4.カウントダウン、スタート
8000文字超えてます。長いので、お時間がある時にでもどうぞ。
どうやって部屋にたどり着いたのか覚えていないほど、専務の突然の告白には驚いたらしい。
気が付けば朝、私はベッドからむくりと起き上がっていた。流石よ、蘭子。動揺しててもクレンジングと毎晩の日課(主に美容目的のケア)は怠らなかったようだ。いつも通りの目覚めで、身体はすっきりしている。着ているのは、愛用しているパジャマだ。
土曜日の朝なんだから、6時に目覚める必要はないんだけど。体内時計は完璧に整っているらしい。
ベッドから起きて軽く背伸びなどのストレッチをし、顔を洗って歯を磨けば、ようやくほっと一息つける。パジャマのままキッチンに向かい、毎朝飲んでいる人参とリンゴのジュースをミキサーに入れて作り始めた。ガーというミキサーの音を聞きながら、昨夜の記憶を呼び覚ます。
『君が好きだ。初めて会った時から』
この1年ですっかり聞きなれたあのセクシーなバリトンボイスが、脳内再生された。って、
「ギャー! 思い出すなバカ! 朝から何考えてるのよ私はーー!?」
右手はミキサーに乗せたまま、キッチンのカウンターに突っ伏すように悶える。
ちょっと待って。自分の記憶のねつ造とかじゃなかったら、俺との未来を考えてくれないか、とも訊かれなかったっけ!?
「…………」
キャー!?
ぼふん。
一気に顔が噴火しそうなほど真っ赤に染まる。
激しく主張を始める心臓を宥めながら、いい感じにドロリとした人参&リンゴのジュースをグラスに注ぎ、スプーンですくって一口食べた。
いつも通りの日常を過ごせば落ち着きが取り戻せるかと思ったけど、ダメだ。落ち着けない。落ち着くなんて、無理だ!
「うう、冗談じゃ、ないんだよね……?」
一人でぽつりと呟きを落とす。
仕事は鬼で融通がきかなくて、真面目な専務が10歳も年下の女に性質の悪い冗談を言うとは思えない。だって同じ職場だもの。お互い気まずくなったら困るじゃないの。
と思い至って、はたと気づいた。そうよ、仕事で一番長く接する相手に冗談や嘘を言ってどうするの。
「……それじゃ専務は、この関係が壊れる覚悟を決めて、告白したって事……?」
脳裏に浮かぶのは、あの真剣な眼差し。引力のように強くて、人を引き付けてやまないようなあの力強さ。真っ直ぐに私を見つめていたあの表情は、冗談なんかじゃ済まないだろう。
途端に呼吸が苦しくなった。今まで男性とお付き合いした事がなかったわけじゃないけれど、私が体験したのはあくまでも軽いお付き合い。男性の行動パターンや思考を研究する為に必須な経験だったので、誘われるまま交際を受けた事が数回ほどある。相手を愛していたかと問われれば微妙だったけど、決して嫌いだったわけではなく、ちゃんと好意は抱いていた。ただ、それらが「恋」ではなかっただけで。
付き合っていればいつか恋愛に変わるのかとも思った。相手のことはそれなりに尊敬していたし、嫌いなところがあったわけじゃない。だけど、その感情はそれ以上に発展しなかった。恋をしているとも思えず、気持ちが盛り上がらなかったのだ。
結局どうしても友人どまりに感じてしまい、身体を許す気にもなれず、こちらから相手を振る形になってしまった。付き合っている最中は出来る限り誠実で嘘は言わないようにしていたけれど、相手が私を想ってくれていたのと同じ気持ちを返せなかった時点で、誠実じゃなかったのかもしれない。
”好きだ”、”愛してる”。そんな言葉は、自慢じゃないが今までの人生で結構言われてきた。でも、専務から言われた台詞ほど、私を動揺させた物はなかった。
ど、どうしよう……。いろいろと噂を立てられてきたのも、事実無根だったから大丈夫だったわけで。専務の方が私とそんな関係になってもいいと思っているだなんて、今までこれっぽっちも気づかなかったんだけど!?
「もし彼と結婚したら、神薙蘭子になるのか……」
なんて、独り言のように呟けば。治まっていた顔の火照りが再発して、再び顔が噴火直前にまでなった。
うわー、うわぁああー! 何相手の苗字と自分の名前を組み合わせてるのよ! 小学生女子じゃあるまいし!! ちょっとかっこいいかも……、とか思っちゃダメよー!!
