきなり謝罪され、息を呑んだ。喉が貼りついて、呼吸がうまく出来ない。
頭を上げた諫早の真摯な眼差しを受けて、唇をギュッと引き結ぶ。
……違う、違うわよ。
私は別に謝られたいわけじゃない。
謝られたって、あの時傷つけられた私の傷が癒えるわけじゃない。かさぶたになって剥がれ落とす為には、私が受けたのと同等の傷を奴にも味わってもらわなければいけないのだから。
失恋の苦しみを味わって、プライドをへし折られ、最終的には暴言を吐いて振った女性達を思い出して自分の行いを後悔させる。深く愛した女性に振られ、泣いて縋って捨てないでくれ! と喚くくらい無様でみっともない姿が見られれば、私の気持ちはようやく晴れると信じていた。
目には目を、歯には歯を。振られたら振り返せばいい。やられっぱなしは性に合わない。あんたも私に失恋して、食べ物が喉を通らないほど、恋の痛みを味わえばいいわ!
だから、見たいのはあの事を謝る諫早じゃない。行き場のない憤りを感じながら、私は荒々しげに呟いた。
「……今更謝ったって何だと言うの」
睨みつけるように眉根を寄せて奴を見つめる。諫早は先ほどまでの真摯の眼差しにどことなく愉しげな色を乗せて、私を見つめ返した。
「確かにな。だが、俺が負けたら直接お前に会って謝罪すると、常盤と約束したんだ」
聞いてもいないカミングアウトをされた。って、またゆかりなのね。彼女は私があずかり知らない所で、どれだけ敵と関わりを持っていたのだ。
「でも、本当に追いかけてくるとは、ね……。彼女の提案に従い、ここまで来たお前には感謝しないといけないのかな?」
「……は?」
頭のどこかで警鐘が鳴る。
嫌な予感に肌がぞわりと震えてきた。妙な緊張から鼓動が早まる。呆然と見上げる先で、奴は艶然と微笑んだ。
「久住さんは今の姿と昔の姿じゃ、随分と印象が変わったね。女性は年頃になればそれなりに変わるものだけど、ここまで見違えるとは思わなかったよ」
「……誰かさんのお陰で、努力しましたから」
夜なのに、なぜか額に冷や汗が滲む。心臓の主張はどんどん激しさを増していくようだ。目を逸らしたいのに、逸らしたら危険な気がして、結局奴を睨み続けている。
「高校の全国模試でも常に30番以内に入っていたしね?」
「容姿だけ磨いたってあんたを見返せないでしょ」
「大学では留学も果たして、今では4ヶ国語が堪能だとか」
「その所為で秘書課に配属されて、復讐までの道のりが伸びたけれど」
勉強もスポーツもがんばって、語学力も伸ばし資格だって取得した。全てはいつかこの男を振り向かせて振るために。見かけだけはキレイでも、中身のない女になるのは嫌だった。奴に勝つには、全力で自分に出来るスキルを身につけないと。一瞬で足元を救われて、叩きのめされるのは自分の方になってしまう。
色気を纏った声で、奴が囁く。
「俺を見返したくてがんばったんだ? 12年間ずっと努力を怠らず、全力で学業とそれ以外にも取り組んで」
「そうよ」
「そこまでして俺に復讐したいと思っていたんだ?」
「そうよ!」
ぎり、とこぶしを握り、全ての感情を吐き出すように言葉をぶつける。
「12年間、一日だってあんたを忘れたことなかったわよ! 嫌いで憎くてムカついて、あんたの噂を聞くたびに負けてられるか! って一心で、勉強も美容も教養も身につけて。全部全部、いつか再会して私に惚れさせた挙句、盛大に振ってやるために!」
荒ぶる気持ちを宥めるために、一呼吸した。昂ぶった感情に引っ張られるように、視界が潤みそうになったが、ぐっと堪える。下唇を一度噛んでから、震えそうになる声を必死で抑えて告げた。
「……嫌いよ。あんたなんて、大っ嫌いよ」
私にこんな醜い気持ちを抱かせる。なんて嫌な男だろう。
悔しくてうつむいた私は再び顔を上げて奴を睨みつけると、諫早はどこか嬉しそうに笑みを深めた。その表情の裏には黒さが垣間見えて、僅かに息を呑む。
「嫌い、か。それは光栄だな。12年間一日も忘れず、俺だけを嫌って憎んで、お前の心を支配していたのだから」
……な、何が言いたいの。
脳の奥で響き続ける警鐘が、次第に大きくなる。
足よ、動け。耳を塞げ。そう本能が指令を下していても、私は身動き一つ取れずに、奴の言葉に耳を傾けた。
「嫌いな男がずっと心の真ん中に住んでいたわけだろう? 人の人生を左右するほど誰かに強く想われるのが、ここまで心地いいとは。さっきの台詞は、まるで愛の告白だよね?」
「っ!?」
驚きを露わに、目を見開いて絶句する。嫌いだと確かに言っていたのに、どうして今のが告白になるの。何で私が嫌いな相手を好きだと言わなきゃいけないの!