咄嗟にソファのクッションを引き寄せ、バンバンと埃が舞うまで拳を叩きこむ。
落ち着け、落ち着くのよ~蘭子!
そう自分自身に冷静になるよう深呼吸を繰り返していると。ふと、復讐相手の名前が脳裏によぎった。
「諫早……、蘭子?」
…………。
ないわ! ありえないわ!!
何その発想。痒くて痛いんだけど!?
自分で呟いておきながら両腕に現れる拒否反応に気付き、同時に寒気を感じた。奴嫌いは既に12年を突破している。そう簡単にあの男に好意なんて抱けるわけがない。あいつとの未来なんて、それこそ天変地異が起きたってありえないんだから!
「私の目標は奴を思いっきり振る事よ……。復讐が成功するまでは、専務の気持ちに応えるなんてできないわ」
『今、絶賛復讐計画進行中なんです!』とも、流石に言えない……。言ったら「頭大丈夫か?」と真顔で訊かれそうだし、確実に専務を巻き込む事になるじゃないの。しかも相手が自社社員だと知ったら、計画を阻止されかねない。それは困る。私の長年の努力が! 悲願が! 全部パアになったら、泣かない自信はないわ。
「専務には少し考えてから返事を出せばいいか」
突然のことで戸惑いが強いけど、別に専務は嫌いじゃない。仕事ぶりを見ていても、尊敬できる上司であり、素直に素敵だと思える男性だ。ただ、色恋的な目で見たことがなかったので、ちょっとだけ困惑しているのが本音。
とりあえず返事は保留で。何か訊かれたら、少し待ってもらうよう伝えなきゃ。
……そう、週末は思っていたんだけどねぇ。
ただ今、週が開けた月曜日のお昼時間。休憩時間中の専務の部屋で、私は無言の圧力を浴びせられている。
専務室にある応接用のソファとテーブル。その上には、とある有名店の高級弁当が二つ置いてあった。向かい合わせで座る専務の分と、何故か私の分まで用意されていて、戸惑うなという方が無茶だ。
「あの、これは……?」
「君の分も一つ頼んだんだ。さ、遠慮せずに食べなさい」
一個5千円もするお弁当を、遠慮せずに食べろって言われても。「うわーいありがとうございます~♡」みたいに、今風な若いお嬢さんらしいリアクションを演じる事もできない。
しかも向かい合わせで座ってるからって、何でずっと私を見つめているんですか。まさか食べ始めるまで見ているつもりですか。見られていると、逆に食べにくいんだけどね?
「では、遠慮なく頂きます」
割り箸を割って、色鮮やかなだし巻き卵を半分に崩した。綺麗に割れた片割れを箸で持ち上げて食べる。上品な出汁の味が口に広がり、思わず「おいしい」と呟きがこぼれた。
ふ、っと専務が微笑む気配を感じた。
「ああ、そこの卵焼きは絶品なんだ」
滅多に見せない笑顔に、不覚にも鼓動が早まる。うわ、不意打ちの笑顔って、いい男がやると破壊力が半端ないわね! 威力が凄すぎるわ。
さっと不自然にならないように、目を逸らせば。再びじっと見られている気配を感じ、内心ドギマギしてしまう。何だか胸の奥がそわそわして、落ち着かない。
「あの、何か……?」
「いや? どうやら少しは意識されているようだと思っただけだ」
今度はくすりと微笑まれて、いつも被っている冷静な仮面が剥がれ落ちた。
だーかーらー! いくら休憩中だからって、何口説くような真似をしてるんですかー!?