「好きと嫌いは紙一重。嫌いな相手を12年間も想い続けるなんて、普通は出来ないんじゃない? 少なくとも、俺には無理だ。誰かに執着した事もなければ、誰かを強く欲した事もない。少なくても、今までは――」
すっと色素の薄い目が細められ、心臓が大きく跳ねた。一歩後ずさりをしたのと同時に、奴がまた一歩距離を詰める。
「こんな風に特定の人物に興味を持つ事も初めてだよ。本当、お前はかわいそうな位残念で愚かだね。折角俺の関心が続かないよう、いろいろと選択肢を与えてあげたのに。ハズレを無視して、ことごとく”当たり”を引いた」
「な、にを、言って……」
声が震える。情けないとか気にしていられるレベルじゃない。だって、目の前で悠然と微笑む男は、まるで捕食者のような光を瞳から放っているのだから。その目で射抜くように見つめられれば、ぞくりとした震えが背筋をかけた。
「一つでも道を誤っていればよかったのにね。残念だけど、もう逃がしてあげられない」
一歩、大きく距離を縮められる。手を伸ばせば触れられるほど近づいた諫早が、私の髪を一房手に取った。
「この染めていない自然な黒髪も、気の強さも、刃向う意志も。全てが俺好みに育つとは思わなかったよ。外見だけに気を配って、肝心な中身をおろそかにする頭の弱い女に興味はない。負けず嫌いで努力家で、自分の道を突き進む芯の強い女性が、好きだよ」
そっと、奴は手に取った私の髪に口づけを落とす。その仕草があまりにも色っぽくって、そして唇を髪に寄せたまま上目遣いで私を見上げた目はどこか淫靡な空気を孕んでいて、顔が火照りそうになる。冷や汗は止まらないし、心拍数だってヤバいのに、まるで奴の瞳に囚われたように動けない。
「俺を本気にさせた責任、取ってもらおうか」
「っ……!?」
ぞ、ぞぞぞと足元から悪寒が這いあがった。
咄嗟に両腕を突っぱねて諫早を遠ざけようとしたが、一歩早く奴に手首を掴まれる。
「ななな、何言っちゃってんの!? さっきからわけわかんない事ばっかり! 選択肢とか当たりとか、そんなの与えられた記憶はないわよ!」
「当然、お前自らその道を選んだに決まってる。だから面白いんじゃないか。俺が流した情報をもとにどう動くか黙っていたら、一つもハズレを引かなかったんだから」
「流した情報……?」
…………。
ま、さか……、ゆかりーー!?
あんた2重スパイしていたっていうの!?