若干恨みがましい目で専務を睨みつけると、いつもは鋭さを感じる目元を甘く和らげた。
「私、公私混同をする気はありません」
「そうか。それは俺もだ」
「ここは社内ですよね?」
「だが休憩中だ」
「仕事場に変わりはありません」
お願いだから人の反応を見てからかうのはよしてほしい。
少し可愛げのない言葉でやめろと言えば、彼は一言「そうか」と告げた。
わかってくれた! なんてほっとしたのも束の間。続けられた言葉に、背筋がぞくっと震える。
「それなら就業時間後ならいいわけだ。会社から一歩でも離れたら、遠慮なく君を口説いていいんだな?」
「え!?」
覚悟しておくように――と続けられた言葉に、私は絶句するしかできなかった。
◆ ◆ ◆
タイミングがいいのか、この日の午後から専務は一人で外出する予定が入っていた。満面の笑顔で「いってらっしゃいませ」と見送れば、彼は若干不機嫌な(でも他の人間から見ればいつも通りの無表情)顔で扉が開けられた車に乗り込む。
と、その直前。くるりと振り返った専務は、数歩離れた場所で見送る私の元までたった2歩で間合いを詰めた。そして鮮やかな手つきで髪をまとめていた私のヘアクリップに手を伸ばし、さっと取った。
「え、」と呟いた直後。アップにしていた髪がほどけ、緩く波打つ髪が胸元で揺れる。一体何をするんだと彼を見上げると、すっと目を細めた専務の唇の端が、若干持ち上がった。
耳元まで顔を近寄せられ、彼は掠れた声で囁きを落とした。
「俺がいない間に誘惑でもされたら困る。うなじなんて見せてたら、キスしたくなるだろう?」
「っ!?」
な、何て事を言うんだこの男はーー!?
背後には、一応他の社員だっている。それにここは人目が多い。耳打ちをされているように見えるだろうが、口説かれているようにも見えるかもしれない。(考えたくないけれど!)
咄嗟に表情はいつも通りクールな真面目顔で固定し、引きつりそうになる頬を何とか堪えて、目線のみで彼を睨み上げた。
「かしこまりました。そのように手配しておきます」
若干声は大きめで。背後にいる他の役員達にも聞こえるように。そうすれば、今のは仕事の用事だったと思われるだろう。ヘアクリップは、髪が乱れていたから取ってくれたとでも言えばいい。(苦しい言い訳だが。)
ふっと顔を緩めた専務は、「ああ、頼んだ」と答え、車に乗り込んだ。当然、人のクリップを持ったままで。
もういいわよ。頼むからさっさと出かけてくれ。
だがその直後。口パクのように微かに動いた唇を呼んでしまい、車が発車してから一気に脱力感に襲われる。
『害虫駆除は、俺の役目だろう?』
……自社社員の男共を、害虫扱いデスか……。
読唇術なんて物を身に着けていた自分が呪わしくなった。無駄なスキルは養わない方が、時には自分の為かもしれない。
ため息を吐きたいのをぐっと堪えて、すぐに気分を入れ替える。私もさっさと秘書課に帰って溜まっている仕事を片づけながら、今後の専務対策を練らなければっ。
諫早への復讐作戦に加え、専務の口説き対策まで考えなければいけないとは、忙しくなったもんだわ。考えてみれば、これまで言い寄ってくる男性のあしらい方はそれなりに上手かった方だと思うけど、専務のように大人な男の色気を持ち合わせた年上の男性から口説かれたことは、実はない。
いつもストイックに見えるのに、ふと見せる笑顔が可愛いと気づいてしまうところとか、甘い物が好きというギャップがあるところとか、途端にフェロモン攻撃してくるところとか! 気が付けば壁際にどんどん追い詰められていきそうだ。自分が翻弄されている気がして、自然と眉間に皺が寄る。
駄目じゃないの、私。そう簡単に口説かれて落とされでもしたら、奴との決戦に勝てるかどうか怪しくなるじゃない。
専務の言動に振り回されているなんて、認めちゃいけないわ。私は私、今までの冷静沈着な優秀秘書を思い出して、自分を保つのよ!
そう密かに決心し、受付を通り過ぎる。エレベーター乗り場まで一直線に歩く私に、背後から声がかけられた。
「お疲れ様です、久住さん」
むっ、この声は!
ニヤリ、と口が歪みそうになるのを堪えて、ゆっくり優雅に振り返る。予想通り、正面玄関から入ってきたのは爽やかな色合いのネクタイをびしっと纏っている、スーツ姿の諫早だった。奴の近くには、もう一人営業と思われる男性社員が。同期か、1、2歳上だろう。先日の飲み会では見なかった顔だ。
「お疲れ様です、諫早さん」
口許に微笑を浮かべ、控えめに見える態度で挨拶を返す。一緒にいた男性社員が若干驚いた顔で私達を見つめていたが、どうやら彼は急いでいたらしく。腕時計を確認後、「やべっ、俺行くわ!」と言い残して、さっさと去って行った。
その姿を眺めた後、奴に視線を戻した。「お急ぎなのでは?」と問いかければ、「僕はそれほどでもないので大丈夫ですよ」と、普通の女子が見れば頬を染めるであろう笑顔を向けた。
ああ、胡散臭い……
なんて毒は、当然心の中で吐いたけども。いつか真正面から吐くつもりだけども! この場でする気は当然ない。
人目が多いロビーで、しかも近くには受付嬢の姿が。気にしていないフリをしているけど、確実にこっち意識してるわよね?
この男と一応もう少し接近した方がいいのだけど、早急すぎると危険だ。とりあえず、今は去った方がいい。
先日シャツを汚した事を再び謝れば、奴は気にするなと笑って首を振った。世間話のような会話を交わしながら、同じくエレベーター乗り場まで歩き始める。
別れ際、奴は鞄から何かを取り出した。
「久住さん。実は先ほど取引先から先日オープンした有名スイーツ店の招待券を頂いたのですが、よろしければどうですか? 期間限定のケーキが楽しめるそうですよ」
そう言って、奴はぴらりと2枚のチケットを私に見せてくる。
……これは、一緒に、って意味なのか。
だが、断る。本来ならその誘いに乗る方が正しい反応かもしれないが、そう気軽にホイホイついて行ったら、すぐに落ちる女だと思われるじゃないか。
あくまでも、私は自分から惚れていると思わせてはいけない。こいつがメロメロになるまで私に惚れてもらわないといけないんだから。男性の狩猟本能を刺激するには、簡単に捕まってはいけないのよ。
私は「まあ、」と微笑んでから奴ににっこり笑いかけた。
「期間限定のスイーツですか、おいしそうですね。ですが、有効期限が今週いっぱいとは……。嬉しいお誘いですけれど、是非恋人の方を誘ってみたらいかが?」
奴に彼女なんていないけどな。
だが、ここは無難に「彼女を誘えよ」と言うのがベストだろう。こいつのデータを全部把握していると思われるのは絶対に嫌なので、何も知らないフリをする。
諫早は若干柳眉を下げて、苦笑いをした。
「残念ですが、生憎恋人と呼べる女性はいないのですよ。ですが、確かに時間的に難しいですね。今週いっぱいというのはちょっと急すぎたかな」
「他の女性なら喜んで予定を空けてくださるのでは?」
意味深にくすりと笑う。社内恋愛なんてしないあんたは、絶対に面倒な女子社員を誘ったりはしないだろうがな!
「仕方がない、最近彼女が出来たばかりの同期に譲る事にします。――それでは、久住さん。また今度飲みに行きましょうね」
「ええ、是非」
と言って、別々のエレベーターに乗り込んだ。
最後のは社交辞令だけどね。
奴が何を考えているのかはわからないけど、一応好都合。私に興味を持ち始める一歩寸前にまでいっていると思える。(……多分。)
「まあ、一応進んでは、いるかも……?」
もう少し色気を出す研究でもしてみようかしら。自由自在に操れるにはまだまだ修業が足りないわねぇ。
とりあえず、今夜は唇用の潤いパックでもしよう。
◆ ◆ ◆
「久住さん、今からお昼でしたら、一緒に行きませんか?」
「今日は社食を利用されているんですか。僕も好きなんですよ、その日替わりメニュー」
「奇遇ですね、ばったり鉢合わせるとは。お時間あれば、知人がやっているイタリアンがこの近くにあるのですが、……」
……あの最初に誘いを断った翌日から、何故か諫早によるお誘い攻撃が始まった。
社食で一緒になった時は断る方が面倒なので、仕方がなく一緒に食べる。が、周りから突き刺さるような視線が痛い。
『え、何で諫早さんが?』
『ってゆーか、久住さんって専務と付き合ってるんじゃなかったの?』
『美男美女だけど、あの席はちょっと近寄りがたいな……』
『ショックー! 諫早さんは社内恋愛しない主義だなんて誰が言ったのよ!?』
……などなど。
遠目からやっかみと嫉妬の眼差しを受ける。男性社員からは一部違った視線も感じるが。
社内でばったり出会えば、奴は何かしら私を誘ってくるので、噂が一気に広まった。営業のイケメン若手エリート、諫早爽は、専務付き秘書に片恋中!? とか。
私は声を大にして言いたい。
これは十中八九、嫌がらせだとね!