「いや? 常盤には何も言ってないけどね。彼女はただ俺の日常を観察していただけと、写真を撮っていただけ。そこからどんな情報をお前に教えたかまでは聞いていないが、日常生活の中にはたくさんヒントを混ぜておいた。俺の好きな物と嫌いな物。どう行動し、どう動けば”当たり”になるか。でも、結局今の道を選んだのは、自分だろう?」
――ああ、でも時折賭けが未だに有効かの確認は取っていたけど。
そう続けた諫早の言葉を聞いて、頭がパニックになる。
「何で、……だってあんたの元カノは、皆派手で流行を意識したモデル風の美女ばっかじゃない! 自分に自信があるタイプの、クラスで目立つような」
歴代の彼女達は確かにそうだった。髪を染めて流行のファッションに身を包み、自分が魅力的で可愛く見せる方法を知っている子達。雑誌の読者モデルと言われても違和感のないような、そんな女性。奴に好意を抱かれたいのなら、彼女達みたいになるのが一番じゃないか。
が、諫早は嘲笑めいた苦笑を零した。
「着飾る事にしか関心のない、話しててもつまらない女に興味はないよって言っただろう? 中身のない女はつまらない。彼女達には、交際前から伝えてあった。”俺が好きになる事はない”と。それでも自信家なのか、皆構わないと言っていたが、大体3ヶ月前後で去って行った。まあ、初めから伝えていたから、特に問題にはなっていないけど」
最低だ。
割り切った付き合いだと言われればそうかもしれないけど、相手の女の子達はきっと本気だったのだろう。救いは三カ月で自分の過ちに気付いた事か。それだけで彼女達は愚かじゃなくて、賢かったのではないか。
「頭が緩くて媚びる態度の女は嫌いだ。自分の力で上を望まない女もね。派手な女を連れていれば、お前もそれを真似して現れるかと思ったけど。ことごとく予想を裏切られたよ。まさかここまで俺好みに成長するとは思わなかったほどにね、蘭」
名前を呼ばれたと同時に、ぐいっと手首を引っ張られ――気づけば、奴に抱きしめられている。ヒールを履いている私より頭半分ほど高い諫早は、既に頭の処理が追いつかない私を力いっぱい抱きしめて、囁きを落とした。
「誰にも、渡さないよ?」
甘く響くテノールの声が直接耳朶に吹き込まれる。その破壊力……耳が腐る!
「わ、私は、誰とも恋する気はない!」
そう叫んだと同時に、力強く身体が諫早から引き離された。唖然とする私の肩を、背後に立った人物が片腕で抱きしめてかばう。嗅ぎなれたオーデコロンの匂いが鼻腔をくすぐり、先ほどまでとは違った冷や汗が途端に流れた。
「……俺の秘書に許可なく触るとは、いい度胸だな?」
地響きのように低いバリトンが聞こえて、身体が強張った。
な、何であなたまで現れるのよ、専務ーー!?
◆ ◆ ◆
まさかの三つ巴合戦に、私の体力と気力ががりがり削られていく。
何て面倒な! と叫ぶ事すら憚れる。専務の冷静的な声には明らかに怒りが混じっており、私の顔が急激に青ざめた。
まずい、これは……。
ってゆーか、何であなたまでここにいるんですか! 韓国出張はどうした!!
「戻りは明日のお昼の予定では?」
仕事モードに切り替えて、背後に佇む専務に尋ねた。相変わらず、肩は抱かれているままだが。
「余計な害虫に誘惑されていないかと気が気じゃなかったので、さっさと仕事を終わらせて帰って来た。どうやら一歩遅かったようだがな」
「…………」
謝った方がいいのかしら。
いや、でも、髪はアップにしてないし! 今も下ろしたままだし!!
「秘書のプライベートにまで口を出すとは、噂に違わない過保護っぷりですね」
ひいっ! お前はバカか諫早ぁあ!
余計な事を言うな、黙っておけ。じゃないと、私の仕事環境に支障が出たらどうするつもりだ。
「最近目障りだと思っていた営業の諫早爽か……。お前にはいろいろと訊きたい事も言いたい事もあるが、一つだけ言っておく。俺の断りなく彼女に近づくな」
そ、それは、「近づいたらどうなるか知らねーぞ?」的な脅しですかね!?