きっと女性から断られる事がなかった人生だったのよ。それでムキになってるんだわ。
でも、そろそろ外で会う時間を作るのもいいかもしれない。焦らしプレイを散々した後にご褒美として誘いに乗ってやれば、もっと私を落としにかかるでしょうよ! それこそ意地になってでも。
ああ、そろそろちゃんとした”振り台詞”を考えないとね。
『腹黒くて自信過剰な男は嫌いなの!』
『2重人格男なんてもってのほか』
『世界中の女の子は自分を好きだと己惚れてるんじゃないわよ!』
……言いたい事がありすぎて、まとまらないわねぇ。
奴のプライドを根本からばっきり折れるような、そんな決定的な台詞が思い浮かばない。
なんて考えながら仕事を処理していると、出張中の専務からメールが届いた。えーと……仕事が半分、プライベートが半分……。おい。
この人、出張に私も連れて行くと言い出した時は「本気か!?」とマジで思ったわよ。韓国への出張なら、私じゃなくて秘書課長がついて行った方が断然頼りになる。だって私、韓国語はマスターしてないし。
そうわかりきった事をあらためて伝えて説得すると、専務は渋面な顔で私に言った。
『最近、害虫駆除が追いついていないが、困った事があればいつでも頼りなさい』
諫早の噂でも耳に入っているのだろう。奴はそれでなくても目立つ存在だし。不機嫌な専務を宥めて出張について行った秘書課長、大変ね……。でも仕事は真面目にこなす人だから、特に問題ないと思うけど。
そして専務不在中の金曜日。はたまた偶然に――って、これってもう偶然なのかしら? ――社内で鉢合わせた諫早に、飲みに誘われた。奴はしつこく誘っているように見えて、あっさり引くから女子から嫌がられないのよね。まあ8割方、イケメンだからだろうけど。つくづく顔がいい男って得だ。
「ええ、今夜なら大丈夫です。いつもお誘いありがとうございます」
はにかんだ笑顔を浮かべれば、諫早はふっと目元を和らげた。
「それでは、6時半に近くのコーヒーショップで。楽しみにしてますね」
駅前だったり、はたまた会社の外で待ち合せたら、人目について仕方がない。とりあえず某コーヒーチェーン店の中なら問題ないだろう。何だか嫌味なほど、奴は女性の思考を把握しているようで、若干気分がもやっとした。
諫早が一押しする店でご飯を食べた後の帰り道。駅までの道のりを共に歩く。
近くから噴水の音が聞こえ、思わず歩みを止めた。涼やかな水の音が耳に心地よくて、自然と笑みが零れる。この駅の近くには、小さな公園があったのか。知らなかったわ。あんまりこの周辺を利用する事はないから。
「――てっきり、今回も断られると思ってましたよ」
背後から、耳障りのいいテノールが響いた。
ゆっくりと振り返れば、甘く微笑む憎らしい敵の姿。
本当の姿を偽り続けて、本心を隠し接する時間は、腹の中の探り合いをしているわけなので、なかなか疲れる。でも、負けるつもりは毛頭ない。その探り合いこそ、奴をぎゃふんと言わせる一歩だと思えれば、疲れもワクワクに変わった。
首を軽く傾げて、私は正面から奴を見つめ返す。
「あら、社交辞令ではなかったのですか? まるで残念そうに聞こえますが」
「ひどいな、社交辞令だと思われていたなんて。僕がこうやって食事に誘うのは、あなた位なものなのに」
「ふふ、諫早さんは女子社員の人気の的ですから。その甘いマスクで一体何人の女性を泣かせてきたのかしらね?」
「おや、気になりますか?」
一歩、諫早が間合いを詰めて私に近づく。
私は奴の視線を受け止めたまま、不敵に微笑み返した。
もう少しよ。もう少しで奴の仮面も剥がれるわ。
瞳の奥に動揺の色を浮かべたら最後。絶妙にそのポイントをつついて、奴の本性を暴けばいい。そして少しでも私に気があると匂わせて、手を出そうとしたその時――。プライドがズタズタになるまで振ってあげるわ!
さあ、悲願達成までのカウントダウン、スタートね!
「さあ、どうでしょう?」
小首を傾げて目を細める。くすりと妖艶に笑ってみせれば、奴は真意を悟らせない笑顔の仮面を被り直して、私と同じように笑った。その表情は、爽やかとは言い難い、真逆の笑みだ。
「当然、気になりますよね? あなたなら」
ぴくり、と眉が上がりそうになった。諫早の言い方に内心訝しむ。
表情筋を固定したまま先を促せば、更に一歩間合いを詰めた奴が私を見下ろした。
「ねえ? 桜ヶ丘小学校6年1組の、久住蘭子、ちゃん?」
――背後の噴水の水音が、一際大きく辺りに響いた。
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