私情を挟んで人事を動かす真似をする人じゃないとわかっているけど、妙にドキドキしてきた。口を挟めずじっと黙っている私を置いて、諫早は器用に仮面を被り直す。
「それを決めるのは彼女ですよ。仕事以外の事にまで、神薙専務に口を出される筋合いはないのでは?」
「筋合いならあるぞ。今は完全なプライベートで、俺は彼女に交際を申し込んでいる」
って、ギャー!? 何でいきなりそんな曝露をここでするの!?
衝撃的な発言を聞いても、諫早の表情は崩れない。ある意味尊敬に値する。奴は一言、「そうだったんですか」と呟き、爽やかに見える笑みを向けた。
「でも、諦めてください。この12年間、彼女の心にいた男は俺ですよ。それは今後も変わらないので。他をオススメします」
「それは無理だ。中途半端な覚悟で気持ちを伝えたわけじゃない。それに、お前は彼女が憎んでいる男だろう? そのような男に蘭子を渡せるか」
ら、蘭子!?
いつの間に私、名前呼びされるようになったの。
ぴくりと諫早の眉が反応を示した。爽やかな笑みのはずなのに、背後から黒い何かが出ているように見える。
どうでもいいけど、あんたちょっとは名前通り爽やかな人間になりなさいよ! 名は体を表す、と言うじゃないの。ここまでミスマッチしている人間も珍しい。
「誰とも恋する気がないという事は、あなたも恋愛対象外という事ですが?」
すっと、専務の気配が鋭くなった。間に挟まれている私はもう、正直帰りたい。この場の空気が辛いし、とりあえず何も考えないで寝て忘れたい!
「後から割り込まれても譲る気はありませんよ」
「散々憎まれる事をした男が何を抜かす。お前こそさっさと彼女を解放しろ」
「それは出来ませんね。一度欲しいと思った物は、必ず手に入れる主義なので」
「それは奇遇だな。俺もだ」
二人の口調は穏やかだ。
だが、視線の先には、目には見えない火花が見える。一触即発といった空気を肌で感じ、私は専務の腕から逃げ出した。
捕食者二人に、被食者一人。圧倒的にこっちの分が悪い!
「もう遅いので、帰ります!」
お疲れ様でしたー! と言って逃げてしまえっ。
本当はヒールを脱いで、全速力で逃げ出したい。最後の体力を振り絞ってでも脱兎の如く走り去りたい。
けれど何とかギリギリ思いとどまり、ヒールを履いたまま小走りで駅まで向かう。
「車で来ている。自宅まで送ろう」
優雅に歩いて近づいてくる足音が2つ……。こっちは小走りだっつーのに、どういう事だ。コンパスの長さが違うからか!
私は背後を振り返らないまま、叫んでいた。
「結構です! 今から友人宅へゲリラ襲撃に行きますのでっ」
「ああ、常盤の所だね。それなら俺も一緒に行こう」
「ギャー!? ついてくんなバカー!!」
――非常に不本意ながら、復讐相手から正式な謝罪を受けたその日。どうやら私に、新たな恋愛カタストロフィーが到来したらしい。
◆Catastrophe:大災害
これにて「恋愛カタストロフィー」、本編は一応完結です。
ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
この作品は永久めぐる様主催の「復讐愛企画」参加作品です。ちゃんと復讐愛になったのかどうか怪しいですが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
一度完結設定にしておりますが、諫早視点の舞台裏を一話投稿する予定です。2~3日以内には投稿できるかと思いますが、初めに言っておきます。歪んでます。奴の思考は歪んでいるので、それでも大丈夫!な方だけお進みください。
本編の続編はリクエスト次第、ってところでしょうか。現時点では、作者にも主人公がどちらを選ぶかわかりません(汗)中途半端で申し訳ないですが、蘭子の復讐は一応諫早が謝罪をした所で達成されたのではないかと。乙女心は複雑で、そう簡単には決められません……。
それでは、番外編の諫早視点もよろしくお願いします。